三千屋敷と人々と   作:Y-K4183

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風邪と出張─千応志刻

「風邪を引きました」

 

 普段と変わらぬ無表情。しかしほんの少し赤みが増した顔で千応が言った。

 

「あんたが風邪なんて珍しいわね。世界でも終わるのかしら」

「後五百年は終わりませんよ。……風邪の原因は一昨日の一件です」

 

 一昨日……忘れもしない、出鱈目すぎる強さの化け物に襲撃された件だ。姦にとっては嫌な記憶以外の何物でもない。

 

「あの時手足が吹っ飛びましたからね……治すまでの間にウイルスが入ったようです」

 

 ふーん、と大して興味が無い様子の姦だったが、次に千応が言った言葉には驚愕することとなる。

 

「ですので今日の依頼はあなたたちで引き受けて下さい」

「え」

 

 姦が固まる。同時に666がどこからともなく姿を見せた。

 

「へい! 任されたぜ!」

 

 やたらとテンション高く跳ね回る666の様子に、硬直していた姦が元に戻る。

 

「……なんでそんな元気なのよ。こいつの受ける依頼大体めんどくさいのが多いってのに……」

「大丈夫です。今日の依頼で姦がめんどくさいと思うのは十二件中十件しかありません」

「ほとんどじゃない!」

 

 抗議する姦を無視し千応はさっさと奥の部屋へと行ってしまう。残された姦は大きくため息を吐いた。

 

「あいつはほんと……。666、あいつからなんか聞いてるでしょ?」

「え、聞いてるけど。なんでわかったの?」

「あいつがこんな雑に投げるわけないでしょ。絶対何か用意してあるわ」

 

 ほー、とよくわからない返事を返しながら666は懐から箱を取り出す。

 

「はいこれ。客が来たら開けてってさ」

「……何入ってるのこれ」

「知らね、なんか呪物とかじゃない?」

「そうだったらいいんだけど……」

 

 姦は箱を調べてみるが呪物のような気配はない。本当にただの箱だ。振ってみるとカサカサと何か軽いものが入っているような音がした。

 

「まあ多分指示書とかでしょうね」

「へー」

 

 666は既に興味を失ったようだ。

 

「なんにせよ客が来るまでは──」

 

 姦が言い終わらないうちにインターホンが鳴る。早速一人目が来たようだ。

 

「……早いわね」

「今何時だっけ」

 

 666の言葉に姦は時計を確認する。

 時刻は午前7時。何処かに尋ねるには少々早いといえる時間帯だ。

 

「それじゃ、開けるぜー!」

 

 666が箱を開ける。そこには数枚の紙が入っていた。

 

「姦ー、予想あたり―。指示書」

「何書いてあるのかしらね」

「えーとねー」

 

 

 

 

 おずおずと男性が部屋に入ってくる。妙にやつれた彼が今日一人目の依頼人だ。

 何度も辺りを見渡しながら部屋の中央に用意された椅子に座った所で姦が口を開いた。

 

「憑いてるのは動物霊ね。憑いた場所は二週間前に通った林道、そこで投げた石が当たった奴から恨まれてるわ。もう祓ったから今後はそういった場所で無礼なことを行わないように、お金もいただいたからもう帰っていいわよ」

 

 男性が何かを言う前に姦は強引に話を終わらせる。明らかに困惑した様子の男性だったが有無を言わさぬ姦に押されて帰っていった。

 

「流石に雑じゃね? めっちゃ混乱してたよあの人」

「いいのよ、解決したんだから。それに、便利なものがあるなら使った方がいいでしょ」

 

 言いながら姦が紙の束を振る。先刻取り出した指示書、そこには今日来る依頼人すべての状況、そうなった原因、対処法が記されていた。

 

「まーこんだけ事細かに記してあったら大体解決するよねー。最後の一枚が不穏だけど」

 

 最後の一枚。666が手に持つそれだけは依頼の内容が無くただ一言、『秘密』と書かれていた。

 

「嫌な予感しかしないわね……」

 

 あの千応がわざわざ隠したのだ。碌なことにならない。そのことに姦はため息を吐く。

 出来る事なら今すぐすべて放り投げて千応をぶち殺しに行きたいところだが契約のせいでそれも出来ない。姦はただ不満を募らせるだけだった。

 

「とにかく依頼を処理するしかない……か」

「じゃー残り十一個、がんばろー」

「気が重いわ……」

 

 

 

 

「三日前から変な気配が……」

「廃神社から憑いてきた禍ツ神ね。祓ったけど、あなたこういうの憑かれやすいから変なところに近寄らないように」

 

 

「気づいたら夜中に首を吊ろうとしているんです……」

「前の交際相手に呪われてるわ。返したからもう問題ないわよ」

 

 

「道を歩いていると必ず達磨を見かけて……」

「やたら怨霊に憑かれてるわね……。このお守り持ってなさい」

 

 

「廃墟に行った時から悪寒が止まらなくて……」

「……お守りとお札、後この塩」

 

 

 

 

 

「は~」

 

 床に倒れこんだ姦が大きくため息を吐く。その様子を666が面白そうに眺めていた。

 

「お疲れー、今ので十一件だから後一つだよー」

「後一つ……例のやつね」

 

 姦がのそのそと這いずり最後の指示書を掴む。大文字で『秘密』と書かれたそれに姦は再びため息を吐いた。

 

「一体何が来るのやら……666、場合によってはあんたも手伝いなさいよ」

「えー」

 

 不満そうな666だったが姦にその不満を聞く気はない。手間がかかるなら容赦なく使い潰す予定だ。

 そんな中身のない会話をしているとインターホンの音が鳴り響いた。

 

「来たわね」

「来たねー」

 

 正体不明の依頼に二人は身構える。一体どれほどの厄介ごとなのか。

 

 

「あの、僕たちの学校で一月前から変な事が起こってるんです」

(あら、以外)

 

 覚悟を決めた姦の前に現れたのは高校生くらいの少年であった。そのことに姦は多少意外さを覚えるがそれを表には出さず、話を続けるよう促した。

 

「えっと……最初に起こったのは一か月前で、音楽室です。その日に音楽の授業があったんですけど、教室に入ってみたら床がびしょぬれになってて……」

 

 姦は適当に相槌を打ちながら少年の話が終わるのを待つ。正直なところ姦にとって何が起ころうが何が原因だろうがたいていの場合はどうでもいい。力づくで祓えば済む話だ。

 

「……だから、学校に来て何とかしてほしいんです。お願いします」

「はいはいわかっ……た」

 

 姦の適当な返事が止まる。少年が訝しげに見てくるが姦は一瞬前に言われた言葉を想起していてそれどころではない。

 

(さっきこの子学校に来てって言ったわね……)

「……確認するけど、本当に()()は起こってるのね?」

「は、はい」

 

 姦が少年を見るが別段憑いているモノは見えない。更にそういったモノの気配も感じ取れない。少年の言った通りの現象が起こっているのなら……。

 

(場所型かぁ……)

 

 所謂地縛霊等の「その場所」に憑いたモノだ。こういう手合いはその場に行って祓わなければならないが……。

 

「ちょっっと待ってね」

 

 姦は少年に断りを入れると奥の部屋へと移る。そこにはさっきまでの話を聞いていた666が複雑そうな表情で座り込んでいた。

 

「どうするの、これ」

「んー、やっぱ行くしかないんじゃない?」

「私は嫌。それに辺りに人間がいて殺さない自信がないわ」

「私も絶対ろくでもないことする自信があるね!」

「……あんたは私と違って正気なんだからこらえなさいよ」

 

 姦が呆れたものを見る目で666を見るが当の本人は飄々としている。

 結局のところ誰かが出て依頼の場所に行かなければならない。千応は寝込んでおり、この二人では多量の難がある。そうなると残り一人にお鉢が回るが……。

 

「私らで無理ってなるとー」

「……いや、恐は無理でしょ」

 

 浮かんだ案を即座に姦が否定する。

 

「いやでもさー、私らが無理なんだったら恐しかいないじゃん」

「あいつはそもそも見た目がダメでしょ。それに……」

 

 と、姦の言葉が止まる。確かに恐は見た目にこそ難はあるがそれ以外にこれといった問題はない。少なくとも姦の知る限り極端な人間嫌いでも、異様な享楽主義者でもない。

 

「割とありかも」

「え、マジで」

 

 まさか採用されるとは思っていなかったため意外といった顔になる666。それをよそに姦は恐を呼ぶ。

 

「恐、あんた千応無しで外出して依頼出来る?」

「唖」

「……出来るって解釈するわよ」

 

 そう言って恐から反応が無い事を確認すると姦は恐の顔に張られたお札を剝がし始める。

 

「流石にこれつけたままじゃ人の前には出せないからね」

 

 しかしやたら頑丈についた札は姦の力を以ってもなかなか剥がれない。取りあえず姦は666に恐の腕の釘をどうにかするように伝えた。

 

「……引っこ抜いて良いのこれ?」

 

 666が聞くが相変わらず恐に反応は無い。それを肯定と解釈し666は釘を抜きに掛かる。ただ、この釘もまた頑丈だ。結局、二人がかりで五分以上かけてやっとお札と釘の両方を取り除き切った。

 その結果はと言うと……

 

「うわ、美人」

「ええ……予想外ね」

 

 大量の御札の下から現れた顔は非常に整っていた。色こそ異様に薄いがそれ以外は百人中百人が美人と答えるであろう。

 これで顔の問題は解決した。しかしまだ問題は残っている。

 

「次は服ね。これじゃ色々と無理があるわ」

 

 恐が今来ている服は一般に死装束──それもボロボロの──と呼ばれる物だ。こんなものを付けて人前に出るのは不自然だろう。姦は恐の服を剝ぎ取り、適当な服を着せようと──

 

「あら?」

 

 姦が一瞬目を話した間に恐の服装が変わっている。666の仕業かと思って目線を向けるがその本人は恐から引き抜いた釘で遊んでいた。恐の服装にも気付いた様子はない。

 

「自分で選ぶんだったら言ってくれればいいのに」

「荒」

 

 姦が軽く文句を言うが相変わらずよくわからない返事が返ってくるだけだ。軽く息を吐くと姦は恐の服装を眺める。

 黒を基調とし、所々に彼岸花と椿があしらわれた綺麗な意匠。それは恐に非常に「似合う」ものであった。

 

「これで残りの問題は……声だけね」

 

 最後に残された大きな問題。恐は、話せない。

 

「何とかならないかねー、頑張って喋らせたり」

「出来るならやって……やってるわよね?」

「蛙」

 

 姦と666はいくつか適当な案を考えてみるが恐が喋ることは無かった。そこで666が一つの案を出す。

 

「じゃあさ、こうやって……こっちから声が届くようにして恐の代わりに私らが喋るってのは……あたっ!」

 

 いつの間にか恐が666の背後に回ってその頭を叩いた。その手にはスケッチブックが握られ、言葉が書かれている。

 

『さすがに嫌』

「……え、それで行けんの?」

「私ら何考えてたのかしら……」

 

 予想だにしない単純すぎる手に姦と666の二人は唖然とする。しかしそんな無駄な事をしている時間は無い。扉の向こうでは依頼人が待っているのだ。

 その事を思い出した姦が慌てて準備を再開する。結局、依頼人の所に顔を出せたのは更に五分経ってからだった。

 

 

 

 

 

 

 

 ……僕たちの学校では一月ほど前から変な事が起こっていた。最初に()()が起こったのは多分……あの音楽室だ。

 その日、音楽の授業があった僕たちは音楽室に向かった。いつも通り鍵を開けて、いつも通りに教室に入って……いつも通りじゃ無い事になった。音楽室の絨毯はびっしょり濡れていた。窓が開いていて雨が入ったとかじゃない。窓はしっかり閉まっていたし、何より窓から雨が入ったのなら部屋の中央は濡れないはずだ。

 なのにその時は音楽室の隅から隅まで、真ん中も残さず濡れていた。いっそ中で雨でも降ったんじゃないかと思ったほどだ。

 それを皮切りに学校では変な事が続くようになった。あるときは教室中の机といすが全部ひっくり返ってたり、またある時は理科室の棚が全部逆向きにされて中身が出せなくなったり……。

 他にも、プールの水が目を離した一瞬で全部なくなったり、全部の廊下に一面紙が敷き詰められたこともあった。

 けど、その時はまだ、危険な事は起こってなかったんだ……その時までは。

 一週間前、学校中の窓ガラスがいきなり割れた。時間は授業中、おまけに割れたガラスは全て内側に飛び込んできた。結局、三十人近くがそのガラスで怪我をした。

 流石にここまでくると学校側も対処するようになった。窓に飛散防止のフィルムを張ったり、警備の回数と人数を増やしたり……。でも駄目だった。どれだけ見張っても犯人の影も形も無いし、物は壊れた。

 その内、学校中でこれは呪いだ、なんて話が出てくるようになった。なんでもどこかのクラスの奴が幽霊を視た、だのこの学校は墓の上に立っていた、だの根拠のない噂が飛び交うようになった。先生たちは噂を収めようとしたけれど、真偽はともかく実際に幽霊や呪いとしか思えないようなことが起こっている。もう噂は止まらなかった。

 誰かが言った。

「三千屋敷に依頼してみよう」

 

 三千屋敷……あの貪底街にある家の名前らしい。そこは今学校で起こっているような、常識では考えられないことの解決が出来る場所……という話だった。

 本当なのだろうか。僕はかなり疑っていた。だからこそ、その後三千屋敷に依頼をしに行くと成った時、僕は真っ先に手を上げた。

 

 正直な所、僕は今学校で起こっていることが幽霊や呪いの仕業だとはあまり信じていなかった。それは世界が科学や理論だけで回っている……なんてものではなく、単に現実に頭が追い付いていなかっただけだ。

 そんな呆けた考えのまま、僕は貪底街に踏み入った。……踏み入ってしまったのだ。

 

 貪底街に入って五分、囲まれた。絶体絶命だ。

 これが漫画みたいに怒鳴り声を上げながら脅してくる、とかならまだマシだっただろう。実際は全員が一言も発さず、全く無駄な動きをせずに囲んできた。

 怖い。幽霊や妖怪なんかより怖い。余りにも現実的な恐怖。僕は何も出来ずに囲まれ続けるしかなかった。

 いきなり集団が割れた。出来た空間の中央を一人の男の人が近づいてくる。僕の前で立ち止まった。

 

「外の、真面な恰好の奴が何の用だ」

 

 話しかけられた。何か言わないといけない。……言葉が出てこない。言う事はある。言おうとしている。だと言うのに喉からは掠れたような詰まった音しか出ない。

 男は何も言わない。何もしてこない。そもそも何か言っても意味が有るのか? このまま殺されるだけじゃないのか? でも、なにか、なにか。

 

「……さ、さんっ、三千屋敷に……」

 

 集団がどよめく。男が急激に顔を顰めていく。ああ、これは終わったな。

 変な達観が出てくる。多分死ぬんだろう。

 そんな考えが浮かんだ矢先、チッ、と舌打ちが聞こえ、目の前の男が言い放った。

 

「三千屋敷なら二つ向こうの大通りを使え」

 

 それだけ言うと男も、集団も波が引くように去って行った。……理解が追い付かない。追いつかないが、このままここにいるのは怖い。慌てて言われた通りの大通りに向かう。

 とにかくがむしゃらに走っていると、不意に大通りに出た。出た……が。人がいない。さっきまで見かけた地面に座り込んでいる人や何かを売っている人、そこら中にあったテントまで全く見かけない。

 もうこの街で人に会いたくないのでそれはありがたいけど……これは不気味だ。

 けれど、見える。話しに聞いた通りの家が。自分が出た路地のすぐ前。つまり僕の真ん前に噂の家が──三千屋敷があった。

 そこからの事は余り記憶が無い。おっかなびっくりインターホンを鳴らしたこととか、地下の部屋に女の人がいたこととか、そこで妙に待たされたこととかはぼんやり覚えてる。

 けど、もう一人女の人が出てきてからの記憶が全くない。どこをどうやってあの街を出たのか、この人が誰なのか、()()()()()()()()()()()()()()()()。……何も覚えていない。

 混乱している僕の前に、いきなり紙が現れた。驚いて後ずさると女の人の姿が見えた。

 綺麗な人だ。けど、物凄く白い。見てて不安になってくる。と、そこで気付いた。さっき顔の前に現れた紙は女の人が持っているスケッチブックの一ページだ。見ると、文字が書かれている。

『大丈夫?』

 

「えっ、あ、はい、大丈夫です」

 

 どうやら心配してくれているらしい。どうもかなり長い間学校の前で佇んでいたようで、足裏が少しジンジンする。恐怖で我を忘れていたのかもしれない……。

 

「あ、ありがとうございます、……えっと……」

『名前は、(おそれ)

「ありがとうございます、恐さん」

 

 いい人だ。結構待たせたはずなのにこっちの心配をしてくれている。……これ以上失礼なことはしないようにしないと。

 

「僕の名前は……」

『それなら大丈夫。ここに来る途中で聞いた』

「そうですか……」

 

 すでに言っていたらしい。それも記憶にないとは……いくら怖かったとはいえこれはひどい。

 

「とり合えず、学校、案内しますね」

『よろしく』

 

 僕が歩き出すと恐さんもついて来る。……まずは音楽室だろう。

 

「最初に音楽室に行きます。何かあったら、言ってください」

『わかった』

 

 音楽室の扉を開ける。普段と変わった様子は無い。恐さんは……特に何も反応していない。ここには何も無いのだろうか? 

 

「あの……ここには何か……」

『もう何も無い。次の場所へ連れて行ってください』

「あ、はい」

 

 一番最初のここは何も無かったらしい。なら次は最近現象が起こった場所が良いだろう。

 

「じゃあ、次は体育館です」

『了解』

 

 再び恐さんを先導しながら歩き出す。歩きながら、僕は体育館であった事を思い返した。

 

 二日前……三千屋敷への依頼を皆に決断させたあの事件。僕は直接体験していないけど、話は聞こえてきた。

 その時間、体育館ではバレーボールが行われていたそうだ。始めてからしばらくは何も起きず……三十分程経ったところで、唐突にそれは起こった。

 打ち上げたボールが空中に制止、したかと思うとその高さのまま飛び回って前にある舞台へと行った。そこでいきなりボールが破裂した。その瞬間に体育館中に笑い声が響き渡ったらしい。

 その声を聴いていた人の中には体調が悪くなって帰った人もいるとか。

 

 そこまで思い返したところで、ちょうど体育館に着いた。

 すると、恐さんがいきなり僕を追い越して体育館の真ん中へと行ってしまった。

 

「何か……あるんですか?」

『残ってる』

 

 残ってる? 何が? ……もしかしてその時の事を引き起こした何かが……

 すると恐さんがスケッチブックを見せてきた。

 

『そいつの痕跡。今此処には居ない』

 

 いなかったらしい。けれど恐さんはまた新しい言葉をスケッチブックに書いた。

 

『今いる場所は分かる』

「ほんとですか!」

 

 それなら直ぐにそこへ向かわないと。場所は何処だ? 

 そう思った僕が聞く前に恐さんは歩き出した。

 速い。そんなに足を動かしているようには見えないのに、全力で走ってやっと追いつけている。

 暫く校内を走った所で、恐さんは足を止めた。場所は……屋上への扉の前。

 

『この先』

「屋上……なら、鍵を取って来ないと」

 

 ここから職員室はちょっと遠い。正直先に場所を言ってほしかった。そう考えて足を踏み出そうとしたとき……背後でガチャリと音が鳴った。

 

『開いてる』

「え? あれ?」

 

 普段は鍵を閉めていると先生が言っていたが……記憶違いだったのか? それとも偶々開いていただけかもしれない。

 そんなことを考えているうちに恐さんは扉を開けて屋上へ行ってしまう。僕も慌ててその後に続いて……

 

 目が合った。

 目が、目が、目が、目が、目が。

 何十人、いや、何百人と言う人間が屋上に並んでいる。その全員が、直立不動で目を見開き、僕たちを見つめている。

 何で気付かなかったんだ? いくら今日が休日だからって、()()()()()()()()何ておかしいって事! 

 並んでいる中には見知った顔がいくつもある。それが、何の表情も浮かべていない顔で僕を見ていた。

 突如、辺りに笑い声が響く。発生源は目の前の人達。その全員が笑っている。

 アハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハ

 

「っづゔ!!」

 

 轟音の様な笑い声に耳を抑え、その場に座り込む。立っていられない。単なる音量以上に不快感をあおる何かがその笑い声には有った。

 耳を塞いでその場から動けなくなった僕と違い、恐さんは平然としている。

 何とかしてくれ、と思ってそちらを見ていると恐さんが笑い声の集団に向かってゆっくりと歩き始めた。

 恐さんが近づいても笑い声は止まない。寧ろさっきよりどんどん大きくなっている。耳が痛い。視界がぼやける。意識が朦朧としてくる。座り込んでいた状態からバランスを崩し、前のめりに倒れる。恐さんは何で無事なんだ? 

 意識が途切れる寸前、見えたのはスケッチブックに書かれた『大丈夫』の文字だった。

 

 笑い声が轟く。百人を超える人間が上げるその声は最早ただの騒音だ。

 只の人間なら気絶するであろう音の中、恐は平然と音源へ近づいていた。

 近づくたびに笑い声は音量を増し、異様と不気味さを漂わせる。

 だが、この笑い声は余裕を現すものでは無い。現すのは、拒絶だ。

 恐を引き離そうと、遠ざけようと、必死で笑い声を上げる。笑い声の主には分かるからだ。目の前の物を恐れてしまえば、終わる。

 故に、笑う。恐怖をかき消すように、恐怖を遠ざけるように、恐から逃げ出すように。

 だが。だが。だが。

 恐はあっさりとたどり着く。

 恐怖からは逃げられない。恐怖は拒絶できない。

 笑い声が悲鳴に変わる。初めは、一人。次に、二人。次へ次へと広がっていく。やがて、屋上の人間全員から悲鳴が上がる。

 恐怖は感染した。

 突如、辺りの雰囲気が一変する。

 笑い声の轟いていた異質な空間から、唯無間の闇が覆う世界へ。

 闇に、何かが、

 闇に、闇に、闇を、

 

 恐れよ。

 

 

 

 僕が目を開けると、さっきまで笑っていた人たちが首を傾げて起き上がるところだった。

 顔見知りの何人かが何があったのかを聞いてくるが、僕にも何が有ったかは分からない。唯一説明できそうな恐さんの姿を探すが、見当たらない。どうやら帰ってしまったようだ。

 

「あっ、代金」

 

 渡すはずの三千円、まだ支払っていなかった。慌ててポケットを探る……無い。

 持って行ってしまったのだろうか。

 幾つも不思議なことが有ったが、一つ確信していることが有った。

 多分、この学校で不思議な事は起こらない。

 

 

 

 

 

「あ、お帰りー、恐!」

 

 いきなり部屋の真ん中に出現した恐にまるで動揺を見せず、666は迎えの挨拶をした。

 見れば、千応に氷嚢を当て、食事をさせている。

 つまり、看病だ。

 

「あら、帰って来たの。じゃあこれ、買い物のリスト。スーパーはちょっと遠いけどあんたなら直ぐでしょ」

 

 帰って来たばかりの恐に買い物を頼む姦。とはいえ本人も何か慌ただしく動いている上に、今日の依頼殆どを解決した疲れがある。

 それで納得したのかは分からないが恐は買い物リストを受け取った。

 

「恐、これ買って来て下さい」

 

 千応が恐に写真を渡す。写っているのは一枚の本。

 

「……それ、あんたが馬鹿ほど持ってるやつじゃない」

「最近この作品のイベントが多いので記念に」

「……部屋一個天井まで埋め尽くしてまだ足りないの?」

「はい。この本は私の生きがいです」

 

 熱に浮かされているのかいないのか微妙に良く分からない言動だが、少なくとも目は大まじめだ。

 恐は写真を受け取ると、財布を手に取り姿を消した。

 

「あの本あれ以上増やしても意味ないでしょ、ただでさえ山ほどあって読んでないのが多いのに」

「今回は記念品です。最初から読むようではありません」

 

 何を言っても駄目な千応に姦は溜息を吐く。

 

 普段とは異なる様子の三千屋敷だったが、それは内だけの事。それ以外からすればいつも通りの異様であった。

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