選抜レース。
それは春と秋に行われるトライアルレースだ。公式レース出場を目指すためトレーナーにその実力をアピールするべく、無所属のウマ娘たちがこの日も大勢参加していた。
そこにはもちろん、グラスワンダーの姿もあった。彼女は、学園の同期であるスペシャルウィークと、そして同じく同期であり寮でのルームメイトでもあるエルコンドルパサーの二人と共に、学内レース場の選手待機所からレースを眺めていた。
「あわわわ、もうすぐ私のグループが出走だ……!」
緊張してきた。と声を震わせていたのは、スペシャルウィークだ。普段の練習での成績から、恐らくデビュー確実だろうと噂されているが、しかし選抜レース特有のひりついた緊迫感を前に、スペシャルウィークはいささか気おくれしていた。
「出走する他のウマ娘たちだけじゃなく、観客席のトレーナーさんたちもなんだかピリピリしてて、落ち着かないよぉ」
そんな気弱なことを言うスペシャルウィークの様子に、隣のエルコンドルパサーが「なーはっはっ!」と、けたたましい笑い声を上げた。
「スぺちゃん、カタくなりすぎデース。出走前に石化しちゃいますデスよ?」
「石化っ!? そ、それじゃ走れなくなっちゃうよぉ~!」
「まあまあ、スぺちゃん」
と、テンパり気味の同期を見かねて、グラスが声をかけた。
「ほら、深呼吸して肩の力を抜きましょう。リラーックスですよ。りら~っくす~」
「う、うん。すぅ~、はぁ~~~~~~~……ふにゃあ」
「はい、良く抜けました。ふふ……“人事を尽くして天命を待つ”。スぺちゃんは今日のためにやれる限りのトレーニングを積んできましたよね?」
「う、うん。私、頑張ってきたよ」
「でしたら、あとは自分を信じて思いっきり走れば、自ずといい結果になりますよ。今日は勝ち負けを競う場ではなく、私たちがどれだけ努力してきたか、その積み重ねをトレーナーさんたちに認めてもらうための機会ですからね~」
「グラスちゃんっ……! うぅ、ありがとぉ~……!」
「努力、ね~」
エルがにやにやと笑いながら、グラスの肩を軽く小突いた。
「あらエル? 何か言いたそうですが?」
「フリーになった現役世代も出走するこのレースで、確かに新人が一着を獲るのは難しいデース。でもっ! エルはっ! 絶対勝ちまーすっ! 勝って、アタシが世界最強だとトレーナーたちに認めさせてやるデース!」
「はいはい、頑張ってね~」
「アタシの扱いが雑デース!?」
でもでも。と、横からスペシャルウィーク。
「エルちゃんの実力なら、きっとスカウト確実だよ。もしかしたら強いチームから指名が来るかも」
「チーム、デスか~。それも悪くないですけど、アタシはやっぱり専属の方がいいデース。なんたって世界最強ですから、誰かの下に付く気はサラサラありまセーン!」
胸を張って傲岸不遜な宣言を放ったエルコンドルパサーは、観客席に居並ぶトレーナーたちをキッと睨みつけた。
「この選抜レースは、トレーナーに選ばれる場所じゃありまセーン。アタシが相応しいトレーナーを選ぶ場所デース」
「うわわわ、エルちゃん、闘魂すっごいギラギラしてる。……もしかして、噂の“剣客先生”って言うトレーナーさんを狙ってたりするの?」
「ふぅん…興味はありマース」
エルは観客席を品定めするように眺め渡し、両手を頭の上に立て、耳をそばだてた。
「なにやら観客席のトレーナーたちがざわめいてるみたいデース。まだレースも始まって無いのに妙デスネ~?」
エルの言葉に興味を惹かれ、グラスとスペシャルウィークも、揃ってそちらに目と耳を向けた。
ざわつくトレーナーたちの注意が向けられた先に、剣崎覚馬の姿があるのをグラスは見つけた。
理事長が直々にスカウトしたと噂の敏腕トレーナー、剣崎覚馬。
その経歴を知る者は、彼を畏怖と警戒の眼差しで眺め、そして知らぬ者も、彼が持つ不思議な圧を感じ、いつもならば声高にウマ娘たちの品定めをするものを、このときばかりはそれがどこか控えめになっていた。
――あの男、たしか何処かのチームのサブトレーナーとして雇われたんじゃなかったのか? 話が違うぜ。
――そのはずだがな。だが、あいつがここに居るってことは、ウマ娘をスカウトして専属を狙っているのかもしれん。
――専属ならまだしも、複数人を囲われてチームを作られた日にゃ目も当てられねえぜ。今年は粒揃いだってのに、奴に全部かっさらわれちまうかもしれねえ。
――あ、あの、割り込んですいません。そんな凄い人なんですか、あの人。しょせん地方トレーナーじゃないですか。
――“剣客”といやあ、西日本じゃ名の知れた流れの勝負師よ。地方をあちこち流れては、そこで見込んだウマ娘と組んで賞を荒らしまわっている奴さ。どんなウマ娘だろうが、奴にかかればたった一年で重賞を獲るくらいに大化けさせちまう、怪物だ。
――か、怪物…?
――おうよ。チッ、地方で満足してりゃいいものを、ついに中央に乗り込んできやがったか……。
――“剣客”…いや、俺たちにとっちゃ“刺客”も同然か。理事長も余計なことをしてくれたもんだ。
トレーナーたちに警戒される中、しかし当の本人は悠然としてコースに向けて目を細めていた。
春の陽気がターフを照らす学園内レース場、そのパドックには出走を待つ四人のウマ娘たちが進み出ようとしていた。
その中にはスペシャルウィークの姿もある。ゲートは3番、事前予想は2番人気、四人の中では唯一デビュー前の新人だが、現役を差し置いての高評価だ。一番人気が重賞入着の実績がある現役ウマ娘でなければ一番人気もあり得た、というのが集まったトレーナー達の見解だった。
パドックでの評価が終わり、各ウマ娘がゲートに入る。コースは芝、2400メートルの中距離戦。
『各ウマ娘がゲートに入って体勢が整いました』
レース場に実況のアナウンスが響き渡った。
『スタート! 各ウマ娘、きれいなスタートを切りました!』
ゲートが開き、各ウマ娘は横一直線に並んで綺麗に飛び出していく。
序盤の直線で先頭に立ったのは3番人気1番シャンソンジェンヌ。逃げ作戦か、一気に速力を上げ後方との差を開いていく。
二番手は2バ身離れて3番スペシャルウィーク、必死に食らいついていく。その後ろを2番のプロペライザーが追走、4番人気だ。
1番人気の4番スプリングウェルは最後方、トップとは5バ身差。
『各ウマ娘、1コーナーからそして2コーナーへ向かって行きます! さあハナに立ったのはシャンソンジェンヌ。どうでしょうこの展開?』
『掛かっているかもしれません。一息付けるといいのですが』
と、解説の合いの手。実況と解説はどちらも学園所属のトレーナーが務めており、さらにこの解説は、観客席のトレーナーたちだけではなく、インカムを通じてレース中のウマ娘たち本人にも届けられていた。
トップを走っていた1番シャンソンジェンヌは、自分のペース配分が乱れていたことに気づき、わずかに脚を緩める。二番手の位置で先頭をうかがっていた3番スペシャルウィークはこれを好機とみて差を詰めた。
『3番スペシャルウィーク、並びかけてきた。そして外めをつきましては2番プロペライザー。5バ身離れて4番スプリングウェル』
向こう正面に入って先頭からシンガリまでおよそ7バ身。
『順位を振り返っていきます。先頭は3番スペシャルウィーク、1バ身リード。続きました2番プロペライザー。三番手に少し離れて1番シャンソンジェンヌ。最後方、ポツンとひとり4番スプリングウェル』
実況を聞きながら、ウマ娘たちはそれぞれ自分の位置を把握する。
ウマ娘たちの速力は素人でも時速30km、鍛えられたアスリートに至っては最高速度70kmまで達する高速の世界だ。しかしその速力にまで達してしまうと、ウマ娘たちは視野狭窄を引き起こして周囲が見えなくなってしまい、耳も風のうなりでほぼ聞こえなくなってしまうという問題点を抱えていた。
ウマ娘たちの走力は、筋肉や骨格よりも、その身に宿したウマソウルに依るところが大きいゆえに、身体が速力に追いつかないのだ。しかも近年はスポーツ科学が発展したことにより、ウマ娘たちの平均速力はさらに高速化していた。
そのような状態でレースを続ければ大事故を引き起こしかねないため、その一助として、このように常に各ウマ娘の位置をアナウンスしているのである。
『残り1000メートルを通過。3番スペシャルウィークと2番プロペライザーが競り合っています。1番シャンソンジェンヌ、徐々に後方へ下がっていく。その後ろ4番スプリングウェル、外から上がってきた!』
序盤、飛ばしていたシャンソンジェンヌはスタミナが切れ失速、身体が外へ傾き斜行しそうになったが、アナウンスを聞いてなんとか体勢を戻した。その外をスプリングウェルが猛烈な勢いで加速して追い抜いていく。
選抜レースではこうしてアナウンスを利用しているが、公式レースではトレーナーがその役目を担う。選抜レースよりもはるかに大人数で込み合った複雑な状況を瞬時に分析し、それをウマ娘に的確に伝え、そして仕掛けどころを示す。
トレーナーとは、ウマ娘がレースで安全を確保しつつ、そのスピードを全力で発揮するために必要不可欠な存在なのである。
『第4コーナーを超え、最後の直線に入った。最初に立ち上がったのはプロペライザー。スペシャルウィーク食らいついていく!』
ゴールまで遮る者も、物も無い最終直線。残り400メートル。スペシャルウィークは横に並んでいたはずのプロペライザーの姿を視界の端に認めるや否や、脚の回転速度を上げた。靴底の蹄が大地の反発力を感じ、彼女の身体を前へ、前へと押し進めていく。上半身が倒れ込みそうになるくらい前かがみになり、スペシャルウィークは、一瞬、自分が空を飛んでいるかのような感覚に包まれた。
ソウルが燃えるのを感じる。肺へ取り込んだ空気がソウルと混ざりあって高温となって弾け、エンジンのピストンのように全身の筋肉を躍動させた。
時速70km。視界が急速に狭まり、真正面のわずかな一点を残して全てがぼやけていく。空気が壁のように圧力を持ち、まるで水の中を泳ぐかのようだ。もはや息さえもできないが、一度臨界点にまで達したソウルは肺が空になろうがお構いなしにスペシャルウィークの脚を高速回転させ続けた。
『ゴールまで残り200、抜け出したのはスペシャルウィーク!』
(一着…私、一着だよ……おかあちゃん、わたし……)
酸欠で目がくらみ思考が朧になる中、スペシャルウィークはゴールめがけ走り続ける。
(やった――え?)
『上がってきた! 4番スプリングウェル、大外からものすごい追い上げだ! プロペライザーも並んだ並んだ! さらに内からシャンソンジェンヌも差を詰めてくる。スプリングウェル加速が止まらない! 早い早い! 各ウマ娘もつれるように一団となってゴォォォーーール!!』
『これは写真判定になりそうですね』
『着順が出ました。1着4番スプリングウェル。2着2番プロペライザー、3着1番シャンソンジェンヌ。4着3番スペシャルウィーク』
レースを終え、戻ってきたスペシャルウィークをグラスたちが出迎えた。
「スぺちゃんお疲れ様デース! いい走りでしたネー。エルも燃えてキマシタ!!」
「エルちゃん……」
「スぺちゃん、あと一歩、惜しかったですね~」
「グラスちゃん……うん、惜しかった。でも、負けちゃった……。でもね、でもね、私、勝てると思った! 勝てると思った……のに……!!」
ぼろ、とスペシャルウィークの目から大粒の涙が零れ、彼女は唇をかみしめ俯いた。
「スぺちゃん……その悔しいという気持ち、誤魔化しちゃだめですよ……」
グラスはそっと、友人を抱き寄せた。その胸に顔を押し付けて、スペシャルウィークは号泣した。
選抜レースはそれからも順調に進んでいた。多くのウマ娘たちがさまざまな勝負を繰り広げ、トレーナーたちもこれはと見込んだウマ娘たちに、レースが終わった直後から声をかけに行くなど、いろいろな意味で白熱した光景が拡がっていた。
そんな中にあって、剣崎は観客席からレースを眺めたまま、未だどのウマ娘にも声をかけようとしていなかった。剣崎のその様子に、初めは彼を警戒していた他のトレーナーたちも次第に感心が薄れ、スカウトに夢中になりつつあった。
やがて、最終レースが始まった。パドックに立つのはグラスワンダー。現役ウマ娘達を相手に堂々の一番人気である。
――あの子、グラスワンダーでしたっけ。大舞台なのに相当落ち着いているなぁ! あの精神力はかなりの武器になりますね。
――それにあの子はメンタルだけじゃない……。これまでの実績からして、フィジカルも相当なものよ。最終グループの大本命ね。
トレーナーたちの注目が集まる中、グラスワンダーが出走する最終レースが始まった。
スタートから第1コーナー、第2コーナーを抜けるまで、グラスワンダーは3番手につけ後方から落ち着いた走りで戦況を伺っていた。
しかし、向こう正面に入って間もなく第3コーナーに差し掛かろうというところで、1バ身差で左前方に居た2番手のウマ娘が、一瞬、脚をもつれさせてよろめき、グラスへと急接近する。
――おっ、グラスワンダーが前に出てきたぞ! ……でも今の走り、なんかちょっと変じゃなかったですか……?
――グラスの横を走っていた子、少しよろめいて減速したように見えたわ。前のレースでコースが踏み荒らされて、状態が悪くなっていたのね。グラスは衝突を避けるために、咄嗟に避けて前に出たようだけれど……。
仕掛けるつもりがない場所で、加速してしまった。それがグラスの心に焦りを生んだ。
一度乱れたペースは戻すのが難しい。ましてや既に第3コーナーから4コーナーへ差し掛かり、周りも今まさに抜け出さんと位置取りと体勢を整えてしまっている。
4コーナーをまわって最終直線に入る。グラスはトップになってしまっていた。事前の作戦では残り400まで脚を溜めておく作戦だったが――
(もはや、是非も無し!)
腹を括りソウルにブーストをかける。グラスの身体が最終加速に入り、一気にトップスピードまで昇りつめた。
『最初に立ち上がったのはグラスワンダー! しかし後続も追いすがる。――残り200! 内を付いて追い上げてきたのはパワーチャージャー! グラスワンダー、このまま逃げ切れるか!? ゴール盤はもう目の前だ。さあ、勝負の行く末は―――!!」
結果、グラスワンダーは最後の最後で追い抜かれ、ハナ差の2着に終わった。
――グラスは惜しかったなあ。道中のトラブルが無ければ、実力的にも盤石の1着だと思っていたんですがね。
――でも、瞬発力を感じさせる応対は見事だったわ。是非ともうちのチームに欲しいわね。グラスワンダー……。えっ!?
――どうしました?
――“剣客”が、動いた……!?
「グラスちゃんっ、お疲れ様……! えっと、その……」
言葉を濁したスペシャルウィークに、グラスは穏やかな笑みを向けた。
「う~ん、残念でした~。もうひと踏ん張り、足りなかったですね~。……でも、それなりの結果は残せましたから、“次は”1着を獲れるように、頑張ります」
「あ……う、うんっ! 一緒に頑張って行こうね!」
「……そうですね~。ところでスぺちゃん、その隣にいる方は?」
「あ、えっとね……私の、その、トレーナーさん」
「あらまあ~。ということは、スカウトされたんですね~。これでデビュー確定ですね。おめでとう、スぺちゃん」
グラスからの祝福を受け、スペシャルウィークは傍らの年若い新人トレーナーと見つめ合いながら、二人そろって照れ臭そうに笑った。
「デビュー確定はスぺちゃんだけじゃ無いデース!」
と、エルも話に割り込んできた。
「アタシもレース直後からスカウトがひっきりなしで選びたい放題デース。この中からエルにふさわしいトレーナーを選べば、いよいよエルの世界最強伝説の幕開けデース!!」
「はいはい適当にやってね~」
「相変わらずアタシの扱いが雑デース!? ……まあそれより、グラスものんびりしてられないデスよ。レース前から注目集めてましたからね。ほら、トレーナーたちがいっぱいスカウトに押しかけて…………来ない?」
「あらまあ~」
グラスは笑みを浮かべながら、観客席側へ振り向いた。そこにはトレーナーたちが遠巻きにグラスを見ていたが、たった一人を除いて、グラスへと近づこうとするものは居なかった。
そう、たった一人を除いて。
「ちゃんと見に来て下さったのですね。剣崎トレーナー」
「無論だとも」
「……自らお誘いしておきながら、この体たらく。お見苦しい様を晒してしまいました」
「体たらく、か」
剣崎は目を細め、そして微かに後ろを振り返った。
「あそこにいる者たちは、そうは思っていないようだが?」
「私自身の気持ちなれば、余人には預かり知らぬこと」
「納得いかぬか。……いや、許せぬのか」
グラスの目が、真っ直ぐに剣崎を見つめていた。語ることなど、何もないと言わんばかりに。
剣崎の細めた目が、笑った。
「君が走るその理由……確かに教えてもらった。では、また」
剣崎が踵を返し立ち去っていく、その背中を、グラスは深々と頭を下げて見送った。
剣崎がレース場から姿を消した途端、止まっていた時間が動き出したかのように、グラスの周りに大勢のトレーナーたちが殺到したのだった。
――グラスワンダーが全てのスカウトを断っている。
その噂が流れ始めたのは、それからすぐのことだった。