俺が観音寺に大筒を牽引して帰っている僅か数日の間に畿内の情勢は一変した。
まず、三好は摂津尼崎に上陸を果たし、野田福島に陣取ったのだ。
野田福島は現在でいう梅田の近所にあたり、淀川の河口の中洲に位置している。淀川の支流に囲まれたこの地は大阪湾から京を経て琵琶湖に出る水運ルートの起点にあたる。堺からの大量の物資も、美濃からの産物も全てはこの水路を通るところになる。つまりは、織田政権の経済的な基盤を大きく阻害する位置にあった。
これには信奈公としてもたまったものではないらしく、すぐに野田福島へ軍勢を向かわせた。こっちもまた京で在番してもらっていた山岡景隆を向かわせる。
(今までは馬鹿の一つ覚えのように京を目指していた三好三人衆だが、此度は何かが違う。あくまで今までは奴らが主体で動いていたはずだが、今回はなんというか駒のような動きを演じているような気がする)
三好三人衆の野田福島の動きから敵の目論見を逆算してみる。
おそらくは初回の武田侵攻の時の俺の動きに近い。あの時の俺は信奈公の足止めに徹して、武田信玄を待っていた。野田福島と桑名の水塞は立地条件が似ていて足止めをしやすいのだ。
(……だが、あいつらは誰を待っている?)
武田のような決定的な戦力を持つ勢力はそう多くはない。
だが、まだ武田は動けないはずだし浅井朝倉は合力してももうそこまでの力はない。
ならば、毛利か?
そう思案を重ねていた時、山岡殿からの細作が旅籠で待ち構えていた。
「殿、姫様から伝言です。本猫寺が動いたと」
「……そうか、ありがとう。それで信奈公や山岡殿はどうした?」
「すぐさま野田福島の包囲を解き、吹田に退いたと」
続けて聞いた信奈公の動静に俺は舌を巻く。
流石は信奈公。軍の進退を弁えている。戸惑って少しでも移動が遅れれば、河川に挟まれた死地で本猫寺と三好三人衆の挟撃を受けていただろう。だが、それでも最悪の事態になっていないだけだ。
「本猫寺が動いたとなれば、伊勢長島と三河が荒れる。織田政権の動きが止まるな。山岡殿にその二ヶ国の警戒を務めるように伝えてくれ。それと浅井と朝倉は今どうなってる? 正味、今の信奈公の状況は奴らが停戦を破ってでも攻めかかるに足るものだと思っているんだが」
「殿のご懸念通り、両家は動きました。浅井長政は虎御前山に陣取る竹中半兵衛と浅野長政の隊を攻撃。朝倉義景は西近江を下り、坂本に迫らんとしています」
「そうか。これまた手厳しいことになってるな……。俺はまだ帰れないから蒲生氏郷に宇佐山城に救援の指示を。おそらくそこが激戦地になる」
略礼して細作は去るのを見送り、ため息をついた。
平時から急転直下で非常事態である。これには苦笑いを禁じ得ない。
結局のところ、信奈公は伊勢の大戦と同じ構図に嵌められた。
タンク役の三好三人衆と石山本猫寺に、メイン火力の浅井と朝倉。時間が経てば武田の再々西上もありえるか。
いささか面子が小粒に見えることはそんなことはない。これで確実に織田政権は停滞を余儀なくされる。にゃんこう宗とはそれだけ手がかかる連中だ。なにせ史実での織田信長は石山戦争に十年を費やしたのだから。
──そしてにゃんこう宗の門徒が形成する公界は武家社会や朝廷を受け付けない治外法権だ。例えば罪を犯した門徒が公界に逃げ込んでしまえば、こちらは安易に手を出せずにお手上げになってしまう。これでは法治国家としては示しがつかないし、税金逃れも横行するだろう。
三武一宗の法難と呼ばれる中国の仏教に対する弾圧もこの税金逃れを取り締まるためという側面があった。
ともかく、信奈公が戦略のために大坂を得たいように、俺にも畿内の秩序のためにはにゃんこう門徒の公界は破壊すべきだという信念がある。
奇しくも石山本猫寺は俺と信奈公の双方にとって宿敵と言えるのだ。
「観音寺に大筒を運び入れたら、また信奈公のところに足を運ばなくてはな……」
やるべきことが増えてまた肩の荷が重くなる。知らず足取りも重くなっていた。
*
堺の津田宗及邸にて。
得意先との茶会と称して宗及は密かに反信奈の首魁たちを集めていた。
「よもや、武田信玄がしくじるとは思うとりませんでしたなぁ……。そこのところどう考えてはるんですか、無人斎殿?」
「算盤を弾くことしか脳にないうらなりがよう吠える。……が、儂も強くは出れん。勝千代の愚か者めが、目先の勝利に釣られて大魚を逸しおった。時間をかければかけるほど織田と六角は大きくなるぞ。次の機会などそう容易くは転がってはおらぬわ」
津田宗及と無人斎の折り合いは悪い。
宗及は無人斎を傲岸不遜な慮外者として嫌い、無人斎は宗及を銭のことしか頭にない青二才と侮蔑している。
普通なら到底この二人が沓を並べて歩を進めることなどできはしない。
が、その異常を成した者もまたここにいる。
「二人とも、喧嘩はよそでやってくれないかな? ただでさえ狭い茶室に男三人女一人詰め込んでるんだよ? 騒がれると鬱陶しいことこの上ない」
苦笑いを浮かべて少女が二人のとりなしに入る。
すると宗及は恐縮して、無人斎は眉根を寄せながらも座り直した。
「流石は姫様」
「うるさい、篠原。この二人は私の血の持つ権威に従っているだけだ。……まだ実力で黙らせてはいない。だから褒めないでほしい」
篠原長房の阿諛追従に少女は辟易した顔を浮かべる。その顔すらもどこか気品に溢れていた。
「まぁ、無人斎殿。武田信玄のことは残念だったが、彼女に三度目の機会は訪れるよ。そのために私が三好三人衆と宗及殿、朝倉義景に命じたのだから。宗及殿、本猫寺に働きかけてくれてありがとう」
「ははっ」
「六角高村。その才覚と立ち回りは認める。下手をしたら武田信玄に並ぶ当代きっての名将だろう。けれど、武田にまでキリスト教の布教の許可を広めたのは勇足だったね。おかげで本猫寺は警戒心を抱いてくれた。包囲網を敷きやすくて助かったよ」
くつくつと愉快そうに彼女は笑う。
「西近江を経て朝倉が京に入り、三好三人衆と武田が輔弼する。三管領は多すぎたから朝倉と武田が管領家でいいや。将軍を僭称した今川義元は姫武将だけど打首だね。……まだ幕府は終わらせはしない。この足利義栄がいる限りは」
第十四代室町幕府将軍・足利義栄。
前時代の亡霊がまたも織田信奈に襲い掛からんとしていた。