第71話 老境の身を顧みて
岐阜城は堅城である。
北と東は山々に囲まれ、長良川が天然の堀として機能する。濃尾平野に屹立する金華山を丸ごと要塞化したその威容はなるほど天下の名城であると信玄をも唸らせていた。
「だからこそ、惜しい。これほどの城で相見えるのが、老いさらばえた蝮であることがな」
嘆息する信玄。
織田と六角が姉川で対峙していた時に道三と相手をしたが、連戦連勝だった。兵力の差はもとより、何より道三の出方がわかりやすかったからだ。岐阜につながる要点を抑える……確かにこの戦略で道三は犬山城を守ることはできている。
だが、本当に信玄を倒そうと思うなら岐阜城と桑名の中間に位置し、尾張に向かって大きく張り出している美濃竹が鼻城を最重視するべきだった。ここさえ抑えていれば、なお武田の後背を脅かし戦況によっては逆撃すら可能だったのだろう。
「勘助、当代きっての梟雄がこのような及び腰を取ることなどあり得ようか?」
「梟雄といえど人にございますれば。死期を悟れば、否が応でも守りに入りまする」
「そういうものか、勘助」
問いかけておきながら、半ば興が削がれたようで信玄の対応はややそっけない。
(余人なれば、死期を悟れば守りに入る。それが人の世の定めよ。されど、それがしは違う。最期まで攻めの姿勢を崩さぬ。そう決めた)
一方で勘助は瞑目する。
勘助自身も死期が近い身として、うら若き姫武将に積年の夢を懸けた男として、道三の心理はわかる。彼女を守りたい、老いさらばえた自身のせいで迷惑をかけたくない。……確かに自分もそうだ。
けれど、けして道三のような手は打つまいと決意する。
なにせ最期の最期まで歩き続けないと夢は叶わないと。長年の漂泊の末に信玄を……武田勝千代を見つけた勘助は知っていた。
まず、その初手として。
「お館様。この勘助に岐阜を獲る策がございますれば。御耳を拝借してもよいでしょうか?」
勘助は己が主君に耳打ちした。
*
緊迫する濃尾戦線に比して、横山城では平穏な時間が流れていた。
姉川の戦いの後、俺は即座に兵を動かして横山城を落とした。横山城の近くには美濃に向かう街道があり、この城を落とすことで俺は織田軍の背後を確保した形だ。小谷城にもほど近いため、有事があればすぐに対応することができる。
(とはいえ、有事などあるだろうか……)
姉川の戦いは浅井と朝倉の全てを賭けた大戦だった。だが、彼らは敗れた。
決意の突貫を試みた長政は打ちのめされて、朝倉義景は当人にとっては命すらも賭けた求愛を拒絶された。確かにまだ戦うに足る兵数はあるのだろう。だが、彼らはその信念を挫かれた。
そうなってしまっては、しばらくは動けない。
そして、それは俺も同じだ。
六千の兵では小谷城を落とすことなどできない。むやみやたらに浅井方の小城を落としていくのも、割に合わない。何より遠藤殿にああまで言われてしまえば、徒に浅井を攻める気にもなれなかった。
要するに小谷城戦線にはもはや燃え滓しか残っていなかったのである。
「六角殿、良晴様は大丈夫なのでしょうか?」
思案する俺を見つけてきたのは、年端もいかない少女だった。
名前は浅野長政。史実では後の五奉行筆頭にあたり秀吉の正室おねの一族の出身。この世界でもねねの親戚のため、数少ない相良良晴の身内に当たる。一応、横山城の城代には彼女を置くように信奈公から指示を受けている。将来的に北近江は織田の頸動脈と言っていいほどの要地になるだろう。信奈公子飼いの筆頭たる相良良晴をそこに置くのは悪い選択ではない。
「相良は大丈夫だ。あいつはそんな簡単に死ぬタマじゃあない。あの金ヶ崎ですら死ねなかったんだから」
「そうですか。名高い六角殿が言うのであれば、そうなのでしょうね!」
軽く励ましてやると浅野長政は笑って俺の前を去る。きっちりしていながらも根が快活なのは、ねねとの血の繋がりを感じさせる。
(励ますためとはいえ、あまりに楽観的なことを言っちまったな……)
言ってから悔やんでしまう。
対武田の戦線は正直厳しい。なにせ道三殿の狙いと武田信玄の狙いがずれていたのだから。道三殿は岐阜城に踏み込ませまいと中濃三城と犬山城の今で言う日本ライン近辺を優先した。
一方で信玄の狙いはあくまで尾張三河の領国化と尾張を封鎖することで、桑名の騎馬隊を無力化すること。そのため小牧山城や東三河吉田城、蟹江城など手広く切り取った。
激戦地になったのは美濃竹が鼻城くらいで、ここの攻防を制した信玄公が優勢となり岐阜城の戦いに至ることになる。
岐阜城に織田本軍が到着するにはまだ四日はかかる。距離的には姉川と岐阜は近いが、巧遅より拙速を重んじる信奈公がそれだけ妥協しなければならないほど、織田軍は傷つけられていた。
結局のところ、やはり織田家単体ではこの対武田戦を乗り切ることはできないだろう。仮に乗り切れてもかなりの痛手を負うことは避けられない。
「この状況、俺が天下を狙う梟雄ならば第三極として願ったり叶ったりなんだがな……。あいにく俺はそうではない。むしろ天下を押しつけた側だ。……致し方ない。その責任を果たすためにも一丁前に頭を痛めて軍師役を全うするとするかね」
やはり、織田が負けるのはこちらとしても都合が悪い。最早口唇の関係にあるとすら言える。
俺は、近くにいた京極高次に命じて諸将を集めさせるよう手配した。可能な限り早く急がせる形になるが致し方ない。
尾張を固めた武田は今や越年すら可能だ。早めに手を打たねば、終わるのはこちらだ。
「すまないな、信玄公。もう一度、梯子を外させてもらおうか。まぁ、恨んでくれても別に構わんがな」
きりきり動く高次を横目に俺は心にもない詫び言をつぶやいて、広げた地図に目を落とすのだった。
*
「むむむ、いよいよ儂も年か。いよいよ智慧の鏡が曇ろうとしているわい」
岐阜城下に大挙する武田勢を眺めながら道三は苦笑いを浮かべていた。
犬山城下で高村と山本勘助率いる武田の別働隊が衝突した後、濃尾の防衛戦は再構築された。
その狙いは遅滞。どうしても岐阜城を預かる部隊の数は少なく、最終的には押し切られる。ならば、犬山城や竹が鼻城など要点を固めて遅滞させ、浅井朝倉戦線の終結を待つ腹づもりだったが、それが裏目に出て信玄に尾張の席巻を許した。
だが、それでも武田の補給を断つという道三と高村の取り決めた方針は変わらない。
「かくも優れた戦略眼よな。流石は定頼の薫陶を受けた者ということか」
六角新十郎高村。
伊勢新九郎盛時、長井新九郎規秀ら天下の秩序を乱す悪党たちを一つ上回るように願われてつけられた名前だと、他でもない名付け親である定頼から道三は聞かされていた。
『わしの寿命が尽きようとも、新十郎が其方のような天下を乱す者を鎮めてくれよう。あやつにはそれだけの器がある。新十郎が一廉の将として大成したその時、お前たちの時代は終わるのだ』
いつか定頼と対面した時に、彼が吹いていた言葉を思い出す。
「忌々しいことだが、定頼。お主の見立ては正しかった。いまや畿内の誰もが高村殿を恐れないわけにはいくまい。お主は未来に心配なく逝けた。今となっては、それが少し羨ましい」
義龍とは道を違えて殺し合い、利治はまだ育ち切らない。
信奈どのは器こそあれど、生来の巨大な感受性に振り回されている。まだ、天下人というには遠い。
つくづく心配事ばかりよな……。
思わず、道三はひとりごちるのだった。