場所は離れて三河吉田城。
現在でいう豊橋にあたるこの地は奥三河と岡崎、浜松を結ぶ松平領の要というべき地であった。
東海道から侵入した武田軍であったが、流石に帰りまで遠州を通ることはしない。東濃の岩村城、または三河の吉田城から奥三河を経て信濃に退却することになっている。
そのため、信玄はこの地にも重臣・馬場信春を配置した。
本隊が配置された美濃、重点的に制圧した尾張からも離れた三河の東の端。敵の松平は三方ヶ原で叩きのめしているとはいえ、敵地に孤立し分断させる任務は並大抵の武将では果たせない。武田四天王の中でも最古参にあたる彼女がその任を与えられるのは、半ば必然であった。
「……私は松平を食い止める杭となる。……それがお館様の勝利につながるのであれば」
能面のように変化に乏しい表情で信春は言う。
これでも、信春は高揚していた。なにせこの西上作戦が成れば、武田は瀬田に旗を立てることができるのだから。
信春の感情は表情に出ることはほぼない。しかし、戦果には如実に現れていた。
奥三河から帰属した豪族の力を借りつつ、信春はすでに二回松平軍を後退させている。自らも前線に立ち、自慢の大槌で三人の兜首を潰してきた。そのくせ、当人は傷一つ負っていないのである。
竹が鼻城にいた山県昌景が破れ去り、尾北に後退したことを信春はまだ知らないのだが、その武者ぶりは不死身の鬼美濃の二つ名とともに武田の面目を天下に施していた。
「ううう、吉田城が取り戻せなくては私は岡崎に帰れず、奥三河のみなさんも完全に武田に取り込まれてしまいます〜。そうなってしまっては、松平は武田の奴隷になるしかありません〜!」
この信春の無双ぶりに嘆くのは松平元康その人。
信玄に捨て置かれ、信玄自身が織田と対峙している今こそ領土奪還の好機と見て、半壊した松平軍から三千をかき集めたまではいいもののこの有様だった。
「もういっそのこと、織田を見限って武田につきますか? 此度も先の大戦でも信奈姫はろくな援軍をよこされなんだか。それがしはもう辛抱たまりませぬ」
「そうだ、それがいい。それに信玄殿は姫様に『百万石を与えてもいい』と言っておったではないか」
「それは誠か? ならば、姫様。いよいよ織田につく意義がないですな。早々と武田に降伏しましょう。正直、そちらの方が儲かりまする」
元康の横で三河武士たちが囃し立てる。
結束すれば、天下屈指の三河武士だが、まとめるのに非常に苦労する。良くも悪くも自分勝手な連中だった。
元康は信奈への友誼で動いているが、ぶっちゃけ彼らには知ったこっちゃないのである。
「お前ら黙れ! 姫様を困らせるな!」
「作左殿の言う通りだ。……これ以上、うるさくさざめくなら蜻蛉切を持ち出すぞ……!」
本多重次と本多忠勝。元康に忠実な二人の本多が諌めるが、三河武士の喧しさは抑えられない。結局言い合いになり、そのまま乱闘になる。
こうなったら忠勝が相手側を無力化するまで終わらない。
「どうするもなにも、これじゃあ何もできません! 皆さん落ち着いて下さ〜い!」
涙目になりつつ元康も収拾に回る。
そうして二、三人の三河武士が投げ飛ばされて地に延びている頃だろうか。
元康の背後に音もなく、半蔵が佇んでいた。
「半蔵、どうしたんですか〜?」
「姫様、お喜び下され。援軍です」
半蔵の言葉に、元康も延びていた三河武士も乱闘していた忠勝たちも思わず手を止め、見開いていた。
「九鬼嘉隆と加藤嘉明の水軍が六千の軍で伊良湖岬に着岸。今は田原の戸田氏の居城にて歓待を受けておりまする」
半蔵はつとめて冷静に伝えるが、聞き手の三河武士たちはそうではない。
「よもや、こんな三河の片田舎にそれだけの軍を派遣してくれるとは……」
「流石は天下人、太っ腹ですな。これは勝ちましたぞ、ガハハ」
さっきまでの悪態が嘘のように口々に信奈と高村を崇め立てる。
その姿を見て「こんなんだから、三河は草深い田舎だと笑われるのだ……」と重次は頭を抱えていた。
*
三方から敵軍が押し寄せた吉田城でなおも信春は奮戦していた。
五千対九千。守城戦だからまだどうにかなる数字だが、他の戦線から孤立していることが痛い。援軍を得た松平の士気が息を吹き返したのも中々厄介だった。
「……それでも、まだ戦える……。われらは松平をここに縫い止める楔なのだから。狼狽えてはならない……」
黙々と大金槌を振るって信春は何人も三河兵を討ち取っていく。
この不利な状況でも、毅然とした態度は崩れない。
馬場信春の戦いぶりに華々しさはなく、堅実そのもの。特に山県昌景あたりと比べてしまうとひどく地味に見えてしまう。
だが、その寡黙な戦いぶりを信玄は認めて彼女を重用し、風林火山の『山』を背負わせてきたのだ。
このまま楔として松平を抑え続けて敬愛する主が天下の大一番を制するまで待つ。そんな腹づもりの信春だった。
だが、戦でさんざ暴れて帰城自らを待ち構えていた人物の姿を見て信春は首を傾げた。
望月千代女。真田忍軍の一員にして盲目の歩き巫女である。彼女がわざわざ姿を現すことはそれすなわち変事の知らせであった。
信春は千代女と二人きりになり、いくばくかやりとりをしたのち彼女を返した。
「……不可解に思われても、それがお屋形さまのご意志です。どうか従われますよう」
「お館様を疑うことは決して」
去り際に信春に念押しする千代女。周りの兵たちには何が何だかわからなかった。ただ、信春だけが事態の異様性を理解していた。
(昌景が美濃竹が鼻から尾張北部に退き、私が吉田城から尾張守山へ。高坂は変動する尾張の兵站の保護に。内藤某は……どこにいるのか、わからないな)
一人不明な者がいるが、何の因果か武田四天王のうち三人が尾張にいる。そして、自らを尾張に向かわせることで武田は自ら退路の一つを潰した。それも岐阜城での戦いに進展がない状況でだ。
(……おそらくはこの策はお館様ご自身にとっても乾坤一擲の策なのだろう……。なれば、わたしが余計な詮索をして乱すべきではない。ただ事を待つのみ)
口の動きは鈍重だが、信春もまた名将と称されるに値する才がある。頭の回転は悪くない。それでもなお、信玄の意図を掴みかねていた。
かくして変事は起きる。
千代女が来訪した翌日のこと。日没を迎えるやいなや、武田軍は突如吉田城を開城して北に撤退を始めたのだ。
今まで山のように動かなかった馬場信春の思案に元康は首を傾げながらも吉田城に入城する。なんにせよ、これで西三河と遠州がつながり、松平は寡兵とはいえようやく戦力として復活した。悪いことがあるわけでもない。
「皆さん、これで三河は取り返しました! 次は尾張に向かいましょう。吉姉様を助けるのです〜!」
疑問を飲み込んで、快活に元康は笑う。今は艱難辛苦を超えた喜びを分かち合おう。悩むのはまた後でいいのだ。