長政の命を受け、朝倉軍の殿軍として中河内口まで働いた高虎が木之本に差し掛かった時、彼女は馬蹄を止めさせていた。
「ああ……なんてこと」
遠くに見える小谷城から火の手が上がり、空を赫く染めていく。
少し離れた木之本から見えるということは小谷城のかなり深部に放たれた物だということで、ややもすれば小谷城自体が落ちている可能性すらあった。
「姫、戻られますか? もはや手遅れだとそれがしは断じまする」
「彼の言う通り、我々は命を拾いました。むざむざまた死地に戻るべきではありませぬ。それに殿は落ち延びているやも……」
側近の二人をはじめとして動揺が藤堂軍内に広まっていく。だが、茫然と火柱を見上げていた藤堂高虎はすぐに平静を取り戻して告げた。
「おまえたち、それはありえない。藤堂家臣としての行いとしても、殿が逃げ延びたということも。どのような状況になり果てようと殿はあそこに残ることを私は知っている。なれば、馳せ参じるのが禄を受けた家臣の行いではないのか?」
「それは……」
高虎の一喝に側近の二人は口を噤む。
やることを決めた高虎はさらに行軍を早める。
(それにしても、見るんじゃなかったなぁ……)
手綱を握りながら、高虎は過日の自身の行いを後悔していた。
浅井長政の宿敵・六角高村から預けられた書状。「最悪、中身を見てもいい」と言われ、重ねて「内容はお前には絶対わからないだろう」と断じられた。
明らかに重大な書状であり、本来なら秘匿しなければならないものなのだろう。
だが、高虎はどうにも気になって開けてしまった。そして見てしまった。
……それだけならば、高虎はこうも後悔することはなかっただろう。
(あれで合点がいった。殿が帰参された際に高村が口にしたうわごとの意味を。実に、やるせないことだ)
不幸にも高虎は書状の内容を理解してしまった。あまつさえ、自らの主君の内心さえも全て。
(殿は……、いや姫様はあの燃える小谷城の本丸で高村を待っているのだ。『お市、お前を奪いにいく。だから小谷城の本丸で待っていろ』という言葉を信じて……!)
この高虎の理解は偶然ではなく明確な理由がある。
端的に言えば、高村は失念していた。
藤堂高虎が利発な姫武将であることを。
ただの優れた武将というだけではなく乙女でもあったことを。
そして、かつて高村が長政に手を伸ばしながら『お市』と呼んだことを高虎に聞かれていたことを。
失念していなければ、高虎に高村は書状を託さなかっただろうが後の祭り。
こうして六角高村は藤堂高虎に『敵総大将への恋文』というその生涯における最大の恥部を握られたのである。
*
赫炎が空を舐める。
小谷城への高村の攻勢は実に苛烈だった。
あらかじめ宮部継潤から小谷城の縄張り図を仕入れていた高村は浅井家が大広間で最後の決戦を行うと見て、手を打った。
尾根伝いに城を攻めるのではなく、清水谷の沢筋から別動隊に急登を踏破させ本丸と小丸の結節点である京極丸を落とす策を本命に据えたのである。
この別動隊に相良良晴を当てて小丸の久政と対峙させ、自らは長政と雌雄を決する腹積りだった。
結果としてこの中入り策は当たり、いよいよ小丸の久政は追い詰められていた。
「……もう、どうにもならぬか……」
延焼する小丸を見回しながら久政はひとりごちた。
装いを白装束に変えて、赫く照り返る空を見上げる。久政はすでに死を覚悟していた。
「全ては我が罪よ。恨みと不満で大局を見誤り、子の道行を歪めたわしの罪よ」
自嘲する。
結局のところ、自分は長政に『浅井の独立と雄飛』という夢を見て、勝手に背負わせた挙句潰してしまった。いや、夢を見て背負わせただけならまだよかったかもしれない。結局のところ、自分も何かせずにはいられなくて口を出し、足を引っ張ってしまった自覚がある。
こうなってしまったら親としても為政者としても、三流以下だった。
だが、自覚した後の久政はひたすらになすべきを成した。
少しでも多くの家臣を自らの破滅に巻き込ませてはならじ、と熱心に世話を焼いていたのである。多くの者は利口だから久政の勧めに従って逃げた。だが、そう素直に退去しない頑固者どももいる。
敵の大将が六角高村と聞いた女中や姫武将たちは頑なに辱められるぐらいなら自ら死を選ぶと浅井家への殉死を選んだのだ。実態はもう違うのだが、六角と聞いた彼女たちは今だに六角承禎の頃の風紀の乱れを想起してしまっている。久政は一応は説得を試みたが諦めていた。
「高村はともかく、相良良晴は戦国の武将をするにしては甘い男だ。闘う意志がない者を討ち取るようなことはしないだろうから家臣や小姓は出来うる限りは逃したぞ? ゆえに、もうわしの周りに人はほとんどおらぬ。その方も逃げたらどうだ?」
久政が苦笑いを浮かべた先には律儀にも小谷城に舞い戻っていた高虎がいた。山崎丸と大嶽砦経由で本丸に向かおうとしたが、京極丸で阻まれて小丸に引き返してきていたのである。
久政の言葉に高虎は憮然とした態度で答えた。
「いえ、私も死ぬわ。禄を食んでおきながら逃げるなど武士にはあるまじきことよ」
「はっ、言いよる。村の阿婆擦れから成り上がったものを武士とは呼ばぬぞ。武士とはな、己の武と芸を主君に売りながら生きていく者のことよ。お前は小谷城を出て何処へと仕えるがよいわ」
高虎の殉死の申し出を久政は鼻で笑って蹴り飛ばした。
「なぁ高虎。お前はまだその才幹を売り尽くしてはないだろう? 忠や孝、生死を論ずる前にまずはお前の全能を使い尽くせ。いいのか? 高村に二度も生かされた挙句、無意味に死ぬのがお前の生き様か? 違うであろう?」
「しかし……」
「武士たる者、七度は主君を変えねば武士とは言えぬ。場を探し、その才幹を花開かせて下天を謀る姫武将となれ。それまでは、お前に死を飾る値打ちなどない」
この久政の激烈な言葉の前に高虎はようやく折れる。大人しく生き残りをまとめて小谷城を下山した。
「やっと帰りよったわ……。待たせたな皆の者」
その後ろ姿を見送った後に久政は佩刀を抜いて居残った者たちに呼びかける。
浅井の一族や敵の手に落ちて辱められることを拒んだ女中たち。彼ら彼女らは最早小谷城を生きて出るつもりがない……畢竟、久政が救えなかった者たちだった。
「その方らが行き場を無くしたのは、わしの不始末よ。なればこそ、わしが責任を持って浄土へと送ろう」
瞑目したのち、久政は自らの手で正室である阿古御前をはじめ殉死を志願した者らに刃を突き立てる。彼ら彼女らを久政は一人ひとり丹念に殺していった。そのたびに自らの罪の意識が増していく。
「殿、貴方と共に行くなら地獄までも……」
「お前には不自由をかけた。……わしもすぐに逝く。だから待っていてくれ、阿古」
最後に阿古御前が血溜まりの中に沈むのを見届けた後、久政は座り込む。
小丸の中は殉死者たちの鮮血で赤黒く染まり、むせかえるほど血と肉が焦げる匂いが漂っている。その光景はさながら地獄と呼んでも差し支えないだろう。
そんな地獄の中に、新たに踏み込んだ者がいる。
京極丸を攻め立てた相良良晴その人だった。
良晴は小丸の惨状を見て思わず立ちすくみ、えずいてしまう。それを見た久政は「やはりお主は荒事が苦手よな」と苦笑いを浮かべた。
「それにしてもお主まで来るとは、賑やかな最期よな……。だが、ちょうどよい。介錯人が欲しかったところだ。見よ、相良良晴。これが浅井下野守久政の責の取り方よ……!」
良晴に見せつけるように久政は自らの腹にも脇差を突き立てる。
肉を穿つずぷりという音が良晴の耳から離れてくれない。
久政はそれにも関わらず脇差を上下左右に動かしていく。
「おっさん、なんてことを……!」
半ば悲鳴じみた声を上げる良晴に久政は息を荒げながら、口の端を吊り上げた。
「はぁ、はぁ……これこそが……武家の責任の取り方よ。武家の当主はな、家臣の生き死にを背負い、領地の安寧を保つ務めがあり、その血脈を後世に繋がなくてはならぬのだ。それを果たせぬ者に生きる値打ちなどない。……相良良晴、お前もまたいずれ武家を率いることになるのであろう……? ……ならば、わしのようになってはならぬ。訓戒として、我が姿をその目に納めよ……!」
苦悶しながらも久政は己が腹を十文字に掻き切り、項垂れた。
「……さあ、介錯をせよ相良良晴……!」
吐き出すように搾り出すように、告げる。
相良良晴や藤堂高虎にはともかく、猿夜叉丸に対しては告げるべきことはなかった。……いや、久政は告げるべきではないと断じた。
だから、遺言という形であっても、我が子を縛るような真似を久政はもうしたくなかったのだ。
遠のく意識の中、娘の先行きを願う。
(長政……猿夜叉丸、いやお市と呼んだ方がよいか? もうどれでもよい。我が子よ、浅井の罪はわしが持っていく。だから、お前は新十郎と好きにやれ)
実のところ、あまり久政は心配していない。
承禎の陵辱を避けるために男武将として育てざるを得ず、敵地である観音寺に留め置かれて小谷城にも二、三回しか帰ることができなかった過酷な環境下においても、彼女は強くしなやかに育った。
そんな娘とあの忌々しい宿敵ならば、自分が考えるよりもよっぽどいい結末にたどり着く。そう、久政は確信している。
だから、思ったよりも心やすらかに意識を手放すことができる。それが久政にとって幸運だった。
*
小丸が落ち、いよいよ小谷城の陥落も近づいてきた。
久政を討った相良良晴隊が反転して京極丸の南にある中丸に取り付くやいなや、大広間で抵抗していた浅井軍の勢いも衰える。
特に亮政以来三代に渡って仕えてきた赤尾清綱が蒲生氏郷に討ち取られてからはいよいよ浅井は抵抗の主核を失い、本丸に後退せざるを得なくなった。
長政もまた山道を馬で駆けあがり、本丸へと戻った。
もとより少なかったが、すでに浅井の兵は二千を割込んでいるだろうか。戦前の時点で寝返る者が多く、逃散した兵も多い。
一益に撃たれた肩の痛みに苛まれながら、長政は時を待った。
「小丸の久政様は相良良晴隊に討ち取られたとのこと」
「……そうか。して、雨森。他の三家老はどうした?」
「海北殿も赤尾殿もすでに討たれておりますれば、生き残りはそれがしだけにございまする」
項垂れる雨森を見て、長政はまた「そうか」と生返事を返した。
「殿。 この上は、腹を召されますか」
「いや、私は高村を待つ。お前は下がれ。私のわがままにもうこれ以上付き合う必要はない。殉死は禁じる」
「重ね重ね、申し訳ござらぬ」
雨森清貞が去り、本丸で一人きりとなった。
久政が死に、浅井三家老も去り、藤堂高虎も脇坂安治もまた小谷城を退去している。
この時、ようやく長政は……猿夜叉丸は浅井家から解放されていた。
賭けに負け、浅井家がもう修復不可能となった以上は猿夜叉丸は生き方に迷う必要はない。
やるべきことを終えて、『お市』として新十郎を待つことができる。
……だが、その時間は長くないこともまた彼女は自覚していた。
いよいよ本丸にも回り始めた火に、止まらない肩の出血。
熱気で肌がちりちりとする感覚と、傷口から命が零れて体内が冷めていく感覚が同居する。
金創医なんてもう城内には残っていないだろうし、消火する人手もない。
彼女に出来たのは、煙に巻かれながら顔を蒼くして痛みに耐えることしかなかった。
(新十郎、早く来い。おそらく、私はもう保たぬぞ……!)
長政にもまた、死期が迫っていた。