浅井長政の旗本隊が突撃してからというもの浅井と織田の本隊は激しい乱戦状態となっていた。
遮二無二に長政はその槍の冴えで敵陣を穿ち抜き、獰猛な死兵たちがその破断点をさらに押し広げる。
ある程度、周囲の敵を薙ぎ払い終えた長政は馬を止めて近くに寄ってきていた脇坂安治に問うた。
「無心の境地で敵を討っていたゆえ分からぬが、今朝倉軍はどうしている?」
「恐れながら、殿の後に続いた形跡はありませぬ。どうやら越前へと撤退した模様です」
「そうか……」
長政は思わず天を仰ぐ。
期せずして一世一代の大博打が不意に終わったことを知った。
織田軍の半ばまで攻め入ったものの、四倍の兵力差は如何ともしがたい。姉川の戦いの時に見せた勢いを恐れた織田軍が万全の対策を施していたこともあり、ついに長政の勢いは伸びあぐんでいる。
ここに朝倉軍が後詰として付いていたならば、まだやりようがあったが帰られてしまった以上はどうしようもなかった。
義景を詰りたい気持ちが湧き上がってくるが、脇に追いやる。
「高虎に朝倉に退路を助けるように申しつけよ。我が浅井の滅びに義景殿まで巻き込むのはあまりに忍びない。我らも小谷に戻ろう。これ以上の戦いは徒に兵を擦り切らせるだけだ」
「殿……!」
「安治。私たちはやれることは充分にやった。その上で届かなかった。ならば、もう悔いはない」
退却の下知を出し、長政は馬首を翻す。
そんな長政を目指して柴田勝家と滝川一益ら織田軍の誇る勇将たちが迫りくる。
「浅井長政ッ! お前はここで姫様のために死ねッ!」
裂帛の気合いで押し通らんとする柴田勝家に追い立てられていく浅井軍。長政は敢えて自ら殿に立って奮戦したが、分が悪かった。
天を裂くような銃声が長政の鼓膜を震わせる。
そして、右肩に激しい痛みが走り出す。もう槍を持ってはいられない。たまらず長政は槍を取り落としてしまう。
「姫の種子島も捨てたもんじゃないであろう? 暴れるだけのかっちーじゃ出来ぬ芸当じゃ」
痛みにうめく長政を見て勝ち誇った笑みを浮かべる滝川一益。彼女は暴れる柴田勝家の影に隠れてひたすらに銃撃の好機を待っていた。
(音に聞く滝川左近か……。確かに素晴らしい腕前だ。だが、そなたに私の命をやるわけにはいかない……。なにせ、新十郎と約束したのだ。小谷城の本丸でお前を待つ、と)
痛みに耐えながら長政はするすると殿から隊の中に後退する。代わって出てきた旗本衆の豪傑七、八人の命を捨て石にして漸く長政は死地を脱した。
「長政が小谷に退いたならもう六角と良晴の軍だけで対処できるわ。これからは当初の予定通り朝倉軍を追うわよ」
長政が退いた後、信奈は態勢を整えて朝倉軍の追撃に入ることを決断する。
長政の抗戦と采配により想定より攻めるのが遅くなったがまだ修正がきく段階であった。
残されたのは相良良晴隊と六角軍。
「さて、猿夜叉丸。俺はこれから約束を果たしに行く。……だから、まだ死んでくれるなよ」
未だ悠然と聳え立つ小谷城を見上げながら高村は呟いた。
*
朝倉軍は疲労困憊の有様で北国街道を北上していた。
小谷城下での激戦の疲労が残ったまま織田家の調略により寝返った江北の諸豪族の攻撃を受け、さらに追ってくる織田の本隊と敦賀に侵入した明智光秀にも気を配らなくてはならない状況はいよいよ朝倉軍を追い詰める。
(報せはないが、敦賀はもう落ちたものとして見なさなくてはならぬ……。であれば、中河内口か)
余呉湖畔からさらに北上し、山に分け入る中河内口を朝倉軍は退却に使うことを決めた。敦賀を介さずに今庄に抜ける短絡路だが、その分山間を通る区間が長く道は険しい。
だが、その険路ぶりは織田の脚を止めるのに役立つ。
老将・山崎吉家が「これが最後の御奉公ぞ」と唱え、幾人かの将を集めて道中の中河内砦に陣取って織田軍を迎撃。衆寡敵せず吉家以下二千の将兵が玉砕したものの、朝倉義景を一乗谷へとたどり着かせることに成功する。
「はぁはぁ……帰ってきたぞ……。ん、なんだあれは? 待て、よるな! 余を誰だと心得ているッ!」
しかし、それも結局遅きに失したらしい。
這々の体で一乗谷に帰った義景は畿北方分軍に取り押さえられ、自分が住んでいた館に連行されていった。
連行されながら辺りを見回すと一乗谷の至る所に隅立て四つ目の旗が翻っている。一乗谷はすでに完全制圧されていたらしい。争った形跡はさほどないため、抵抗はほとんどなかったのだろう。
「遅かったね、長夜叉お兄ちゃん。一乗谷はもう占領したよ? 十兵衛は今は朝倉景鏡を攻めてる。信奈ちゃんはまだ来ないから、それまでお話ししようか」
まるで自分の館のようにくつろぎながら義定は義景を待ち構えていた。その態度に義景は呆れた笑みを浮かべながらも応じる。
義定が小姓を呼んでお茶と茶菓子を持ってこさせたのちは義景と義定の二人きりになった。
(逢坂峠で遠目に見た時にも思ったが、やはり美しい。昔の次郎姫とは大違いだ)
対面した義定の姿を改めて見て義景は目を細める。
昔は外面を取り繕うだけで内面の世を儚む繊細さの持ち主だった。ひ弱だった長夜叉でさえ守ってやりたいと思うような庇護欲を掻き立てるような美少女だったのが、今や快活で華やかなそれこそ巷間の比喩で用いられる「太陽」に値するような美少女に育った。
何が彼女を変えたのか、義景には心当たりがある。
「気になってはいたが、次郎。そなた、よもや義賢殿を討ってないだろうな?」
「……討ってないよ。 父上は病死だよ、ほんとに」
問うた瞬間、義定の目が泳いだことに義景は気づいた。次郎姫こと義定の昔からの癖である。取り繕うのが上手い彼女だが、無理がある嘘をつく時だけ僅かに目が泳ぐのだ。
「仔細は聞かぬ。……そうか、次郎は終わらせられたのだな。それは少し羨ましい」
義景は義定の復讐が遂げられたことを寿ぐ。
父への憎悪を向けていた少女と未だ見ぬ母への慕情を変質させた男。
同じ戦国の大名家に生まれ、家族への想いを拗らせて孤立していた二人は出会った頃から他人のような気はしなかった。
「新十郎とはうまくやれ。……あの男もまた修羅の道を歩む男ぞ。誰かの助けがなくば、鬼に堕ちる」
「長夜叉お兄ちゃんは手伝ってくれないの? 一応わたしから助命してもらえるよう頼んでみるけど」
「余には無理だ。そもそも余を織田信奈は赦さぬであろう。おそらくは一乗谷と共に果てる定めだ。それに、なにより余は臆病者で力不足だ。助けられるとは思えぬ」
生存の難しさもあるが、六角高村の一助になれるとは義景には到底思えなかった。結局、長いこと居ておきながら次郎姫にだって何かをしてやれていた気がしない。
「確かに長夜叉お兄ちゃんは臆病だけど、わたしは助けられてたよ。確かにわたしが吹っ切れたのは復讐が終わったのと黙って見てくれた新十郎のおかげかもしれない。……けれど、長夜叉お兄ちゃんが風流で心を癒す術を教えてくれなかったら、わたしはそこまで辿り着けなかった。……だから、ありがとう」
言い終えた後「やっと言えたよ……」と義定は破顔する。その笑みにはいささかの照れも入っていた。
義景にはあずかり知らぬことだが、ただこの一言を告げるためだけに義定は一乗谷を先んじて制して待ち構えていた。
織田信奈に先んじられていた場合は、このように悠長に言葉を交わす時間すらなかったに違いない。
「余がそなたの助けになれていたのか……それは良かった」
義景もまた破顔する。義景は安堵していた。
宗滴に蔑まれた風流趣味で次郎姫を助けることができていた。それがわかっただけで今までの自分の半生が徒労ではなかったのだと証明されたような気がしたのだ。
亡き母の面影を追い求めながら、何も手に入れられず、一人で死ぬほかなかった男はこの時、僅かばかりの救いを得たのである。
それから義景と義定はありし日のことを話した。
稽古を嫌がり宗滴から逃げ回る長夜叉の話や源氏物語の推し姫でしょうもない論争を繰り広げた話など様々。
話し続けて決められた刻限に近づいた時、義景はおもむろに床の間の方を指差した。
「あとそうだ次郎姫。そこの違い棚に茶壺と花入が、刀架に太刀が一振あるだろう。一乗谷から帰る時にそれらを持っていけ」
「これとこれ? 明らかに格が高そうなやつだけどいいの? 刀に関しては宗滴殿が佩いてたやつじゃん」
義定が戸惑うのも無理はない。なにせ義景が指差したのは朝倉家累代の重宝ばかり。朝倉宗滴の佩刀だった籠手切正宗はもちろん茶壺も花入も朝倉孝景・義景所用の品として上方の文化人に知られたものだった。
「ああ。織田信奈はこの屋敷を、あるいは一乗谷そのものを余と共に焼き払うだろう。余はそれだけのことをしでかしたゆえ、致し方ない。……だが、風流には罪はない。余と共に潰えるのは口惜しいことだ」
「……わかった。持っていくよ」
「余からの最後の餞別だ。達者でやれよ、次郎姫」
優雅を気取って笑みを浮かべる義景。元服してからはいちいち鼻につくような言動をする男になったが、それでも義定にとっては恩人だった。
結果的に、このやり取りが義定が聞いた義景の最後の言葉になる。
*
義定と義景の対談の翌日に織田の本軍が一乗谷に到着した。
信奈は縛られた朝倉義景を見るや否や足蹴にし散々罵倒を浴びせた後、斬首を宣告する。義定が取りなしに入る暇もない。義景は従容とした態度で信奈の沙汰を聞いていた。
怒り故か信奈の対応は早く、その日のうちに義景の処刑は執行され一乗谷は炎に包まれる。
『源氏物語』の世界を再現していた義景の館も、長谷川等伯に描かせた障壁画も、小京都と謳われた一乗谷の街並みも、義定の思い出の地も全て紅蓮の中に包まれていく。義定に託された朝倉の重宝だけが残された。
英林孝景以来、越前を支配し北陸の雄として名を馳せた名門朝倉家は、ここに滅亡したのである。