山が動いた。
武田の大軍勢はそう形容して差し支えなかった。
「皆の者ッ! これより武田は西上作戦を再開するッ! 御旗楯無も御照覧あれッ! 今度こそ、瀬田に武田の旗を立てるぞッ!!」
「「「応ッ!!!」」」
諏訪法性の兜を被り、赤い長髪を風に靡かせて武田信玄は大音声を居並ぶ軍団に向けて響かせる。
古今無双の大将の勇姿に武田諸将は酔いしれ、野太い歓声をあげた。
躑躅ヶ崎館から諏訪、高遠、飯田を経由して青崩峠を越える。そうしてたどり着くのは遠州水窪。浜松の北にある山間部である。
手始めに狙うは遠州北部から。二万五千の武田軍が現代においても酷道と称される難路を勇壮と駆け抜けていく。
踏み鳴らされる馬蹄の音。
それはまるで地震のようで、領地を通り過ぎられる国人たちはもはや怯えてその通過を待つことしかできなかった。
ある人は武田軍の行軍を見て感嘆する。
「まるで天が波打っているかのようだ」と。
はたして、その人は慧眼であった。
武田軍の西上作戦再開の知らせは実際に天下を揺らしたのだから。
まず六角領の南伊勢において、旧領回復の好機と見た北伊勢の浪人と北畠の残党が蜂起した。その数は六千ほどで、六角義定は伊勢全体への波及を防ぐために早急に八千の兵を率いて領国の最南端である三瀬谷にむかわなくてはならなかった。
次に、朝倉軍が再び南下して小谷城の浅井長政と合流。さらに勢力圏を南に広げんとする動きを見せたため、信奈もまた抑えとして姉川に兵を集める必要が出てきたのである。
「天下が慌ただしいな勘助。その脳髄で天下を周章狼狽させるとは、さすがは我が軍師よ」
「あいや。比喩でなしにお館様が動けば、天下も動く。正直に申さば、策とは到底呼べませぬ。それがしは、日和見していた者どもの尻を叩いたまでにございます」
織田も六角も急激な中央集権や新経済政策を進めてきた。
確かに時代に適応するために変化は必要だ。
だが、誰しもが馬が駆けるような速度で変えられるわけではない。ついていけないものも当然いる。
叡山しかり北伊勢の浪人しかり時代という名の荒馬に振り落とされた騎手たちは畿内にはいくらでもいるのだ。
塵芥のような彼らでも結集させれば、脚を挫かせる程度の土塊にはなる。
勘助はそのことを知っていた。
「要するにだ勘助。畿内が反動勢力に揺れている間に元康を叩けばよいのだろう? あれはいよいよ厄介な存在となりつつある。それこそ我ら武田を挫かせる石になりかねん」
「いかにも。松平元康はよくやっておりますが、まだ未熟。お館様がもう一突きすれば、砕けまする」
勘助がほくそ笑む。
またしても松平元康には苦難が訪れようとしていた。
*
その松平軍ではまたしても恐慌が訪れていた。
先の大戦で遠州や三河赤坂で松平軍を鎧袖一触したのは記憶に新しい。
「また、信玄さんが来たんですか〜? 吉姉様の援軍は?」
「浅井と朝倉の大軍が小谷城に集結しているため、その警戒を割かねばなりませぬ。来れても五千には届かぬかと」
「なら、ろろろ六角さんはどうですか〜?」
「高村公は負傷療養中。代理の義定は伊勢南端の三瀬谷に八千ほどの兵で進軍。領内に一万ほど残しておりますが、これも浅井朝倉への備えでしょうな。仮に援軍が来たとして、その頃には全て終わっておりまする」
「そそそんな〜」
ぴしゃりと石川数正が言い放ち、元康は頽れる。
「うええ、また松平だけで戦わなくちゃならないんですか……」
「姫様を孤立させること。それが信玄公の目的でありましょうなあ。遠州では散々暴れ、岡崎では必死で粘り申した。自信を持ちなされ、姫様。かの信玄公とて、我らを警戒せざるを得ないのです。割り切って守りを固めねばなりませなんだ」
「そそそうですねっ。すぐに取り掛かりましょう!」
慌てながらも元康は遠州の防衛線を再構築する。
しかし、相手は武田信玄。急拵えの陣立てではまるで相手にはならない。またしても遠州の半分以上を武田菱に塗り替えられていく。
織田から相良良晴と滝川一益の三千の援軍をもらってはいるものの、戦況を変えるほどの力はなく、一縷の望みを懸けた信玄の弱みを探るための偵察も無為*1に終わった。
二俣城も落ち、松平方の重要拠点は元康自身がいる浜松城のみ。このまま武田軍は遠州制圧を締め括るために浜松城に迫るかと思われた。
「なんで、そんなことを……!」
浜松城北の市野の地で武田軍が西へと進軍の方向を変えた、と聞かされるまでは。
伝令から知らせを受けた元康は頭が真っ白になっていた。
あと一歩で松平は滅び、遠州が手に入るというのに。
それなのに、自分を置き捨てて西に向かうなど。
自覚せず、わなわなと元康は身体を震わせる。
見逃された。
取るに足りないものと見做された。
知らず、怒りに打ち震えていた。
「……今すぐ、全軍で進撃です……!」
「姫?」
「聞こえなかったのですか! 忠次、数正! 私は全軍で進撃と言ったのです〜! 武田軍が三方ヶ原の台地を下り始めた時に強襲を仕掛けるのです〜!」
怒りのままに元康は命じる。
良晴は「信玄の罠だ!」と諌めに回ったが、聞く耳を持たない。
そのまま三方ヶ原に進軍して武田軍の後背をその目に捉えると元康は力強く采配をおろした。
「者ども、突撃です〜!」
剽悍な三河武士が背を晒した武田軍に突っ込んでいき、じりじりと押していく。元康自身も「策成れり」と手応えを感じていた。
しかし、その感触は長くは続かない。武田軍の左翼と右翼が台地の上から姿を表し、左右から逆落としをかけてくる。
そこでようやく元康は自分が信玄の術中に嵌ってしまっていることを悟った。
「しまったです……。 背を晒していた武田軍はただの囮っ……! 読まれていたっ……」
悔やんでももう遅い。
武田の左右に挟撃され、囮の中央も反攻に回りひたすらに松平軍を叩く。退こうにも前線の混乱ぶりを知らない松平家臣団がひたすら前に進んできて前線を詰まらせ進退不能。
見事なまでに松平軍は信玄が敷いた半包囲網に引っ掛けられていた。
「撤退です〜! 皆さん退いて下さ〜い!」
采配を振るって必死に元康は撤退を指揮する。だが、恐慌しているため捗々しいとは言えない。その最中、またしても彼女の元に訪れた者がいる。
「また会ったな、松平元康」
「信玄さんですか……!」
武田信玄その人である。
彼女は柔らかな微笑みを浮かべながら、元康を眺めていた。
「強くなったな、松平元康。誇るがいい、格下相手にあたしにここまで手を焼かされたのはお前が初めてだ。守勢に入ったお前は手強いからな、だからあえて怒らせて釣り出すことにしたのだ」
自らを認めるような言葉に元康は目を見開く。あの武田信玄に認められた喜びが身体を満たすが、なお死線は過ぎていないことに気づいて身を引き締めた。
「それで、何の用ですか〜?」
「元康、あたしに降伏しろ。あたしなら織田信奈よりもっとお前を上手く扱える。畿内制覇が成った暁には、お前に百万石を与えたって構わない。自軍の損害に構わず、ひたすらに遠州をかき乱してあたしの進軍を遅らせることで畿内の織田六角に叡山と北畠を対処させる時間を作ったその大局観と献身ぶりが欲しいのだ」
これは武田信玄の最大級の賛辞だった。
六角は強いが、本当の意味では同盟者たりえない。朝倉は六角の縮小版でしかなく、浅井は信用できるものの長政の武勇ぐらいしか見るところがない。
武田が畿内を制覇しても、それでは安定した統治が出来ないことはわかりきっている。だから、信玄は強力な藩屏候補として元康を欲した。
ここで元康が降り、武田につけば織田は濃尾を守るのに精一杯でもはや天下どころではない。そんな織田に見切りをつけて六角は武田に再度寝返るだろう。そうなれば、天下は過半が武田の掌中に転がり込む。そんな武田で厚遇されるのだ。単純に損得で考えれば、元康にとって悪い話ではない。
「評価してくれるのは嬉しいですが、お断りです! 私、松平元康は吉姉様を守る東の盾。吉姉様でなくては、日ノ本は世界に踏み出せません。なればこそ、私は吉姉様のために尽くすと決めたのですっ!」
しかし、元康は毅然とした面持ちで断った。
返答を聞いた信玄はその柔和な笑みを引っ込めて、別の笑みを浮かべる。
それはまさしく虎のように獰猛なものだった。
「残念だ、元康。お前ほどの大器を満たされる前に叩き割らねばならないとは。だが、叩き割らねば武田の夢は頓挫する。二度までもお前に阻まれたくはないからな」
そう、信玄が言い残して去ると同時に武田軍の攻撃が激しくなる。
松平軍のほとんどは潰走。援軍に来ていた相良良晴と滝川一益も諦めて尾張方面に撤退。
元康の本陣に至ってはすぐさま土屋昌恒の強襲隊によって打ち崩され、元康は何人かの旗本を率いて逃げるしかなかった。
なお、その際に元康が極度の緊張のあまりう○こを漏らしたとのことだが、真相は定かではない。
*
ともあれ、松平軍は継戦不能となり浜松城に撤退する。
武田軍は一度は浜松城に押し寄せたが、松平側の士気が高いことを知ると三河方面に転進。そのまま、山本勘助率いる別働隊との合流を目指す。
「なるほど、信玄公はそう動くのか。ならば、こちらも少し動くとしよう。片方の戦況が急進されるのはさすがに少し困る」
栗東の自領で高村は細作から逐一情報を集めていた。
小谷城の浅井朝倉、三瀬の伊勢遺民一揆。そして東海道の武田。
三瀬の遺民一揆に関しては義定がすでに内通者を使って首謀者をまとめて謀殺したため戦後処理を残すだけだが、他二つに関しては予断を許さない状況にある。
「高次。嘉明と一氏を呼んでくれ。こちらも騎馬隊を出す」
「御意。それにしても武田に当たられるのならば初めから松平に援軍として送っていればよかったのでは?」
「松平に悪いが、遠州はちと遠い。ハナから武田が遠州を抜いたら騎馬隊を出すつもりだったんだ。尾張ぐらいなら射程範囲だからな」
武田の遠州侵攻から始まった信奈包囲網の第二幕。
それは高村を含め、多くの人物を巻き込んで時代のうねりを作り出すことになるのだった。