…………
「いつまで寝ておるんじゃ、長夜叉ッー!!」
寒空の下、一人の少年が腹を蹴り上げられて宙を舞っていた。
鬼のような形相で蹴り上げた老人は怒鳴る。
周囲には少年の父もいたが、その乱行を咎めることが出来なかった。
老人の名は朝倉宗滴。
朝倉家の軍奉行として貞景と孝景の二代に支え、朝倉の武威を天下に轟かせた柱石である。朝倉の宿敵であるにゃんこう一揆を一身に担い、細川高国派として六角定頼と共に足利義晴を推戴して戦ったこともあるという武功はあまりに大きく、当主の孝景ですら下手な口出しをすることはできない。
そんな宗滴だが、もはや老いていた。ゆえに長夜叉の代にまでその活躍に頼るわけには行かない。主家の先を案じたゆえのしごきではあったが、それで父の孝景は納得しても当事者たる長夜叉には受け入れがたかった。
(何故だ。何故に当主の息子として生まれただけでこのような仕打ちを受けねばならないんだ……)
痛みに呻きながら長夜叉は内心でぼやく。
高村や長政あたりが聞いていれば「それこそが血の重みだ」と言われるような長夜叉だが、不幸なことに彼らと長夜叉は性向が違った。
なんだかんだで彼らは自らの運命に対して真摯であり容易く避け得ないことを理解し強く自我と結びつけることができた。
だが、長夜叉の自我は当主としての運命に紐付けられることはなかった。ただ彼の自我は今は亡き母に向いている。彼の母は長夜叉を産んですぐに早世しており、物心がついた頃には宗滴のしごきが始まり、守ってくれると信じていた父はそれを果たしてはくれない。
幼いながらに長夜叉の心は冷めていた。愛というものを感じられずに育ったが故に。
(ああ、母上こそ存命であるならば、ぼくに愛を与えてくれたのではないか)
長夜叉は長じると源氏物語に傾倒した。厳密に言えば光源氏にか。多彩な女性遍歴の中で光源氏は母の桐壺の女御の面影を探す。内心、長夜叉は自分も光源氏のような男になるのではないかと予感していた。
けれど、時代は平安ではなく戦国。
風流など脇に置かれ、力こそがものをいう時代。そんな時代にあって繊細な長夜叉は宗滴の目には軟弱に見えて仕方がなかった。
「呆けておる暇があるなら、立て! 立って太刀を持て! その軟弱な性根を儂が叩き直してやるわっ!」
宗滴が怒鳴るも長夜叉は立ち上がらない。痺れを切らした宗滴が長夜叉の頭を掴み上げ、無理やり立たせた。長夜叉の足つきはふらふらだが、目だけはしっかりと宗滴を睨みつけている。
「じじ様、何故当主が刀を持って戦わねばならぬのですかっ! そのような事態になれば、朝倉家はもはや滅んだも同然ではないですか!」
「減らず口ばかり上手くなりおって……。だが、口ばかりでは渡れぬのが乱世ぞ。剣術よりまずお前は気概が足りぬ、敵に立ち向かう意志なくば当方滅亡ぞ!」
叫びつつ、宗滴はまた木刀で長夜叉を打擲する。
痛み共に長夜叉の視界は閉じていく。
「一度は歯向かって見せたとはいえ、この程度か、情けない。六角の新十郎、浅井の猿夜叉丸、織田の吉……諸国にはとうに英傑の卵が産まれているというのに……。ああ、この小倅に越前を託さねばならぬとは。不安で仕方ないわい」
ぼやく宗滴の声は長夜叉にはもう聞こえなかった。
「あーあ、また扱かれてるね……。宗滴さまは怖いからなぁ。新十郎も怖い怖い言ってたし……。あ、起きた」
痛みに堪えながら自室で目覚めると来客がいた。
元服を間近に控えた自分より一回り下の少女。未だ十にもならない年だが、栗色の髪は艶やかで顔立ちも極めて整っている。将来、確実に絶世の美少女となり得る資質を秘めていた。
「長夜叉お兄ちゃん、今日も源氏物語の続きを聞かせてよ」
「ああ、いいとも。次郎姫」
朝倉孝景と六角定頼。両家の当主は共に高国派として戦い、浅井亮政の対処も行なったことから亮政の息子の久政が六角に従属し、その必要がなくなっても両家の交流は僅かながら続いている。
宗滴から絶賛を受けている六角新十郎には長夜叉は近づき難かったが、その一族の次郎姫とはウマがあった。年に一度、次郎が来訪した時に源氏物語をはじめとする風流趣味を共有することが長夜叉の楽しみだった。
長夜叉の一族には孫八郎がいるが上昇志向が強く長夜叉との相性は良くなく、孝景は風流好きの性向こそ近しいが病弱で頼りにはできない。宗滴は言わずもがな。朝倉家中で長夜叉は独りだったのだ。
(次郎姫がぼくの妹だったのなら、何かが違ったのだろうか……)
だからこそ、誰か自分を見てくれる女性を長夜叉は欲していた。
長夜叉と次郎姫の邂逅はこの年限りとなる。
翌年、長夜叉は義景になった。
…………
「懐かしい夢を見たものだ……。まさか、今更宗滴と次郎姫の夢を見るとは……」
午睡から目覚めた義景は目を擦る。
義景の幼少期は宗滴の地獄の調練によって占められていた。
「次郎姫、今は六角義定と名乗っているようだが……。さぞや美しく育ったのだろうよ」
義景と義定はその後顔を合わせることはなかった。
伝え来る噂話では『江南の太陽』とあだ名されているようだが、義景はその噂を鼻で笑った。
(次郎姫は確かに冠絶した美貌の幼子であったが、太陽に比するような性質ではない。あれは光幽けき月のような女子ぞ。掠れた心を風流で糊塗するような悲しき女子ぞ。そのような評価など似つかわしくない。……ゆえに、余の若紫たり得なかったのだ)
小姓を呼んで自分が寝ている間に大将の代理をさせていた久政を呼ぶ。
姉川の戦い以後、浅井久政は長政のそばを離れ朝倉義景の近くに身を寄せていた。浅井の采配にもう関わらないという久政の意図もあったが、姉川以降戦意が落ちた長政を離反させないための人質としての側面も強い。
「義景どの。宗滴どのをお恨みなされるな。大名の子育てとはままならぬもの。まして世継ぎともなれば。わしは猿夜叉丸には何もしてやれなんだか……むしろ苦しめてばかりよ。……それでも、あやつはあやつ自身で大きくなりおった。嬉しい反面、親としては情けない」
「夢を聞かれていたか……。久政どの。貴殿の方が悔いているだけ親としてはまだマシなものよ。宗滴と父上は何も迷ってはいなかった。それが正しいのだと信じ切っていた」
「それは宗滴殿らの器よ。わしとは違う」
落胆する久政に興味をなくし、義景は戦況が書かれた手元の書状に目を写す。
坂本を抑えた宇佐山城は後詰に来た蒲生氏郷隊ごと攻め潰した。宇佐山城の主将の森可成と蒲生氏郷の叔父の青地茂綱は討死し、氏郷自身は森家の残党を引き連れ洛中に移動している。
「叡山は織田との和睦を守る以上、叡山越えはできぬか……。ならば、大津まで回り山科に入るとしよう」
織田信奈は摂津で動けず、伊勢長島で六角の動きを牽制した。京は目前にまで迫っている。義景はひとりほくそ笑んだ。
*
だが、結果として朝倉軍の進撃はそこまでだった。
大津を越え、山科へ向かう途上の逢坂の関にて、待ち伏せを受けたのである。
「近江はうちの庭だよ? そこで好き勝手できるとは思わないで欲しかったなあ……」
「親父の仇だ! 者ども討ち取れ! 首を取るだけじゃ足りねえ! 内臓を引き摺り出して惨たらしく殺せ!」
坂上からの義定の弓隊による撃ち下ろしに山腹に潜んだ蒲生氏郷と森長可ら宇佐山城の残党によるゲリラ戦法。
数こそ少ないが容赦ない戦意で襲いかかる義定軍に朝倉軍は押されていく。
(連中の異様な士気はなんだ? なにゆえにこのように鬼になれる?)
理解できないものには恐怖を感じる。おおよそ武士とはかけ離れた存在である義景には仇を討たんとする森家残党の意地は理解しかねた。
代わりに目に映るのは崖上で指示を出す義定の姿。
栗色の髪はそのまま長く伸ばされて戦陣の中でも映える。
緊張に引き締められた相貌は昔よりもなお凛として美しく。
織田信奈という運命に想い定めていた相手がいながら、義景は……長夜叉は見惚れていた。
(あの次郎姫がかくも輝く美しい姫君になるとは。太陽と謳われるのも納得よ。随分と美しく育った。仮に織田信奈より先に出会えていたならば、余の理想とする紫ノ上となっていたやもしれぬ)
義定の艶姿に目を細めながら、義景は軍を引かせた。ここで義定に目を焼かれて我が物にしようとするほどの熱意はなかったのだ。
だが、義景の慕情はともかくとしてこの好機で逢坂を抜けなかったのは戦略的に手痛い。
なにせ織田信奈に、そして六角高村に事態に対処する時間を与えてしまったのだから。