One-way Spiral Staircase   作:まりも@tks55kk

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10-anchor【碇】

 今日は朝から夕暮れまで、とても陽射しが強い一日だった。

 

「ふにゃっ」

 

 ガシャン!

 

「え!?」

 

 スズカリから米俵を集会所に運んでくれと頼まれたアヤメは、大人一人分ほどの重さがあるそれを見事肩に担ぎ上げて、里の衆の密かな注目を浴びながら無事に届けてきたところだった。が、さて他にする事はないかと集会所を出た瞬間、アイルーの力無い悲鳴を耳にして飛び上がった。大きな簀巻きを頭上に掲げてアヤメの前を横切ろうとしていた荷物運びのイカリが、突然フラついたかと思ったら、支えてやる間もなくぺしゃっと倒れ込んでしまったのだ。

 

 イカリが運んでいた簀巻きの炭が辺り一面にバラ撒かれ、砕け散りながら通りの白い石畳に黒い幾何学模様を描いた。しかし、イカリはそれを拾い集めることすらできず、肩で息をして地面に倒れたままでいる。慌てて助け起こすと、アヤメの腕にすっぽりと収まったイカリの身体には、真夏の炎天下で天日干しした布団かというほどに熱が篭り、鼻先もカラカラに乾き切っていた。

 

「熱中症だね。日陰に行こう、身体冷やさないと」

「大丈夫……ちょっと疲れただけニャ……今日まだ一度も休んでニャいから……」

「一度も!? そりゃ倒れるでしょ、こんなに暑いのに。ヨモギちゃんにお茶でも貰って休んでなよ」

「でも……早くあれ、たたら場に持っていかニャいと」

「いいよ、アタシが運んどく。たたら場の外でいいんだよね?」

「ニャ……」

「分かった。大丈夫、ちゃんと持ってくから」

 

 炭を片付けたら診療所に連れていくからと、呼び寄せたヨモギに一旦イカリの介抱を任せ、代わりにイカリが持っていた炭を掻き集めて、たたら場まで運んでやる。先程の米俵に比べれば勿論ずっと軽いが、それでもコミツ辺りと同じくらいの重さはありそうだ。あの小柄なイカリが運ぶには、あまりに重すぎるのではないかと思う。

 たたら場の付近は、溶けた鉄が発する熱が壁を通して伝わってくるため、周辺の気温よりも大分暑さを感じる。既に米俵でそれなりの重労働をしていたせいもあるだろうが、指定された場所に炭を運び終えたら、汗で前髪がびっしょりと額に張り付いた。

 

 用を済ませ、たたら場前の階段を降りたところで、イカリの同僚であるツリキが駆け寄ってきた。彼も大荷物を積んだ籠を抱えていたが、わざわざそれを地面に置き、同僚の恩人であるアヤメに丁重に頭を下げる。

 

「イカリのことありがとうな! すぐに助けてくれたお陰で、大事には至らなさそうだ」

「偶然目の前にいたから。今からゼンチ先生のとこに放り込んでくるけど、いいよね?」

「ああ、本当に助かるよ。仕事はいいから休んでろってアヤメからも言っといてくれ。俺達が言っても聞きゃあしないんだ」

 

 炭で手を黒く汚したアヤメに手拭いを渡しながら、ツリキはやれやれと言った様子で溜め息をついた。

 

「運搬まで手伝ってもらっちゃってすまないね。重かっただろ」

「アタシは全然平気だけど……あの子、あんなに小さい身体でいつもこんな物運んでるんだね。それには驚いた」

「一度であんなに運ばなくてもいいんだよ、ホントは。なのにあいつは真面目すぎてねぇ」

 

 ヨモギに付き添われて茶屋でへばっているイカリを、遠目に見やる二人。普段は時々あそこで休憩をする姿を見かけていたが、そういえば最近は忙しく歩き回っているところしか見ていなかったな、と、アヤメは今更ながら気付いた。

 

「里守の皆は命を懸けて戦ってるんだ、だったら自分も頑張らないとって、最近は特に無茶しっ放しなんだ。小まめに休めとは言ってあるんだが……もっと目を配っといてやらなきゃいかんなありゃ」

「……うん、そうしてやって」

 

 小さな身体に大きな責任感を背負うイカリの心中に思いを馳せたアヤメは、ツリキに別れを告げ、放っておけばすぐまた仕事へ戻ろうとするであろうイカリを止めに向かった。イカリの気持ちが痛いほど分かるからこそ、足が急いだ。

 

◇◇◇◇

 

 ついに本格化し始めた百竜夜行は、カムラの里を内外から容赦なく疲弊させている。昨夜も里守とハンター達は砦での防衛戦に出掛け、今日はその後処理で里全体が慌ただしい雰囲気に包まれていた。

 

 今回は小型モンスターに加え、ドスフロギィが率いるフロギィの群れが複数組、それに加えてアオアシラ、フルフル、アケノシルム、バサルモス等の大型モンスターも出たという。それぞれの個体の生息域がバラバラであることは、里周辺の生態系にまだあまり詳しくないアヤメにも分かった。それらの情報は、百竜夜行が相当の広範囲に影響を及ぼす大規模な異常であることを明確に示している。

 

 普段は漫然と自分の思うように過ごしていたアヤメも、最近は里内でできる事を積極的に手伝うようになっていた。今日のように荷物を運んだり、怪我人の簡単な手当てをしたり、いわゆる小間遣いである。それによって里守から現場での様子を聞いたり、壊れた設備を見たりする機会も増え、被害が徐々に大きくなっていることを実感させられている。

 今日は、アオアシラの突進の直撃を受けて、砲身が奇天烈な方向に捻くれ曲がった大砲が引き上げられてきたのを見た。直接その光景を目にした者から聞いたので事実関係に間違いはないだろうが、アヤメの知るアオアシラは、巨大な鋼鉄の砲身を飴細工のように捻り潰してしまうほどの破壊力を持つモンスターではなかったように思う。攻撃力が高まっているのも、異常行動による影響なのかもしれない。

 

 百竜夜行の規模が大きくなってくるに従って、当然、怪我をして帰ってくる者も増える。茶屋で休ませていたイカリを引き取ってゼンチの診療所を訪れると、狭い病室はもうほぼ満杯だった。

 

「あそこで弾を切らしてなければ……くっそ、いてて」

「命が幾つあっても足りねえや。悪いが俺は国に帰るぞ」

「また次がすぐ来る! 行かなきゃ! 早く治してくれ!」

「誰がどれだけ戦果を上げてるのかも分からないわね、あれじゃあ……」

 

 幸い死人はまだ出ていないと聞いているが、皆それぞれに痛々しい傷を負い、口々に不安や焦りを滲ませている。伝承に基づいて代々百竜夜行に備えてきた里の民はまだまだ勇ましい一方、外から来た応援ハンターの中には、想像以上の災禍の大きさに心が折れてしまっている者もいるようだ。

 

 空いたベッドにイカリを寝かせ、濡らした手拭いと氷嚢で身体を冷やしてやっていたら、向こうで治療に当たっていたゼンチから指示が飛んできた。

 

「ちょうどいいところに来たニャ! 隣のスラアクの処置も頼むニャよ、両手とも中手骨がバッキリいっとるニャ」

「はいよ」

 

 振り返ると、ベッドに立て掛けられた傷だらけのスラッシュアックスが目に入る。その得物の持ち主である応援ハンターの男は、両手に加えて足も片方折れていた。聞けば、目の前のモンスターに早く止めを刺そうと大技をぶっ放したところで他のモンスターが突っ込んで来て両手を砕き、さらに後から来た別のモンスターに踏み付けられて足もイッた、とのこと。

 これだけ聞けば、スラッシュアックスの扱いに長けた者にはあり得ないほどの単純な判断ミスだ。しかし、こんな複雑な武器をわざわざ危険な現場に担いでいった彼が、腕に覚えのない未熟なハンターであるはずがない。百竜夜行の混乱に勘を狂わされ、本来の実力を出し切れなかったのであろうことは、彼の苛立つ様子からもなんとなく想像がついた。

 

 自分の手に包帯を巻く程度の処置は、ハンターであれば狩り場で頻繁に行うものだが、狩りの現場では各々が自分で勝手に手当てするため、他人にそれをする機会はあまりない。特に手のような複雑な箇所は向かい合うと上手くできないので、アヤメは男の傍らに立ち、彼と同じ方向を向いて処置をした。

 その手つきをじっと見ていた男は、包帯の結び方や切り方が、狩り場で応急処置をするハンター独特のものであることに、どうやら気付いたようだ。

 

「お、アンタもハンターか」

「まあね」

「この里の?」

「そう」

「砦では見かけなかったな。防衛には出てないのか」

「……出てないね」

 

 百竜夜行が里に到るのを食い止める為、里の民が長年かけて建設してきた、翡葉の砦。そこへ百竜夜行の群れを追い込み、まとめて撃退するのがこの里における防衛戦だが、そこへ行ってもできる事がほとんどないアヤメは、その砦へ足を運んだことは一度もない。

 

「ハンターならどうして砦に来ない? 外からの応援まで必要とするほどの大事だってのに」

「アヤメは怪我してるから仕方ないのよ。療養しに帰ってきてるんだから」

 

 隣に入院している女性の里守が、見かねてフォローに入った。彼女は肩から背中にかけて、浅いが広い火傷を負っており、今は横向きにしか寝られない。引き際を誤って担当していたバリスタをアケノシルムの火炎弾に破壊され、巻き込まれてしまったのだそうだ。

 

「なんだそりゃ、アンタの方がよっぽど重症じゃないか。コイツは元気に立って歩いてるのに、戦えないって? 怪我が怖くてハンターがやれるかよ」

 

 手当てを受けておきながら、スラッシュアックスの男は感謝を述べるどころか、延々と毒を吐き続ける。思い通りに戦えなかった歯痒さからの八つ当たりだろうか。アヤメは黙って耐えた。

 

「防衛に来てたハンターがヤバかったから、この里はすげぇなあと思ってたけど、随分な腰抜けもいるんだな」

「……」

 

 『ヤバいハンター』については、聞かずとも分かる。イブキのことだ。

 彼女は少し前に無事大剣の訓練を終えたようで、数日休んだ後は、すぐ百竜夜行の防衛に駆り出されていた。しかし、過酷な現場へ連日繰り出しているにも関わらず、訓練中よりずっと綺麗な顔で帰ってくるし、この診療所へ出入りする姿も、アヤメはまだ見たことがない。治療が必要な怪我を放置していればウツシに怒られるに決まっているので、ほぼ無傷で帰還しているのだろう。大型モンスターが大挙を成して押し寄せるという異常な状況に対応できず、このスラッシュアックスの彼のように大怪我を負うハンターも多い中、それを容易く切り抜けるイブキの実力が頭一つ抜けているのは、もはや誰の目にも明らかだった。

 

 イブキの戦いを直接目撃した里守達によれば、その戦いぶりは、

 

『芸術性すら感じる強さ』

『どっちがモンスターだか分からない』

『一人で里守二十人分くらい働いてそう』

 

 だそうである。里外のハンター達からの評価も非常に高く、各所からヘッドハンティングの話も来ているとかいないとか。最近になって不得手な武器種に転向したばかりのハンターだとはとても思えない活躍だ。その裏事情を知るアヤメは、一体イブキがこの短期間にどれだけの努力をしたのかと、感心を通り越して痛ましさすら感じている。

 

 右手の固定を済ませ、次は左手。無言のままテキパキと処置を進めていくアヤメに、スラッシュアックスの男はなおも説教を続ける。

 

「アイツ、アンタより大分若いだろう。下が命張ってんのに、情けないと思わないのか」

「……」

「ちょっと、何も知らないくせに偉そうに……いッ!」

 

 一切反論をしないアヤメに好き放題を言い続ける男。堪忍袋の緒が切れたらしい火傷の女性が、身を起こそうとして、背中の痛みに顔を顰めた。

 

「動かないで。傷に障るよ」

 

 自分の代わりに怒りを露にしてくれた優しい仲間を静かに制しながら、男の折れた手に添え木を当て包帯を結んで、余った包帯をパチリと切る。狩り場で幾度となく自らの手に施してきたのと同じ、ハンター流のやり方で。

 

「でも、アヤメ……」

「ありがとう。大丈夫だから」

 

 切なそうな顔をしてくれるのが苦しい。スラアク男はまだ憎々しげに何か喋っているが、もうその言葉はアヤメの耳を右から左に通過していくだけで、脳には届かなくなっていた。

 

 現場を見ていないので、知った風な口はおいそれと聞けない。でも、昔の自分なら、そこそこやれたのではないかと思う。複数のモンスターを一人で同時に相手した経験も、上位ハンターだったアヤメは数え切れないほど積んでいる。意識配分、視線の配り方、位置取りの仕方、状況に応じた技の選択。あれにもコツが沢山あるのだ。

 

 しかし――あまりに圧倒的な力で破壊された、あの大砲。傷の痛みに悶え苦しみ、己の非力を呪いながら悔しさに肩を震わせる仲間達。それらを目にする度、息が詰まり、足が竦んでしまう。頭より先に身体が闘いを拒否している。

 ハンター用の武器を使用しない里守としてなら、自分も参加できないだろうか。それは誰に言われずとも、毎日のように考えている事だ。でも、こんな精神状態ではそれですら足を引っ張りかねない。強大な自然の恐怖が里の中にまで侵食してきたことで、アヤメが身体だけでなく心にも負っていた大きな傷はバックリと開き、その存在感を否応なく突き付けていた。

 

「アンタも。早く治したいんなら大人しくしてて」

 

 それだけ言ってスラアク男に背を向け、イカリの身体に当てていた氷嚢の位置を変える。――こんな事は誰にでもできる、と思いながら。

 

 ハンターにしかできない事が目の前にあるのに、自分は何の役にも立たない。物資も食糧もギリギリで遣り繰りしている中、何も作らず産み出さず、戦うこともできない自分は、無為に里の食い扶持を増やしているだけだ。きっと里の皆は気にするなと言ってくれるだろうけれど、こんな時にはどうしても考えてしまう。いっそ、この里を出ようかと。

 

「アヤメ。もうホバシラの所に薬草が届いてるはずだから取ってきてニャ。入口に置いといてくれたらいいニャ」

「……分かった」

 

 未だ熱の引かないイカリの身体を冷やしながらぼんやりしていたら、ゼンチに再び用事を言いつけられた。おそらく先程のやり取りを聞いていたのだろう。心の中でゼンチの気遣いに感謝しつつ、診療所を出て船着き場へ走った。

 

 船着き場は大量の資材で溢れ返り、荷捌きを担当しているホバシラもてんてこ舞いの様子だった。声をかけるのも躊躇われるほどの雰囲気なので、なるべく短い言葉で最低限の用件を伝える。

 

「ホバシラさん。薬草すぐ出る?」

「はい? 薬草、薬草は……あそこの三箱ですね。すみませんが、ご自分で揚げて持っていっていただけますか」

「分かった、ありがと」

 

 まだ船に積まれたままの木箱を示され、黙々とそれを運び出しにかかる。水に浮かぶ小船の上は足元が不安定で、そういった作業に不慣れなアヤメは少し手間取ってしまう。

 

「仕入れる側から、何もかもが飛ぶように捌けていく……正直とても儲かっているんですが……複雑ですね、嬉しい悲鳴とも言い難い」

 

 四苦八苦しながら一つ目の重い木箱をようやく地上に引き上げ、二つ目に取りかかろうとすると、隣の船の荷下ろしをしながら、ぽつりとホバシラが呟くのが聞こえた。

 

「儲かっている理由が理由ですから……最近は、里の皆さんに責められる夢を見ることが増えました。大変な時なのに自分だけ良い思いしやがって、って」

「そんな……誰もそんな事言わないよ」

 

 笠に隠れたホバシラの表情はこちらからは窺い知れないが、疲れと自嘲が色濃く滲むその台詞と声色に驚き、アヤメは思わず手を止めて彼の言葉を否定した。

 

「ええ、勿論分かっていますよ。しかし、自分のするべき事をしているだけで罪悪感が湧くというのは、なかなか辛いものでして……はは、すみません。ずっと荷物ばかりを相手にしていたもので、急に愚痴りたくなってしまって」

「……」

 

 三つ目の木箱は、アヤメが苦戦していることを察したホバシラが手早く下ろしてくれた。「さっきのは、ここだけの話にしておいてくださいね」と苦笑しながらアヤメを送り出したホバシラの日に焼けた顔は憔悴し切っていて、形は違えど、皆それぞれに悩みながらこの厳しい日々を過ごしているのだということを、アヤメに諭しているようだった。

 

◇◇◇◇

 

 どこにも居場所のない心細さで今にも逃げ出しそうになるアヤメの心を、それでもカムラの里に繋ぎ止めているものは、目下二つある。

 

 一つ目はもちろん、アヤメの大剣と共に素晴らしい活躍を続けている、イブキの存在だ。

 彼女と集会所ですれ違ったある時、イブキはついに一言「ごめん」という言葉を発した。ウツシから何か話を聞いてのことだろう。すれ違い様にそう言ってすぐ立ち去ったので会話はできなかったが、それ以降は、遠くから身ぶりで挨拶くらいはしてくるようにもなった。アヤメの姿が目に入っただけで猛然と逃走していた頃を思えば、大変な大躍進である。

 しかし、まだアヤメの方を見る時は常にしょぼしょぼしているし、話しかけられることに怯えているような様子もある。あれが野良猫ならば、置いた餌は食べるようになったが近寄ったら逃げる、くらいだろうか。百竜夜行での勇姿しか知らない者があんなに萎れたイブキの様子を見たら、同一人物だと認識できないかもしれない。まだ何か気に病む事があるようなので、アヤメの方からは無理に接触はしないでおいている。

 

 加工屋を営む某スパイからの情報によれば、最近になってようやく「大剣を自分に合わせて調整し直してくれ」と注文の内容を変更し、元がアヤメの物であることや勝手に持ってきたことも、自分の口から白状したという。ナカゴが「アヤメさんからとっくに聞いてますよ」と言ったら、頭を抱えて悶絶していたらしい。その光景を想像したら、ちょっと可愛いような気がしてきた。

 

 そのやり取りによって、アヤメとナカゴに繋がりがあるのも完全にバレたので、便乗して「改めて飲み直そう」ともナカゴから伝えてもらった。何をごちゃごちゃ悩んでいるのかは未だに不明だが、ひとまずあとは、イブキが整理を付けるのを待つだけだ。彼女に相棒を託すと決めた今は、それを待つ時間がアヤメにとっての小さな楽しみに、そして大きな心の支えになっていた。

 

◇◇◇◇

 

 もう一つの錨は、夜になると不定期に現れるようになった、寡黙な来訪者。

 

「……」

「……今夜は随分早いね……」

 

 色々と悩みながらも里の何でも屋を精力的にこなし、夜半になってようやく帰宅したアヤメの前で、漆黒の毛並みをした一頭のガルクが、行儀良く『おすわり』をしている。夜の闇に半分溶け込み、何を考えているのかまるで分からない無表情のままで平然と居座るガルクに、アヤメは今夜も半ば呆れながら苦笑して「ただいま」を言った。

 

 以前オトモ広場で出会った、あの美しく繊細な黒いガルク。それが何故か、広場にあるオトモの寄宿舎を勝手に抜け出して、アヤメの家に通ってくるようになってしまったのだ。ガルクにはもちろん、イオリにも家の場所など教えていないが、何せこの里は小さく、そして相手はとびきり高性能な鼻の持ち主。アヤメの匂いを辿って、自力で探り当てたのだろう。

 

 やって来るのはいつもイオリがぐっすり眠っているに違いない深夜なので、すぐに返しにはいけない。最初は帰れと促して放っていたが、そうするといつまでも部屋の外でじっと座り込んでいるので、最近は根負けして部屋に招き入れるようになった。焼いた魚など、適当に食べる物を与えれば、何でも機嫌良く平らげる。

 ウンともスンとも言わず、付かず離れずの距離を保ったまま、夜の間は室内を嗅ぎ回ったり適当な場所に寝転がったりして勝手気ままに過ごす。それを見守りながらアヤメが寝落ちすると、起きた時には姿を消している。そんな事を繰り返していた。

 

 しかし。

 

「ねぇ」

「……」

「このままここに住む気?」

「……」

「……はぁ……」

 

 とうとう今日は、朝になってもアヤメの足許で堂々と寝ていた。傍らにしゃがみ込んで、どうするの、帰らないのといくら尋ねても、目を閉じたまま知らん顔をしている。耳はしっかりこちらを向いており、声をかける度にピコピコと動くので、聞こえているのに無視しているのは間違いない。

 ガルクよ、お前もか。同じようにこの部屋で座り込んでいたどこかの誰かを思い出して、アヤメは盛大に溜め息をついた。

 

「ったく、どいつもこいつも……」

「……」

 

 毒づかれてもビクともしないガルク。お手上げである。アヤメは降参し、ガルクの頭を一つポンと撫でて立ち上がった。

 

「心配してるだろうから、アタシはイオリくんの所に行ってくる。アンタは好きにしてな」

 

 そう伝えてアヤメが身支度を始めようとした途端、今まで何もかもを無視していたガルクはすくっと起き上がり、背筋をピンと伸ばして再び『おすわり』の姿勢を取った。アヤメが寝巻きを脱ぎ、いつもの防具を身に纏い、顔を洗って少し寝癖のついた髪を整える様子を、遠慮の欠片もなくじっと見つめる。

 準備を済ませてアヤメが一息つくとスッと立ち上がり、さも当然のような顔をしてアヤメの足許についた。どうやら、一緒に行くつもりのようだ。

 

「あっ、そう。……じゃあ、行こうか……はぁ……」

 

 何だか最近は、こんな感じの奴に振り回されてばかりだ。またしても昨夜と同じ苦笑混じりの溜め息をつきながら、アヤメはマイペースが極まってしまっているガルクと共に、オトモ広場へ向かった。

 

◇◇◇◇

 

「――というわけで、なんかずっといるの。どうしたらいいと思う?」

「そうだったんだ……ごめんなさい、ボク何にも知らなくて……」

「いやまぁ、悪さするでもなくただいるだけだし、別に来るのは全然いいんだけどね、アタシはね」

 

 朝から家出ガルクを探し回っていたというイオリは、その家出ガルクを連れて現れたアヤメから事情を説明され、安堵と不甲斐なさに大きく肩を落とした。涼しい顔でアヤメの後方に座っているガルクの傍らにしゃがみ込み、こちらにも心底申し訳なさそうな様子で謝罪する。

 

「キミにも何か思うところがあったんだよね……気付いてやれなくてごめんよ、ずっと側にいたのに」

「……」

 

 イオリの目をじっと見つめたまま、相変わらず物音一つ立てないガルク。

 

「こら。心配かけてごめんなさいくらい言えっての」

 

 アヤメが頭のてっぺんをツンと突ついて諌めると、ガルクはプイとそっぽを向いてしまった。大変いい根性をしている。繊細なんじゃなかったのか。それにしては随分と精神が鋼じゃないか。最近少々へこたれ気味のアヤメからすれば、その硬度を少し分けてほしいくらいだ。

 

 頑固一徹なガルクを前に人間二人が途方に暮れていると、その様子を見ていたシルベがおずおずとやって来て、衝撃の告白をした。

 

「あの、イオリくん……ごめんなさいニャ。ボクは知ってたニャ、この子が時々どこかに出て行ってるの」

「えっ、そうなの!?」

 

 驚くイオリにぺこぺこと頭を下げながら、シルベは言いづらそうに続ける。

 

「勝手に出掛けちゃダメニャあとは思ってたんニャけど……この子が自分から積極的に行動するなんて、出戻りしてきて以来初めてのことニャ。だから、どうするつもりなのか気になって止めれなかったニャ」

「……そっかぁ……それは確かにそうだね……ありがとう、正直に話してくれて」

「ニャ……」

 

 しょんぼりと項垂れるシルベを優しく撫でて宥めるイオリ。まだ若いのに仏かこの子は。アヤメはイオリの懐の広さに感動を覚えた。感動ついでに、気になっていた事を尋ねてみる。

 

「前にこの子の話してた時、怪我してるって言ってたよね。実際どんな状態なの?」

「帰ってきた時は、左後脚を酷く骨折してたんだけど……今はもう、飛んだり走ったりは他の子と同じようにできるよ。ね?」

 

 イオリが問いかけると、自分に都合の悪い話の時は知らん顔をしていたガルクが、くるりとこちらを振り返った。これは都合の悪い話ではないそうだ。そんなガルクの態度を見たイオリは、パッと表情を明るくしてある提案をしてきた。

 

「そうだ! ちょっとアヤメさんを乗せてあげなよ。キミも、アヤメさんにカッコいいところを見てほしいんじゃない?」

 

 ガルクは一瞬驚いたように目を丸くしたが、すぐにフンと鼻を鳴らすと、力強く立ち上がった。まさかの同意。どう見ても同意だ。とんとん拍子に進む突然降って湧いた話に、アヤメはそこそこ激しく動揺した。

 

「えっ? アタシ、ガルクに乗ったことなんかないよ。いきなりは無理じゃない?」

「この子、人を乗せるのは元々すごく上手だったんだ。信じて任せてれば大丈夫だよ! じゃ、鞍を着けるからちょっと待っててね」

「えっ、ええ……?」

 

 これを着けるのも久しぶりだね。よく似合ってるよ。キミはやっぱり走る姿が一番綺麗だ。それをまた見られるなんて、ボクも嬉しいな。――イオリに言葉を尽くして誉めちぎられながら、あっという間にガルクの背に鞍が装着された。素の状態でも十分に凛々しかった立ち姿に、どこか誇らしげな気配が加わる。堂々たるその佇まいは、アヤメも思わず見惚れるほどだった。

 

「さ、アヤメさん! 準備できたよ!」

 

 見惚れていたら、乗れと促された。向こうは準備できたかもしれないが、こちらの心の準備はできていない。

 

「あの……え、重くない……? だいじょぶ……?」

「心配しないで、大丈夫だよ。ね!」

 

 イオリに呼びかけられたガルクはまたしてもフンと鼻を鳴らし、引け腰なアヤメの脚に無理やり割って入ろうとする。初めて見せてくれた猛烈なやる気がなんだか嬉しくなり、アヤメが素直に従って身を任せると、ガルクは軽々とアヤメを背に乗せ、全くフラつくこともなくしっかりと大地を踏みしめた。イオリが手を叩いて大喜びしている。

 

「わぁ! 凄くお似合いだよ! まるでずーっと一緒に過ごしてきた相棒みたい!」

「……だってさ。凄いねアンタ」

 

 ストレートに誉めたアヤメの顔をちらりと横目で見やり、ガルクが僅かに腰を落とす。直感的に、走り出す気だと分かった。

 信じて任せれば大丈夫、イオリがそう言っていた。今ならそれも分かる。この子は、大丈夫だ。

 

 タッ!

 

 微かな足音と砂埃だけを地上に残し、次の瞬間には、宙を走っていた。とびきりの跳躍で近くにあった大木を蹴って華麗に三角跳びをし、巨大なからくり蛙よりもさらに高い位置に張り巡らされた足場へと身を翻す。気付けばたった二飛びで、アヤメとガルクは広場を見下ろす足場の上に立っていた。

 

「……す、凄い……初めての搭乗でこんなに呼吸が合うオトモとハンターさん、初めて見たよ……」

 

 遥か下の地上から、イオリが息を飲むのが聞こえる。しかし不思議なことに、アヤメには彼ほどの驚きはなかった。

 ガルクに搭乗するのは、本当に今回が初めてだ。にも拘わらず、あの跳躍にはまるで、自分とガルクの身体が一つに融け合ったような一体感を覚えた。今この高みに立っていることも、当然の結果であるようにすら思える。もし縁というものが人間と動物の間にも存在するのならば、それはこういう事なのかもしれない。

 

「やるじゃん。ただの偏屈じゃないね、見直したよ」

 

 アヤメが背中から降りて足場に座り、ガルクの顔を下から見上げるようにしてそう誉めると、ガルクは何やらフンスと言って足場をさっさと飛び降り、大木の裏に回って、そこを流れる大河の流れを悠々と眺め始めた。突然ポツンと取り残されたアヤメがおーいと呼びかけても、無視。その様子を見ていたイオリ達がクスクスと笑いを堪えている。

 つらい。先ほど強烈に感じたような気がした縁が、いきなり少し不安に揺らいだ。

 

「……わっかんないなぁ、ホント……」

 

 置いていかれたので仕方なく、先程ガルクが跳んだルートを逆に辿って自力で地上に飛び降り、アヤメが誰にともなくぼやくと、側で黙って一部始終を見守っていたアイルー頭領のコガラシが、珍しく笑いながら口を開いた。

 

「ははは、あれは照れているのでござるニャ」

「えっ……分かりづら……いや、機嫌悪くしたんじゃないならいいけど……分かりづら……」

 

 不器用なガルクと困惑するアヤメを、布で覆った見えない顔で一頻り笑ったコガラシは、こちらに背を向けて照れ隠しをしている意地らしいガルクの後ろ姿を見やり、その身に起きた痛ましい過去を語ってくれた。

 

「あれは優秀なオトモとして狩り場の第一線で活躍していた、とても誇り高きガルクでござったニャ……しかし、前の雇用主を庇って足を折る怪我をした挙げ句、そのまま狩り場に捨てられ、他のハンターに保護されて戻ってきたのでござるニャ」

「……!」

 

 アヤメは絶句した。そんな酷い事をする人間が、この世にいるものかと。否、もはやそんな物は人とすら呼べまい。鬼畜だ。モンスターが跋扈する狩り場にひとり打ち捨てられたガルクの恐怖や孤独を思い、胸が張り裂けるように痛んだ。

 

「折れた骨はとうの昔に繋がっているが、時折、負傷した時の心身の痛みが甦ってしまい、足が竦むことがあるようでござるニャ。その感覚は……よもやアヤメ殿にも、覚えがあるのではござらぬかニャ」

「……」

 

 かつて里長フゲンと共に厳しい狩り場や百竜夜行を生き抜き、今もオトモ達の頭領を務めるコガラシ。その達観した静かな声と、アヤメとガルクを全く同等の目線で見つめる眼差しは、表情を隠す覆面を通してなお、彼の大きな慈愛と労りの心を伝えてくる。

 

「そのような心持ちで再び狩りに出て、足手纏いになること……そして再び人に捨てられることを、あれは何よりも恐れていたでござるニャ」

「……そっか」

 

 いつの間にか、イオリもアヤメの傍らに立ち、ガルクの背を悲しげな目で見つめながら、コガラシの語りにじっと耳を傾けていた。イオリはこれまでアヤメにこの件を何も語らなかったが、雇用窓口を担当している以上、知ってはいたはずである。残酷なほどに身勝手な人間の行いを自らの口で語るには、彼はあまりに優しすぎたのかもしれない。

 

 今朝からずっと迷っていた心が、ようやく決まった。

 

「ねぇ、イオリくん。……狩りに行けないハンターでも、オトモって雇える?」

 

 ガルクの過去を思って悲しみに沈んでいたイオリの表情が、みるみるうちに驚きと喜びでくしゃっと崩れた。

 

「……アヤメさん!? 本当に!? 本当にいいの!?」

 

 飛び付いてくるのではないかというほどの勢いで、半泣きになりながら何度も確認してくる。アヤメのことを信じていないわけではない。以前「オトモは雇わない」と言い切っていたアヤメの心が変わったことが、嬉しくて仕方ないといった様子だ。

 

「うん。あの子がアタシでいいならだけど。どうかなぁ」

 

 その言葉を聞くなり、今度はシルベが喜び勇んで飛び上がり、すぐさまガルクを呼びに走った。アイルーはガルクと話ができるので、おそらく今の話を伝えてくれたのだろう。やがてガルクは、踊るような足取りのシルベに連れられてスタスタと戻ってきた。嫌ならあの子は無視するはず。アヤメのオトモになることには、同意してくれたようだ。

 

 不意に名案が閃いた。それを実行する為に交易船の方を窺うと、不必要な兜を被ったロンディーネのオトモ――もといお付きのアイルー・カナリーノが、ちょうど黒い石をいじっている。兜の方がカナリーノ、絵を描いている方がチーニョという名であることは、いつだかにコジリから聞いた。持つべきものはアイルーの友達である。

 

「ねぇ、それ何? 今手に持ってるその黒いの」

「これニャ? これは黒輝石ニャ! カムラの里周辺では絶対に入手できない、とってもとっても貴重な品ニャ~」

 

 夜空のように深い黒味を帯びた、とてもとても美しい鉱石。アヤメの企みに見事マッチする物が、都合良く目の前に現れた。これこそ縁というやつに違いない。

 

「……いくら?」

「ニャッ! んー、でもこれは売り物ではニャいので……どうするかニャ、うーん……ここはわたくしの独断で……コショコショ。……さぁ、いかがニャ?」

「うっ!?」

 

 いわゆる言い値というやつを耳打ちされた。高い。ちょっと頬が引きつるくらい高い。ぼったくりではないか。エセ商人(推定)の癖に足下見やがって。正体バラしてやろうか。――という本音は、理性でなんとかかんとか抑え込んだ。交渉事では感情的になったら負けだ。

 

「うーん……も、もう一声……」

「これ以上は一歩も譲れないニャ、何せとーっても貴重な物だからニャ」

 

 交渉の余地はないそうである。二人の間に小さな火花が散った。

 

「貴殿はこれが欲しいニャね? 欲しいのニャね? しかし今を逃したら二度と手に入らないかもしれないニャよ? それでもよろしいニャ?」

「……っあー! よし、買った!」

 

 あっさり負けた。歯を食い縛りながら、言われたままの代金を財布から引っ張り出して叩きつける。出ていった現金という名の現実を見たくないので、小躍りでそれを受け取るカナリーノの手元は見ない。押しに弱い自分の性格が憎い。

 でも、後悔はない。そのくらい美しいと思ったから。

 

「……っはー。やっちゃった。しばらくはうさ団子ちょっとケチるか……あ、ねぇイオリくん。何か細い紐ある?」

「えっ? ……えっと……こんなのでいい?」

「うん、ありがとう」

 

 腐ってもハンターなので頭の切り替えは早い。イオリから貰った麻紐で買ったばかりの黒輝石を器用に括り、余った長い部分を首飾り状にして、ガルクの首にぶら下げてやる。想像していた通り、黒輝石は夜の帳のようなガルクの毛並みにも負けず、むしろその黒さを際立たせるように美しく輝いた。「これからする約束のために、なるべく美しい黒い物をプレゼントしたい」。それがアヤメの閃きだった。

 

 キョトンとして大人しくそれを受け入れたガルクの正面に跪き、目の高さを同じにして、ゆっくりと話しかける。ガルクの心に染み渡るように、自分に言い聞かせるように。

 

「約束。アタシは、アンタがそれを着けてくれてる間は、絶対にアンタを捨てたりしない」

 

 ガルクは何も言わず、自分と同じ色をしたアヤメの瞳を、じっと見つめる。

 

「つまりアンタは、アタシと一緒にいたいと思ってる間は、これを着けとく。アタシのことを信じられなくなったら、外す。アタシはまだアンタの言葉が分かんないから、これがその代わり。……いい?」

 

 軽く握った拳を、下方からゆっくりガルクの鼻先に寄せる。人間がガルク流の挨拶をするならこれが一番近いと、子供の頃に誰かが教えてくれたのをアヤメは覚えていた。

 ガルクはアヤメが差し出した拳に鼻先をツンと当て、それから一度だけ、ぺろりと舐めた。

 

「ん。じゃあ、明日フクラくんの所に行って、ちゃんとした首飾りに加工してもらおうね。そのままじゃすぐ取れちゃうだろうから」

 

 アヤメが微笑んで頭を撫でると、ガルクは少しだけ胸を張って、また鼻を小さく鳴らした。イオリとシルベが喜び泣きしながらガルクに抱き着く。オトモ広場全体に、温かいお祝いムードが広がった。

 

「っと、衝動買いついでに、そっちのオトモさんにもお願いしたい事があるんだけど」

「!?」

 

 自分は無関係だと思ってのんびり絵を描いていたのに、突然『オトモ』と声をかけられたチーニョは、握っていた絵筆をスッ飛ばすような勢いで慌てて弁明を始めようとした。やっぱりこの面子、面白い。今後はガルクを連れてここを訪れる機会も増えるだろうから、たまにはからかって遊ぼう。小さな楽しみがまた一つ増えた。

 

「おっオオオトモではございませんニャ! わたくしは」

「はいはい、商人のお連れの絵描きさんね。今日一日はあの子ここに置いてくから、あの子の絵を一枚描いてやってくれないかな。記念に」

「ニャ?」

 

 アヤメのその言葉を聞いた途端、ガルクが明らかに不満そうな顔をした。本当に機嫌を損ねた時は、フンと鼻を鳴らすのではなく、眉間にも鼻先にも皺が寄る。アヤメは即座に学んだ。

 「いきなり嘘つきか」と言わんばかりにアヤメの脚を齧ろうとしたせっかちなガルクに、軽いデコピンを食らわせて笑いながら諭す。

 

「アンタがうちに住めるように準備してくるんだよ。明日ちゃんと迎えにくるから、お世話になったイオリくんとか他の子達に、しっかり挨拶しときなね」

「……」

 

 目を真ん丸にし、齧りつきかけていた口をそろりと離すガルク。周囲が笑う中、気まずそうに上目使いでこちらを見ている。皺はなくなった。オーケー、物分かりの良い子だね。そう言って撫でてやったら、またそっぽを向いた。これは、この子の照れ隠し。また一つ覚えた。

 

 イオリ達にガルクとの最後の一夜を頼んでオトモ広場を後にしたアヤメは、その足でイヌカイにガルクのことを教わりにいった。「住めるように準備してくる」と言った手前、一緒に暮らすのに最低限必要な物くらいは用意しておかなければ、あのガルクに申し訳ないからだ。

 里のガルクによく精通しているイヌカイは、アヤメが引き取ったガルクについても、過去の活躍から出戻ってきた経緯まで、正確に把握していた。さすがである。

 

「あの子が自分から人に心を開くとは驚いたな……よっぽど何か通じるところがあるんだろうなぁ」

「さあ……アタシの何が気に入ったのか聞ければいいんだけどね。正直こっちはまだ、何がなんだか」

 

 肩を竦めて溜め息をつくアヤメ。しかし、その表情が普段より幾分か柔らかくなっていることに気付いているイヌカイは、微笑ましくその様子を見ている。

 

「あ、ちなみにガルクは、人間の言葉はほとんど理解できてるよ。分からないのは人間側だけだ」

「それはなんとなく分かる。凄いよね。アタシ達は、こっちの言葉を喋ってもらわないと何にも分かんないのにさ」

 

 人間とガルク両方の言葉が分かるアイルーが羨ましいとアヤメがぼやくと、イヌカイはそうだねと言いながら笑って、傍らに寄り添うゴウカを優しく撫でた。

 

「他のオトモガルクと同じにならなくていい。このゴウカみたいに、狩りに出なくたって全然構わない」

 

 いつもイヌカイと共にいるゴウカも、一度はオトモとして狩りに出たものの、性格に適正が無いとして里に戻されたガルクだ。しかし今は、そんな過去を気に病む様子もなく、穏やかに日々を過ごしている。

 

「この子は、他者を傷付けるのがどうしても嫌だったんだ。だから、そんな事をしなくて済む暮らしをしてる。僕はそんな優しいこの子が愛おしいから、家族として一緒にいる」

 

 イヌカイに撫でられるゴウカは、ゆったりと目を細め、心からリラックスしているのが見ているアヤメにも分かる。『うちの子』となったあの子も、いつかこんな顔を見せてくれる日が来るのだろうか……と、全世界を拒絶して狸寝入りをする澄ました横顔を思い出す。うん、当分先になるかもしれない。構わない。別に急ぐ事でもない。

 

「あの子も……それにキミも、色々と抱えてるものがあるだろうけど、とりあえずはお互いがやりたいようにやればいいよ。それがキミ達にとっての家族の形になるからね」

「……うん。ありがとう」

 

 その後、イヌカイはガルクとの生活に必要な道具を一通り教えてくれた。名札、食事用の皿、毛並みを整える櫛、搭乗の予定があるのなら鞍も、等々。そして、教えるそばから、沢山余っているからとほとんどはタダでくれた。先程その場の思い付きでガルクのオシャレに派手な散財をしてしまった身としては、もうイヌカイの家に足を向けて寝られない勢いでありがたい。

 ついでに、作り過ぎて余った猟犬具もくれるという。護り番傘と陽動の巻物だった。これについては、当面狩りに出る予定のない自分達には必要ないかもしれないと思ったが、貰える物は貰うの精神でとりあえずありがたく受け取り、使い方も一応習った。明日あの子に見せて、相談してみようかなぁなどと思う。

 

 荷物をいっぱいに抱えて帰宅したら、すぐに、ガルクが寝る場所や猟犬具を片付けるスペース等を作った。埃っぽいのはあの子の敏感な鼻に良くなかろうと、掃除もした。アヤメの微妙に大雑把な性格がそのまま出たような微妙に雑な掃除ではあるが、それなりに綺麗にはなった。少し前にハナモリが直してくれた戸板には、ガルクが自分で開閉できるよう、布を垂らした取っ手を付けた。

 

 翌日。約束通りガルクを迎えに行くと、チーニョはアヤメとガルクが鼻先を突き合わせている絵を描いてくれていた。最初にアヤメがオトモ広場に来た時の様子をちゃんと見ており、印象に残っていたその光景を絵にしてくれたのだと言う。さすが歴戦ハンターのオトモ(仮)、素晴らしい視野の広さと観察眼である。

 絵そのものも抜群に上手い。しかしガルクはともかく、自分の方は少し美化しすぎではないかと尋ねたところ、「わたくしは見たままに描きましたニャ、貴殿はそのくらい美しいということですニャ」とあっさり返され、真っ赤になって皆に笑われてしまった。

 丁重に礼を言ってチーニョから絵を受け取ると、傍らで積み荷のチェックらしき事をしていたロンディーネが振り返り、にっこりと笑って言った。

 

「その絵は、この里に来てからチーニョが描いた無数の絵の中でも、一二を争う秀作だよ。モデルが良いと描く側にも張り合いが出ると言って、昨日のチーニョはとても張り切っていたからね」

 

 怪しい商人から投げかけられた、何の裏も、胡散臭さもない言葉。チーニョも満足げに頷いている。心がくすぐったくなって、思わず微笑みながら一つ会釈をした。

 

 さて、次で用件は終わりだ。オトモの雇用主として、一番大事な仕事が残っている。それは、命名とギルドへのオトモ登録。

 

「名前、決めてきた?」

 

 昨夜は喜びで泣きはらしたらしく、目を少し赤くしたイオリが、登録書類を万全に準備して返答を待つ。アヤメは迷わず答えた。

 

「うん。……『レイメイ』で、登録お願いします」

 

 黎明。まだ暗く、しかし程々に夜明けが近い時間帯。真っ黒な毛並みと過去に包まれたこの子の未来が明るく拓けることを願った時、真っ先に脳裏に浮かんだ言葉だった。

 

「アタシ横着だから、そのうち縮めてレイとか呼び始めると思うけどね。本名は、あくまでもそれってことで」

「……とっても素敵な名前だね。夜明けみたいな色と心を持つこの子にぴったりだよ。……本当に、本当にありがとう、アヤメさん」

 

 レイメイと共に部屋へ帰ってすぐに、チーニョが描いてくれた二人の絵を、月明かりが一番綺麗に当たる壁に飾った。それを座って眺めている間、レイメイはいつも通り何も言わず、しかし今日は満足そうな顔をして、アヤメの身体に寄り添っていた。静かで、温かくて、とても心地好くて、二人はいつの間にかそのまま抱き合うようにして眠りに落ちた。

 

 明日になったらまたプイッとやられるかもしれないが、ちょうど良い距離感を探すのは、これからゆっくりやればいい。時間はいくらでもあるのだから。

 




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◇◇◇◇

むやみにパンパンするスラアクは三流 私の事です
ロンディーネ一行はおそらくイタリア人

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