ぼたぼたと口から零れる血を、呆然と千桜四石は眺めていた。
襲い来る苦痛、鉄の味、息苦しさ。
「読めなかった? 私が?」
千桜四石の顔が歓喜に歪む。感情を表す事を忘れた顔は、真っ当な笑顔としてそれを出力してはくれない。平時であればそれらを修正する頭脳は、歓喜の前に停止していた。
だが、それも長くは続かない。うふふと笑いながらも彼女は引き攣った笑みを浮かべたまま、思考に入る。
即ち、今まさに自分を襲った現象に付いて。
彼女の頭脳は鋭敏で、明瞭で、賢く、そして異常だった。
千桜四石が生まれて最初に知った事は、己の死である。
彼女の頭脳は恐ろしい速度で情報を整理する。常人であれば無意識の内に排除するような情報も、彼女にとっては目の前に在る明らかな事だ。故に、彼女が思考を開始する材料は通常より遥かに多い。
例えば体感の気温、例えば音の跳ね返り、例えば目が感じた光、例えば匂い、例えば肌触り、例えば視差、例えば振動……本来であれば一つ一つを意識して行わなければ測定する事も難しい情報を、彼女の頭脳は当たり前のように理解する。
そして、整理された情報を、彼女の頭脳は埒外の記憶力で以て判断するのだ。
千桜四石に忘却は無い。常人であれば現在と過去の区別が付かない程鮮明極まる記憶は、理解した無数の情報を正確無比に比較する。
加えて彼女の思考速度は異常に速い。比較相手が存在しない領域の高速思考は複雑多岐に亘りながらこの世のあらゆる出来事を総当たりで解決してしまえる。
それらを組み合わせた結果、彼女は生まれながらに全知であった。
同時に、彼女は退屈であった。
絶対的な頭脳は常に未来を、過去を、可能性を延々と出力し、千桜四石に体験よりも実に迫った予測を突き付ける。彼女に取って世界とは、何兆、何京と経験した出来事の繰り返しなのだ。
危険は無い。
危険の内容も、回避方法も、脳が出力する。
困難は無い。
解決方法が有るならそれは見つかり、無いなら経験しない方法が理解できる。
結果、彼女は退屈であった。
そんな彼女が血を流し、笑う。
それ即ち未知、千桜四石が追い求め続ける物。
では、何故知りえなかったのか?
「知る事自体が危険。だから、知らなかった」
時に知識は毒となる。地の底に眠る大呪の獣、夜空に瞬く暗黒星、三千屋敷の隣に居座る破壊の権化、万の年月を生きる探求者、三角水域に潜む蒙昧の蛇。
知るだけで己を壊しうる情報の毒、それ故に彼女は知らない。危険と言う事を知る故に、知らないと言う選択肢が取れた。
今回もそれらと同様、知れば体を蝕むナニカが潜んでいる。それを知り、彼女は──
「解き明かすのには少々手間がかかりそうです」
怯まない。流れる血を拭いもせず目の前の未知に笑う。千桜四石は本質的に探究者だ、ただ、彼女に追い求める答えは
だから彼女は挑む。未知へ。知識へ。己を覆う暗黒へ。
「一足飛びに本質へ踏み込むと反動が有る。外周から削るのが最適」
そう呟いて、彼女は思考の方向性を切り替えた。
球体の中心へ進むのではなく、リンゴの皮を剥くように外側から着実に知って行く。
ゆらり、と千桜四石の眼前に女が現れた。
「来ましたか。未知」
黒髪を振り乱した死装束の女は顔を朽ちかけた無数の札に覆われている。五寸釘が多数刺さった腕は病的に細白く、足は途中で靄のように消えていた。
「亞」
ゆらり、と女が予備動作無く千桜の間近へと移動する。伸ばされた手は彼女を捉えようとし……すり抜けた。
「消失から出現のタイムラグ無し、動作は小刻みなテレポートを繰り返してそう見えているだけ……そして、実体は無し」
千桜四石が呟く。思考を言葉にし続ける事で
「顔、体形共にに既存人類の該当無し、変化させている場合は不明……攻撃の条件は?」
そこまで呟いて千桜が唐突に女へと身を投げ出した。無造作に伸ばされていた腕が彼女の体に触れ……
「……姦の呪いに酷似、だが威力で大幅に劣る」
名前の仕掛けで軽減しているにも関わらず、相当なダメージが体に刻まれる。
だが千桜はどす黒く染まった脇腹を一瞬視界に入れただけで、直ぐに思考を移し変えていた。
「本質的に害、接触、理解双方で悪影響有、呪いの塊に近い?」
普段であれば決して出る事の無い疑問符を口にしながら千桜は思考を
「積極的な攻撃性は……無し」
ゆらゆらと揺れる女は、自分の腕が千桜にめり込んでいるにも関わらず動こうとしない。
その事を確認して彼女は飛び退さる。体をどんな感覚で、いつ、どう動かせば良いのかを完全に理解した動きは、一般的な女性程度の身体能力しか持たない千桜を四メートル以上も動かした。
「しかし離れれば追ってくる……追跡性の確認が必須」
言うなり千桜四石は走り出す。全知から出力された動きは時速四十キロを十分以上維持してのける。
だが、今回それは役立たない。
「近づいてくると言うより、視界から外した瞬間至近距離に移動している。見られていると理解している……いや」
そう言って千桜は女を視界から外した。
その途端存在感……気配としか言いようの無い物が爆発的に膨れ上がる。
普通の人間であればそれが居る事を知っている為意識してしまう、と考えただろうが、生憎千桜四石は普通の人間で無い。
「相手の存在感が五倍に増幅。但し観測可能な情報に変化無し。こちらの感覚に直接伝わって来ている」
直観さえ理知的に判断しうる頭脳は、今発生している現象を正確に理解した。
即ち、女その物は本体では無い事を。
「感覚への直接的な介入……視覚、聴覚、触覚なども可能と判断。であれば、全て幻覚と同じ」
女は実態を持ってその場に居るのでは無い。自身の脳に、その情報だけを送り付けているのだ。
「接触時の悪影響は情報の超過? その場合私にダメージが入る事は無い……ならば情報その物が悪性」
ゆら、と女が揺らめく。いや、揺らめいたように見える。
女の正体は何か。悪性情報の塊、思念の爆弾、それは呪いにも似て──酷く、悍ましい。
「何らかの呪い、或いは式神などの自立人形。……顔の札は制御装置?」
例えば、どこかに女の本体を用意して、指定した相手に幻覚を見せ、呪い殺す。その程度であれば霊的な分野では非才な千桜でも十分に可能だろう。優れた術者であれば半永久的な自立稼働も可能だ。
「女をベースとし、世界中に漂う悪意や呪いをエネルギー源として稼働する式神。運用は十分に可能、それも実用単位で。使われていたそれの暴走?」
呟く。呟いて、思考を制御する。そうしなければ暴走する頭脳が危険域へと踏み込むから。
女を目の前に、ごく僅かな情報から正体を探り当てる。一瞬間違えば即死の中、笑みさえ浮かべて千桜は動き続ける。
一歩、背後へ。直後、眼前を何かが押しつぶした。
「手形の衝撃。物理段階にまで至った呪いと推定」
半歩右に動き、飛来した斬閃を躱す。
「切断の概念。斬りつける、と言った攻撃意思」
突如として天井から垂れ下がった縄が、千桜の首に絡みつき──
「首吊り縄。死のイメージ」
懐から取り出したナイフでそれを切り払う。
一歩、一歩着実に相手を分析し、解体する。分析の度合いに応じて、予測の精度も、範囲も上昇していく。
千分の一単位で動き、相手の攻撃を回避。万分の一の領域で踏み込み、更に女を分析する。
「行動は概ねパターンに当てはめる事が可能。攻撃の条件は接近及び敵対行動。実質的に反撃を繰り出しているだけ。同時に、一度攻撃対象とした相手にはかなりの長期間追いすがる」
呟く。呟いて、見る。
女の様子に変化は無い。薄気味悪い笑みを浮かべ、接近と攻撃を繰り返すだけだ。
「攻撃が解除される条件は……試してみるしか無いですね」
いつものような一足飛ばしの思考は使えない。得られた情報を一歩ずつ踏みしめていくしかないのだ。
千桜は思い切り背後へ跳び、女から距離を取る。
そのまま全速力で走り更に離れれば、当然気配が追ってきた。しかしそれも無視して彼女は走る。
襖を開け、次の部屋へ。次の部屋へ。次へ。次へ。次へ。次へ次へ次へ次へ次へ次へ次へ次へ次へ次へ次次次次次次次次次次次次次次次次次次次次次次次次次次次……
二百程和室を通りすぎ、千桜が背後を振り返った。女は、変わらず存在する。
「左右の移動では難しい、と」
次に千桜が目線を向けたのは、下。
懐から取り出した手榴弾のピンを抜き、床をぶち抜く。
躊躇ない行動の末、彼女は空いた穴へと飛び込んだ。
「流石に独力では下に移動し続けるのは厳しいですね」
取り出した手榴弾十六全てを使い、十六度下へ降りる。
変わらず広がり続ける和室には目もくれず、千桜は上を見据えた。
変わらず、女は揺らめいていた。浮かべた笑みも、不気味な存在感も、そのままだ。
「そろそろ検証も厳しいですね。答えを出した方が良いのでしょうが……」
女に実体は無い。正確極まる幻覚と同じだ。ただ、視覚、聴覚、触覚等にそういった情報が送り込まれているだけなのだから。
現状、千桜がこの場で行える事はおおよそ全て行った。666や姦の手を借りればまだ可能だろうが、今の千桜は目の前の未知を渡すつもりに無い。
ぱち、と彼女は瞬きをした。
千桜四石は知っている。まだこの世界に自分の知らない物があると。千桜四石は知っている。それがごく僅かであると。
思考を女の内へと向ける。情報の奔流、呪いの渦、思念の嵐。その全てを埒外の頭脳でねじ伏せて。
重ねた仮説は彼女を守る盾と成り、目の前の未知を切り裂く剣となった。思考の正しさは証明され、みるみる内に女はその存在を剥ぎ取られて行く。
「構成する情報全てが悪性、故に設立の経緯を私ですら知らず、何であったのかも分からない。関連するものの片鱗ですら致死の呪いとなる災厄の呪詛。ヴェールの中身を見るのは私でも不可能です」
千桜四石が知らないのであれば、誰も知らない。故に、未知。故に、不明。故に、対処不能。
致死率の高すぎる病が広まらないように、この女に関わった全てが死ぬ為の正体不明。それは、ある意味で究極の未知だ。
「ですが、布に覆われていても輪郭は分かる。知るもの全てを殺すのなら、知らない事から推測すれば良い」
その程度でしたら呪いも耐えられる程度です、と千桜は呟いた。
常人なら既に動けなくなる程の呪いに彼女の体は覆われている。三名三体の仕掛けが無ければ、とうに崩れ落ちていただろう。
「それにまあ、業腹ですが最悪姦に任せる手もありますし」
呪い、呪詛を得手とする彼女なら、最悪自身のダメージも抑えてのけるだろう。不愉快だが、見えている死に飛び込むよりマシだ、と千桜は自らを納得させた。
「そしてやや雑になりますがあなたの正体とは、何処かの誰かが作った呪いの──」
言葉を区切る。
確証は無い。いつもの真実とは程遠い、圧倒的な不確か。単なる予感。
それに従い、千桜四石はその場を飛び退いた。
「襾」
黒く。
暗く。
闇く。
盲く霧く閉く影く無く未く暗く黒く闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇───
絶対的な未知があった。
「……これは」
全ての予測を飛び越えた、完全な闇。圧倒的な、究極的な、未知。
それを前に、千桜は笑う。笑い、そして佇んだ。
「ちょっとどうしようも無いですね」
穴が空いた。先は暗い。世界の孔だ。
未知がある。既知を呑み込み、叡知を砕き、知識を無に帰す未知が。
ブラックホールの様に何もかもを引きずり込み、それ以上に何も発さず、ただ虚無へ。
眼前にある至高の未知。それへ、千桜は、手を──
「……成る程」
呟き、一つ。
体は半ばまで虚無へ消え、思考すら闇が侵すなか、彼女は笑う。
「全ては、言い訳だ」
口にする。それにより、形にし、留める。
「お前は闇だ」
闇に言う。闇へ、答を問う。
「お前を見て何を思っても、何を考えても、全ては言い訳に過ぎない」
笑う。数少ない未知へ。
「どんな物も、あらゆる何かも、お前からは逃げられなかった」
笑う。今まさに変わる既知へ。
「お前は、闇だ。闇に見た、恐怖だ」
闇がゆらいだ。千桜の言葉にたじろぐように。
「お前は柳の下の闇だ。視線を背けた薄暗がりだ。電気を点ける直前の暗黒だ。布団の向こうの暗い部屋だ。
誰も、それを説明できない。
だから、言い訳をした。
柳の下が怖いのは幽霊がいるからだ、薄暗がりになにかが見えたのだ、電気を点ける前に何かがいたんだ、布団の向こうに気配を感じたのだ。
何もかも、全て言い訳だ」
闇が揺らぐ。
「そこには何もない。何もないのに怖いのは嫌だ。だから理由を作る。
……結局のところ、誤魔化しにしか成らないのに」
闇が彼女を呑み込まんと膨れ上がり、広がり、そして。
「即ち、お前は──あらゆる物が闇に見た恐怖、その物です。
……結局、そこには何もない」
闇が弾けた。
女がまた、姿を見せる。先程よりも遥かに不確かに、頼りない様子だった。
「まあ、こんな所ですか。随分楽しめましたね。……とは言え、今後の扱いはやや面倒ですが」
揺らぐ女へと千桜は近付いていく。体の三割が消滅し、残った箇所も傷ついている。だが、彼女の足取りは確かだ。
「お前は恐怖だ。それ以外の何でも無く、それ以外になり得ない。……恐、とでも呼びましょう。安直ですが、その方が良い」
ぐらり、と千桜の体が傾いていく。狭まる視界、痛む体。それでも、彼女は笑っていた──
「とまあ、こんな感じでしたね」
「ふーん、あの時そんなことになってたんだー」
自分から聞いたにも関わらず、全く興味の無い様子で666が言った。
普段と余り変わらない、移り気な様子の彼女だが……今回はそもそも興味を持っていない、との違いがあった。
「で、それ何か今回の依頼と関係あるの?」
口を尖らせて呟く。依頼の内容を聞いたにも関わらず、いきなり恐の過去を話された666はやや不機嫌だ。
「関係ありますよ。これから会う人が」
そもそも今回、千桜は依頼を受けていない。依頼を受けに行く、と言って666を連れ出し、貪底街を練り歩いているのだ。
「結局どんな依頼なのさー」
「直ぐ説明がありますよ、ほら」
かつん、と足音が響く。
廃墟と違法建築が混在する貪底街では少し珍しい、何も無い場所だ。
三千屋敷からは一キロ程離れている。そのため、道中には何人もの浮浪者や脛に傷を持つ者を見かけていた。だが、この空き地周辺にはいない。ただその代わり、明らかに堅気で無いとわかる雰囲気を放つ男達が五人、立っていた。
足音を鳴らしたのは、中央の男。
「久しぶりですね、
有崎昼間。先程の話に出ていた一人が、そこにいた。
だが、そこにかつての雰囲気は微塵も無い。穏やかながら油断ならない目線は、今や氷も凍える鋭い視線に。放つ気配は、血と暴力をそこかしこに滲ませていた。
「ああ、半年振りだ。出来れば顔も合わせたく無かったが」
不機嫌と嫌悪を隠しもせず、有崎は言い放つ。その様子に、彼の隣にいた四人がたじろいだ。
「ご心配なく、顔見知りです。この程度で機嫌は損ねません」
「器の大きい事だ。その態度、お前の家に近寄った者にもしてやるといい」
「生憎、自宅回りの治安が悪いのは好みませんので」
自業自得だ、と有崎が吐き捨てる。まーそだねー、と666も同調した。
なにせまあ、この貪底街が出来上がったのは千桜のせいなのだから。
「そんな怪物を三匹も飼っていれば周囲も澱む。俺としては、街一つ腐るだけで済んでいる今が奇跡に思えるよ」
まあ私も世界を滅ぼしたい訳では無いので、と千桜が言う。
姦、666、恐。いずれも強大な怪物であり、負の化身。そんなものが集まっていれば、周辺も負の気へ偏っていく。それこそ、空間が重力で歪むように。
「一応対策は取っていますよ。最低限ですが。
さて、無駄話はこれくらいにして、さっさと本題に入ってください」
「どうせ内容も知っているだろうに……はぁ
今回、依頼して来たのは俺の家だ。とっくの昔に縁も切った場所だが……わざわざ探しだして仲介を頼みに来た。
内容は単純。ある地方の村……そこでの、失踪事件だ。警察、マスコミ、どちらも現在抑えている。大事になる前にさっさと解決しろ、だと」
投げやりに有崎は地図を渡してくる。666が開くと、一ヶ所に赤い丸印が付けられていた。
「それで全部では無いでしょう? 666もまだ知りたいようです、一から十までしっかり頼みますよ」
チッ、と有崎が舌を打った。それから、嫌々と言う様子で口を開く。
「失踪したのは
全員が村の内に入った時点で連絡が取れなくなり、帰ってこなかった」
村の写真だ、と有崎が投げつけてくる。
一見すれば単なる山中の村にしか見えない。だが、よく見ればどこにも人の姿が写っていない。
「衛星写真だがな。村人も、警察も、誰も写っていない。まあ録な事にはなっていないな」
フン、と有崎が鼻を鳴らした。
「まあ誰もまともには残って居ませんね。引き受けますよ、この依頼」
「そうか。それなら、話はこれで終わりだ。完了の報告は俺の古巣に直接言っておけ」
そう言って、有崎はその場を立ち去った。その後ろを、男達が慌てて着いていく。
残された千桜は、写真と地図を何度か見比べ、呟いた。
「666、姦と恐に連絡を今すぐに出発します」
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