この道の果てを極めんと目指したのは、いったいいつの頃からだろうか……
幼少期のグラスワンダーは、それはそれは手の付けられぬジャジャウマ娘だった。物心ついた時から――それは文字通り己の身体に宿るソウルを自覚したその時から――彼女は本能のままに駆け回ることを好んだ。
ただ走るだけなら、それは他の幼児たちと変わらないのだが、しかしグラスワンダーはそれ以上に、誰かと競うことを好んだ。
幼稚園で同年代のウマ娘たちが集まれば、やることなど駆けっこ以外にない。グラスワンダーはそれで一着を獲れば飛び上がるほど喜んだし、一着以外になろうものなら火が付いたように泣き叫んで悔しがった。そして次に一着が獲れるまで何度も何度も走り続けた。
負けん気と勝負根性の塊りがヒトの形をとってそこにウマソウルが入った娘。当時の幼稚園の先生たちはグラスワンダーをそう評した。
負けん気だけしか持ち合わせていないなら、駆けっこで一着を獲れた時点で満足しきって増長しそうなものだが、併せ持っていた勝負根性が、彼女の目を別分野にも向けさせた。
グラスワンダーが生まれ育ったアメリカ合衆国は人種のるつぼだ。世界中からさまざまな人種のヒトが、多種多様な文化とソウルを身に宿して集まった社会である。ウマ娘の中で一番脚が速いと言ったところで、そんなものはこの国では数多ある個性の一つに過ぎなかった。
そして、グラスワンダーは自分が駆けっこでしか一着になれないことが悔しかった。隣のクラスで逆立ちが上手な子がいると聞けば、その子より長く逆立ちできるように練習し、木登りが上手い子が居ると聞けば、その子よりも高く登ろうとして天辺近くの細い枝を踏み追って墜落して全身痣だらけになったり、野球で三振した日には気絶するまでバットを振り続けた。
その限界を知らない勝利への執念と努力に、生まれ持った運動神経の良さが合わさり、グラスワンダーはさまざまな分野で一番の成績を納め、周囲からの称賛を浴びた。
しかしその分野が“ルールに従っている”分野に限っている間はまだ良かったが、その枠を超えてしまうようになると話は別だった。“ルール無用”の分野。つまりケンカである。手段を選ばず勝った者だけが正義の世界。単純に強い者が勝つ。分別がつかぬ幼児同士の競い合いは、容易くケンカへと発展した。
グラスワンダーの両親は、幼い娘がケンカをしたと聞いても、初めのうちは所詮幼児のケンカと軽視していた。しかし幼稚園の先生から、グラスワンダーがケンカ相手を大泣きさせた挙句その目の前で高らかに嘲笑していたと聞かされて青ざめた。
幸いケンカ相手の子に怪我はなく、相手の親から訴えられることも無かったが、グラスワンダーの気性をこのまま放置しておけば、近いうちに取り返しのつかないことをしでかすのは火を見るより明らかだった。
何とかしてこの子に“他人に勝つ”以外の価値観を教えなければならない。両親はそう決意した。
アメリカでそういった道徳面の情操教育を学ぶ場といえば教会が一般的だが、古くから“幼いウマ娘の耳に説法”と言われているように、当時のグラスワンダーには何の意味も無かった。しかし、そもそも両親からして教会に苦手意識を持っていたのだから、それを我が子に期待するのもどだい無理な話であった。
若いころからサブカルチャーにどっぷりハマり、漫画とアニメに夢中なナードでウィアブーなヒト耳の若者が、コスプレイヤーのウマ娘とアニメフェスで出会ったのが両親の馴れ初めである。サブカルを低俗とみなして批判しがちな教会とは距離を置きたがるのも当然だった。
そんな両親が目を付けたのは、近所にあったジャパニーズカルチャースクールだった。日本人の肯定的なステレオタイプである献身と忍耐を我が娘にも身に着けて欲しいという両親の願いとウィアブー趣味の両立を目論み、連れて行ったその先で、グラスワンダーは薙刀に強い興味を示した。
何しろ長い棒でもって相手を思いっきり叩きのめしても怒られないのだ。天下御免でケンカが出来るとあって、グラスワンダーはスクールが開いている薙刀道場に喜び勇んで入会した。
グラスワンダーは一通り基礎を学ぶと、さっそく同年代のソウルを宿していないヒト耳の女の子に勝負を挑み、そして、けちょんけちょんに叩きのめされた。
手も足も出なかった。
駆けっこもバットを振るのも取っ組み合いも、幼稚園では負けなしだったのに、こちらの棒はかすりもせず、相手の棒ばかりこちらにポコポコと当たるのだ。防具を付けているし、なんなら相手の子も軽く打ってくるのでちっとも痛くは無いが、それが却ってバカにされているようにも思えて、グラスワンダーは火が付いたように泣き喚きながら悔しがった。
それ以来、グラスワンダーは毎日のように道場へ稽古に通い、何度も何度もそのヒト耳少女に勝負を挑んだ。
しかし何度やっても勝てない。最初のうちはヒト耳少女の方が稽古歴が長い“センパイ”なのだから、経験の差で負けたのだと思っていた。だから、センパイよりもたくさん練習すれば勝てると思っていたが、それでも勝てなかった。
それもそのはず、グラスワンダーが上達するのと同じペースでセンパイも上達していたのだから。その差は全然埋まりそうになかった。
だから、グラスワンダーはセンパイに勝つためにもっともっと練習した。そしてある日ようやく、やっとやっとギリギリの差で、グラスワンダーはセンパイから初めて一本を取ることができた。
その時グラスワンダーは嬉しさのあまり飛び上がって喜んだが、負けたセンパイは悔しがりもせずに涼しい顔のまま一礼して試合を終えた。
センパイのこの態度にグラスワンダーは白けた。センパイが勝ったときも澄まし顔を崩さず、嬉しそうな表情なんて見せたことは無かったけれど、それはグラスワンダー程度の相手ならば勝って当然という傲慢な態度の表れだと思っていた。
だからグラスワンダーに負けたとあればさぞかし盛大に悔しがるだろうと、ちょっと期待していたのに、センパイの態度はいつもとちっとも変わりはしなかった。
それどころか、センパイは試合後に、
「グラスちゃん、強くなったね。おめでとう」
とニッコリ笑って褒めてくれまでした。それでグラスワンダーは白けるどころか、むしろ逆に負けた気さえしてきて悔しくなった。
これじゃ、飛び上がって喜んだ自分がバカみたいじゃないか。納得いかない。自分は偶然センパイに勝てたのではなく、実力で上回ったから勝ったのだと、このセンパイに思い知らせなくてはならない。
だからグラスワンダーはさらに薙刀の稽古に打ち込んだ。それだけではなく、負けて悔しがることも、勝って喜ぶこともやめた。内心ではめちゃくちゃ悔しがったり喜んだりしているのだが、表情や態度に出すのはやめた。
負けたのは自分が弱いからではなく、相手の調子がたまたま良かっただけだから相手の調子を褒めてやり、勝ったときはそれが当然なのだから喜ぶまでも無いので、澄まし顔を保った。それはとても難しいことだったが、センパイはきっとこんな気持ちでいるのだろうと思っていたので、そのセンパイに追いつくためにグラスワンダーは我慢してその真似を続けた。
それでもやっぱり、センパイとの差はなかなか縮まらなかった。なのでグラスワンダーはセンパイの他の面も真似ることにした。
センパイは薙刀の他にも、茶道、華道、書道、俳句の教室にも通っていた。こんなにも掛け持ちしているセンパイに、薙刀一つに打ち込んでいる自分がどうして勝てないのか。もしかしてサドーだのカドーだのいう他の習い事にその秘密があるのかもしれない。そんなことを考えて、グラスワンダーもセンパイと同じ教室に通うことにした。
そして分かったことは、これらは全て苦行であるという事だった。
どれもこれも正坐という非人間的でまるで拷問のような姿勢を維持したまま、バカ丁寧なお辞儀を何度も繰り返すだけの謎のセレモニーであり、違いと言えば、茶碗を回して苦い茶を飲むか、花をハサミで切り刻むか、紙に墨で落書きするか、変なリズムの詩を読み上げるでしかなかった。
このセレモニーの意味などグラスワンダーにはさっぱり理解できなかったが、しかしセンパイがこの苦行を軽々とこなしているのを目の当たりにして、そりゃ勝てない訳だと納得もできて、だったら自分もこの苦行をこなして強くなってみせる。と、グラスワンダーは決意した。
しかし苦行ばかりと思っていた習い事も、続けているうちに楽しいと思うことも増えてきた。
抹茶は苦いばかりで美味しいとは思えなかったが、宝石のような美しさの甘い和菓子は大好きだった。華道の先生が道端の野花や枯れ枝をガラクタのような壺に無造作に挿しただけで、それが美しきオブジェに変化してしまうのはまるで魔法を見ているかのようだった。書道の先生に自分の名前を書いてもらったときは、その激流のような力強い書体で記された自分の名を見て、グラスワンダーは無性に誇らしくなったものだ。
そして俳句は、センパイ自らが、日本の和歌を英訳してグラスワンダーに意味を教えてくれた。
「“黒髪の 乱れもしらずうちふせば まづかきやりし人ぞ恋しき”…あのね、これはラブストーリーの歌なんだよ。ねね、グラスちゃん、分かる? 夜、寝る前にさ、頭をなでなでしてくれたカッコいい大好きなお兄さんを思い出して、きゅーんってしちゃってる気持ちを詠ってる歌なんだよ!!」
……和歌の解説をしているときのセンパイは、人が変わったように早口だった。
センパイもグラスワンダーも成長し、年ごろになった少女二人で、恋歌に込められた物語をキャッキャウフフと妄想しながら楽しんだ。
そうこうしているうちにグラスワンダーは正坐にも慣れ、飽きるほど繰り返してきたセレモニーの手順はすっかり身体に染み込み、考えなくても身体が勝手に動くようになった。
そうなってようやく、茶の味や、茶室の拵え、床の間にさりげなく飾られた生け花や掛け軸の見事さ、そしてそれらが俳句の世界を表現していることに気が付くようになった。
(なるほど、これがワビサビというものか)
とグラスワンダーは日本文化の一端を理解した一方、もう一つ気が付いたことがあった。
(もしかしてコレ、薙刀の強さと関係なく無い? センパイがこれ習っているのって、単に楽しいからだよね?)
センパイに直接訊くと、
「うん、そうだよ」
と実にあっさりとした答えが返ってきてグラスワンダーは愕然とした。
「だったらセンパイは、どうして強いんですか!?」
「さあ?」
悔しさに涙をにじませるグラスワンダーに、センパイは優しく微笑んで言った。
「でも、グラスちゃんもすごく強くなったよ」
まあセンパイがそう言うならそうなんだろう。なにしろ薙刀の本場である日本が主催する世界大会に出場し優勝までした猛者の言葉なんだから。ちなみにグラスワンダーは3位だった。準決勝でセンパイと戦って負けたのだ。
「グラスちゃんも習い事は楽しんでいるでしょ?」
「それは、まあ」
「だったら良いじゃない。好きこそものの上手なれって言うでしょ」
良くない、良くないのだ。このままじゃこの人に勝てない。とグラスワンダーは思い知った。
薙刀の実力もそうだが、困ったことにセンパイは勝ち負けそのものに興味が無いのだ。そのくせ強いのだ。練習では割と五分五分の戦績だが、重要な大会などのここ一番という時になると絶対に負けないのだ。
彼女は芯が強いのだ。と師範たちはセンパイをそう評した。日本人的な抽象的な評価はグラスワンダーには理解しきれなかった。体幹なら自分だって負けないくらい鍛えているが、そういうことでは無いらしい。
わからない。わからないから、わかるまでセンパイの真似をし続けた。
いつも穏やかな表情を崩さず、勝っても負けても相手の健闘を称えて、茶道も華道も書道もセンパイの所作振る舞いやセンスを真似た。俳句は二人そろって和歌の恋歌ばかりにうつつを抜かしていた。
センパイとの日々はなんだかんだ言って楽しかったが、彼女に勝ちたいという気持ちだけは消えなかった。
そのセンパイが日本へ帰ることになった。それは何とも唐突な話でグラスワンダーは呆気にとられた。
「帰るって、どこへですか? センパイはずっとアメリカ育ちじゃないですか」
「生まれは一応日本なのよ。物心つかないうちに両親の都合でアメリカに移住したから全然覚えてないけど」
センパイは相変わらず何を考えているかよくわからないポヤポヤとした笑みのまま言った。
「日本に帰るのも両親の都合なのよ」
「そんなまた急に……」
「こういうの“寝耳に水”って言うんだっけ。あ、ちなみに出発は半年後ね」
意外と急でも無かった。どうやらセンパイは日本行きが決まってからすぐにグラスワンダーに教えてくれたようだった。センパイにとって自分はそれくらい親しい位置にいることを知れて嬉しい反面、しかし彼女が一向に迷う素振りを見せないことが面白くなかった。
「アメリカに残るつもりは無いのですね」
「日本で暮らすことは昔からの憧れだから」
「……そうでしたね」
日本への憧れはグラスワンダーも同じだった。伝統文化の都である京都や奈良の光景をいったい何度、夢に見ただろうか。
「渋谷、新宿、そして秋葉原! うふふ~、楽しみ~」
センパイは割とミーハーだった。
「悔しいです」
とグラスワンダーは言った。
「センパイに勝ち逃げされるのは納得いきません。日本に行かないでください」
「悔しい、じゃなくて、寂しいから行かないで、って泣いて頼むなら考えてあげる」
「そんなこと死んでもやりません。それはセンパイが一番ご存じのはず」
「あらあら、そうだったわね」
センパイは笑いながら、その目にちょっぴり寂しそうな色を浮かべた。
泣きたいのはこちらだ、とグラスワンダーも目に涙が溢れそうになるのを必死に堪えた。しかし耳がしゅんと垂れてしまうのは意思の力ではどうにもならなかった。
「私はセンパイに勝ちたい」
「あなたはもう何度も勝っているわ」
「試合の成績じゃありません。薙刀も茶道も華道も書道も、あなたはいつも私の一歩先にいる。いつもいつも私はあなたの背中を追いかけてきた。追いかけて…きたのに……」
嗚咽が漏れそうになり、それを堪えて言葉が切れた。
そう、いつも追いかけるばかりだった。勝とうと思いながら、勝てないことに甘えていた。グラスワンダーは今さらながら自分の真意に気が付いた。
「私は…あなたが前に居ないと、一歩だって前に進めやしない」
それは敗北宣言にも等しい言葉だった。負けを認めることとは違う、勝ちを諦める真の敗北だった。いつまでもセンパイに前を歩いて欲しい。寂しい、行かないで欲しい。泣いてそう言えば考えてくれるというなら、喜んでそうしよう。
グラスワンダーは唇をわななかせながら、その言葉を絞り出そうとした。
「センパイ、私――」
「グラス、いけません」
センパイが毅然とした声と表情で、グラスワンダーの言葉を遮った。
「それ以上、言ってはいけない……ジョークを真に受けちゃダメよ~」
センパイはすぐにいつもの朗らかな笑顔に戻ったが、敗北宣言を許さない意志は本物だということは、グラスワンダーにも伝わった。
「そんなのズルいです、センパイ……」
「私たちは長い間、同じ道を歩んできた。でもね、諸行無常、変わらずに続くものなど何も無いのよ」
「変えない努力はできます」
「そうね、あなたは変わらずにいて欲しい」
本当にズルい言葉だ。グラスワンダーはセンパイの温かい笑みと寂しげな瞳を見つめながら、涙を必死に堪えた。
「グラス、私は私の道を行く。あなたはあなたの道を行きなさい」
「私の、道……?」
「あなたが私と同じ道で勝てないと、そう思うなら、別の道を行けばいい。それは逃げじゃないわ。……そうね、駆けっこでもしましょうか」
「は? 駆けっこ?」
また変なことを言い出した。その意外性に、零れそうになっていた涙が思わず引っ込んだ。
「そうよ、駆けっこ。今から公園に行って、二人で競争しましょう」
「競争になりませんよ。私はウマ娘ですよ」
「ふふ、そうね。駆けっこであなたに勝てたことは無いわね」
「勝負にならない、って言っているんですよ。不公平過ぎて勝った気にもならないって言っているんです!」
「そうね、悔しいけれどあなたの言うとおりよ」
「悔しい…? あなたが?」
「そう、悔しいけれど、こればかりは同じ道を歩めない、ウマ娘であるあなたにしか走れない道よ」
「そんな違いに何の意味があるのですか」
「道は、道よ。武の道、茶の道、華の道、歌の道……極めようとする行為すべてに道はあり、その全ての目指す先はきっと同じものよ」
センパイの顔から微笑みが消え、その目が覚悟を迫るようにグラスワンダーを見つめた。
「どんな道でもいい。それを極めた先で、私たちの道は再び交わるわ」
トレセン学園の夏が終わりを迎え、秋の訪れが忍び寄ってきた頃、今年二度目の選抜レースが始まった。
春の選抜までに身体の成長や調整が間に合わなかった者、トレセン学園に途中入学や編入した者、トレーナーやチームとの契約を解消した者、春の選抜でスカウトされなかったリベンジを誓う者……
そんな様々な事情と思惑を秘めたウマ娘たちが集う中、ただ一人、異端な理由で参戦した者が居た。
グラスワンダー。その名を出走名簿に見つけたトレーナーたちは、驚きと呆れの表情を同時に浮かべた。
――おいおい、グラスワンダーといや、春の選抜でスカウト全部断った奴じゃねえか。てっきりデビューを諦めたもんだと思っていたのに、何を考えてんだ?
――大方未練がましくなって再挑戦ってところじゃないか。まあ素質は光るものはあるが、しかし先にスカウトされた同期連中と比べると数か月の遅れはけっこうデカいぜ。来年のデビューに間に合っても苦戦は必至だ。
――おまけに自主トレのやり過ぎで個癖が強くなっている恐れもある。春の時点で大人しくスカウトされてりゃ良かったものを、もったいねえなぁ。
――あの、割り込んですいません。グラスワンダーと言えば、あの“剣客”さんが唯一声をかけたウマ娘ではありませんでしたっけ?
――お、いつもの割り込み坊主か。そういや剣客なんて奴も居たな。すっかり忘れてた。
――剣客の野郎、学園を辞めたんじゃなかったのか?
――まだ在籍しているみたいですよ。誰とも契約していないですし、チームのサブトレどころか学園の講師さえしていないですけど。
――無役無給、名前だけの幽霊トレーナーか。そういやこの選抜レースを見に来さえしてねえな。やる気無えのかよ。
――態度が定まらないウマ娘に、やる気の無いトレーナーか。まったく中央を無礼るなってんだ。
観客席でトレーナーたちがそんな会話を交わしているのを余所に、グラスワンダーはパドックを終え、ゲートに向かっていた。
レースは既に最終組。今朝まで大雨が降っていたこともあり、バ場状態は重という、奇しくも春に似た、いやむしろ悪い条件での出走だった。そして、パドックでのグラスワンダーに対する評価は一番低い4番人気であった。
しかし、グラスワンダーはそんなことを気にも留めず、ターフを渡る風に耳を傾けていた。
(夕されば、門田の稲葉おとづれて、蘆のまろやに秋風ぞ吹く……)
春のあの日、剣崎と初めて会ったときに何気なく会話に上った和歌を口ずさむ。春風に靡いてしまえば楽だったものを、自らの意地でスカウトを断り、再びこのレースに出走している己の愚かさに思わず笑いが込み上げてくる。
それもこれも、全ては勝つためだ。もう誰かの背中を追うのはやめた。自分にしか走れぬ道を極めるまで、足を止めずに走り続ける覚悟を決めて学園の門を潜ったのだ。
故に、いついかなるときも勝利を譲ってはならなかった。バ場が荒れ脚をもつれさせた他のウマ娘との事故を避けたなどと言い訳にならない。事故を避けるための技術などレースに出る者たちの最低条件だ。その上で勝てもしないで、何が頂点か。その程度の実力でスカウトを受け入れてデビューするなど、グラスワンダーにとっては妥協でしかなかった。
妥協した瞬間に頂点への道は消え去るもの。それがグラスワンダーにとっての譲れぬ一線だった。
しかし、こんな自分を今さらスカウトするトレーナーなど居るのだろうか。例え一着を獲ったとしても、こんな自分はさぞかし扱いにくかろう。春に声をかけてくれたトレーナーたちはとっくに愛想を尽かしているに違いない。バカの極みである。何でも極めようとするこの勝負根性は、バカ方面にも発揮されてしまったようだ。
(それも私だけの道と思えば、また一興)
ゲートに入り、口の端に笑みを浮かべながらグラスワンダーは剣崎のことを想った。彼が観客席に居ないことは知っている。グラスワンダーはそれを残念に思うどころか、むしろ安堵していた。
剣崎が自分を待ってくれているという予感は、この数か月で確信に変わっていた。
しかしそれに縋ってはいけなかった。それは妥協だ。甘えだ。剣崎の思惑がどうあれ、自分の中でケジメを付けぬ限り、スタート地点に立つ資格は無い。
『各ウマ娘、ゲートに入って態勢整いました』
実況が、レース開始が間近に迫ることを伝える。東風が止んだ。ここから先はグラスワンダー自身が風となる番だ。
『スタート!』
ゲートが開き、ターフの上を一陣の秋風が颯爽と駆け抜けた。
…………
………
……
…
結果は、堂々の一着。
荒れたバ場をものともしない力強さ、最終コーナーから一挙に差し切る末脚のキレ、それを可能とする豊富なスタミナ、そしてゴールまで途切れぬ集中力と冷静なレース運び。どれをとっても圧倒的なその実力を目の当たりにしたトレーナーたちは、一斉に色めき立った。
――す、凄い! 春の時点でも十分すぎる実力だったのに、更にキレを増している。トレーナーも無しで自主トレだけでここまで仕上げてくるなんて、なんて子だ……っ!?
――春のデビューに間に合わないなんて冗談じゃない。今すぐにだってレースに出れるぞ!
――あの子をスカウトしねえ奴はトレーナーじゃねえぜ! スカウト断られたって、首に縄付けてでもデビューさせてやるぞ!
興奮したトレーナーたちは観客席をたち、一斉に選手用通路へ向けて走り出した。しかし、そこには既に先客がいた。
剣崎覚馬が、戻ってこようとするグラスワンダーを待ち構えるように、そこに佇んでいた。
「け、剣崎…っ!? お前まさか、ずっとここに居たのか!?」
気色ばんだトレーナーの問いに対し、剣崎は振り向きもせずに答えた。
「何か、問題でも?」
「レースの内容も観ずにグラスワンダーをスカウトしようなんざ、虫が良すぎるんじゃねえのか」
「スカウトとレースは関係なかろう」
そう、選抜レースはあくまで機会を設ける場であり、スカウト自体はレースや時期に関係なく可能だ。
剣崎はレース場からこちらへ歩いてくるグラスワンダーの姿に目を向けたまま、言った。
「グラスワンダーの実力は春のレースで既に見せてもらった。後は彼女自身の気持ちの問題だ」
「お前まさか、グラスワンダーがもう一度選抜レースに出ると確信して、ずっと待っていたっていうのか……っ!?」
剣崎はそれには答えず、戻ってきたグラスワンダーの前へと進み出た。他のトレーナー達の中で、それに割り込もうとする者はいなかった。
グラスワンダーもまた、剣崎の前で立ち止まり、何かを待つかのように彼を真っ直ぐに見つめた。剣崎はそんな彼女の姿に、目を細めて笑った。
「ケジメはついたようだな」
「はい」
グラスワンダーもまた、その顔に笑みを浮かべた。
「長い間、お待たせして申し訳ありませんでした。――と、謝罪すべきでしょうか」
グラスの言葉に、剣崎は破顔した。
「まったくだ! 待ちかねたぞ、グラスワンダー!!」
突然の大声に、周りのトレーナーたちは肩を震わせたが、間近に居たグラスワンダーだけは身動ぎもせずに、その顔に笑みを浮かべ続けていた。しかしその笑みは、穏やかとは言い難い、まるで獰猛な獣が目を光らせたような笑みだった。
グラスワンダーはその目の光を隠すように腰を曲げ、深々と頭を下げた。
「改めまして、グラスワンダーと申します。ご指導ご鞭撻、よろしくお願いいたします。……この道の果て、頂点に至るまで、どうかお付き合い下さいませ」
不撓不屈のウマ娘と、剣客と呼ばれ畏れられたトレーナー。後に、黄金世代最強として名高い二人が、手を組んだ瞬間であった。
一旦ここまでで区切りとします。
余裕あったら続き書きます。