One-way Spiral Staircase 作:まりも@tks55kk
耳障りな不協和音。自分の名を呼ぶ歪んだ声。
あれは――誰だ?
凍えるように寒い。灼けるように熱い。
内臓が裏返るような吐き気。
右半身だけが独立した生物のように痙攣し暴れる。
右半身だけが己の生暖かい血に濡れていく。
左の腕は、脚は――どこへ行った?
◇◇◇◇
肺が破裂しそうなほど息を吸い、布団をはね除けて飛び起きた。灯りの一つもない寝室。暗闇に目が慣れない。手探りで己の身体を確認する。手はある、脚も付いている、動く。
右手が掻き抱く左腕の感触が、ようやくアヤメを現実に引き戻した。
――また、あの夢だ。
心臓はまだ狂ったように脈を打っている。額にびっしりと脂汗を浮かべ、肩で息をしながら顔を上げると、小窓から差し込む月明かりに照らされて虚ろに輝く、壁に立て掛けられた歯零れの酷い大剣が目についた。『あの日』から時が止まったままの、かつての相棒。いや、過去に取り残されているのは自分も同じか。
アヤメは自嘲気味に一息笑い、拳を固めて項垂れた。
◇◇◇◇
翌朝。
結局あの後は、ほとんど眠れなかった。アヤメは桟橋で掬った水で軽く顔を洗い、まだ少し眠気の残る頭を振るいながら、もう随分と日が高くなった空を見上げた。雲一つない晴天の空を、たたら場の煙がゆっくり横断してゆく。
アヤメの居宅はカムラの里の北東、普段は滅多に使われない小さな船着き場の傍らにある。事前の連絡もなしにフラリと帰郷したアヤメの為に、里長が仮住まいとして急遽手配した、家と言うより物置小屋だ。
里長は正式な住居を用意できるまでしばし我慢してくれと詫びてくれたが、アヤメはここで十分だと、それ以降の世話を丁重に辞退した。事実、着の身着のままに近い状態でやってきた独り身のアヤメには眠る場所さえあれば事足りたし、高い防護柵で囲まれたこの里の低地では意外に少ない開放的なロケーションや、人通りのない静けさは気に入っている。
ふと、数軒向こうの水車小屋から、慌ただしい気配を感じた。
何故かあの水車小屋に住んでいる人間を、アヤメは一方的に知っている。幼い頃からハンターを目指し、年齢制限でまだ資格を得られぬうちから既に「カムラ指折りのツワモノ」と呼ばれていたという若者だ。名は確か、イブキといったか。快活で騒々しい、短髪の中性的な女の子。しょっちゅう里の中を文字通り縦横無尽に駆けずり回っているので姿こそ何度も見かけたことはあるが、面と向かって言葉を交わす機会は今までなかった。
その彼女が珍しく神妙な面持ちで、真新しいハンター装備を身に付け、ヒノエとミノトに連れられて出掛けていくのが見える。
「……ああ、あの子もついにハンターになるのか」
チクリ、胸が痛んだ気がした。
気がしただけだ。きっとそう。
彼女がハンターになったのならば、今後どんな形で付き合うことになるか分からない。一応、顔合わせはしておこう。そう思い立ち、アヤメは部屋に戻って手早く着替えた。
新品でないのに傷一つないナルガ装備に袖を通す。自分もハンターであることが一目で示せるように、一応。もしかしたら今日は、狩りに行きたい気分になるかもしれないから、一応。
一応。一応……
「……ハハ、情けないな。防具着て集会所へ行くだけのことで、こんなに言い訳しちゃって」
堂々としてればいいじゃないか。アタシもハンターなんだから。
それはたとえ独り言でも、どうしても言えなかった。
◇◇◇◇
長らく居座っているうちにいつしかアヤメ専用スペースと化した、集会所のテラス端。川の流れを眺めているやらいないやら、半ば呆けながら黙々とうさ団子を頬張る。ようやく二本目を片付けたが、傍らのテーブルにはまだ十本が手付かずのまま積み上がっていた。
「……またやっちゃったよ……はぁ……おいし……」
朝からの己の行動を猛省しつつも、無意識に手は三本目へ。
自宅から集会所へ行くためには、必ずヨモギの茶屋前を通らなくてはならない。これがまず罠なのだ。狩りに行かないのだから、今日こそはうさ団子を買わない。毎日そう心に決めて家を出るのに。
◇◇◇◇
半刻ほど前。
「おーい! アヤメさんおっはよー! 今日もお寝坊さんだね、うひひっ」
「うっ……お、おはようヨモギちゃん」
都合よくワカナがシイカと立ち話をしに移動していたので、その陰にさりげなく隠れてヨモギに見つからないようにやり過ごそうと試みていたアヤメは、元気に名前を呼ばれてビクッと肩を震わせた。
全速力で駆け抜けてみても、遥か遠くから翔蟲で跳躍して頭上を通過しても、ヨモギは絶対にアヤメを見つけて朗らかに声をかけてくる。名指しで挨拶されては無視するわけにもいかない。そうなると、もうアヤメの敗けは決まったも同然だった。
「あー、その、そう寝坊、アタシまだ起きたばかりでさ、お腹空いてないから今日は……」
「りょーかい、軽めの朝団子だね! んーじゃあこれと、あれと~」
「あっいや違」
ヨモギの手配は恐ろしく速い。アヤメが断る言葉を探す隙もなく、色とりどりの巨大な団子が宙を舞い串に通され、あれよあれよという間に、美しくパッケージングされてしまった。
終わった。
「はい! やさしい風味の栗だんご、柔らかいぼたもち、それに薬膳効果のある湯蒸しだんご。お腹に優しい組み合わせにしてみました! どれも美味しいよっ」
「ああ……いただきます……はは……」
苦笑しながら代金を支払い、ずっしりと重い三種六本セットの団子弁当を受け取る。ふと視線を感じて顔を上げると、ヨモギがじーっとアヤメの顔を見上げていた。
「えっと……アタシの顔に何か付いてる……?」
「んーん、今日もアヤメさんキレイだなーって思って!」
「へっ?」
「でもちょっとお疲れ気味? ぼんやりしてちゃ、美人が台無しだぞぉー。お団子いっぱい食べて、元気になってね!」
「……はは、ヨモギちゃんには敵わないな。ありがとう、努力するよ」
ヨモギの無垢な笑顔に釣られて、ほろりと頬が緩むのが自分でも分かった。この里に帰ってきてからというもの、こうして多少なりとも笑う機会が増えた気がする。この天真爛漫な少女の存在は、間違いなくその理由の一つだ。
ヨモギのお団子を抱えて集会所に入り、入口に鎮座する恵比寿様……もといギルドマネージャーのゴコク、そして受付に控えるミノトやマイドに軽く挨拶をしながらいつものポジションへ向かおうとすると、スン、と、清涼感のある香りが鼻孔をくすぐった。嗅ぎ慣れない匂いだが、深く吸うと肺が冷え、寝不足で重い頭の雲が少し晴れるような気がする。これは何だろう。
つい、忙しくテーブルを拭いて回るオテマエに、興味のままに尋ね……てしまった。
「オテマエさん、おはよう。この匂いは何? なんかこの、スッキリするやつ」
「あーらアヤメ、おそようさんニャ! スッキリ……ああ、新作のサイミント大福かニャ? ちょうど蒸し上がる所ニャよ、ちょっと待つニャ」
「あっ」
「ホーッホッホッ! まーたやっちまったでゲコなぁ、アヤメ!」
「……」
かくしてアヤメの手元には今日も、十二本ものうさ団子が集結したのだった。
「せめてバラ売りしてくれれば……はぁ。今度、頼んでみるかな……」
ぼやきながら、四本目。後悔はすれど、一度食べ始めると止まらないのである。ひとまず、今日の団子について考えるのはやめることにした。
◇◇◇◇
ハラリ。桜の花弁がアヤメの視界を斜めに通過し、眼下を流れる川の水面に触れて、ゆらゆらと下流への長い旅に出る。長閑。この里を流れる時間は、外の世界より随分と遅いような気がする。永遠に続くような変わり映えのしない毎日が、そう感じさせるのかもしれない。
日が高くなり始める頃に起き出して身を清め、道中で里の者と他愛ない言葉を交わし、目的もなくこの場所へ足を運んで、川や花を眺めながら堂々巡りの思考をして過ごす。日が落ちれば誰もいない物置小屋へ帰り、思い通りにならない身体に苛立ち、疲れ、薄い布団にくるまって眠りに就く。
何も変わらない、何も動かない。
一昨日も、昨日も、そして今日も……
スタンッ!
「ンンンーーーんおめでとう愛弟子イィィーーーー!!…………あらっ? いない!? アハハ、早すぎたか」
「んぐッ」
団子が喉に詰まった。
突如空から現れて、柔らかな木漏れ日も穏やかな風も何もかもを一瞬で吹き飛ばした陽気の煮凝りのような色男を、アヤメは涙目で軽く睨み付けた。
「……今日はまた一段と元気だね、ウツシ教官……愛弟子が……何だって? ごほっ」
「やぁやぁアヤメさん! 元気! そうなんだよホントもう元気、みなぎって溢れて止まらない! なんたって今日は、愛弟子の記念すべきハンター就任の日だからね! あ、今度奢るからうさ団子一本いただいてもいいかな? はしゃぎ過ぎて朝飯も食ってないんだ、ハハハ」
「ど、どうぞ……」
彼のテンションが異常なのは今に始まったことではないが、今日はそれに拍車がかかっている。納得のいく理由がなければ、今すぐこのテラスから叩き落としたい騒がしさだ。
しかし彼は、この若さで教官として二人の弟子を育てつつ、里周辺の斥候、複数の武器種の新技や鉄蟲糸技の開発、ギルドとの連絡、闘技大会の企画や受付・監督までこなす、一言で言えば超人である。無論、戦闘でも鬼人のごとき強さだと聞く。仮に万全の状態のアヤメが四人いたとしても敵わないだろう。アヤメから強奪したうさ団子を秒で平らげ、「もう一本食べたいです」と書いてある顔でキラキラした視線をこちらに送っている子犬のような姿を見ていると、とてもそうは思えないのだが……
普段は様々な業務で忙しく、集会所には滅多に現れないのがせめてもの救いだった。
喋るのも面倒なのでジェスチャーで「もう一本どうぞ」と示すと、また秒で吸収された。この里の人々がうさ団子を食する速度の狂いぶりは、アヤメの中でカムラ七不思議の一つにカウントされている。
「しばらくやっていなかったけど、愛弟子のハンター就任に伴って、闘技大会を再開することになったんだ」
「へぇ、ますます仕事が増えるんだ。教官も大変なんだね」
「いやいやいや! 可愛い可愛い愛弟子のためなら、過労死の一つや二つどうってことないさ! ここで俺が受付をやるから、これからはキミとも頻繁に顔を合わせることになると思うよ。改めてよろしくね、アヤメさん!」
「……マジか」
爽やか極まりないサムズアップの輝きに頭痛がしてきた。今日までは昨日の繰り返しばかりを続ける日々だったが、明日からは新たな安寧の地を探して里内を徘徊する羽目になるかもしれない。
「で、愛弟子がそろそろ集会所へ挨拶に来るはずだから、闘技大会の説明をしなきゃいけない俺は、それをウキウキしながら待ち受けてるってワケ……おお、噂をすれば!」
ウツシの明るい表情が一層眩しくなった。彼の視線を辿るとそこには、ヒノエに伴われてゴコクに恭しく頭を下げる、ウツシの愛弟子――イブキの姿。興奮ゲージ最大のウツシが雄叫びと共に射出されるのではないかと一瞬身構えたが、流石にその辺は弁えているらしく、自分の番がやってくるのを今か今かと待ち構えている様子だ。
「――ホッホッ、今更そんなに畏まることもあるまいて。ほれ、あっちにウツシとアヤメもおるでゲコ。ちゃんと挨拶しておいで」
不意に自分の名が出て、ドキリとした。
イブキの視線がこちらへスッと移動する。不思議な深みを帯びた琥珀色の瞳と、アヤメの漆黒の瞳が交差する。
イブキが一歩、こちらへ踏み出した。何を言えばいい? 今、自分はどんな顔をしている――?
「ンンンーーーんおめでとう愛弟子イィィーーーー!!」
「二回目!?」
隣を二度見して頭で考えるより先に声が出た。どんな顔をしてるって、多分相当マヌケな驚愕の顔だと思う。
我に返って視線を戻すと、イブキが消えている。風よりも疾く飛び出したウツシに捕縛され、腕の中でもみくちゃにされていた。そこから逃れようと暴れるイブキの様は、さながら爪切りを本気で嫌がる猫。初夏の芝生を思わせる青漆の短髪が、引っ掻き回されてどんどんあばら家の庭のように乱れていく。受付の方から、ミノトの小さな溜め息と、心底面白くてしょうがないといった様子のマイド、そしてヒノエの堪え笑いが聞こえてきた。
「キミを鍛えた教官として! 俺は! この日をどれだけ待ち詫びたことかァァ! 頑張った、本当によく頑張ったね! 偉いぞ愛弟子! おめでとう愛弟子!!」
「だーーーッもーー分かった分かった分かりましたから! これまでのご教授に感謝しますこれからも一層精進いたします! ハイ終わり! どいて!」
ベリッ。教官が引き剥がされた。足で。
「えーーっ!? なんか冷たくない愛弟子!? もしかして俺の愛伝わってない!?」
「ハーイハイハイ伝わってます重すぎるくらい伝わってまーす。ていうか、闘技大会について説明事項があるんでしょ? それ聞かせてほら早く、手短に、可能な限り簡潔にヨロシク」
「急に大人みたいな口聞くなよ愛弟子~、ちょっと淋しいぞ俺は~」
「とっくに大人なのわたしは! 成人! ハンター!!」
肩に入った力がズルズルと抜ける。緊張して損した。これからはこの師弟漫才をしょっちゅう見なければならないのか。お断りだ。アヤメは遠い目でテラスの手摺に寄りかかり、脳内で里の地図を広げて新たな休息の場を真剣に検討し始めた。ハンターたるもの、頭の切り替えは大切である。
しかし、ウツシの声色が不意に落ち着いたのを察し、その地図を一旦閉じた。
「まぁ実を言うと、用件の九割はお祝いだよ。今日いきなり闘技大会に挑戦はしないだろうから、詳しくはまた今度話そう。……それより愛弟子。あちら、アヤメさん。上位ハンターだよ、キミの先輩だ」
「!」
「!」
アヤメとイブキは同時に顔を見合わせた。『上位ハンター』の肩書きに興味津々といったところだろうか、目を好奇心で爛々と輝かせて足取り軽く駆け寄ってくる。一切の邪気を感じさせない真っ直ぐで無垢な瞳は、目の前の全てに対して開かれた彼女の心を、そのまま表しているようだ。
「どーも初めましてセンパイ! わたしイブキ、よろしく!」
「よろしく。アタシはアンタのこと何となくは知ってたけど、そっちは知らないよね。ああとりあえず、ハンター就任おめでとう」
イブキがにっこりと破顔する。若さと活力にみなぎる、溌剌とした表情が眩しい。
少しだけ日に焼けた健康の手本のような肌。ピンと伸びた背筋。一般的な女性より高身長であるアヤメと比べれば僅かに低いが、そう大きくは変わらぬ高さに並ぶ肩。カムラ仕様のハンター装備から覗く腕や脚は、究極まで無駄を削ぎ落とされたしなやかな筋肉でみっちりと引き締まり、ネコ科の肉食獣か何かを彷彿とさせる。
遠目には小柄で細身な小猿のように見えていたが、それは彼女の落ち着きない挙動が原因だったようだ。いざ相対してみればアヤメと遜色ないどころか、その物怖じしない堂々とした態度も相まって、一回り大きくすら感じる。
いや……こちらが、萎縮して小さくなっているのかもしれない。
「現役の先輩ハンターがいるなんて初耳だからびっくりしたわ。このカムラの里に、わたしが知らない人なんかいるはずないと思ってたのに」
「アタシも生まれはこの里なんだけど、三つくらいの時に引っ越しちゃったからね。育ちも、ハンター稼業やってたのもここらじゃないんだ。怪我してやる事なくなって、何となく帰ってきたのがつい最近だから、アンタが知らないのも無理ないよ」
「怪我?」
イブキの表情が曇った。本当に素直な子だ。
急に大人しくなった彼女の背後から、ウツシの静かな視線を感じ、察した。
――ああ、闘技大会の説明を後回しにしたのは、そういう事か。
「……狩りで派手にやっちゃってね。だから今は療養も兼ねて、無期限休業中」
「そっか……怪我、そんなに酷かったの?」
「それなりに。まあでも、ハンターに怪我は付き物だからさ。アンタも気を付けなよ。無傷は無理かもしれないけど、こんな風にはならないようにね」
先程まであんなに賑やかだったイブキの気配が、みるみるうちに萎れていくのが分かる。祝うべき門出の日に水を差したようで居たたまれなくなり、アヤメはふいとイブキに背を向けた。
今の自分が「センパイ」として教えられる事など、これくらいしかない。彼女がこれから飛び込むのは、日々食うか食われるかの戦いに明け暮れる厳しい世界だ。この情けない背中から落伍者の末路を少しでも学び取り、命を大事にしてくれれば、それでいい――
「んじゃ、復帰したら狩りに連れてってね! 足引っ張らないように、それまでガッツリ鍛えとくから!」
屈託のない声にハッとした。
思わず振り返ると、もうそこにイブキの姿はない。既に集会所を飛び出し、慌てたヒノエに後を追われながら、翔蟲を取り出して元気よくあらぬ方向へスッ飛んで行く後ろ姿だけが一瞬見えた。
呆然とするアヤメと共に愛弟子を見送ったウツシが、カラカラと朗らかに笑う。
「切り替えが早いのは素晴らしいんだけど、どうも落ち着きがなくてねあの子は。俺に似ちゃったのかなぁ」
「落ち着きがない自覚はあるんだ」
「おっと、一本取られたなこりゃ! 悔しいからもう一本もらっちゃお」
再び背を向けたアヤメの傍らのテーブルに歩み寄り、ドカッと椅子に腰を下ろして、何の躊躇もなく残ったうさ団子にかぶり付くウツシ。意味が分からないが突っ込むのは面倒なので、見なかったことにする。
「ところでどうだい、俺の愛弟子は。良い目をしてるだろ?」
「そうだね。良いハンターになるんじゃない」
「うーん! そう言ってもらえると教官としても嬉しいよ、俺が教えられる事は全て叩き込んだつもりだから。……でもまだまだ粗削り、きっとこれから嫌と言うほど壁にぶち当たる。その時はアヤメさん、キミからも色々教えてやってね」
「……」
ウツシがこの沈黙の意味を察することのできない男でないことは、さして親しくないアヤメにも分かる。しかし、その彼が自分の背に向ける優しい視線は、アヤメを密かに困惑させている。なんだか少し、居心地が悪い。
そんなアヤメの心境を知ってか知らずか。よっこいせ、とウツシが徐に立ち上がった。
「さて、腹も満ち足りて気合い十分! 俺は仕事に戻るよ、うさ団子ごちそうさま」
「……どういたしまして」
「そうそう! 他地域からの応援ハンターの受け入れがもうすぐ始まるんだ。流石に百竜夜行が近いからね。ここもじきに、賑やかになるよ」
どこか含みのある笑顔でそう言い残し、ウツシはアヤメの眼前から風のように消えた。いまいち釈然としない点は残ったが、ひとまず普段の静けさが戻ったことに安堵する。
「師弟揃って忙しないったらないね、やれやれ……で、さらに賑やかになるって?」
平時のカムラの里には、百竜夜行という大災禍の危険性と常に隣り合わせの地域であることを理由に、ギルドから人流制限がかけられている。完全に鎖国しているわけではもちろんないが、外部の者がここを訪れるには、逐一ギルドへの許可申請が必要だ。長らく正式なカムラ付きのハンターが不在だったこともあり、本来はハンターの狩猟準備施設であるこの集会所も、今は里の民が利用する茶屋と化している。特に日中は、従業員を除けばほとんど人の出入りがない。
しかし、いよいよ百竜夜行の襲来が現実的となってきため、ハンターに関してはその制限を緩和することとなった――というのが、先程のウツシの話である。つまりこれから、腕に自信のある各地のハンターが続々とカムラの里に集い、この集会所を通してクエストに出掛けていくようになるわけだ。
「賑やかな集会所……懐かしいな」
かつて自分がハンター活動の拠点にしていた、街の集会所を思い出す。大型モンスターの生息域に近い辺境ではあったが、この里よりもずっと都会の街だった。
市街地の中心部にあった集会所は、希望や野心に満ちた数多のハンター達が昼夜を問わずひっきりなしに出入りする、ギラギラした場所だったのをよく覚えている。カムラの里よりそちらで過ごした期間の方が長いアヤメにとっては、集会所と言えばそういったイメージの方が強かったので、里の事情を知らずに誰もいないこの集会所を訪れた最初は面食らったものだ。
我先にとクエストカウンターで依頼書を踏んだくり、装備を万全に整え、食事を取る。腕が立つと噂されるハンターには次々に勧誘の声がかかり、時には複数のパーティ間で一人のハンターを巡って取り合いになることもあった。
見ず知らずのハンターと一期一会の共同戦線を張り、死力を尽くして共に戦い、見事クエストを達成して帰還した暁には、お互いの功績と無事を讃えながら酒を飲み交わした。
毎日が刺激的で、充実して、楽しかった。
イブキがこれからここで体験する世界。
そして、アヤメが『あの日』を境に失った世界だ。
不意に、集会所の中を強い風が吹き抜けた。乱れて顔に叩きつける髪を思わず押さえる。ゴコクがミノトに投げ渡そうとしていた書類がバサバサと舞い上がり、建物内のしだれ桜は一気に花弁を散らし、いくつかの提灯と食卓のお品書きが宙を舞う。
風はそれら全てを掴み取り、あっと言う間にテラスを越えて、遥か遠くへ持ち去ってしまった。
「おやぁ、何てこった。今の風で枝が何本か折れちまってる。桜はダメなんだよ折っちゃあ、痛んでしまう。可哀想に」
桜に駆け寄ったハナモリが頭を抱えた。その嘆きを聞いて一瞬表情を曇らせつつ、すぐにいつものポーカーフェイスに戻ったミノトがゴコクに問う。
「ゴコク様。全て飛んでいってしまいましたが、いかが致しましょう」
「一枚でも探してこようとかいう気概の一片もない潔さ、ワシは嫌いじゃないでゲコよミノト」
「恐縮です。……それにしてもあのような風、珍しいことですね。凶事の前兆などでなければ良いのですが」
「うむ……不穏、でゲコな」
背後で交わされる彼らの会話が漫然と耳に響く。
一昨日も、昨日も、何も変わらなかった。
今日は、いつもとは違う風が吹いた。
通り過ぎた風は、アヤメの胸を妙にざわつかせていた。
感想などはこちらでも受け付けております
https://forms.gle/PfMUjsBTCfibginL7
こちらでいただいた感想はTwitterにてお返事致します
Twitter→@tks55kk
( https://twitter.com/tks55kk?t=2A_6rAxtREzxaiEKJi0vfQ&s=09 )
pixiv→ https://www.pixiv.net/users/12316513
◇◇◇◇
これから大変な長丁場になりますが、のんびりお付き合いいただければ幸いです
【NPC全登場チャレンジ:残り38人】