舞台は変わって美濃の中部。
東濃の遠山領を経てこの地にやってきた山本勘助率いる別働隊の任務はいずれ来たる武田本隊のために橋頭堡を作ることだった。
「堂洞城、落ちましてござる。城に詰めていた斎藤利治は稲葉山城に退いたとのこと」
「うむ、ならばこれで中濃三城はすべて掌中に入ったか。して、お館様の動向は?」
「遠州の三方ヶ原にて、松平元康を撃破。今現在は三河を通過して当方との合流を目指しております」
真田忍びの報告を受けて勘助は「実に重畳よ」と奇怪な容貌に笑みを浮かべた。
(浅井朝倉、北畠の残党を通じて織田と六角の動きを止め、先の西上作戦を妨げた松平元康を除く。その後は一転して尾三を駆け抜け、合力して岐阜城を落として織田の国力を再起不能になるまで削る。我が戦略に狂いはなかったか)
現状、勘助が思い描いた策は上手くいっている。
信濃方面から濃尾を取るにあたっては欠くべからざる土地である堂洞城をはじめとする中濃三城を落としたことによって武田別働隊は飛騨、岐阜、尾張の三方自在に軍を進退出来るようになっていた。反対に織田側の斎藤道三と利治親子は守る範囲が増えて苦しむことになる。
「次は犬山城を落とすことに致そう。かの地は尾張北東部の最要衝。お館様と合流するには適している。少々兵を休ませたのち、軍を南に向かわせると諸将に知らせよ」
「御意にござる」
真田忍びを送り出し、勘助もまた一息つく。
不意に思うのは、主君……武田信玄のことだ。
勘助と信玄が出会ったのは甲斐山中の隠れ湯。今や天下に隠れなき武田信玄もその時はただの勝千代でしかなく、山本勘助はただの怪しげな浪人でしかなかった。
本来ならば勘助は武田の姫君の裸を見たことで無礼討ちにされてもおかしくはない。しかし、勝千代は勘助を討たず、それどころか勘助の話に耳を傾ける。そして、話し合いに至り父の信虎を追放する素案を作り上げてしまっていた。
ここまで来たらもはや勝千代と勘助は一連托生。以後の勘助は武田勝千代を己が夢見る古今無双の名将・武田信玄に仕立て上げることに全力を捧げた。
それは、これまでの数十年が薄い粥のようにしか思えないほど濃く、満たされた日々。一人で諸国をさすらっていた男が、才を試す機会を与えられた上に主君や娘ほどの姫武将たちに師と慕われ囲まれるまでになったのだ。
(それがしはお館様に多くのものをいただいた。されど、それがしがそれに値する何かを為せたとは未だに思えぬ。川中島ではどう考えても命を落としていたが、なぜか生きながらえた。宿曜道に頼らなくともわかる。それがしの役目はとうに終えているのであろう。今の生はそれこそ余録に過ぎない。なればこそ、この一戦でどうにか瀬田への道筋をつけておかねばならぬ)
この度の西上作戦が自分の最期の戦いになる、と勘助は予感していた。だからこそ、躊躇いも出し惜しみもしない。
一世一代最後の大勝負である、とそう強く思い定めていた。
*
夜の闇の中を隅立て四つ目の旗が駆け抜けていく。
「皆、急げ! この遠駆けが成らなければ、それこそ六角騎兵の名折れだッ!」
高村自身が檄を飛ばして伊勢から尾張へと駆け抜けていく。
家臣たちは目的地を知らされていない。
ただ高村から「桑名を超え次第、全力で俺について来い」としか言われていなかった。
桑名を出て一昼夜。ひたすらに尾張の野を駆け抜けていくとじきに木曽川が見えて来る。風景も山並みが目立つようになってきた。
この辺りで察しのいい家臣は気づいた。高村は犬山城を目指している、と。
「殿は犬山城を目指している。だが、何の目的が……?」
「私にも分からないよ。けれど、軍神と呼んで差し支えない殿のことだから、知らない何かを掴んでいるのかもしれない」
高村騎兵の両翼である加藤嘉明と山内一豊は首を傾げるが、考えてもわからない。
だが、一刻後に木曽川を渡河している最中の武田軍五千を見た時に全ては氷塊した。
「計算通りだな。日にちは武田本隊が三河に入っておおよそ三日後。軍勢を直前まで隠すために、時刻はおそらく払暁のあたり。その頃を目安に武田の別働隊が犬山城に攻めかかるだろうと思っていたが、まさしくその通りになったな」
高村は、渡河中の武田の別働隊に容赦なく襲いかかる。
これに驚いたのは山本勘助だった。なにせ、想定外の軍が想定外の速度で突っ込んできたのだから。六角高村の動向は注視していたが、よもや一日で桑名から現れるとは思っていなかったのだ。
(長物や大鎧を着た者が誰もおらず、馬自体の脚が速い。……なるほど、これで東海の平原をゆくならば、どこへでも駆けられよう。一口に騎兵と言っても、こうも違うものか……)
武田騎馬隊は重騎馬による突進の破壊力を追求したのに対し、六角騎馬隊は極限まで速さを追求し、撹乱と長駆を得意とする。
この六角騎馬隊の特性が勘助の警戒網の外からの長駆奇襲を可能にした。だが、勘助が恐懼したのはそこだけではない。
「それがしが犬山城に狙いを定めたこと、何故看破された……!」
いかに神速の騎馬隊を有していても、狙いを定められなければ意味はない。だが、高村はそれを可能にした。
勘助は戦線を補修しながらも、脳髄を回して理由を求めた。
そして、気づく。
(よもや、お館様に三河を通過させたのはそれがしを呼応させるためか……! となると、高村の目的はそれがし。ひいては、武田の別働隊が築いた橋頭堡を打ち崩すことか……!)
こうなってしまっては、犬山城は諦めるほかない。内通者も用意していたが、この戦を見られてはもう武田側に寝返ることはないだろう。
勘助は川の流れに逆らって馬首を翻そうとする。
その時だった。
「山本勘助殿とお見受けする。その首を置いて行ってもらおうか」
馬群の中でも一際目立つ栃栗毛の巨馬に乗った少年が悠然と立っている。
年の頃は十六、七ぐらいか。だが、その威風はそれこそ天を衝くほどだ。
対峙した時、ここまでの威風を放った者を勘助は他に二人しか知らない。
(六角、高村……ッ!)
其の者は畿内で最強と言われる者。
其の者はかつて武田の手を引き、天下を変えようとした者。
そして、武田にとって最後の敵になる者。
「皆の者、それがしのことはいいッ! 六角高村をなんとしてでも討ち取れ! 其の者は必ずや武田の後難となる者ぞ、必ずや討ち取らなくてはならぬッ!」
声を荒げて真田忍びに下知を飛ばす勘助。
意を受けた真田忍びが四人がかりで高村に飛びかかったが、ただ二振で四人全て斬り落とされた。
「……前に梯子を外したからか、えらく憎まれてるな……。まあ、わかっていたことではあるが」
苦笑しながら高村は兜越しに頭をかく。勘助はそれを罰が悪そうに眺めていた。
「……それだけではござらん。……六角高村、其の方はあまりに危険過ぎる。武力や声望だけではない、人の弱みにつけ込み己がいいように操る力がある。まさしく奸雄よ」
「奸雄、か。……俺は自分の大切な者を守りたかっただけだと言うのに、ひどい言われようだ。まあいい、いずれにせよ討つのみ」
高村が勘助に刃を突き立てるべく、刀を高々と上げたその刹那。
南方から新しく軍勢が迫って来るのを高村の目は捉えた。
旗印は赤地に金の四つ菱に風林火山の旗。
それを意味するところを理解した高村は思わず口を開いていた。対して勘助の口角は上がる。
「……まさか」
「そのまさか、よ。それがしはあらかじめお館様を犬山城にお招きしていた。本隊から軽騎兵三千を抽出していただいて、な。戦は想定しておらなんだが、お館様は臨機応変に動いて下さったらしい」
「……どちらにせよ、お前の死に時は変わらん」
「いいや、死ねぬッ! お館様の前で死ぬるなどそれがしは認めぬぞッ!」
血相を変えて勘助は懐から暗器をひたすら投げて高村の刃を拒む。時間ばかりが経って武田騎馬隊の馬蹄の音も大きくなっていく。気づけば、高村が襲われる側に回りつつあった。
ちらりと横目で高村は戦況を確認すると、武田の別働隊は六角騎馬隊に散々に食い散らかされていた。討つべき相手が減ったためか、一豊辺りは手持ち無沙汰にしている。
(此度は武田の別働隊を無力化するのが目的だ。それは十分に果たした。武田信玄を討つチャンスだが、ダメだな。今は優勢だが、展開の手綱は信玄公に握られている)
正直言って、動きを止めた騎馬隊ほど狩りやすいものはいない。ましてや、速さを追求した軽騎兵ならなおのこと。
「……流星光底長蛇を逸するってやつだな、これは。勘助殿、命を拾ったな」
ついに、高村は勘助を討つことを諦めた。
すぐさま全体に早馬を飛ばして撤退を伝えさせる。
信玄はこれを追うこともなく、勘助ら別働隊を収容することを優先した。
「手酷くやられたな、勘助」
「申し訳ござらん。この科は甘んじて受け入れまする。犬山にまんまと釣り出され、このような仕儀と相成りました」
「いい、おかげで六角高村の騎馬隊の速さを知れた。後は本隊で何とかする。今は休め」
「ははぁッ」
勘助を下がらせて、信玄は戦場となった木曽川の河畔を眺める。視界には倒れ伏した武田兵ばかりが写っていた。
高村騎兵隊が勘助ら別働隊を襲っていると聞いた際、信玄は退かずにあえて三千のままで向かい、高村を釣り出そうとしたが失敗した。
「やはり、引き際を心得ているな。手強い相手だ」
六角騎馬隊はその制圧力も去ることながら、今回発覚した行軍の速さが持ち味と言える。可能ならば、ここで吊り出してその騎馬隊を削っておきたかった。
「長蛇を逸したのは、あたしの方だ。六角騎馬隊が自由に濃尾を駆け回る以上、どうしてもあたしたちは警戒せざるを得なくなる。そうなれば、いささか脚が鈍るだろう」
高村が無言の圧力を武田軍に加えてくる。織田が浅井朝倉に対応している間に岐阜を抜くという当初の目論見もやや難しくなっていた。
*
その後、高村は美濃に転戦して勘助が攻略した中濃三城を奪回。道三に防衛線の再構築を促したのち、桑名に戻った。
「やれやれ、怪我明けに武田軍の相手をするのはキツい。まぁこれだけやれるならまた戦に戻っても差し支えないか」
栗東に戻った高村が息をつく。
緊迫した今の状況では一息つく時間さえ貴重だ。武田の戦線をややまき直したならば、今度は北が騒がしい。
織田側の使者から書状を受け取った高村はひとりごちる。
「いよいよ、か。決めたのはいい。が、果たして俺は成し遂げられるのだろうか」
高村の顔に陰が差して居合わせた氏郷にはその表情を窺い知ることはできない。ただ微かに震える肩だけが推量の手助けになるだけだった。