ウマ娘が公式レースに出場するには二通りの方法がある。チームに所属するか、トレーナーと専属契約を結ぶかだ。
チームとは、一人のトレーナに対して複数のウマ娘が契約している状態である。大きなチームになるとメイントレーナー以外にもサブトレーナーが所属している場合もある。新人トレーナーや新人ウマ娘は、先ずこのようなチームに所属して経験を積んでいくのが定石である。
一方、専属契約はウマ娘とトレーナーの双方にとってハイリスク・ハイリターンな選択肢である。しかし実績を残すことが出きれば、その栄光と名誉はウマ娘とトレーナー個人のものであるし、ゆくゆくは自分たちを中心としたチームの結成にも繋がる。
チーム入りか、それとも専属契約か。選抜レース後は、ウマ娘とトレーナーの双方が自分たちの夢の実現をかけて、さまざまな駆け引きが繰り広げられる時期であった。
当然、学園内の噂も、各ウマ娘たちの進路やチームの動静の話題で持ちきりだった。
一人の有望ウマ娘のスカウトを巡って複数のチームが争っていたり、レースではパッとしなった新人ウマ娘が専属契約を結びデビューが決定したり、それとは逆に、レースでも申し分のない走りをしたにもかかわらず、全てのスカウトを断り続ける変わり者が居たり等、そんな噂が飛び交っていた。
「グラスワンダー。どうしてもウチのチームに来る気は無いの?」
学園の敷地の一画、そこではここ最近すっかりお馴染みとなった光景が繰り広げられていた。
「申し出は有難いのですが、お断りさせていただきます」
淡々とした物言いで頭を下げるグラスワンダーに対し、スカウトを持ちかけたベテラン女性トレーナーは困惑した。
「私のチームは、トレセン学園でも強豪と呼ばれているのよ。あなたなら私のチームでも主力になれるだけの実力があるわ。トレーニングだって、サブじゃなく、メイントレーナーである私が専属と同レベルで指導するわ。これだけの条件なのに、いったい何が不満なの?」
「そこまで私を買って下さり、嬉しく思います。ですが、申し訳ありません」
グラスは頭を下げたまま、続けた。
「条件の問題では無いのです。今は、全てのトレーナーさんからのスカウトをお断りさせて頂いております」
「そう…全ての……。では、せめてその理由を教えてくれないかしら?」
「私自身の気持ちの問題です。私にはまだ、デビューするだけの実力はありません」
「実力が無いですって?」
ベテラントレーナーは呆れ、そして笑い出した。
「冗談を言わないで頂戴。あなたのレベルでデビューできないなら、この学園の新人の大半は入学さえ出来ないでしょうよ。あなたの謙虚な性格は美徳だけど、行き過ぎると嫌味にしかならないわよ。……あなたは選抜レースで現役世代と渡り合い、十分な結果を出した。であるなら、デビューする義務があるのよ。それが、あなたに敗れた他のウマ娘たちに対する責任の取り方でもあるわ」
ベテラントレーナーの言葉に、グラスは顔を上げたが、目は伏せたまま、耳だけを微かに揺らして、こう答えた。
「それは筋違いでしょう」
「どう違うと言うの」
「筋違いでなければ、只の屁理屈です」
「何ですって?」
ベテラントレーナーの目がキッと吊り上がったが、すぐに彼女は冷静さを取り戻し、落ち着き払った口調で言った。
「そういうことなら、分かったわ。あなたのことは諦めましょう。でもね、もう一つだけ確認させてちょうだい」
「なんでしょうか」
「“剣客”……あの選抜レースの後、あなたは剣崎トレーナーと会っていたわよね。いったい、どんな話をしたの?」
「それは、言う必要があるでしょうか」
「あなた、あの男から何かを吹きこまれたんじゃないの?」
ベテラントレーナーの言葉に、グラスワンダーはふっと笑みをこぼしながら、伏せていた目を上げて相手を見据えた。
「それは下衆の勘繰りと言うものです」
「っ!?」
下衆とまで言われてベテラントレーナーは激昂しかけたが、見据えられたその目を見た途端、出しかけた声が喉に引っかかったように出せなくなった。
「失礼いたします」
グラスワンダーはまた頭を下げ、踵を返して去って行った。残されたベテラントレーナーはホッと息を吐き、冷や汗を拭った。
「…得体のしれないウマ娘ね。……気味が悪い」
――そうか、あの強豪チームのトレーナーからのスカウトも断ったのか。こりゃいよいよ無理筋だな。
――俺のスカウトを断った時も「自分の問題」と言っていたが、きっと彼女は勝負向きの性格じゃ無いのかもしれんな。
――おっとりのんびりした性格らしいし、デビューして他の子たちと競う気が起きなくなったのだろう。まあ、新人にはまれにあることだ。
――あ、あの、横からすいません。選抜レースにまで出ているのに、デビューを自ら取り下げちゃうって、そんなことがあるんですか?
――お、この前の新人トレーナーじゃないか。そうだな、選抜レースってのは他の模擬レースと違ってウマ娘たちの進退に直接関わってくる分、誰もかれもが結果を出そうとしてギラギラしているからな。その殺気みたいなもんに当てられて萎縮しちまう子だっているのさ。
――デビュー後はどのレースも遊びじゃねえからな。ちょっと油断すると、生きたまま目を抜かれちまうような勝負師たちの世界だ。いくら脚が速くたって、勝ちに拘る姿勢が無いんじゃやっていけねえよ。
――勝負師の世界、ですか。……勝負師と言えば、“剣客”さん、最近は見かけないですね?
――おっ、そういやそうだな。
トレーナーたちの間でそんな会話が囁かれるようになった、そんなある日のこと。“剣客”こと剣崎 覚馬は理事長からの呼び出しを受け、トレセン学園の理事長室を訪れていた。
ソファーに腰を落ち着けた剣崎の前で、まだ幼そうな容姿の少女が“歓迎”と書かれた扇子をパッと開けて見せた。
「突然、呼びつけてしまって申し訳ない、剣崎トレーナー。最近、学園内で君を見かけないのでな、体調でも崩したのではないかと心配していたのだ」
そう言いながら快活に笑うこの少女こそ、トレセン学園の理事長である“秋川やよい”その人だった。見た目だけならば義務教育さえ終えているかも怪しいところだが、正確な年齢は誰も知らない。しかし彼女の年齢が見た目どおりか否かは別として、学園の理事長としての責務を十分以上にはたしている人物として、学園内外から敬意を払われているのは事実であった。
剣崎もまた、学園へ赴任するにあたり便宜を図ってくれた理事長に対し、深々と頭を垂れた。
「着任の挨拶以来、御無沙汰をして申し訳ありません。特に大した仕事がある訳でも無く学園内をぶらついているのもお邪魔かと思いまして」
「仕事が無い、とは!?」
やよいは扇子を音を立てて閉じると、「質問!」と鋭い言葉とともに、扇子の先端を剣崎に突き付けた。
「君はまだ、誰とも契約を結んでいないそうじゃないか。どういうことかね?」
「これはと見込んだ子が“まだ”来てくれないものでして」
「むむっ! それは育成したいと思える子が見当たらない、と言う事かね? まあ、当学園においてウマ娘とトレーナー間の契約は自由意思に基づくものであるから、私からとやかく言う事ではない。……しかしだっ!」
やよいの手元で扇子が再び勢いよく開かれた。そこには“要請”と、まるで手品のように違う文字が画かれていた。
「弘法筆を選ばず。君にかかればどんなウマ娘も見違えるほどに化けると評判だ。私はその手腕を見込んで、君をこの学園に呼んだのだ。特定のウマ娘と専属契約を結ぶつもりが無いのなら、どこかのチームに入るなり、又は学園の非常勤講師として専属トレーナーの居ないウマ娘たちの面倒をみてやってくれないかね」
「それは……」
剣崎はほんのわずかに間をおいて――それは悩むというより、単に居住まいを正す為だけの間だった。――再び頭を下げながら答えた。
「……申し訳ありませんが、お断りさせていただきます」
「な、なんと……っ!」
「わざわざお声をかけてくださった理事長に、このような我がままを申すのは真に心苦しいのですが、どうか、お許しいただきたい」
「………」
深々と頭を下げ続ける剣崎を前に、やよいはしばし考える素振りを見せた。そして、
「確認! 何か理由があるのかね!?」
「無ければ、このようなお願いはいたしません。しかし、単なる私個人のわがままであることもまた事実です」
「理由は言えない、ということかね?」
「まあ、言えなくもない話ではありますが……」
剣崎は顔を上げ、その武骨な顔に不釣り合いな照れくさそうな笑みを浮かべた。
「……口に出すのもいささか野暮な話でして」
「ううむ、よくわからんな」
「ま、義理立てのようなものと思って下され」
「はあ、義理とな…?」
やよいは怪訝な表情のまましばらく考え込んでいたが、やがて何か思い当たる節があったのか、パッと目を輝かせた。
「そういえば、選抜レースのとき、君が唯一、声をかけたウマ娘が居たな。名は確か、グラスワンダー……だったかな?」
剣崎が小さくうなずいたのを見て、やよいは続けた。
「そのグラスワンダーだがな、多くのトレーナーからスカウトを受けているそうだが、全て断っていると噂になっている。……剣崎君、これについてどう思うかね」
「……己に納得が行かぬということでしょう。春風には靡かぬ子です」
「ふふふ、なるほど、そうかそうか」
やよいは納得したように微笑みながら頷き、そして扇子をパッと拡げて言った。
「了承! 君の我がままを認めよう。ただし、無役である以上、給与は出ぬからそのつもりでな!」
「ご配慮、感謝いたします。この御恩は必ず返して見せましょう」
「ふふふ、期待しているぞ」
「では、また」
剣崎は一礼し、理事長室から退出した。
学園内の長い廊下を歩いている途中、窓から外を眺めると屋外レース場でトレーニングを行っている、あるウマ娘の姿を見つけ、彼は足を止め、目を細めた。
栗色の長い髪と、同じ色の尻尾をたなびかせ、同期のエルコンドルパサーと併走するそのウマ娘:グラスワンダーの姿を眺めながら、剣崎は満足したように軽い笑みを浮かべ、そしてその場から立ち去って行ったのだった。
屋外レース場、グラスワンダーはそこで同期でルームメイトでもあるエルコンドルパサーと合同トレーニングを行っていた。
選抜レース後、エルコンドルパサーは多くのスカウトの中から海外レースの経験がある中堅トレーナーと専属契約を結んでいた。日本のレースだけでなく海外レースへの進出も目指しているエルコンドルパサーらしい選択だった。
エルコンドルパサーはトレーナーのマンツーマン指導により、日々めきめきと実力を向上させていた。
入学したウマ娘は全員、学園側が用意した基礎トレーニング指導を受けることができるが、やはり画一的な学園の指導と、各ウマ娘ごとに最適化された専属トレーナーによる指導とでは、その効果は比較にならないほどの差があった。ましてトレーナーにとってもレースは他人事ではなく、担当ウマ娘と文字通り二人三脚で挑むものであるから、当然、その力の入れようも違って当然であった。
その差というものを、グラスワンダーは、エルコンドルパサーとの併走で如実に思い知らされていた。
(エル……、まるで別人のような走りになりましたね…っ!)
これまでのエルコンドルパサーは、もって生まれた優れた才能のままに傍若無人な走りをしていたものだが、今はその影は鳴りを潜め、冷静沈着なレース運びを展開していた。
前方を走るエルコンドルパサーの背中を追いながら、グラスワンダーは仕掛けどころを探っていた。しかし機が訪れたと思った途端、エルコンドルパサーはグラスワンダーのその気配を察知したかのように、先に仕掛けて見せた。
(視野が拡い。まるで背中に目があるようだわ。……いいえ、違う。私を“視て”いるのはトレーナーさんね)
エルコンドルパサーの耳に装着されたインカムを通じて、トレーナーが後方のグラスワンダーの動きも含めてレース展開を指示しているのだ。最終コーナーを周り終え、エルコンドルパサーが一気に加速を始める。それはグラスワンダーが狙っていた位置取り、コース、タイミング、その全ての理想形でもあった。
(こうも容易く先を行かれるなんて……。これが、ジンバ一体というものか……っ!)
内心、驚愕と忸怩たる思いを抱え、歯噛みしながら、グラスワンダーはエルコンドルパサーの背中を必死に追走した。
(分かっていたはずだ、こうなることは……っ。それでも、選んだのは私自身なれば!)
追う、追う、追う。しかし縮まらぬ差は、そのままエルコンドルパサーと自分との差だった。トレーナーを得た者と、断った者との差であった。今はまだこの程度の差だが、日が経つにつれ、その差はさらに拡がっていくだろう。
それでも……それでも……っ!
「ふーっ、付き合ってくれてグラシアスでーす。グラスとの併走はやっぱりいいものデスネ―。最後の直線なんか、背中がゾクゾクしっぱなしだったデース!」
「エルこそ、この短期間で別人のような走りでしたよ~。今日のトレーニングはとっても勉強になりました。礼を言います」
「こっちこそ、感謝感激アメアラレ~ってやつデース。グラスの走りを見て、私のトレーニングに活かせるものがたくさんありそうだ――って、トレーナーも言ってますデース」
エルコンドルパサーはインカムを付けた耳を揺らしながら、離れた場所に居るトレーナーに目を向けた。観覧席に設置されたトレーナーピットから、エルコンドルパサーの専属トレーナーがこちらに向けて手を振っているのが見えた。グラスワンダーとエルコンドルパサーの会話は、インカムを通じてトレーナーにも筒抜けだったようだ。
トレーナーがまだ居ないグラスワンダーに合同トレーニングを持ちかけたのは、このトレーナーからだった。最初はエルコンドルパサーの友人にたいする親切心からの申し出かと思い断ろうとしていたが、エルコンドルパサーから、
「アタシのトレーナーさんは、そんな甘っちょろい人じゃないデース!」
と真顔で告げられた為に、興味を惹かれて、受けることにしたのだ。
そして終わってみれば、まさにエルコンドルパサーの言うとおりだった。
エルコンドルパサーのトレーナーは、まさにエルコンドルパサーの事しか考えていないような人物だった。グラスワンダーに対しても色々とアドバイスをしてはくれるものの、それは全て、「エルコンドルパサーにこの指導をどう活かすか」を前提にしたものである。トレーナーは、この合同トレーニングの間、エルコンドルパサーの強化に活かすためのヒントを得ようと、グラスワンダーの走りや、考え方や、果ては立ち振る舞いまで鋭く観察し続けていた。
もちろんグラスワンダーにしても得るものは大いにあった。しかし、ライバルから塩を送られたというより、むしろ捧げたものの方が多かったように感じたのも事実だった。だが、それを悔しいと感じる資格は、グラスワンダーには無かった。
(トレーナーさんたちを侮っていたつもりは無いけれど……でも、その真の実力を、私は知らなさ過ぎた……)
胸をよぎった一抹の不安を、グラスワンダーは心の奥底に仕舞い込んだ。
「グラス、アタシはもうこれで上がりマスですよ。一緒に帰りますカ?」
「そうね。でも、私はもう少しだけ走っていきますね。スタミナを鍛えるトレーニングを、もうちょっとやっておきたいので」
「え、スタミナですカ? その辺は、グラスはもうかなり鍛えられていると思いますケド? トレーナーさんだって、そう言ってマシタ」
「そんなこと……まだまだ、ですよ。……あと一歩、スタミナが切れそうになる、最後の直線でのあと一歩を、しっかりと踏み込めるようにしたいんです」
「ふう~……ん…」
エルコンドルパサーから何やら含みのある視線と共に相槌を打たれ、グラスワンダーは尻尾を大きく揺らした。
「……なんですか、エル?」
「いえいえ~。……スカウトを受ける気は、やっぱり無いんデスカ?」
「あら、まあ~。またその話ですか~……」
グラスワンダーは呆れてため息を吐いた後、にっこりと笑みを浮かべた。
「エ~ル~、ちょっと、オデコを出してくれますか?」
「オデコ?」
言われるままに前髪をかき上げたエルコンドルパサーの額に、グラスワンダーはどこからともなく取り出したマジックペンの先端を突き付けた。
「ちょちょ!? 他人のデコに何を書こうとしてるんですか、グラス!?」
「“スカウトは受けません”って書いておこうと思いまして~。…だってエルには、この話を何度もしたのに、一向に覚えてないようでしたから」
「だからって他人のオデコで主張するのは止めるデェェス!!」
「もう、冗談ですよ~。このペンだって水性ですし。……あら、間違えて油性を持ってきてたわ」
「冗談じゃ無えデェェス!? アタシのデコのど真ん中に推しつけやがりマシタよネ!? どうしてくれやがるんですかコレ!?」
「前髪を下ろせば見えないから大丈夫ですよ。はいはい、そういうことですから、この話はもうお終いです」
「勝手に終わらせるんじゃねえデェェス!?」
エルコンドルパサーの絶叫はインカムを通じてトレーナーの耳に大ダメージを与えたようで、遠くのピットでは、トレーナーが両手で耳を押さえながらのたうち回っているのが見えた。エルコンドルパサーもそれに気が付き、慌てて自分の耳からインカムを外した。
「……やれやれデース。おっとりした顔して性質の悪い冗談ばっかり仕掛けてくるから、参りマスよ、このエセ大和ナタデココが」
「それを言うなら、ナタデココじゃなくて“なでしこ”よ。大和撫子」
「エセ、の部分は認めるんデスね」
「エル、額を出しなさい。本物の日本文化をその頭に記して差し上げますよ」
「断固拒否デース。デコへの落書きが日本文化じゃないことくらい、エル知ってるデース。……まったく、中身はこんなんだってのに、みんな外見に騙され過ぎデース。グラス、アナタがトレーナーさんたちの間で何て噂されているか知ってますか?」
質問しておきながら、エルコンドルパサーはグラスワンダーの反応などお構いなしに言葉を続けた。
「“グラスワンダーがスカウトを受けないのは、闘争心が欠けているからだ。穏やかで優しい彼女の性格は、レース向きではないのだ!”…ですって! なーはっはっは!! いや~、知らないってのは怖いデスね!」
「エ~ル~?」
「だって、先を走れば殺気むき出しで追いかけてくるような奴に、言うに事欠いて闘争心が欠けてるとか、なーはっはっは!!」
「エル、それだけ笑う元気があるなら、私ともう少しトレーニングしていきましょうか? そうだ、あなたの好きなプロレス技の特訓をしてあげてもいいですよ。ロメロスペシャルの練習したかったんでしょう?」
「笑顔のままで物騒なこと言ってんじゃねーデース。グラスとのプロレスはブックなしのガチになるからお断りデース」
「プロレスは常に真剣勝負と言ったのはエルじゃありませんか」
「真剣勝負と、命(タマ)の獲り合いとは違うんデース。……あ、そうそう、真剣で思い出したんですケド」
「エル、まだおしゃべりする気ですか?」
「剣客先生についての噂デース。聞きたくないってんなら、エルはこれでオサラバしま――」
「エル、続けなさい」
「――す。……わかったデース、話すから、肩を掴む手を離しやがれデース。指が喰い込んでめっちゃ痛えんデスよ!?」
「あらまあ~。ごめんなさいね、エル」
「……ったくもお~。そんな大した噂じゃ無いですよ。トレーナーさんから聞いたんデスけど、剣客先生、まだ誰とも契約を結んでいないし、チームにも所属してないらしいデス。それどころか学園にも滅多に顔を出してないみたいデスよ」
「………そう」
「でも学園にはまだ所属してるみたいデスよ。名簿にはまだ名前があるって。…だったら、一体何しに中央に来たのかって、他のトレーナーたちの間で噂になってるって聞きマシタ」
「……それだけ?」
「……一部じゃ、グラスがスカウトを断っている事と関係があるんじゃないかって話も出てるそうデース。……グラス、前に言ってましたよネ。選抜レース以来、剣客先生とは一度も話してないって」
「ええ、話していませんよ。お姿をお見かけすらしていません」
「本当に?」
「しつこいですね~。エル、額を出しなさい」
「だからアタシのデコで主張するのヤメろデェェス!? いや、マジでやめ……やああめぇぇ…アアアアアアア!!??」
額に黒々と“会ってません”と書かれ、涙目で走り去っていったルームメイトを尻目に、グラスワンダーは再び無人のレース場に向き直った。コースのターフは青々と茂り、それを靡かせる風は、春から夏への季節の移り変わりを感じさせた。
――ならば春風に変えて詠んでも良かろう……若草のおとづれを聞き、待ちわびるのもまた一興というもの。
あの時の剣崎の言葉が思い起こされる。彼の言う春風がトレーナーたちのスカウトの事ならば、それを蹴ったのはグラスワンダー自身の意思である。グラスワンダーは、己の脳裏から剣崎の姿を追い払った。
……追い払わなければ、彼の態度に意味を見出し、そこに甘えてしまいそうだったから。
剣崎の本意がどうであれ、グラスワンダーの信念は変わらない。揺るがせない。今はただ、己を鍛え続けるのみである。
「……あと、一歩」
グラスワンダーは決意を新たにしてコースを走り始めた。
「勝利の最後の一歩を、もう二度と、譲らぬように……」
胸の奥に熾火のようにくすぶり続ける勝利への執念が絶えてしまわぬように、グラスワンダーは己のウマソウルを闘志で燃えたたせ、ターフを駆け抜けていった。
初夏が過ぎ、梅雨の季節となった。月の初旬は夏の始まりを感じさせる陽光を偶に遮る程度の通り雨ばかりだったのが、月の半ばを過ぎた頃になると、ずしりと重たい暗雲が頭上のすべてを覆いつくし、密度の濃い大粒の雨がぼたぼたと一日中降り続くようになった。
ある休日のことだった。グラスワンダーは、降り続く雨のため屋外でのトレーニングを諦め、薙刀の稽古道具一式を携え、学外にある武道場へと足を向けた。
レーサーを志してからというもの、薙刀を振るう機会は昔よりも減ったが、精神集中というメンタルトレーニングや、身体の使い方を違う視点から見つめ直すという点で有益なこともあり、偶にではあるがこうして自主稽古していた。
朝一番かつ雨ということもあったのか、武道場の玄関には男物の靴が一足だけしか置かれていなかった。しかし、すぐ目の前にある道場へ続く戸の向こう側からは物音一つ聴こえず、ただ雨が屋根を打つ音のみが響き渡るのみであった。
だが、それでも――
(――っ!?)
道場に入ろうとその戸に手をかけた時、その向こうから鋭い気迫が発せられ、まるで刃物のように空気を切り裂き、目の前の戸を震わせた。それは剣気とも呼ぶべき気配であり、それがグラスワンダーの体内をさっと駆け抜け、彼女は思わず身震いした。
(これほどとは――っ)
グラスワンダーのその震えは、心と身体が闘争に備えてスイッチが切り替わった証だった。すなわち武者震いである。グラスワンダーは胸の奥から湧き起こる興奮を懸命に堪えながら、音をたてぬように戸を開き、道場の様子を伺った。
そこに道着姿をした一人の男が居た。腰に一口の打刀を差し、こちらに背を向けて、折り目正しく正坐をしている。ただそれだけなのに、その男の周囲は空気が冷たくピンと張りつめているようだった。
道場内を押し込めるように響く雨音が、その重さを徐々に増していくなか、グラスワンダーの目は男の背中に吸い寄せられていった。
(――来る!)
グラスワンダーがそう感じ取った刹那、男が正坐の姿勢から高々と跳躍した。同時にその腰から刀が閃光となって頭上へと抜き放たれ、それはまるで雷鳴の如く、大上段から地上へ向かって打ち下ろされた。
着地で踏み鳴らされた床板が雷鳴にも似た音を立てて轟きわたる。その余韻がまだ道場内に残っているうちに、その刀身はするりと腰の鞘へと納められ、男は何事も無かったように再び正坐の姿勢へと戻っていた。
やがて数秒の間の後、その刀身は再度、閃光となって迸った。片膝を立て、見えない敵の剣を打ち払った後、間髪入れずに敵の胴を刺し貫く。だが、直後にはそれがまるで夢か幻であったかのように、男は不動の正坐に戻っていた。
続けざまに今度は、閃光が十文字に空間を切り裂いた。しばしの静と、一瞬の動。刹那に入れ替わるコントラストに、グラスワンダーは魅了された。
(剣崎トレーナー……)
間違いない。後姿だけであるが、その男は剣崎覚馬だと彼女は確信していた。グラスワンダーは音をたてぬように道場内へ忍び入り、自分でも気が付かぬうちに稽古用の薙刀を構えていた。
その薙刀の切っ先をゆっくりと剣崎の背中に向けていく。剣崎の背後を取っているにもかかわらず、その後姿には隙が見当たらなかった。
グラスワンダーは細く、長く、静かに息を吐いた。漏れ出す吐息とともに、体内に籠っていたものが外へ溶けだし、グラスワンダーの意識は武道場内の空気と一体になって剣崎へと触れた。
刹那、剣崎の身体が鋭く弧を描き、流星のような光の線がグラスワンダーの視界を横切った。
グラスワンダーがハッとして薙刀を正眼に構えたその切っ先に合わせるように、剣崎も正眼に構えて彼女と対峙していた。
しかしそれも一瞬のこと、剣崎は相手がグラスワンダーであったことを知り、すぐに切っ先を外した。
「誰かと思えば君か、グラスワンダー」
「…お久しぶりです、剣崎トレーナー。稽古の邪魔をして申し訳ありませんでした」
グラスワンダーも薙刀を下ろし、慌てて頭を下げて陳謝した。
「いやいや、邪魔などとんでもない。君の気配に気付かなかった俺が未熟だったのだ。……しかしまあ、背筋が凍るとはこのことだな。恐ろしい遣い手だな、君は」
「あらまあ、恐ろしいだなんて」
グラスは思わず表情を綻ばせた。最高の誉め言葉に心が躍った。剣崎も軽く笑うと、刀を鞘に納め、腰帯から引き抜いた。
「あら、稽古をもう終えられてしまうのですか?」
「君のお陰で心身ともに引き締まった。この感覚は大切にしたい。その代わり、君の稽古を見せてもらいたいのだが、いいかね?」
「あらまあ~、お恥ずかしい。…でも、断れませんね」
気恥ずかしさと嬉しさを胸に抱えながら、グラスワンダーは一度更衣室で袴姿に着替えた後、道場内へ戻ってきた。道場内の神棚と、そして片隅で見守る剣崎に一礼し、薙刀を構える。
グラスワンダーに薙刀を教えた師は、鹿取神統流の遣い手であり全国大会での優勝経験者でもあった。その師をして「もはや教えることは無い」と言わしめた腕前であったが、しばらく稽古から離れていたこと、そして先ほどの剣崎の剣を目にした今、その自信がやや揺らぎそうになっているのを彼女は感じていた。
それでも、深呼吸と共に薙刀を構えてしまえば、そんな不安はどこかへと消えて行った。むしろ彼の視線から受ける緊張感が却って心地よくすらある。
グラスは目前に想定の敵を思い浮かべ、相手の仕掛け太刀に対して応戦する形を次々と繰り出した。
鹿取神統流・五の形、六の形、神威の形、八の形、永月の形、沖波の形、陰の形、発の形……。演武を続ける内に冴えを増していくその太刀筋を、剣崎は目を細めて眺めていた。
グラスワンダーもまた、その視線を強く感じていた。それは不思議な感覚だった。薙刀であろうとレースであろうと、誰かに視られていても集中してしまえばそれは気にならなくなるものだが、今は剣崎に視られていることを強く意識している。
それでいて、それを不快を感じないのだ。むしろ視られていることで、頭の天辺から脚のつま先、腕先から薙刀の切っ先まで意識が、隅々まで行き届き、自分というものが拡張されて行くようにさえ感じていた。
視界が拡大し、その身体を離れて宙に浮き、全てを見渡している感覚。グラスワンダーは剣崎の目を通して、自分とその周りを視ていた。
(あぁ、そうか)
と、グラスワンダーは直感した。
(真のジンバ一体とは、このようなものであったか)
エルコンドルパサーがトレーナーの指示により背中にも目を付けたような走りをしていたが、ウマ娘とトレーナーの関係性が進めば、いずれは言葉さえも無く互いの目で物を視れるようになるのではないか。ウマ娘がトレーナーの目を通じてレース全体を見渡すとき、トレーナーもまたウマ娘の五感を通じてターフを駆けているに違いない。
グラスワンダーは今まで、レースとは孤独なものだと思っていた。如何にトレーナーとの信頼関係が篤かろうと、ゲートに入ってしまえば所詮は独り。ただ己の二本の脚のみでターフを駆けるしか無いのだと、そう思っていた。
だが、伝説に詠われる聖獣サラブレッドには、四本の脚と、二つの頭、四つの目、四つの耳があったとされる。そのソウルを宿すウマ娘には持ち得ぬものだが、それを補うのがトレーナーという存在なのかもしれない。
グラスワンダーは想念の中で、いつしか己が雄々しき四つ足の獣となってターフを駆け抜けている幻を見た。その獣の背にはヒト耳がまたがり、互いにその五感を感じ合い、一体となって風を切っている。目前にゴール盤が迫りくる中、グラスワンダーは不意に己の背に跨る者の姿を見たくなった。
ゴールだけを目指していたはずの視線を背後に向けようとした、その次の瞬間、グラスワンダーは凄まじい剣気が自分に向かって放たれたことに気が付いた。
グラスワンダーの意識は瞬時に人間としてのウマ娘の姿に戻り、反射的に薙刀で敵の足元を薙ぎ払う。相手の片足を斬り落とした。そう思ったと同時に、迫っていた剣気が一筋の線となってグラスワンダーの首を切り裂いた――
――グラスワンダーがハッと気を取り戻したとき、彼女の前には誰も居なかった。ただ、雨の音が先ほどまでと変わらず耳に響くのみである。
グラスワンダーはゆっくりと息を吐きながら薙刀の構えを解き、道場の片隅で見守り続けていた剣崎の方へと向き直った。
「……今、私をお斬りになりましたね」
その問いに、剣崎は細めた目で軽い笑みを浮かべた。
「片足一本、犠牲にしたがな」
その答えに、グラスワンダーは陶酔にも似た喜びを感じた。
その日の夕方、グラスワンダーが寮の自室に帰ってきたとき、ルームメイトのエルコンドルパサーは、グラスワンダーがやけに上機嫌な事に気が付いて首を傾げた。
「グラス、お帰りなさいデース。出かけた先で面白いことでもあったんデスか?」
「いいえ、いつもどおりでしたよ」
そう答えたグラスワンダーの表情は確かにいつもどおりの穏やかな笑みだ。世に派手な楽しみなど無いが、つまらぬことも無い。変わり映えのしない景色や日常に風情を見出し、心の平穏と調和を感じることこそ至高の喜びであり“もののあはれ”の真髄だのなんだのと言いたげな、エルコンドルパサーには到底理解できないし、する気も起きない心境の面構えだが、しかしその尻尾はサンバでも踊っているが如くブンブンと陽気に振り回されていた。
ポーカーフェイスは出来てもポーカーテールは出来ないのがウマ娘の性だ。グラスワンダーの表情と尻尾のギャップが面白くて、エルコンドルパサーはカマをかけてみることにした。
「もしかして、剣客先生に会いでもしたんデスカー?」
「………」
グラスワンダーの表情は変わらぬまま、耳と尻尾がぴくんと震えながら真上を向いた。どうやら図星だったようだ。同時にこの度を越えてストイックな友人が、一人の男に対してここまで初心な反応を見せたのも意外で、そして可笑しかった。
あんまりにも可笑しかったので、爆笑した。
「なーはっはっは! グラスもそんなにテンションが上がることがあるんですねー! まるで恋する女の子みたいデース!」
「……エル」
「どれだけ顔を取り繕ったって耳と尻尾は正直デース! 上機嫌に尻尾をブンブン振り回しちゃって、いったいあのトレーナーと何があったんですか!」
「エル」
「ほれほれ、仏頂面なんかやめて大人しくさっさと白状しやがれデース! え、どこまで行ったデース? え?」
「エル、腹を切りなさい」
「ケェ!?」
抜き放たれた薙刀を突き付けられ、エルコンドルパサーは悲鳴を上げた。
「親友と思えばこそ、首を落とす前に自ら腹かっさばく情けをかけてあげます」
「親友どころか人にかける情けじゃねえデスよソレ!?」
「切腹は武士の誉れ」
「そんな物騒な誉れは浜にでも捨てやがれデース! そもそもエルは武士じゃありまセン!」
「我、未だ木鶏たり得ず。大和撫子たるもの、常に奥ゆかしく、表情は柔らかに、態度は穏やかに、いかなる時も動じず、粛々と……そう心に決めているというのに……っ」
グラスワンダーは薙刀を下ろし、その場にがくりと膝を着いた。
「……よりにもよってエル程度に本心を見破られてしまうなんて、何と不甲斐ない……!」
「おいコラちょっと待てデース。めちゃくちゃ失礼なこと言ってやがりませんデスかオイ?」
「このような辱めを受けては武士の面目が立ちません。かくなるうえは、エル、御覚悟を」
「それはこっちの台詞デース! お腹切れだの好き放題言われて黙ってられまセン! その勝負受けてやりますデスよ! ほら来いデース! 薙刀でも何でも持ってかかってきやがれデース!!」
「喚く怪鳥相手に表道具は用いませぬ。いざ」
両者正面から両手を組み合い手四つの力比べ、互いに力が拮抗し、緊迫の押し合いが続く。そこからエルコンドルパサーが素早く体を回してグラスワンダーをベッドに向けて投げ飛ばした。
ベッドに倒れたグラスワンダーに向かってエルコンドルパサーが追い打ちのフライングボディプレス。しかしグラスワンダー、これを横に転がることでかわしてみせた。
そのまますかさず立ち上がり、うつぶせに倒れたエルコンドルパサーの右腕を取り、仰向けに返してそのまま腕十字ひしぎを極めた。これは極まったか、エルコンドルパサー、もがく、もがく、しかしグラスワンダーはがっちり固めて離さない。
このまま試合終了か。おおっとここで場外からスペシャルウィークが乱入だぁー!
「グラスちゃん、エルちゃん、周りの部屋から五月蝿いって苦情が来てるよ。何やってるの?」
「あらまあ~、私としたことが……ごめんなさい、エル、スぺちゃん。私、今から周りの部屋の方々に謝罪に行ってきますね」
グラスワンダーがそそくさと部屋を出て行くのを見送ったスペシャルウィークは、ベッドでのびているエルコンドルパサーに目を向けた。
「エルちゃん、一体何があったの?」
「どうもこうもないデース」
エルコンドルパサーは肩を回しながら起き上がり、答えた。
「グラスからちょっと恋バナを聞かせてもらっただけデース」
「恋バナ? え、グラスちゃんの!?」
「ま、肉体言語でしたけどネー」
「は?」
訳が分からず目が点になったスペシャルウィークを余所に、エルコンドルパサーは愉快そうに怪鳥音をあげて笑ったのだった。