ーーー何もかもが変わっていく瞬間があります。今まで嘆いていたことが突然どうでもいいことに思えてくるのです。ーーー アイルランドの哲学者、アイリス・マードックが遺した名言だ。何もかもが変わる瞬間、起承転結でいうと“転“のところだ。その瞬間が来ると、今までのことはどうでもいいと思える。後ろを向く必要がなくなるって、そういうことだ。
名言なんてのは綺麗事だって、心のどっかで思っていた。だが、本当に響く言葉っていうのは、一人の人生ごとき容易く狂わせてしまう。俺はそんな”名言の被害者“の一人だ。まぁ、名言が人生を狂わせたというのは少し語弊があるかもしれない。俺の人生を、たくさんの歯車が噛み合った、複雑な機械だとしよう。その名言が小さな歯車と小さな歯車の間に挟まって、気付かぬうちに、一つ、また一つと歯車たちが動きを変えていく。徐々に、徐々に、機械が壊れていく。まとめると、名言が些細な何かを変え、それが膨張していって、人生をも変えていく。とでも言ったほうがいいか。実質“名言の被害者”というのは間違っていないのだけれど、真の名言の被害者は、名言によってねじ曲げられた些細な出来事。そのことによる害を被るのは俺。“名言の被害者の被害者”と言う方が模範解答により近いのだろう。その被害は一人の命、いや一人じゃ済まされない、数個の命の歯車を狂わせていく。
何もかもが変わる瞬間。それが来た時に、俺はこの言葉を思い出してしまったのだ。逃げてれば、こんな話はなかったんだろう。でも、前を向いてしまった。ある意味、名言の掌で転がされたのだ。他人の目は他人にしか解らないから語れることはないが、主観的には言える。自分は間違ってなかったと、そう思える。そう思いたいんだ。
「うぇい、要!バーガー屋に殴り込み行くぞ!」
「普通に言えよ、暑苦しいな。あぁ、俺ポテトだけでいいわ。」
「おめぇなぁ…不良っていうのはな?バカみてえに食って、でけえガタイで、相手を牽制していかないとやっていけねぇんだよ!もっと食えよ!」
「えぇ〜…俺、家帰ったら普通に晩飯食うからなぁ。」
「じゃあここで食べてから晩飯も食えばいいだろ。」
「そんなに食える奴に見えるか?」
「見えねえ。」
「そういう要らんとこで正直なところがムカつくよ、ほんとに。」
俺は 一舟 要(ひとふね かなめ)。大学生だ。こんな貧弱な見た目をして、不良グループの傘下っていうのは、信用された試しのない事実である。コイツは四谷 珠架(よつや しゅか)。不良仲間というか…友達だ。彼は、俺とはまるで違って、超がつくほどの大食いだ。わんこそばを135杯平らげたっていう逸話も残ってる。三大欲求が食欲、食欲、食欲になってるかのような奴だ。そんな奴とハンバーガー屋に行こうってんだから恐ろしい。財布の中に収まっているクレジットカードを一瞥して、そっと財布を閉じた。獲物を狩る虎のごとく自転車にまたがって駆け出していった珠架に引きずられるように、俺も後ろへついていった。
「……あとは、テリヤキバーガー…2個でいいか、うん、以上で。」
「は、はい…ご注文確認させていただき…ます…。チーズバーガー3つ、極上たまごバーガー2つ、ポテトL4つ、」
何考えてんだ、この馬鹿野郎は。所持金があまりに少ないから、俺も若干出すよっつった途端、この量を注文しやがった。店員さんが注文確認に手こずってるじゃねえか。注文が一つ読み上げられるたび、俺のHPが削られていく感触があった。
「以上で…よろしかったでしょうか…フゥ…」
「はい!どうもありがとうございます。」
店員さんは、あまりの疲弊に、営業スマイルの「え」の字も感じられないような顔をしていた。対象的に珠架は、教育番組に映る子供達さながらの笑顔だった。受け取ったレシートは、帯のように長く、シュレッダーにかけたら気持ちいいだろうな、と思った。
「ん〜、ここのバーガーは格別だなぁ、オイィ!お、このエビマヨバーガーってのもうめえぞ!おい!一個食ってみろよ!」
「あ?いやだから、俺は要らないって言って…ングっ⁈…あっ、うめぇ…」
「だろ?」
「一個くれよ。」
「いいぞ、ホレ!俺様に感謝しろよ?」
「金出したの大抵俺だけどな?」
「これからもよろしくな。」
「お前ってほんとわかりやすい奴だな。」
「どうも。」
「褒めてねえよ。」
テーブルが埋まるほどのたべものが置いてあったはずなのに、こいつはものの30分で平らげた。お前もう、フードファイターか何かになれよ。そして今日の出費は1万4300円。ファストフード店で聞く値段ではなかった。
「うまい昼飯ありがとなー!」
「え、お前この後にまだ食うつもりなのか?」
「ん?おう!夕食用に胃袋残しておいたからな!」
「ほんととんでもねえなお前。これからは自費で食えよ?決定事項だからな。」
「へぇへぇ、わぁったよ。」
珠架とは駅で離れ離れになる。駅から俺の家までの道のりは、珠架の家までのとちょうど真逆だった。家に遊びに行くのにも多少不便な位置関係だった。一人になった俺は、黒いコンクリートを蹴って自転車に跨がった。
「ただいま…。」
家に帰って、堅苦しい制服を脱いで、部屋着に着替える。
「昨日買ったキャベツ、まだ残ってたかな…あぁ、まだちょっと残ってるな。」
最近は家事と勉強の両立が板についてきた。苦だと思わなくなった。自炊もそれなりにできるし、一日一回は家を掃除するようにしていた。我ながら偉いと思う。
「今日は〜、キャベ玉チャーハン作ろっかなぁ〜。」
昔は火加減がよく解らずに米もキャベツも真っ黒になっていたこの料理も、今ではこんなに見栄えよく作れる。俺、成長したなぁ〜。としみじみと感じた。
「うん、うめえ。」
ただ、さっき食ったハンバーガーが余計だったかもしれない。食べきれずに、残ってしまった。残った分は、ラップに包んで冷凍しておいた。これで何日かはレンチンで済むだろう。
そうして、何事もなく1日が終わる。
次の日の朝。一本のニュースが歯車を狂わせる。
「昨夜、一舟 束音(ひとふね たばね)さん、52歳が、自宅で殺害されているのが、同居人の通報により発見されました。」
は?俺はテレビを見たまま、動けなくなった。今呼ばれたのは…?そうだよな、間違いなく俺の母の名前だ。
「警察は、監視カメラの映像から、犯人を被害者の実の息子、一舟 要さんであると推察し、捜査を進めています。」
俺は、まだ、動けない。俺の脳が、解析を止めた。言葉が耳に入って、そのまま出ていった。ジタクデサツガイ、カンシカメラノエイゾウ、ヒトフネカナメ。ここでようやく言葉の意味までは理解した。でも、理解しきれないことがあった。だって、俺はやってないのだから。俺の体は、未だ動かない。