岐阜城の本隊が撤退したという報告は信玄の耳に届いていた。
斎藤義龍の翻心と勘助の死。西上作戦で描いた絵図は音を立てて崩れ去っていた。
「人の心とは、分からぬものだな。憎み合っていた者がその憎しみを解き、冷酷非道な男が最後にその身を擲つなど……」
濃尾国境の山中を抜けながら、信玄はひとりごちる。
岐阜から武田軍がいなくなった今、信玄が陣取っていた小牧山は武田の勢力圏では突出してしまう。岐阜の本隊が撤退を開始したと同時に、山越えで美濃の多治見に抜けることを選ぶ。
一方、山本勘助を失った武田本隊は織田信奈の追撃を受けながらずるずると後退していた。中濃三城も柴田勝家の手により奪還され、木曽川を渡る直前の太田での会戦も大敗し、這々の体でなんとか多治見まで辿り着いていた。
「申し訳ございませぬ、お館様。岐阜城の失態で西上作戦が……!」
武田逍遥軒と秋山信友が震えながら信玄の前に平伏する。
今後もうないような好機を逃し、あまつさえ戦国最強の名すら剥奪されかねないほどの大敗を喫したのだ。己の首が飛ぶことを二人は覚悟していた。
しかし、信玄はそんな二人を見て困ったように笑った。
「先の大戦が理詰めの戦ならば、此度の大戦は感情の戦だった。……人の心はままならぬものだ。あたしが高村を上回ろうとしたのも、勘助が啄木鳥の策に拘泥したのも、斎藤義龍が変心したのも全て身に余る心の動きに因るものだ。分かっていても、止められぬことはある。その方らはその余波に巻き込まれただけに過ぎない」
だから、お前たちの罪を減らす。沙汰は追って伝えよう。そう告げて信玄は二将は下がらせる。
信玄の関心事は二将の後ろで順番を待っていた望月千代女が伝えようとしている事柄。
「お館様、相良良晴からの書状にございます。『山本勘助の遺言を伝える』とのことでした」
手渡された書状を信玄は読み進める。
あの悪辣鬼謀な男のことだ、どうせ最期の策などが書いてあるのだろうとたかをくくっていた。
しかし、そうではなくただただひたすらに勘助の思いの丈が綴られている。
とっさに信玄は左手で目を覆った。
「……ずるいではないか、勘助。よもや、最期になってまともに泣かせてくるとは……! この信玄とて、見切れぬわ……!」
この時ばかりは武田信玄は、いや勝千代は在りし日の勘助を想った。
涙は見せない、いや見せられない。家臣の前では究極で完璧な『武田信玄』でなくてはならない。そうしなくては、きっと勘助に叱られてしまうから。
だから、勝千代はしばらく左手を外せなかった。
*
快進撃を進める織田軍だったが、その陣中は空気は重い。
斎藤道三がついに床に臥したのだ。医師の見立てではもう保たないと見られている。岐阜城はお通夜の空気になっていた。
「再三言うておるように、どのみちワシはもう永くはない。なればこそ、気にせず武田をさらに攻め立てよ。東濃含めて美濃から追い出すのじゃ、あの武田に徹底的に打撃を与える好機ぞ、ワシの生き死になど放っておけ……! ごほっ! ごほっ! ごほっ!」
激しく咳ごみ、喀血する道三。
誰が見ても死期が近いのは明らかだった。
義龍とはすでに和解し、別れている。だが、不思議なことに道三は信奈の面会を許さずにいる。
「何よ、強がってんじゃないわよ、クソ蝮……!」
四度目の面会を蹴られて、地団駄を踏む信奈。
だが、その横にいる良晴は道三が頑なに面会を拒む理由をうっすらと理解していた。
きっと歯痒くてならないのだ。
長良川の戦いの時から、どうにも、自分の存在が織田信奈の弱点になっているのではないかと。痛々しいほど父性愛を求める信奈だから、道三との別れを割り切れないのではないかと。
戦国の世では別れは付きもので、少しは慣らしておかないといけないと思ったのかもしれない。自らの命を、その練習台として。
(けれど、それで二人はいいんだろうか? 道三の最期に立ち会えないこと、それそのものが信奈の傷になったりはしないだろうか? いや、どっちにしろ時間がねえ)
腹を決めた良晴はズカズカと道三の寝室の襖をこじ開ける。
そして、信奈の背中を押して部屋の中に押し込むと、襖を閉めてどっかりと座り込んだ。
「「何をする(のよ)、小僧(サル)!!」」
道三と信奈が揃って良晴を非難する。しかし、それに良晴はふんすと鼻を鳴らして答えた。
「最期の最期まで意地を張りやがって、もう見てられないぜ! 二人でちゃんと話をしてくれ。じゃないと俺はここから動かないからな!」
啖呵を切る良晴だが、その肩は震えている。正直、この後に激昂した信奈に何をされるか分からない。
けれど、
(これでいいって思っちまったんだよな……)
どうしたって考えるより前に身体が動いてしまう。どうにも良晴のこの悪癖は変わらないらしかった。
良晴がビビりながら彼らの二の句を待つ。
しかし、それは杞憂であった。
「ぷはは、最期に小僧にしてやられたわい。こうなってしまっては致し方ない。ワシも諦めるとしようかのう」
襖越しからでも道三が笑っているのが分かる。
それから、信奈と道三はぽつぽつとたとたどしく、素直に本音で語っていた。
(なんだ、本当は色々話したかったんじゃねえかよ、おっさん)
それに聞き耳を立てまいと良晴は務めながら、夜は更けていくのであった。
*
「こんなこともあるもんだな」
俺は岐阜の戦いの顛末を聞いてひとりごちた。
斎藤義龍の寝返りは、俺にもわからないことだった。だが、一つだけ言えることがある。
「この戦は終始、相良良晴と武田信玄、あと俺の戦いだったなって。で、最終的には相良良晴が勝った」
相良良晴が武田信玄を暗殺の危機から救い、戦況が大拡大した。そして、それに対応しようとした俺と何故か俺に対してメタを張っていた武田信玄との激闘。
最後の義龍の件は、道三を生き残らせたことによる余録だろう。長良川で相良良晴が手を加えなければ、最期まで斎藤義龍は真実に気付けずに織田と対峙していたに違いない。
つまるところ、相良良晴に始まって相良良晴に終わるのだ。マッチポンプと言えばそれまでだが、何かしらの奇縁は感じる。それに、手遅れだと思ってた関係が案外なんとかなるらしいことがわかってちょっとホッとした。
「まあ、相良に関してはもういいや。それよかこっちの対応をしなくちゃならんしな」
左手で握っている書状を見やる。
差し出し人は武田大膳大夫信玄。中身は此度の大戦の和睦について。
現状において織田軍は連戦の疲労から、武田軍は長すぎる退路からそれぞれ侍大将以下から和睦の声が上がっている。
信玄はそこに目をつけて、書状を送ってきた。
ただ、織田信奈に直接というわけではなく、俺に仲介役を頼むという手順を踏んでだ。
俺とて和睦には賛成だ。織田が武田に勝って美濃を完全に取り戻して自信をつけられたら、こっちの言うことを聞かせづらくなるし。あと、単純に俺は疲れた。
ただ、朝倉に浅井に、織田、武田、松平に加えて我らが六角。この六カ国の間を取りもたないといけないのが、非常にだるい。
「だるいが、今後もキャスティングボードを握るためならしゃーなしだ。諦めよう」
重い手つきで信玄への返事をしたためる。
俺の苦労で大戦が終わるなら安いもんだと、そう言い聞かせて。