母上が犯される姿を目の当たりにした後、私は親しい六角家臣の妻女へと根回しを始めた。
幸い、私は男装しても美しく見える背丈と声をしている。
人質の妻女など姫武将ならいざ知らず、兵書すら読んだことがないような女がほとんどだ。甘い言葉を耳打ちして、誑かすのはそう手間ではなかった。
(女は美少年に弱い。……そういうものだと聞いてはいたが、まさかこれほどとは)
誑かした身ではあるが、拍子抜けするほど着々と準備は進んでいく。
直経を使って小谷城側とも連絡を取り、逃走経路も手配済みだ。
後は、新十郎の目をどう掻い潜るか。
それだけが、観音寺脱出の壁になっていた。
(いざ敵に回して考えてみれば、六角新十郎高村は手強い相手だな……)
私が女として心を許せる六角家唯一の人物。
武勇では私を上回り、知略は互角。なによりも、長く一緒にいたためか私の思考を熟知していた。
しかし、策がないわけではない。ただ一つだけ、新十郎に弱点があることを知っている。
(新十郎の戦国の武将らしからぬ甘さ。そこを突くしかない)
思えば、六角新十郎は変わった男だった。
敵国の浅井家から人質である私はいつも周りから避けられていた。
それはそうだ、あそこにいたのは城下に住まう家臣の子弟で、うかつに私に関われば禍根の種になる。
しかし、新十郎はそんなことなどお構いなく踏み込んできたのだ。
あいつにとってはなんでもないことなのだろう。けれども、そのなんでもないことが私の心を救った。
(……ここ最近、新十郎のことばかり考えているな)
母上にこれ以上、苦しみを与えたくない。
そう決意して私は此度の脱出計画を練っている。
しかし、計画を練れば練るほど新十郎のことが頭を過ぎる。その度に心に靄がかかるのだ。
新十郎に、会わなくてはならないと思った。
この心の靄を晴らさなくてはならない。
私の推測が正しいのであれば、この感情はこれからの私には不用なものだ。
きっと今晩に幸せな時間は終わる。
だから、最後に燃やし尽くしたかった。
*
それは、既定路線だったのかもしれない。
お市が俺の屋敷を訪ねてきたのである。新月の夜のことだった。
「夜分にすまない、新十郎」
光のない夜だというのに、やたらお市の姿はこの世のものではないほどに美しく見える。かぐや姫は彼女だと言われたら、俺は容易く信じるだろう。
「いや、いい。無聊を慰める相手が欲しいと思っていたところだ。……少し待ってくれ、酒とつまみを用意してくる」
そう言って、一旦場を離れる。
(やばいな……)
心のざわめきが抑えられない。
知っていた。
いずれ、浅井長政が観音寺城から脱出する未来だと。お市が言いづらいことを言う時はやたらと唇を気にするのも。そして、一度決意したことは決して翻さないことを。
きっと、今晩に彼女は発つ。
そんな予感をひしひしと感じた。
対して俺は、ついぞ決められなかったのだ。
「待たせたな。……星でも見ながら呑むか」
「ああ、そうだな」
縁側に2人並んで座って夜空を見上げる。
手を伸ばせば、すぐに互いの手に触れる距離。彼女が使っている椿油の匂いが鼻腔をくすぐった。
たわいもない話をしながら酒を進めていく。そんな中、彼女はふとつぶやいた。
「月が綺麗だな、新十郎」
新月の夜に月など見えるわけもない。
だから、その言葉の意味するところは一つしかなかった。
「俺も月は好きだよ。……ただ、手が届くものだとは思わない」
きっと心の底では、気づいていた。俺がお市に抱いていたのは、友情だけではないことを。
育ててくれた恩に報いなくてはならず、それを果たすには不要なもの。抱えたままでは苦しくなると知っていてもなお、ついぞ捨てられなかった大事な思い。
(……ああ、俺はお市に恋をしていたんだ)
しかし、もうそれだけを選んで生きてはいけない。そうするにしては、あまりにこの身体に課せられたものは重かった。
お市は俺の返答を聞き終えると、
「ならば、こうしよう」
と言ってお市は俺の頭を抱き寄せて、唇を奪った。
あまりに鮮やかな手並に俺はただ目を見開くことしかできない。
初めてのキス。あまりの心地よさに脳が痺れそうになってしまう。
「ぷはっ……。なぁ新十郎、ここまで降りてきても無理か? 私と共に来てはくれないのか?」
頬を上気させながらお市は誘う。それはあまりに艶かしく、甘美な夢だった。
何もかもをお市に委ね、共に天下の夢を見る。
ああ、それもいいかもしれないと思ってしまった自分がいる。
けれども、何かが『違う』と本能が訴えかけてきた。
「はぁ、はぁ。……無理、だな」
だから、俺は首を横に振った。
結局のところ、天と地が交わらないように俺たちの道は交わることはない。
浅井家と六角家はそれほどまでに掛け離れていた。
「……そうか、ならば私たちは不倶戴天の間柄なのだな」
お市が天を仰ぐ一方、俺は目を伏せた。
見られたくはなかった。
涙を流してこの別離を恨む姿を見せるなど。そんな、子供みたいな姿を見せたくはなかった。
「長い間ありがとう。新十郎、お前のおかげで観音寺での暮らしに寂しさはなかった。だが、私はもう行かなくてはならない」
そう言ってお市は旅立つ。もう彼女が振り返ることはないだろう。
決して彼女を追い立てるようなことはしない。
それだけが、俺が友達として出来る最後の親切だった。
「さよならだ、お市」
闇夜の中に消えてしまうまで、俺はお市を見送る。
その姿が見えなくなっても、俺はしばらくその場から動けず立ち尽くしていた。
これで第一部完です。
文量少なめとはいえ、6話使うとは思わなかったですね……。
というか、信奈なのにまだろくに合戦してないなこいつら……。
ちなみに別れなかった場合は下記の通りになります。
↓R18なので注意↓
https://syosetu.org/novel/279424/