One-way Spiral Staircase 作:まりも@tks55kk
「怨虎竜討伐!! 怨虎竜討伐!!」
「やった!! イブキがやったぞ!! マガイマガドをぶっ倒したァァ!!」
かつて百竜夜行と共に現れ、その群れもろともカムラの里を滅亡の間際に追い込むまで食い荒らしたモンスター、怨虎竜マガイマガド。五十年の時を経て再びその姿を現した里の宿敵に、今やカムラの里随一の兵となったイブキが、一騎討ちを挑んだ日。夜が明けたばかりの里に、半世紀越しの悲願達成を知らせる里守の絶叫がこだました。
アヤメは普段通り、百竜夜行の防衛組の準備を手伝って砦へ送り出し、彼らとイブキそれぞれの無事を祈りながら、皆の帰還を待っていた。マガイマガド討伐の第一報を受けた際には安堵のあまり、一晩中寄り添ってくれていたレイメイの上に崩れ落ち、尻尾を踏んづけて恩を仇で返したことを謝り倒しながら喜んだ。
程なくして砦から百竜夜行を撃退した里守達も帰還し、あとは祝宴の準備を整えて、偉業を成し遂げた英雄の凱旋を待つのみ――皆がそう思っていた。
しかし、日が高くなる頃になっても、イブキは戻らなかった。そして、半日以上遅れてようやく届いた英雄についての知らせは、アヤメは勿論、里の民すべてに大きな衝撃と動揺をもたらした。
――イブキは瀕死に近い重傷を負った。
――討伐現場ではなく、帰途からも外れた岩陰でオトモ共々力尽きていたので、発見が遅れた。
――ゼンチがイブキの自宅で治療中。水車小屋には原則接近禁止。
最悪の事態を紙一重で免れただけの、限りなく最悪に近い続報ばかりが里を駆け巡る。詳細が判明する都度、里の民は狼狽し、時には泣き崩れ、最終的にはただ黙って、たたら場の焔にイブキの無事を祈るしかできなくなった。
それはアヤメも同じだ。しかも、里にとっては大変素晴らしい事だがアヤメにとっては悪い事に、当面は百竜夜行の予兆も見られないという。非常時でなければ特に仕事のないアヤメは、ただ待つだけの時間を持て余す外ない。こんな時にする事がないというのは、多忙であるより何倍も辛かった。
それを知ってのことだろうか。イブキが里に運び込まれた翌日の夜更け、じっとしていることに耐えられず自宅前で疾翔けの練習などをしていたアヤメの所へ、一羽のフクズクが文を届けにきた。差出人はイブキの治療に当たっているゼンチ。内容は「お前さん一番暇そうだから、ワシが仮眠する間の見張りをしに来てニャ」だった。
好きで一番暇そうにしているわけではないが、断る理由は何一つない。レイメイに留守番を頼み、アヤメはすぐさまイブキの水車小屋へ向かった。
◇◇◇◇
目的地に到着すると、普段ならとっくに店を閉めて帰っているはずの魚屋カジカが、店先から向かいの水車小屋を恨めしそうに見つめているのが視界に入る。こんな時間に何をしているのかと声をかけると、カジカは鼻先に小さく皺を寄せ、ぼそぼそと呟いた。
「あそこは接近禁止って言うから、お風呂に入れないニャ」
「……うん」
額面通りの愚痴ではないのは分かっている。彼は彼なりの表現で、そんな状況になるほどの大怪我を負ったイブキに胸を痛めている、と言っているのだ。
「……アヤメはあそこに入っていいのニャ?」
「そうみたい。ゼンチ先生に呼ばれた」
「ニャ……」
店に並べた美味しそうな魚と水車小屋をチラチラと見比べ、何か言いたげにしている。魚持ってけと言いたいが、言ったところで持っていってはもらえないことも理解しているのだろう。もしかしたら、既に自分で届けに行って、追い返されたりもしたのかもしれない。
「……魚を食べたらきっとすぐ元気になるのに……今は……食べれないニャね……?」
長い葛藤の末にようやく絞り出したカジカの声は、泣き出しそうなくらい震えている。思わず傍らに跪いて背中を少し擦ってやったら、カジカの大きな瞳からポロポロと涙が溢れて落ちた。
「食べれるようになったらしこたま食べさせよう。その時に備えて、良い魚いっぱい用意しといてやって」
涙を拭ってやりながらアヤメがそう言うと、カジカは小さくコクコクと頷き、諦めたように店仕舞い作業を始める。里の皆がカジカと同じ気持ちでいることは、水車小屋の傍らに積まれた大量の米や野菜を見ても分かった。
閉じられた水車小屋の戸を前にした瞬間、アヤメの脳裏にある予想が浮かぶ。オトモ達は入院中だと聞いたが、おそらくルームサービスも不在だろうと。外にいても鼻をつく薬、血、肉の匂い。耳を澄ますと聞こえてくる、不規則にごろごろと異音の混じる小さな呼吸音。
予想は正しかった。主の惨状に耐えられまいと判断されたルームサービスはゼンチによって帰されており、扉を開いた先にいたのは、ゼンチと奥の布団に寝かされたイブキだけだった。
「来たよ。入ってもいい?」
「おおーアヤメ、むちゃくちゃ早かったニャ! 助かるニャ~、もう眠くて眠くて」
一応開けた扉をノックして尋ねると、百竜夜行で負傷した里守と遅れて戻ったイブキをぶっ続けで治療していたゼンチが、部屋の最奥から顔を出し、大喜びでアヤメに手を振った。
数歩入って、立ち止まる。ルームサービスとは逆に、耐えられると判断されたからこそ呼び出されたはずのアヤメも、流石に数秒間は絶句してその場から動けなかった。
「……アヤメ……さん?」
首だけを動かしてこちらを見やったイブキの顔は、ほぼ半分が包帯とガーゼで隠れ、目は片方しか見えていなかった。久しぶりにアヤメの名を呼んだ声は弱々しく、まるで別人のように掠れて、ほとんど音を為していない。頭から足先に至るまで、どこもかしこも何かしらの処置を施された跡だらけで、その隙間からは、縫合されたばかりで赤紫に腫れた傷が覗く。一度の量こそ多くはないものの、頻繁に咳き込んでは吐血しているようで、満足に手を動かすこともできずそのまま吐き散らかすしかない彼女の頭部周辺は、不慣れな者が見れば卒倒してもおかしくない、地獄のような有り様だった。
「もう治療は大体終わっとるから死ぬことはニャいし、心配せんでも大丈夫ニャよ。ほれ、突っ立ってないでこっち来て座るニャ」
「……うん」
指示されるがままにゼンチの隣に腰を下ろし、じっとイブキを見つめるアヤメの顔を横から覗き込むと、ゼンチは何故か、にっこりと笑った。
「よしよし。落ち着いとるニャね」
「うん。大丈夫」
痛々しいイブキの姿をしっかりと直視したことで、アヤメは逆に、普段の落ち着きを取り戻していた。イブキを静かに見つめる瞳は、決してただ呆然と嘆いているのではなく、イブキの状態を具に『観察』している。幾度となく自他の生死を賭ける戦場を潜り抜けてきた、上位ハンターの肩書きと経験は伊達ではなかった。
ゼンチはアヤメを交代要員に選んだ理由を「暇そうだから」と書いていたが、実際のところは、常人なら悲鳴を上げるような状況に於いても冷静で的確な判断を下せる彼女の精神力と、不測の事態に必要となる応急処置の技術を見込んでの選出だった。高い身体能力や幅広い見識など、他の者にないアドバンテージを多々持ち合わせながら、いつでも自由に動けるという特殊な立場にあるアヤメは、たとえハンターとして一線に立つことができずとも、『役立たずの暇人』という本人の自覚とは全く真逆、むしろ非常に貴重かつ重要な人材なのである。
「えーと、今どういう状態?」
「腹の中は無事、骨の何ヵ所かにヒビ。鬼火に喉と肺をちょびっと焼かれとるからちょいちょい血を吐くけど、呼吸も会話も一応はできるニャ。外傷はほとんどが切創と火傷で、ほぼ全て処置済み。ただ、背中に一つ大きめの裂挫創が残ってて、これはまだ消毒と仮押さえしかできてニャいから、後でちょっと切って縫うニャ」
「分かった。で、アタシがやる事は?」
「時々適当にこれを飲ますのと、もし今以上に熱が出たらこれと……あとはまぁ、なるべく動かさんことと、血で汚したら綺麗にしてやるくらいかニャ。包帯とかはあそこにあるから、気になったら適当に替えてくれていいニャよ」
「了解。じゃ、それ以外に何かあったら起こしに行くわ。診療所ね」
「ほいほい。ないと思うけどニャ……じゃ、しばらく頼むニャ。ふぁ~あ……」
「お疲れ様。ゆっくり休んできて」
話の通じる者同士の会話は無駄がなく、密で早い。ゼンチは自分の人選が極めて正しかった事に満足しながら、特大の欠伸を残して水車小屋から立ち去った。
◇◇◇◇
二人きり。最後に会話をした時も、そういえば二人きりだった。あれからもうどれくらい経っただろうか。
「……こんな形で話する予定じゃ……なかったのにな……ホント、ごめん」
先に口を開いたのはイブキだった。包帯で覆われていて片目しか見えないが、それでもきちんとこちらを見て、謝っている。目を合わせる行為自体も久しぶりだ。こんな形になってほしくなかったとは勿論アヤメも思うが、今は、そんな事はどうでもよかった。
「いいよ。よかった、生きて帰ってきてくれて」
「……ごめん」
「いいってば」
ウツシ曰く色々と反省していたそうだから、罪悪感も長らく溜め込んだままだったのだろう。放っておくと永遠に謝り続けそうなので、早々に話題を逸らすことにした。
「マガイマガド、そんなに強かったんだ?」
「!」
できればあまり喋らせない方が良いのは分かっているけれど、アヤメは自分が話し役になるのは得意ではない。少しでも気を紛らわせてやれればよいかと、イブキが今一番話したいであろう事を尋ねてみた。
「――うん、強かった。凄かったぁ」
「……え?」
先程までの弱々しさが嘘のように消え去った、突然の力強い呟き。あまりに唐突な変化に強烈な違和感を覚えてイブキの顔を覗き込むと、ほんの少し前まで死にかけていた人間のものだとは到底思えない、生き生きと輝く瞳が見つめ返してきた。
つっかえながらしかできなかった会話も、声こそ掠れ切ったままではあるが、急に流暢になった。まさか、焼け爛れた粘膜の違和感や痛みさえ、マガイマガドを思い出したこの一瞬で忘れたというのだろうか。アヤメは驚きを通り越して、背筋に僅かな寒気を感じた。
「食べかけのトビカガチ持ってきたの、あの子。だから、食べてるところずっと見てたんだけどさ」
「見てた!?」
初っぱなから耳を疑う爆弾発言が飛び出した。獲物が食事をしている最中と言えば、狩りにおいては何にも代え難いほどの好機。しかも、マガイマガドは喰らった獲物の血肉を鬼火に変えて戦う、『喰えば喰うほど強くなる』モンスターだ。どちらも、単身でマガイマガドとの決戦を任されたイブキが知らないはずがない。なのに――見ていたとは?
「残さず綺麗に全部食べたのにまだお腹空かして、ハモンさんのからくりの匂いに釣られて暴れてたよ。燃費悪すぎじゃない?」
「わざわざ力を蓄えて強くなるまで待ってたってこと? なんでそんな真似を……」
「え、食べたらどうなるのかなって。そしたら鬼火がなんか凄いことになっちゃって。いやーもうむちゃくちゃ強かったわ。さすがに死ぬかと思った、アハハ、げほっ」
血反吐を吐きながら、傷だらけの半分しか見えない顔で、心底楽しそうに笑うイブキ。戦闘中に頭を打って気でも触れたのかと疑うほど、その笑顔には曇りがない。理解の範疇を超える異様な光景に、軽く目眩がしてきた。
「実際死にかけといてアハハじゃないよバカ。里長も『喰えば喰うほど強くなる』って言ってたでしょ? 聞いてなかったの?」
諌めずにはいられずそう問いはしたが、答えは分かり切っている。『聞いていたから』喰わせたのだ。
イブキの頭は、己の皮膚を切り裂き身体の内外を焼き、哀れなトビカガチ同様に骨まで喰らい尽くそうとしていた、マガイマガドという貪欲な生物への興味でいっぱいだ。話を聞いていないと言うのなら、今がまさにそれである。
「あんなにずーっと腹ペコでさ、百竜夜行の時以外はどうしてるのかな? 食べて食べて、どこまでも強くなって、何がしたいんだろ。鬼火なんかなくたって十分強いの……に……ぐ、かはッ」
急に興奮してべらべらと捲し立てたので、アヤメより先にイブキの身体がストップをかけ、派手に噎せた。アヤメの方を向いてなおも何か喋ろうとしては咳き込むものだから、アヤメまでイブキの吐血を浴びてしまい、思わず眉を顰める。
「あーもー、ちょっと落ち着けって。はい、とりあえずこれ飲んで。……ったく……ホントにどっかで頭でも打ってきた?」
「……」
悪態をつきながら、背中の傷に障らないようほんの少しだけイブキの頭を持ち上げ、ゼンチから預かった水薬を彼女の口へ強引に流し込んで黙らせる。「時々適当に」でよいことから、おそらく痛めた喉を癒すための物だろう。ゼンチの薬は良く効く。根気よく続けていれば、会話はもう少し楽になるかもしれない。
ゆっくりと与えられた水薬を飲み下し、頭を枕に戻されたイブキは、一度だけアヤメの呆れ果てた表情を横目で見たきり、ぼんやりと天井に視線を移し――今までに見せたことのない、切なげな表情を浮かべた。その心中が強く突き刺さってくるような、とてもとても、淋しそうな目。
「……強いとか、頼りになるとか、いっぱい……言ってもらってるけど……本当はただ、ずーっと見ていたいの、わたし」
「!」
ウツシが言っていた、アレだ。
まだまだ喋る度に噎せては吐血する。仰向けのまま動かない傷だらけの顔が、自ら吐いた血で点々と赤黒く汚れる。それでも懸命に話そうとするイブキ。つい、そこまでして話したいのなら聞いてやりたいと思ってしまい、無理に喋るなと止めることができなくなった。
「人の暮らしも、自然も、モンスターも……なんかこう……全部ゆるっと繋がってるのは、なんとなく分かるんだけどさ」
「うん」
「どこがどうなってるのか、分かんない事だらけで、何て言うか……果てが、ないじゃない? だから、もっと色んなものを見たくて……ハンターになったんだよね、わたし」
「……うん」
言葉の合間に吐く血を拭ってやりながら、しゃがれて聞き取り辛い小さなイブキの声を掻き消さないよう、同じくらい小さな声で相槌を打つ。たどたどしくはあるものの、彼女がこのように抽象的な話し方もできる人間であったことには、密かな驚きを覚えた。
「強くなればなるだけ、新しい事が知れるし、あとまぁついでに……自分とか、里のみんなも守れるから、強くはやっぱり、なりたいんだけど……わたしは、わたしが見たいものを見るため……生きるために、狩りをしてるだけで。それが結果的に、里の役に立ってるだけでね」
「……」
いきなり相槌を打つのを忘れた。自分の命を守ることを『ついで』にする人間が、自分の生まれ故郷を守ることを『ついで』と言ってのける英雄が、他にいるだろうか。彼女にとってそれらは生きた結果でしかなく、未知の世界を探究することこそが、生きるという行為なのだ。
聞く者によっては、身勝手だ、狂っていると、眉を潜めるような話かもしれない。しかし、アヤメはほんの少しだけ、理解も共感もできた。
「言われてみれば、アタシもそんな感じだったような気はする、うん」
「ホント?」
「うん。でもそれ、よく言葉で説明できたね今」
そこは本当に感心したので、少量の水薬で彼女の喉を潤しながら、素直に誉めた。
「アヤメさんから逃げ回ってる間に、すっごい考えた」
「……そう。有意義な時間の使い方をしていたようで何より。えらいえらい」
子供扱いされることを嫌うイブキが機嫌を損ねるのは分かっているが、今なら抵抗もされないので、好き勝手に頭の無事な部分を撫で回す。これで、延々と無視を続けていた無礼はチャラにしてやろうと思う。
何故ハンターになったのか。自分は何の為に狩りをするのか。あれだけの怪我を負ったにも拘わらず何故、こんなにも狩り場へ戻りたいのか。イブキよりも先輩かつ年長でありながら、彼女ほどきちんと考えたことはあまりなかったような気がする。自分が言葉にするなら、どんな形になるだろう。機会があれば紙にでも書き殴ってみようか。
イブキがまた口を開いたので、思考を止めて再びそちらに集中する。辛そうに見えるのは、おそらく傷の痛みだけが原因ではない。遠くを見るような目に浮かべた淋しさは、先程から一切変わっていなかった。
「でもそういうの、分かってくれる人……ほとんどいなくて。だからかな。わたしも、人にはあんまり……興味なかったの」
「……」
自分も多少は身に覚えがあるからこそ、アヤメは「そりゃそうだろうね」と思う。特に同業者でない一般人には、理解しろと言っても難しいだろう。イブキが続けた言葉で、その思いは輪を掛けて強くなった。
「百竜夜行で……怪我した人とか見てもさ。百竜夜行っていうおっきい現象の中で起きてる、出来事の一つにしか見えないのよね。痛そうだなぁとか、あー怒ってるなーとか、だから早く怪我治ればいいよねーとかは、もちろん別で思うんだけど」
「へぇ……」
患者で溢れた診療所の光景を思い出す。アヤメにとっては様々な心痛を伴う記憶だが、イブキの『あるがままに見る目』を通したそれは、情動から切り離されてただそこに在る、写真のようにでも見えているらしい。やはり只者ではない、と、改めてイブキの持つ独特な感性に驚かされた。
ただ――それは必ずしも、良い事ばかりではないのかもしれない。イブキの横顔に漂う寄る辺なさや諦観は、悲しいほどしっかりとそこに根付き、馴染んでしまっている。人と違う目を持ち、それゆえ他者と共感し合えることの少ない彼女は、明るい笑顔の下にいつも、無自覚な孤独を抱えていたのだろう。
「人の心は喜怒哀楽っていうけど……ぶっちゃけ、怒と哀はずっと、よく分かんなかった。だから、わたしは人として何かが、欠けてるんだろうって……思ってたの。あの時まで」
突然、喉の火傷とは違う理由で声が震え、じわっとイブキの目に涙が浮かんだ。拭われることのないそれは彼女の頬に細い筋を作り、音もなく枕に吸い込まれていく。
「……なのに、アヤメさんが馬鹿にされた時はなんでか、頭が真っ赤になって、何も……考えられなくなって……その後も、なんか、ずっと泣いてるようにしか、見えなくて……そしたらわたしもなんでか凄く、悲しくなって」
「うん」
「そんなの……初めてだったから、どうしていいのか……分からなかった。凄く苦しかったし、怖かった」
どう言葉をかけてよいか分からず、アヤメが黙って頭を撫でると、子供のようにくしゃくしゃにした傷だらけの頬に、大粒の涙が次々に溢れ出した。
「……ごめん、なさい……大剣のことも……大事な物なのに、あんな事して……本当にごめんなさい……アヤメさんの代わりに、狩りに連れてくしかわたし、思い付かなくて……」
とうとう、声を上げて本格的に泣き出してしまった。イブキがしゃくりあげ咳き込む度、おそらく痛みで無意識に身体のあちこちが跳ねている。しかし本人はその痛みに気付く余裕すらない様子で、ひたすらアヤメに謝罪しながら泣き続けた。
本当に素直で優しい、良い子だ。いつもいっぱいいっぱいなのであろう頭で、よくこれだけ一生懸命考えた。分からない物を分からないまま、よくぞ命懸けで背負ってくれた。
言葉にならない称賛と感謝で胸が一杯になり、アヤメは無言のままゆっくり彼女の頭や頬を撫で続けてやるしかできなかった。
しかし、どれだけ撫でても泣き止まない。大の大人がこれだけ泣くところを見るのは初めてだ。あまり泣かせては傷に良くないし、これでは薬も与えられない。
考えた事を言葉にするのは、アヤメも苦手だ。でも、イブキがこれだけ頑張ってくれたのだから自分も頑張らねばなるまいと、アヤメは紡ぐ言葉を必死に探し始めた。
◇◇◇◇
「……アンタの心は多分、すごく自然に近いんだね。もう、親がリオレウスだとか言われても驚かないよ」
「……?」
精一杯考えて、思ったままを伝えた。まだ微妙にヒックヒックと胸を上下させながらも、びしょ濡れになった目を不思議そうにパチクリさせるイブキ。速攻で泣き止ませることができたのは我ながらお手柄だが、少し突拍子がなさすぎただろうか。
「……親……見たことないけど……人間だとは思うよ。卵から生まれたとは聞いてないし」
「そりゃそうでしょうよ」
違う、そうじゃない。せっかく真面目に考えていたのに、それを上回る大真面目でそう来られると、物凄く気が散る。でもそういう方向にしてしまったのは自分だ。
卵を割って飛び出した赤ん坊が脳内で元気に泣き始めた。もう自分を責めるしかない。
「そうだよね? ねー?」
「……え……? ちょ、イブキ……?」
今度は唐突に、虚空に向かって話しかけ始めるイブキ。目線から見るに、どうやら壁と会話しようとしているらしい。やはり怪我をし過ぎてどこかおかしくなってしまったのだ。まだ若いのになんと可哀想な。今ならまだ間に合うかもしれない。早くゼンチを起こして連れてこなければ――
「そうニャ」
壁がひっくり返って知らないアイルーが出てきた。
「!?」
ゼンチを呼びに行こうと立ち上がりかけた不安定な姿勢のまま、不審な物から少しでも身を遠ざけたい本能のみに従って三歩くらい後退りしたら、畳の縁を踏み外して土間に転げ落ちた。
「ニャンとフカシギ。謎の情報屋、ただいま参上……だニャ」
「!?」
土間に尻餅をつき、目を白黒させて床の間と寝床のイブキを交互に二度見三度見していたら、イブキはあっけらかんと言った。
「フカシギさん。なんかいつの間にか壁の中に住んでて、色々教えてくれるの」
「今自分が言った事について何も疑問を持たずに生きてきたんだったら、アンタ凄いわホント」
驚きで腰を抜かしていても、本当に言いたい事があれば口は動く。アヤメはまた一つ賢くなった。
◇◇◇◇
ようやく壁に張り付いたまま茶を飲んで寛ぐフカシギの存在を頭と心が受け入れ、なんとか普通に喋れるようになった。前後不覚になるほど取り乱した件については、イブキが全快したら死ぬ寸前まで酒を振る舞うという条件の下、なかった事にしてもらった。
「情報屋なるものがいるって噂は聞いたことあったけど、ウツシ教官の諜報活動のことを言ってるんだと思ってたよアタシは」
家主がボロ雑巾と言うのも生温いほどの重傷を負ってくたばりかけていたというのに、それについて一切触れないフカシギが、ドヤ顔で胸を張る。
「ウツシが里の外で何をしてるかは何にも知らニャいが、ウツシの背中に黒子が幾つあるかは知っている。……そういう感じニャ」
「……」
街にいた頃、大きな狩りに成功して少し目立ったら、三流紙の記者に追い回されたことを思い出した。やがて小さい記事が出たので誉められでもしているのかと思ったら、その内容は狩りとは全く関係ない、私服のセンスについての物だった。「着れれば何でもよさそう」とか書かれていた。余計なお世話だ。思い出したらちょっとムカついてきた。
「……つまり、この里の皆がやたら他人のプライベートに詳しかったりするのは、アンタのせい?」
「そういうことだニャ。だから、イブキのこともよーく知っているニャ」
またしても誇らしげに胸を反らし、壁とよりいっそう一体化するフカシギ。誉めてないよ。あのとんがった耳を引っ掴んで言いたい。湯呑みから湯気が見えるのであの茶は淹れたてだと思われるが、壁の中で淹れているのか? ところでコイツには錯乱の口止めをしておかなくていいのか? アヤメはまだ存分に混乱していた。
「イブキは、感情が欠落しているわけでは決してなく、むしろ人より情緒は豊かだニャ。ただ『人間ならでは』の感情を学ぶ機会と、実際にそれを感じるきっかけに少し恵まれなかっただけなのニャ」
「……」
突然めちゃくちゃしっかりした言葉で喋り出したので、四方八方に散りまくっていた意識が、一気にフカシギの語りに引き寄せられた。
「人間が他人の複雑な心の動きを理解できるようになるのは、大体四つか五つくらいからだニャ。しかしイブキは不幸にも、産まれてすぐに親を亡くしてしまったニャ……」
悲しげに目を閉じ胸に手を当て、深々と頭を垂れるフカシギ。とても心が籠っている。上手い。つい聞き入ってしまうのが大変悔しい。
「特定の人と視界を共有し、相手の気持ちを想像することをゆっくりと学ばねばならぬ赤子から幼子にかけての期間を、イブキは里の衆に代わりばんこで育てられ、大変忙しなく過ごした……故に、そういうのを学ぶ機会が人よりちょっと少なかったのニャ」
アヤメは初めて知った話なので、そうだったのかと少し胸を痛めながら聞いているが、本人は特に何か反応するでもなく黙っている。驚く様子も全くないところを見ると、自分の生育環境については既にきちんと知っているようだ。
この温かい里の民が総出で育てたとあらば、愛情はきっと、彼女に関わる全ての者から惜しみなく浴びせられてきただろう。なんなら大人になった今もかなり浴びているように見えるが、それでも埋まらない何かがあるのかもしれない。その『何か』は、優しく健康な両親の元に生まれ、ハンターになるための弟子入りで自ら親元を離れるまで何不自由なく育ててもらったアヤメには、どうしても分かってやれない事なのだろうと思う。
「生まれつき五感の感度が異常に高く、他の人間が気にも留めないようなものにまで、よく目が向く子だったせいもあるニャ。普通の人間には、社会性を身に付けるため、他人に強い興味を示す時期があるものニャ。……しかし何故かイブキはその時期にも、全然違うものばかり見ていたのニャ」
「……五感……ねぇ」
フカシギが湯呑みに口を付けたので、ここで一旦終わりなのだろう。自分がこれまでに知ったイブキの情報と今の話を、頭の中で一つずつ組み合わせてみる。
里の中を元気に走り回る姿。人と視界を共有する経験の少なさ。狩りの思い出を語る時の無邪気な笑顔。彼女を誰よりも理解するウツシの評価。他人への関心の無さ。怒り狂った横顔。アヤメの心や過去までも覗き込んでいるように見えた瞳――
「……はー。なんか分かったかも」
アヤメの中で、バラバラだったパズルのピースがぱちりと嵌まったような音がして、得体の知れないモンスターのようにすら感じることもあったイブキの正体が、やっと明らかになった。
生来の鋭い感性と様々な要因が化学反応を起こした結果、幼児期に置いてくるはずだった幼さの一部を、イブキはそのまま持ってきてしまったのだ。そしてその凹凸が極端過ぎる性質は、ハンターという生業とこれ以上ないほどに相性が良かった。だから当然のようにその生き方に強く惹かれ、没頭するがゆえに凄まじい速度で成長し、代わりにピーキーだった精神はさらに先鋭化してしまった――少なくとも、アヤメはそのように理解した。
こちらはスッキリしたが、自分の精神世界を勝手に暴露されたイブキは、何を感じているだろう。その通りだと納得しているのか、それとも何か異議があるか。ふとそれが気になって顔を向けると、アヤメと目が合った瞬間、イブキはカスカスの腑抜けた声で一言だけ言った。
「……なんて?」
「……」
全く理解していない。アヤメは確信した。よく見ればとてつもなく眠そうである。大人しく話を聞きながら己の出自に思いを馳せたりなどしているものだと思っていたが、所々、いや下手すれば最初からほぼ最後まで、寝落ちしていた可能性も十分あり得る。常識的に考えて、死の間際に追い込まれるほどの激戦を経た上にこれだけの大怪我をしているのだから、体力を消耗していて当然だ。疲れた人間に一方的な長話は辛かろう。
「んー……うーん……」
疲労困憊のイブキがなるべく飲み込みやすいように、めいっぱい考えた喩え話を捻り出す。今ここで突然思い付いた話なので、上手く纏まるかどうかは定かではないが。
「……もし、リオレウスの卵をガルクが孵して育てたら……そのリオレウスはどうなると思う?」
「えっ」
イブキは目を泳がせて答えを探し始めた。割と真剣に悩んでいる。いきなり妙な事を聞かれたせいか、少し目も覚めたようだ。そんなに難しい謎掛けをしたつもりはないのだが……
「……ガルクになる?」
「……ッ」
間欠泉の如く噴出しかかった笑いを隠すのに、一瞬で全神経を集中した。
「真面目に考えたのに。酷い。きらい。ゲホッ」
あっさりバレた。ごめんごめんと宥めながら、また咳き込んでいるので水薬を追加投入する。真面目に考えてあれかと思うと手に力が入らず、抵抗されたら派手に溢すかもしれないと思ったが、素直に飲んでくれて助かった。すぐに咳は治まったし、大分落ち着いて来ているようだ。頓珍漢な回答については、イブキが限界まで疲れているせいだと信じることに決めた。
「でもまぁ惜しくはあるよ。おそらく飛ばずに地面を走る、火の吐き方も知らない、ガルクみたいなリオレウスになる。……今のアンタは、そういう状態なんじゃないかな」
「なかなか上手いこと言うニャ」
フカシギには誉められたが、イブキの頭には疑問符が飛び回っているのが見える。自分でも何を言っているのかよく分からない。最悪もう通じなくてもいいような気がしてきた。
「でもリオレウスだから、仲間の所に返してやれば飛べるようになるし、火も吐けるようになる。アンタも同じで……人間だから、人間の中でもっと揉まれたら、細かい感情の機微もちゃんと分かるようになると思うんだよね、多分。ていうか今だって別に、何にも分かってないわけではないでしょ」
「……そうかな」
投げやりになりそうな気持ちに発破をかけ、一応強引に締め括った。辛うじて主旨は通じたようではあるが、イブキの目は猜疑心に満ちている。先程笑ったのが原因なのは明白だ。後片付けは、イブキが絶対的な信頼を寄せているであろう、彼女の師の言葉に任せてしまうことにする。
「うん。ウツシさんはアンタのこと、『目に頭と心が追い付いてない』って言ってたよ。ホントによく見てるね、あの人」
「……ふーん」
どのくらい理解したのか分からないが、とりあえず師の名前が挙がったので、飲み込みはしたようだ。もはや条件反射に近い。やはり、信頼関係があると吸収の速さが違う。
◇◇◇◇
フカシギは一通り話し終えたことで満足したのか、床の間の裏の謎空間へ帰っていった。フカシギの姿が壁の裏に消えた瞬間、彼が飲んでいた茶の香りも気配も一切が消え失せ、初めからそこには何もいなかったかのような状態に戻った。一体どういう仕組みになっているのか、アヤメら今すぐ壁を剥がして調べたい衝動に駆られているが、ここは人様の家なので我慢している。
また二人きりになった。イブキは眠そうにはしているが、かといって眠ることもなかなかできずにいるようだ。「お前の声は聴いてると眠くなる」と言われたことがあるのをふと思い出し、子守唄代わりにでもなるならばと、苦手なりにも適当に喋ってみることにした。
「アタシも、モンスターを単純な人間の脅威としては見てないな。強いしデカいし怖いけど、嫌いになれないよね。純粋に凄いと思うもん」
「……ホントに?」
口を開いた次の瞬間には、もう少し穏やかな話題はないのかと自分でも呆れたが、イブキの顔は少し明るくなった。人と心が重なることを心地好いと彼女が感じてくれているのならば、それはアヤメにとっても嬉しい事だ。
「うん。自分の人生を潰したモンスターを恨むこともできない。人にそれ言ったら、変だって言われたよ。ほっとけって話だよね」
「人生を……」
アヤメには何の他意もなかったが、イブキの顔からは、笑顔が消えた。
「ああ、そういえば話してなかったっけ」
特に深く考えることもなく、自分の左半身を示す。
「潰された。こっち側ほぼ全部」
イブキの異音混じりの呼吸が、一瞬止まった。
「今のアンタも大概だけど、手足の神経はちゃんと繋がってるし、目ぇ開けて喋れてる分、あの時のアタシより幾らかはマシかな」
「……」
「……あ」
イブキは目を見開いてこちらを見つめたまま固まってしまった。それを見て気付く。どう考えても寝かし付けにする話ではなかった。自分にとっては常に頭の片隅にある考え慣れた事柄でも、初めて聞く他人からすれば衝撃の告白ではないか。
アヤメは己の浅慮と話下手を心底呪い、顔を覆ってガックリと項垂れた。もう嫌だ。これ以上一言も喋りたくない。
すると突然、しばらく何かを考えていたイブキが息を吹き返し、全く違う角度からの言葉を投げつけてきた。
「前に見せてくれた演武の相手、ナルガクルガだったんだよね? アヤメさんが最後に戦ったモンスター」
「!」
文脈と文脈の隙間を縫ってきたような発言に、一瞬混乱して言葉を失う。言っている事そのものは合っているが、何故、今?
「集会所でアヤメさん達の話を聞いてそうかなって思ったから、訓練に入る前に教官に時間もらって、ちゃんと戦ってきたよ。ちょうどクエスト出てたから」
――アヤメが軽い気持ちで「狩ったら教えて」と言ったのを、彼女は律儀に覚えていた。そして、命を賭けてその通りにした。そのあまりに健気な事実に胸が震えて、さっき話題選びに失敗したことも、その話題が突然飛んだことも、一瞬全部忘れた。
「とんでもなく迅かったし、ビックリするくらい頭も良かった。全身で『殺してやるー!』ってずっと叫んでるみたいだった……強かったよ。ホントに強かった」
自分から『借りた』ばかりの不慣れな大剣を携え、自分があの夜に見たのと同じ景色をしっかりと目に焼き付けて来た彼女は、自分の人生を破壊したのと同じモンスターを『強かった』と言った。まるで、それと戦い抜いた自分のことも『強かった』と言ってもらえたようで、ずっと心の奥底に沈んでいた何かが、救われた気がした。
「答え合わせ、してもらいたいなって思ってたの。合ってる?」
イブキがどんなつもりで今、この話をしたのかは分からない。単純な彼女のこと、連想ゲームのようにただ思い出したから口にした、それだけなのかもしれない。もし仮にそうだったとしても一向に構わない。うっかり口を滑らせてしまった暗い過去に、彼女はしっかりと光を当ててくれたのだから。
「満点。……ありがとうね」
誠心誠意の謝意は、下手な言葉では到底表せない。話すのは苦手だ。だから代わりに、礼を言われる理由が分からず不思議そうにしているイブキに行動で尽くす。血で汚れた寝具や包帯を一通り替え、手が出せる範囲の傷は消毒をし直し、咳の具合を鑑みて少し配合を変えた薬も飲ませた。元々こういう事をするためにここへ来たのだから、照れも遠慮も必要ないのである。
◇◇◇◇
「ハンターなんてトチ狂った商売してる者同士だし、多分ちょっと似てるんだよアタシたち。だから、アンタにも何か通じる部分があったのかもね。思い通りにならなくて悔しいとか、狩り場に出たいとか……そういうのはアンタにも分かったでしょ」
イブキとその周辺は綺麗になったが、寝かし付けには完全に失敗したので、アヤメは開き直ってポツリポツリと喋り続けていた。どうせならもう、イブキが引っ掛かっていそうな事は全部クリアにしてやりたい。眠くなったらこの子はきっと勝手に寝るだろうし、寝ないのならば何かしら話していたいのだろう。そういう所だけは謎に信頼している。
それにしても今日は不思議なくらいに、淀みなく本音が喋れる。イブキが大剣を強奪していったあの夜などは、「悔しい」と考えただけで身が引きちぎれるかと思うほど苦しかったのに、今はそれを口に出しても胸の痛みを全く感じない。『似た者同士』での会話のお陰だろうか。
「うん。凄く苦しそうって思ったよ。ホントに泣いてなかったの?」
「泣いてないってば。実は大分前から、泣きたくても泣けないんだよね。……いつからだったかも、もう忘れたけど……」
自分で言って驚いたので、途中で言葉に詰まりかけた。「泣きたい」なんて誰にも言ったことはなかったし、自分で思ったこともない。なのに、立て板に水を流すかのように、何の抵抗もなくその言葉がサラリと滑り落ちてきた。
泣きたかったのか。客観的に状況を考えれば、泣きたくて当然だ。どうしてそんな事も分からなくなったのだろう。どうやったら泣けるのだろう。泣いたら楽になるのだろうか。
今すぐに答えは見つからなさそうなので、ひとまず記憶にあったイオリの言葉を借り、自分自身に対して「気付いてやれなくてごめんね」とだけは伝えた。
「泣けない……なんで? 泣きたいのに?」
先程あれだけ大泣きした人間の台詞なので、強烈なパワーがある。泣きたいほど辛いのに何故泣けない? ちょうどそれを今考えていたのだ。端的に言ってこっちが聞きたい。
「人間の心はモンスターみたいに単純じゃないのニャよ」
「!」
不意に飛んできたアイルーの声に、またフカシギが現れるのかと身構えて床の間を凝視したが、その声の発生源はこの水車小屋の入口にいた。
「なーんか難しそうな話をしとるのニャねぇ」
「先生! え、もういいの?」
「普段たっぷり寝とるからニャ。ニャハハ」
いつの間にか、仮眠を取りに出ていたゼンチが戻っていたのだ。まだおそらく二時間も経つか経たないか、まるで睡眠は足りていないだろうに、その両手にはしっかりと医療用品を満載した箱を抱えている。さすがは敬うべきカムラの名医だ。
「情動に関する幼少期の学習が足りていないと、他者の複雑な感情も単純化した形でしか捉えられなくなることがあるニャ。イブキも、もちろん全部が全部そうじゃニャいけど、ちょっとだけそのケはあるニャね。昔から人より自然とばっかり遊んでたもんニャから、頭がモンスターとおんなじニャ」
イブキの傍らにちょこんと腰を下ろしてそう説明しながら、ゼンチは道具箱からメスや縫合用の針などを取り出し始めた。もう既にあちこち縫われているのに、これからイブキはまた切った貼ったの治療を受けなければならないのだ。百竜夜行の混戦を無傷で切り抜けるイブキを、単騎でここまで痛め付けたマガイマガドの力。それを想像して少し恐怖を感じたアヤメは、気を紛らわそうと、半ば無理やりゼンチの話に乗った。
「だから『泣きたい』と『泣いてる』の区別がつかなかったってことか。面白いね、ヒトの頭って」
「ニャ。アヤメ、えらくお利口さんになったニャ」
「まぁね」
納得して頷き合う名医ゼンチと、お利口さんのアヤメ。
「ねぇ。なんかわたしだけ何も分からないんだけど」
自分の話なのに蚊帳の外に放置されているイブキは、傷と火傷で既に大分腫らした頬を、さらにプーッと膨らませた。まるきり子供そのものの表情に、思わず笑ってしまう。
「……これから分かるようになるだろうって話だよ」
アヤメが少し無理に纏めると、ゼンチがウンウンと頷いた。イブキはやはり何も分からず不満そうな顔をしている。
人里を壊滅させるほどの力を持ったモンスターとたった一人で渡り合い、深く傷付けられながらも見事それを討ち倒してきた、誰よりも強靭な肉体。そこに宿る、時として幼児のように単純で、純粋な心。その不均衡は、彼女が持つ大きな魅力でもあり、危うさでもある。ずっとそのままでいてほしい気もするし、より成長した姿を早く見てみたいとも思う。親心にも似たそんな感情のままに、アヤメは思い付いた言葉をつらつらと並べた。
「アンタのおっきな器を満たすには、ちっちゃなこの里だけじゃ全然足りないんだよ多分。もっと里の外にも出て、人も何でもいっぱい見てみたらいい。人が絡む世界もアンタの大好きな訳のわからないものだから、慣れれば面白いと思うよ」
「……? ……?」
アヤメの適当な放言を生真面目に受け取ったヨチヨチ歩きの頭が、また何事かを考え始めた。ブンブジナカウントダウン、スタート。三……二……一……――
「……なんかよく分かんないけど、分かった」
爆発四散する前に保留するという大変賢い選択肢を、イブキはいつの間にか覚えていた。お利口さんだ。アヤメはイブキがまた怒ると分かっていながら、まだまだ発達途上な彼女の小さな頭を優しく撫でて笑った。
「うん。とりあえず今は、身体を治すことだけ考えときな」
会話の区切りを見たゼンチが、イブキの身体に手をかけ、仰向けだった彼女をごろんと横向きに転がす。お陰で撫で回したことを怒られずに済んだ。
ズタズタに破れて血で固まった衣服を引っ剥がされ、ばっさりと皮膚が裂けた傷口を露にされても、本人はケロッとしている。痛くないわけがないのに。人の苦しみに胸を痛めた時には、あんなに泣いたのに。
あまりに何もかもがアンバランスなこの子をハンターとして世に送り出すのは、さぞかし心配だっただろう。ウツシを始めとするカムラの民の多大な心労を慮りつつ、アヤメは本人にも諭した通り、まずはイブキの傷が一日も早く癒えることを祈った。
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◇◇◇◇
そうはならないとか考えたら負け
【NPC全登場チャレンジ:残り9人】