One-way Spiral Staircase   作:まりも@tks55kk

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14-re-combustion【再燃】

 敢えて里の中をゆっくり一回りしてから、イブキの水車小屋に戻る。ルームサービスに尋ねると、ミノトはここを訪れてきちんと湯に浸かり、礼を言ってすぐにどこかへ去ったとのことだった。その後の行方は分からないが、知らない場所を出歩くのを嫌う彼女が、夜も更けたこんな時間に、ヒノエを置いて里外へフラフラ出ていくとは考え辛い。ミノトはもう少しそっとしておいて、アヤメ達も身体を休めることにした。

 

 一刻も早く落ち着いてアヤメに何かを喋りたいらしいイブキは、ヒノエ達の家を出た時から延々と「一緒にお風呂入ろう」と言い張っていた。が、実際に二人並んで湯船の前に立ってみた瞬間に無理だと悟ったらしく、今は先輩であるアヤメを脱衣場に突っ立たせて、自分だけのびのびと湯船で寛いでいる。

 いくら長期休業中の身だとは言え、随分とナメられたものである。しばき倒してやりたい気もするが、一度勢いに押されてそれを許してしまったのは自分なので、今更どう文句を付けて良いのかも分からない。アヤメがその外見に反して押しに弱いことはイブキにも完全に把握され、いとも簡単に漬け込まれるようになっていた。

 

「……で、何? こうまでして話したい事って」

 

 イブキの要領の良さに完敗したアヤメは、脱衣場の棚に寄りかかり、湯船に浮いていたフクズクのオモチャをぷぴぷぴと鳴らして手遊びしながら尋ねた。イブキは待ってましたとばかりに口火を切る。

 

「そうそう、百竜夜行のこと。里を襲うのが目的なんじゃないかもってやつ……実は前からそう思ってたんだ、わたし」

「……」

 

 アヤメの手中で握り潰された哀れなフクズクがぴぃと間抜けな声で鳴き、二人の間に流れる時が止まった。

 

「……えっ、えぇ?」

 

 一瞬遅れ、アヤメは目を剥いてイブキを二度見した。

 湯船の縁に顎を乗せ、上目遣いでこちらを見上げる彼女の視線は、アヤメの反応をじっと確かめているような気配を感じさせる。内容が内容なので、さすがのイブキもすぐに受け入れてもらえる話だとは思っていないのかもしれない。

 

「前からっていつからよ」

「んー……二回目か……三回目くらいから、かな? まさかもっとデカいのから逃げてるんだとは思わなかったけど、里を狙って来てるにしちゃなんか変だなぁ、くらいは」

 

 里長やゴコクでさえも外からの情報を得るまで想定できなかった可能性の一片に、それほど早くから気付いていたとは。アヤメは改めて、イブキの野性的な勘の鋭さに感服した。しかし、それと同時に疑問も湧く。

 

「かなり初期じゃない。なんで今まで言わなかったのさ」

「だって子供の頃から『人里を襲う』って教わってたんだもの。いくらわたしでも、ウン百年前からの言い伝えを根拠もない勘だけでひっくり返すなんてできないよ。少なくとも五十年前には、実際に襲われてもいるんだし」

「あぁ……それもそうか。その辺はアタシとアンタじゃ感覚違うよね。悪い悪い」

 

 百竜夜行について教わる前に里を出てしまったアヤメと、幼少期から百竜夜行の存在ありきで生活してきたイブキを含む里の民達の認識に温度差があるのは、無理からぬことだった。アヤメにとっての百竜夜行は、良くも悪くも『モンスターが自分の故郷に押し寄せてくる謎の現象』でしかないが、カムラの里の歴史を心身に叩き込まれて育った里の者からすればそんな簡単な話ではなく、もっと重い物なのだ。

 

「うん。まぁそんな感じでずっと、なんか気になる、でもよく分かんないって状態のまんまだったんだけど……マガイマガドを見た時に、改めてアレ? ってなったの」

 

 頭に乗せていた手拭いで額の汗を拭い、イブキが続ける。

 

「マガイマガドはさ、自分の意志で百竜夜行を喰いに来てたわけよ。だから百竜夜行の群れから獲物を狩って食べるし、その続きを邪魔しようとしたわたしには『殺してやる~』ってはっきり言うし」

「うん。その辺は普通のモンスターと一緒ってことね。で?」

 

 アヤメは何気なく相槌を打っただけのつもりだったが、イブキは目を輝かせていきなり立ち上がり、興奮気味に喜びを露にした。

 

「――そう! それ!! さすが!! やっぱアヤメさん最高!」

「ちょ、溢れる、座って」

 

 半ば強引に湯船へイブキを押し込むと、ザバァと湯が溢れて足下を濡らした。いくら掛け流しではあっても、こんな調子で頻繁に溢れさせていたら、交替してアヤメが入る頃にはスカスカになっているかもしれない。頼んだらルームサービスがもう一度沸かしてくれるだろうか。

 

「そう、違わない。同じ。めっちゃ強かっただけ」

「めっちゃ強くなるまで待ってたからでしょうが」

「……そこは反省してます、はい」

 

 話が通じて大喜びしていたのに、アヤメに睨まれた途端、小さくなってぶくぶくと湯船に沈むイブキ。好奇心で自分とオトモの命を危険に晒したという件はさすがに看過できなかったので、アヤメからウツシに告げ口しておいたのだが、それ以来、この話になるとイブキは見るからに萎れるようになった。曰く「殺されるかと思うくらい叱られた」らしい。何があったのかは知らないが、あまり思い出させるのも可哀想なので、その話は早々に切り上げてやる。

 

「ま、確かに普通はそうだよね。モンスターはモンスターなりに、行動するには目的があって、その目的を果たすためにちゃんと頭使って動いてる。アタシは人間よりも遥かに効率的だと思うよ、アイツらの生き方」

 

 イブキは、アヤメの理解度が高いお陰で話がスムーズに進むことに満足した様子で頷いたが、すぐに真剣な表情に戻った。

 

「でしょ。でも……百竜夜行の群れはそうじゃない。とにかく目の前にある障害物をブッ壊そうとして、闇雲に暴れてるようにしか見えないの。普段どれだけ賢いモンスターでも、あそこに来ると皆そうなる。何がしたいのか全然見えてこない。で、マガイマガドだけは違……あ、いや、逆か。多分アイツだけは『いつも通り』なんだ。全部引っくるめて、なんでだろってなるじゃん」

「そりゃアタシはこうやってアンタから聞いてるだけだからそう思うけど……よく現場でそんなところまで見てる余裕あるね。無茶苦茶なんでしょ? 百竜夜行」

「いやいや! アヤメさんもあれ見たら同じ事考えると思うよ? ホント、それこそさっきのヒノエさんみたいなハチャメチャぶりだから。他のハンターになんかおかしいよねって言っても、それどころじゃないとか言って、あんまり分かってくれないんだけど」

「他のハンターに分からない事を、なんでアタシが分かると思うかな……」

 

 信頼してくれるのは嬉しいが、少々照れ臭い。手桶でイブキの頭にお湯をぶっかけて、その気恥ずかしさを誤魔化す。ついでに洗髪剤も適当に垂らしてわしゃわしゃ撫で回すと、イブキの短髪はあっと言う間に泡で包まれた。

 

「……まぁでも確かに、あのヒノエさんみたいってのは尋常じゃないね」

「うん。だから、なんとなく片っ端から殺すのはダメな気がして、なるべく追い返すだけで済ますようにはしてたんだ。今はやっぱそれで正解だったかなって……」

「は?」

 

 湯船の外に頭だけ突き出して洗いながら平然とイブキが放った言葉にまたしても耳を疑い、未だに握り締めていたオモチャのフクズクに断末魔のような悲鳴を上げさせてしまった。

 

「ちょっと待って。じゃあ、手加減しててあの評判なのアンタ」

「評判?」

「一人で里守二十人分だとか、芸術的だとか、凄い言われ様だよ。知らなかった?」

「えー知らない知らない。誉められることはよくあるけど、正直適当に返事してるだけであんまり聞いてないし」

「ホントに常識で測れない奴だねぇアンタは……嫌いじゃないけどさ、そういうところ」

 

 自分への称賛すらロクに聞いていないと言いながら、アヤメの「嫌いじゃない」には少し照れたらしいイブキは、目をキョロッとさせて再び湯船に口元まで沈没した。そういう愛嬌のあるところも憎からず思っているけれど、それを言うと泡だらけの頭まで全部沈みそうなので、また共に酒でも飲んだ時のために取っておこうと思う。

 

「話戻すけど。ヒノエさんと共鳴したあの龍は繁殖のために番を探してるだけ、百竜夜行のモンスター達はあの龍にびっくりして逃げ出してきてるだけ、と。そういう話だよね、さっきのゴコク様とか里長が言ってたのは」

「うん。アンタの話からするとマガイマガドだけは例外みたいだけど……めっちゃ強いわけだから、その妙な龍ともやり合えるくらいの力があるなり、上手いやり過ごし方を知ってるなり、何かしらの理由でそのデカいのから逃げ回る必要がないんだろうね。そう考えれば、アンタが挙げてた疑問は全部解決する」

「そう、そう」

 

 首がもげるのではないかというほどに頷くイブキ。やはり、この子は生粋のハンターなのだと思い知らされる。

 

 現場にいなかったアヤメとも円滑な意識共有を可能にするだけの情報を確実に拾い集めてくる、冷静な観察眼と分析力。複数のモンスターを相手にほぼ無傷で立ち回りながら、自らの意志に沿って攻勢をコントロールする技量。どれを取っても、駆け出しの域をとっくに超えている。里に関わる仕事が中心であるが故に身分はまだ下位ハンターだが、出す所に出して経験を積ませれば、上位にもすぐ上がってくるだろう。とんでもない化け物と出会えたものだ。アヤメの心は密かに感心と感動で震えた。

 

◇◇◇◇

 

 ようやくアヤメにも湯浴みの番が回ってきた。この里は気候が常時温暖な上、アヤメは川のすぐ傍らに住んでいるので、長らく水浴しかしていなかったが、やはり湯船に浸かると身体が解れて心地好い。ヒノエの大暴れで痛めた古傷もじんわりと温められて、些か楽になるような気がする。たまにはここを借りに来ようと心を決めながら、洗い立ての浴衣に身を包んで先程のアヤメのようにフクズク人形を押したり引いたりし始めたイブキに視線をやると、彼女はすぐその視線に気付き、話を再開した。

 

「多分ずっとずーっと昔から、モンスター達は定期的にああやって騒いだり逃げ回ったりしつつ、それなりにバランス取ってここら一帯で上手くやってきたんだよ。……なのに、アイツらがそうやって生きてたこの場所に、わたし達が後から里を作ったから、ぶつかってるんでしょ」

「そういうことになる……かな」

 

 もう薄々、イブキの言いたい事は読めている。理由は簡単。アヤメもかつて通ってきた道だからだ。

 イブキは一瞬言い淀んだ後、彼女らしくもなく俯いて、ポツリと呟いた。

 

「――なんでそれを狩るのか、分かんなくなっちゃった」

「だろうね」

 

 想定通りの言葉に即答する。イブキの目が小さな驚きで見開かれ、湯の温かさで僅かに上気したアヤメの顔をじっと見つめた。

 

 イブキは幼いところもあるが、決して、自分の置かれた立場の分からぬ子供ではない。百竜夜行を食い止め、その元凶である彼の龍を討伐し、長く続いた禍群の歴史に終止符を打つ――それが己に求められている役割であることは、彼女自身が誰よりも正しく理解している。だからこそ、里長やゴコクの前では言えなかったのだ。「何故、人間の勝手な都合で、ただそこに生きているだけの生物を狩らなければならないのか」と。

 一度考え始めたら無限に思考を広げてしまう彼女のこと、きっとこれまでに受注したクエストで狩ってきたモンスター達にまで遡り、思いを馳せているに違いない。ふざけたような態度の裏側で、彼女が命を常に真摯に見つめていることも、アヤメはよく分かっている。

 

 幼い頃から自然や動物が好きだったアヤメにも、同じ葛藤を覚えた経験は数多あった。クエストの依頼書に記された『モンスターの命を奪う理由』は、ほぼ全てが、人間の一方的な都合によるものだ。時には、あまりに利己的な依頼理由に納得ができず、受注したクエストを破棄したり、ギルドに異議申し立てを起こしたりしたことさえあった。

 それでも上位に認められるに至るまでハンター稼業を続けて来たのは、人間がどうしても避けられないもう一つの側面をアヤメは既に知り、自分なりに受容しているからだ。

 

「でもさ、イブキ。……生きたい、食べたい、縄張りを守りたい、新しい世代を後に残したい、っていうのは……全部、人間も同じだよ」

 

 湯船の縁に頬杖をつき、イブキの反応を見る。人として生きる以上、目を逸らすわけにはいかない厳然たる事実。それを突き付けられて、彼女はどう出るか。

 

「……うん。それも、分かる」

 

 イブキは弱々しく頷いた。普段の闊達さを忘れさせるほどの小さな声で、ぽつりぽつりと苦しげに言葉を紡ぐ。

 

「同じなんだったら、わたしは……カムラの里の皆と一緒に生きたいって……やっぱり思っちゃう」

「……どうして?」

「皆のこと、好きだし。皆も……わたしを、大事にしてくれるしさ」

「うん」

「それに……この里をカムラの里たらしめてるのは、この土地だと思うから……しがみつきたくなる。モンスター達は防衛戦なんかやらずに、縄張りを捨てて逃げてるのにね」

「うん」

「……こんな風に考えるのは、我儘かな。悪い事かなぁ」

 

 心細そうに声を落としたイブキの瞳を揺らすのは、明らかな迷いだった。ハンターとして飛び出した広い世界で、大自然から次々に与えられる新しい刺激に夢中になるばかりだった頃の彼女には、存在しなかったと言ってもいい感情だ。

 それをアヤメは、とても人間らしいと感じた。自然に極めて近い感性を持ち、それ故に身の回りで起きる出来事を全て並列にしか捉えられなかったイブキが、『人と人の間』に生きる生物――すなわち『人間』として新しく生まれ変わった瞬間に、立ち会ったような気がした。

 

 普通の人間ならば迷うべくもない『自分の里や仲間の命を守る』という行為の正当性。それにすら疑問を抱くことができる視点と誠実さを持って、イブキは全てに向き合おうとしている。そんな若いハンターに最大限の敬意を払い、アヤメも精一杯の誠意を込めて答えた。

 

「良いか悪いかなんてアタシには分かんない。けど、アンタの好きにすればいいと思う」

 

 額面通りに受け取れば投げやりとも思えるアヤメの言葉に、イブキが怪訝な表情を浮かべる。

 

「……なんか軽くない?」

「いや、大真面目」

 

 長々と喋るのは苦手なのだ。でも、それを言い訳にして終わらせてよい話ではない。イブキにとっても、アヤメ自身にとっても。

 両手で掬った湯をぱしゃりと顔にかけて気合いを入れ、続けるべき言葉を懸命に探した。

 

「アンタもアタシも、この世の全てを見てみたいと思うよね。それは多分悪い事じゃない。でも、目に入るモン全部を背負い込もうとしたって無理なんだ。たかが一個体がどうにかできるほど、この世界は単純じゃない」

 

 今も無数の古傷を残す己の掌を見つめ、この手で狩り取って来た命の一つ一つを思い返す。それらは須く世界の一部を構成する要素であり、必ず何らかの役割を持ってそこにいた命だった。その命の環を断ち切ることにも、必ず何らかの理由があった。

 他の生物とのバランスを崩しかけていたために、個体数調整として狩ったモンスターもいる。狩って食べたことも数え切れないほどある。病に蝕まれて我を失ったモンスターを、苦しみから解放するために殺したこともある。そしてあのナルガクルガと戦った夜は、あの原生林を通行する人間の安全を守るために、彼の命を奪い、闘う術を奪われた。全ての生物が抱える様々な利害の狭間で、己の全てを賭して闘うのがハンターの仕事だ。

 しかし、アヤメは嫌になるほど知っている。自分が、そしてこの世に生を受けた全ての生物達が、どれだけ命を費やし、傷付き、足掻こうとも、この世界は絶えず形を変えながら、一時も止まらず回り続けること。その真理に干渉する力など、自分にはないということを。

 

「アタシ達の存在なんて、この広い世界の中じゃ、塵みたいなちっぽけなモンだよ。たかが塵の一つに正しさも何もありゃしないし、どう転んだって結局、このチャチな手の届く範囲の事しか出来ない。だから、自分が見た物とどう付き合うか、何をするかは、その時その時の自分の心に従って、自分で決める。……少なくともアタシは、そんな風に考えてハンターやってたと思う」

「……」

 

 イブキからの問いの答えにはなっていないかもしれないが、何一つ飾らず、真剣に話した。じっと考えるイブキの表情からするに、言いたい事は伝わったような気がする。

 長い長い沈黙。

 

 アヤメが浸かる湯の温度が少し下がり始めた頃になって、イブキはようやく、いつも通りの真っ直ぐな瞳で、アヤメを見つめてニコリと笑った。

 

「……やっぱりアヤメさんに聞いてもらってよかった。ありがとう」

「そりゃどうも。……で? どうすんの。百竜夜行とか、例の龍とか」

「見てから決める」

「……」

 

 アヤメの言葉を彼女なりに真正面からきちんと受け止めたことが、ありありと表れた返答だ。アヤメは一瞬目を丸くしたが、すぐに苦笑して肩の力を抜き、ジェスチャーで「薪を足してくれ」とイブキに頼んだ。

 

「っはは、そう来たか。……うん、いいよそれで」

 

 素直に頼みを聞き入れてくれた後輩のお陰で、すぐに新しい薪がパキパキと炎を上げる音がした。じきに湯も再び温まるだろう。真面目に考えたので少し疲れた。もう少し身体と頭を解したい。

 

 今のイブキが託されている事の重大さを考えれば、人間の命が如何に大切なのかを切々と語り聞かせ、だからお前は里を守れと、説き伏せるべきだったのかもしれない。「見てから決め」た結果、万が一イブキが里から望まれる事と違う選択をすれば、何が起きるかは想像に難くない。

 しかしアヤメに後悔はなかった。そんな説得が必要ならば、里を守るべき立場である里長がやればよい。あくまで一介の『先輩ハンター』でしかないアヤメは只々、まだ若い後輩が少しでも自由な心で狩り場に立つことだけを、無責任に願った。

 

◇◇◇◇

 

 風呂上がり。

 イブキを連絡役として水車小屋に残し、ゼンチから呼び出しがあったらイブキのオトモガルクのカシワに呼びに来てもらうことにして、アヤメはミノトを探す夜の散歩へ出掛けた。彼女が自宅を出てからもうとうに一刻以上が経っているが、家を覗いてみれば、ゼンチ曰くまだ帰っていないという。どこかで考え事でもしているのかもしれない。彼女が少しでも慣れ親しんでいる、自宅以外の場所と言えば。

 

 アヤメの推理は正確だった。集会所のテラス席に着き、半ば卓に突っ伏しかけながらこくりこくりと舟を漕いでいるミノトを発見するのにかかった時間、僅か数分。推理が冴えすぎて散歩があっという間に終わってしまった。

 

 ミノトはアヤメが歩み寄っても目覚めないほどに深く寝入っていた。彼女が居眠りをする姿など、幼少期まで遡ったとて一度も見た記憶がない。心労も、身体的な疲れも相当溜まっているのだろう。

 

 ふと、寝言が聞こえた。この人も寝言など言うのかと意外に思い、そっと耳を寄せてみる。

 

「姉様……ねえ……さま……」

 

 胸がチクリとした。共鳴を起こしたヒノエの姿には、アヤメでさえショックを受けたのだ。誰よりもヒノエを愛するミノトの心にどれだけの負担がかかっているかなど、想像するまでもない。上から肩掛けでも持ってきてやろうと、アヤメは踵を返した。

 

「アヤメ……さん……」

「!?」

 

 次は不意に自分の名を呼ばれ、驚いて振り返った。ミノトはまだ先程と同じ姿勢で眠っている。続きがありそうだ。何だろう――

 

「あきらめ……ないで……」

「!!」

 

 眠るミノトのか細いその言葉に、心臓が激しく波打ち、全身に沸騰した血液が駆け巡った。

 

 石のように硬直した身体。脳だけが凄まじい速さで目まぐるしく記憶のページを捲る。

 常に自分を見守り、支えてくれる里の仲間達の姿。涙も声も出せない空虚な慟哭を繰り返した日々。痛みと高熱でのたうち回った病院のベッド。半身を潰された夜の、音の消えた世界。クエストの依頼書を差し出してきた時の、ミノトの顔。泣けないアヤメの代わりに泣きじゃくっていたイブキの涙。

 痛いほどに耳鳴りがした。動けない。動けない。動けない。動けない――

 

 

 

 ――いつまでそうしてる?

 

 

 

 不意に、心が力強くそう問いかけてきた。

 その瞬間にアヤメは身体の自由を取り戻し、自分の頬を全力で張り飛ばした。

 

「!?」

 

 無音の集会所に響いた激しい平手打ちの音にビクッと肩を震わせ、ミノトが飛び起きた。

 

「……起こしちゃったか。ごめん」

「……アヤメさん……? ……ああ、申し訳ありません、こんな所で……探しに来てくださったのですね」

 

 慌てて立ち上がろうとしたミノトを、そっと押し留める。

 

「様子見に来ただけだから、無事ならいいんだ。もう少しゆっくりしてなよ。ヒノエさんもまだ寝てるし」

「……アヤメさん」

「ん?」

「お顔……どうされたのですか」

 

 じんじんと熱を持つアヤメの頬を覗き込むミノトの顔には、明らかな驚きと心配の表情が浮かんでいる。自分でよろけるほど張ってしまったので、多少赤らむくらいはしているのかもしれない。我ながら加減を知らないものだと思いつつ、アヤメは心の底からニコリと笑った。

 

「あはは。気合一閃! ってヤツだよ。……もう大丈夫。ありがとうね、ミノトさん」

「……?」

 

 事情が飲み込めず首を傾げるミノトに、どうせ寝るなら二階でしっかり寝るよう告げて、アヤメは集会所を後にした。

 

 痛む頬を夜風が冷やす。少し曇った夜半の空には星の一つも見えないが、今なら、雲の上の白い月まで全て見通せるような気がした。

 

『アンタは強い。諦めないでくれ』

 ――アタシの戦いを最後まで見届けたアンタがそう言ってくれたの、嬉しかった。だから、ずっと忘れられなかったよ。これからも、忘れない。

 

『心配するに決まってんだろ』

 ――里中の思いやりを運んできてくれたね。重かったよね。ありがとう。ちゃんと全部食べたよ。本当に美味しかった。皆、ありがとう。

 

『燻るという現象は、そこに火種があるから起きるんだ』

 ――ちょっと癪だけど、アンタの言ってた通りだったみたいだ。今、熱くて熱くて仕方ないや。消えてなんかなかった。

 

『泣いてんじゃん。うそつき』

 ――そうだね。涙は出なくても泣いてたんだと思う。悔しくて、悔しくて堪らなかったから。気付かせてくれて、ありがとう。

 

『アヤメさん、諦めないで』

 ――アタシのこと、諦めないでいてくれて、本当にありがとう。

 

 仲間達がアヤメに重ねてきた言葉が、熱となり、風となり、火花を上げて、燻り続けていた心をこれでもかと煽り立てる。

 

『自分の心に従って、自分で決める』

――アタシがどうするかを決めるのは、怪我なんかじゃない。アタシだ。

 

 最後は、自分自身の言葉で。アヤメはついに、自らの瞳に再び大きな炎を灯した。

 

◇◇◇◇

 

 ミノトが集会所で休んでいることをゼンチに伝え、イブキの家へ戻ったが、イブキは既に眠りこけており、その後ゼンチから声がかかることもなかった。

 イブキの隣で平穏に爆睡して翌朝を迎えたアヤメは、すっかり腫れてしまった頬をイブキに見つかる前にそっと起き出し、すぐにある所へ向かった。この里で最も熱く燃え盛る場所、たたら場の前。いつも通りそこに佇む、里長フゲンの許へ。

 

「おはようございます、里長」

「アヤメ! 今朝はやけに早いな! 改めて、昨夜は……ん? 何だその顔は。またヒノエか?」

 

 普段は寝坊助なアヤメが早朝に姿を現したことに驚きつつ、昨夜の働きを労おうとしたフゲンは、アヤメの頬の異変に気付いて露骨に眉をひん曲げた。腫らしている自覚も多少の痛みも一応はあるが、そんなに酷いのだろうか。自分で自分を殴った挙げ句にそれでスッキリするなど生まれて初めてのことなので、いまいちピンと来ない。一応鏡くらいは見てくればよかったと、アヤメは少し後悔しながら慌てて否定した。

 

「ああいえ、ヒノエさんはずっと寝てました。これはなんて言うか、個人的な事情で」

「ふむ……? それならば深くは聞かぬが……して、何用だ?」

「……あの」

 

 昨夜、ミノトの言葉を聞いた瞬間に決めた事を、申し出に来たのだ。少しだけ勇気が要る。大きな大きな深呼吸をして覚悟を決め、フゲンを真っ直ぐに見上げて、言い切った。

 

「アタシも防衛に参加させてください」

「おお! それは有難い! 頼むぞ!」

「え」

 

 二つ返事と言うのも生温いほどの即答に、目が点になってしまった。断られるよりは百倍良いが、さすがに多少は何か聞かれるなり言われるなりするだろうと覚悟していたのに。自分から切り出しておいて何を言っているのかとは思いつつ、聞かずにはいられずしどろもどろに尋ねた。

 

「あの……い、いいんですか」

「何がだ」

「いや、その……今まで何にもしてこなかったのに、突然こんな事言い出して……」

 

 急に挙動不審になったアヤメを心底不思議そうな表情で眺めていたフゲンは、皆まで言うなとでも言うかの如く、アヤメの言葉を遮って唐突に豪快な高笑いをした。空を突き抜けるほどの大音量、明るく高らかな笑声に、目を丸くして口を噤むアヤメ。

 フゲンは一頻り笑うとそんなアヤメに向き直り、力強い笑顔を湛えたまま、父のように、祖父のように優しい声で言った。

 

「オマエは辛苦の底にあっても心に宿した炎を決して絶やさず、地を這いながら絶望に抗い続けてきたではないか。俺も、里の皆も、ずっとその姿を見てきた。オマエが何もしてこなかったと考える者など、この里には一人も居らぬ」

「……」

 

 不安も迷いも笑い飛ばされて空になった心に、全てを見守り続けてきた彼の温かい視線が、とくとくと流れ込んでくる。溺れそうな錯覚に陥って口で息をすれば、呼吸は出鱈目に揺れ動いた。

 言葉が出ない。

 

「誰よりも誇り高きその炎が、遂に蘇らんとしておるのだ。称えこそすれ、止める理由が何処にある」

 

 里を統べる偉大な長の深い愛情は、アヤメの心をみるみるうちに満たし、アヤメの理性が追い付くより先に容量を超えて溢れ出した。

 胸が、喉が、唇が震える。視界が滲む。

 

「……ありがとう……ございます……」

 

 俯いて絞り出すもほとんど声にならなかった感謝の一言と共に、長く長く胸に押し留め続け、いつしか流し方さえ忘れてしまっていた涙が、ようやく堰を乗り越えて零れ落ちる。己で張った右頬と左頬の泣き黒子が、一粒ずつの大きな涙でほろりと濡れた。

 

 溜まった涙が抜けて風通しの良くなった心は、スッと軽くなった。やっと。やっと、泣けた。

 

「……ハハハ! 久方ぶりの御目見えか、『泣き虫印』よ。懐かしいな!」

「……!」

 

 からかうように肩を叩かれ顔を覗き込まれて、大慌てでグシグシと目元を拭う。その動作も子供の頃のままなのが自分でも分かり、恥ずかしいやら悔しいやらで頭が爆発しそうだ。お陰で、涙はそれ以上溢れることなく、喉の手前まで出かかっていた嗚咽も鳴りを潜めてくれた。

 一度思い出したのだから、きっともう、好きなだけ泣ける。防衛に区切りがついたら、続きは一人でじっくり噛み締めよう。長く堪え忍んできた自分を抱き締めて、存分に慰めよう。そう固く決意して、アヤメは顔を上げた。

 

「当日は……そうだな、一先ずハモン辺りに付いてキャンプへ来てくれればよい。オマエに何を任せるかは、場の状況次第だ」

 

 『泣き虫印』の心が落ち着いたのを認め、フゲンは話題を現実に引き戻す。

 

「持ち場を定めぬままにして置ける者は、オマエを除けば後はウツシくらいのもの。臨機応変に動ける経験豊富なオマエの存在が、里の皆にとってどれだけ頼もしいことか。改めて礼を言う、よく心を決めてくれた。……しかしな、アヤメ」

 

 百竜夜行の防衛を指揮する『里長』の顔でアヤメへの高い評価を語ったフゲンが、再び里の家族を愛してやまない『祖父』の顔になる。そして、まるで幼い孫を愛でるかのように、大きく武骨な手でアヤメの頭をくしゃりと撫でた。

 

「俺は、そんなことよりも……何かにつけて泣くばかりの幼子だったオマエが、立派に成長してこの里に帰ってきてくれたこと、そして勇敢に戦う姿をこの目に見せてくれるということが、嬉しくて仕方がないのだ。長生きもしてみるものだな。ジジイを喜ばせてくれて、有り難うよ」

 

 破顔したフゲンに釣られてアヤメも自然に微笑み、力強く頷く。少し含羞むようなその笑顔も子供の頃と何ら変わっていないことに、フゲンの頬が一層綻んだ。

 

「――さあ、共に命を燃やそうぞ!」

 

 機嫌を良くした里長にバシンと景気良く背中を引っ叩かれ、よろめきながらも嬉しくてもう一度笑った。期待と激励、そして感謝が存分に込められたその強烈な一撃は、その後もしばらく、アヤメの心身に心地好い熱と高揚を与え続けた。

 

◇◇◇◇

 

 心は完全な復活を遂げたが、残念ながら身体は気合いだけで治りはしない。つまり、ハンターとして前線に出られないことに変わりはない。ならば与えられる仕事はバリスタの撃ち手か、荷物運びか、それとも怪我人の救護か。何だっていい。集会所のテラスで一人腐っているよりはずっとマシだ。ただ、勢いで参加した挙げ句に足を引っ張るようなことだけは、絶対にあってはならない。せめて、何があっても全力で動けるようにだけは準備しておかなければ。

 

 そうと決まれば善は急げ。今の自分にできる事を脳内で列挙し、片っ端から実行に移す。出発が突然明日の夜などになる可能性も十分有り得る。完璧を目指せば猫の手も借りたいくらいに時間が足りない。ので、猫と犬の手も借りることにした。

 

「こんな時に手伝ってもらっちゃって悪いね。カガミくんも忙しいだろうに」

「ボクはもうとっくに準備終わってるから、身体動かすのにちょうどいいニャよ。採って採って採りまくって来るニャー!」

「あはは。張り切ってくれるのはありがたいけど、この子が積んで走れるくらいで勘弁してやってね」

「……はあぁ~、レイメイは本当に優しくて良い旦那さんに貰われたニャねぇ……オトモ遣いが荒すぎるうちの旦那に、アヤメさんの爪の垢煎じたやつを身体中の穴という穴からぶち込んでやりたいニャ~……」

「……あぁ……あの……爪……要る……? い、一枚くらいなら……」

「ニャハハ、いらんニャ! あんなおもしろハンターなかなかいないから、オトモのし甲斐もあるってモンだしニャ!」

 

 レイメイの背に堂々と跨がったイブキのオトモアイルー・カガミは、そう言ってイブキとそっくりな笑顔でケラケラと笑った。つい先日もおもしろ半分でマガイマガドをパワーアップさせて、旦那共々こんがりミンチになりかけたばかりだと言うのに、そんな事はすっかり忘れたかのような豪胆さ。さすがはあの規格外ハンターのオトモを務めるアイルー、いい感じに狂っている。類は友を呼ぶというやつだろうか。

 

 何ができるかは分からないが、身体さえ動けば何かしらはできる。だから少しでも長く動けるよう、回復や増強に使用する薬品類を大量に用意するのが最優先だと、アヤメは考えた。しかし、長らく採取にも出ていなかったので、素材のストックがほとんど無い。そこでイブキからカガミを借り、ハチミツやげどく草、にが虫など、購入で賄えない回復用品の素材を、レイメイと共に大急ぎでなるだけ沢山採ってきてくれるよう頼んだのだった。

 

「アンタにお願い事するのも初めてだね、レイ。ちゃんと来てくれてありがと。頼んだよ」

 

 アヤメに頭を撫でられ、黒輝石の首飾りを提げた胸を張って、いつも通りフンと鼻息を立てるレイメイ。大した用が無い時には気まぐれで呼んでも悉く無視するのに、今日は指笛の一つで素早く駆け付けてくれた。主の心境の変化を嗅ぎ取ったのか、頼りにされて嬉しいのか、レイメイの表情にも普段より気力が漲っている。頼もしい仲間と家族に感謝し、お礼のおやつをあるだけ持たせて送り出した。

 

 続いて、カゲロウの雑貨屋へ。イブキは普段マイドから物品を仕入れているようなので、彼女の分まで根こそぎ買い占めてしまわないよう、こちらを選んでみた。実はカゲロウともすれ違い様に挨拶をする程度で、きちんと話したことはない。明らかに怪しいロンディーネとは違い、彼が信用に足る人物であるのは里の皆から聞いて分かっているが、アヤメ自身が人見知り気味なのもあり、実は、常に顔が見えない彼のことは少々苦手だった。

 

 少し緊張しながら店の前に立つと、アヤメより先にカゲロウが声をかけてきた。

 

「ごきげんよう、アヤメ殿。何か御入用ですかな」

「どうも。とりあえず回復薬と、解毒薬を……思いっ切り大人買いしても構わない?」

「ええ。在庫には十分余裕があります故、大量に必要なのでしたら、箱単位でお出しすることもできますぞ。店仕舞いの後で宜しければ、荷車でご自宅までお運び致しましょうか」

「そんな事もしてくれるんだ。じゃあ、お願いしようかな。あって困る物じゃないし……」

 

 そこまで口走ってすぐに、一体どれだけ使う気だと自分で苦笑した。いくら最低限の鍛練は続けていたとは言え、狩りから長く離れていた身、そう何度もモンスターの攻撃を受けていては命が幾つあっても足りない。

 しかし、箱買いを取り消そうとは微塵も思わなかった。使わずに済めばそれに越したことはないが、そう、あって困る物ではないのだ。今回の防衛が終わった後にも、きっと常時持ち歩くようになる物だから。

 

 気っ風良く薬品の代金を支払いながら、さて次は交易船か加工屋かと頭を巡らせるアヤメに、いつの間にか傘を閉じて傍らに置いたカゲロウが、何やら手振りで「手を出せ」と促してきた。はて、釣りは出ないはずだが。首を傾げながら右手を差し出すと、カゲロウは何故かその右手だけでなく左手も取り上げ、己の両手でアヤメのそれを握り締めた。

 

「!?」

 

 傍目にも分かるほど飛び上がって驚くアヤメ。『いけめん』と噂されるカゲロウの相貌が隠れた札の下から、クスリと上品に笑う気配がした。

 

「こちらは秘密の『さーびす』です。……もう一度闘う道を選ばれた、あなたに」

「……え……これ……?」

 

 狼狽え過ぎて、そう言われるまで何かを握らされたことに気付かなかった。手を解放され、おそるおそる掌を開くと、そこにあったのは見覚えのあるお守り。御利益に定評があり、ほとんどのハンターが携帯しているとも言われる、守りの護符だった。

 

 最後のナルガクルガ戦で紛失してしまったが、アヤメも師匠に貰った同じ物を持っていたので、この護符の存在は知っている。他の商品とは桁が二つ三つほども違う、今しがた大量購入した薬品類の総額よりも遥かに高価な品だ。買い物の内容からアヤメが戦線に復帰しようとしていることを察知したのは理解できるが、この護符は『さーびす』で受け取るにはあまりに価値が釣り合わない。

 困惑するアヤメを他所に、カゲロウは何事もなかったかのように立て掛けていた傘を差し直し、温かく物静かな声音で『さーびす』の真意を語った。

 

「それがしはかつて闘いに敗れて武器を置き、あなたとは別の道を歩みました。この里に恩義をお返しするべく選んだこの道には、後悔など勿論ありませんが……炎を取り戻されたあなたの瞳の輝きは、それがしにはとても眩しい。その熱く美しい炎を、少しでもお守りしたいと思ったのです。……そう考えれば、『さーびす』と言うより、それがしからの『ぷれぜんと』と申し上げる方が近いやも知れませんな。何にせよ、遠慮なくお受け取りください」

 

 先程触れたカゲロウの掌を思い出す。ただの行商人には有るはずのない、剣胼胝や古傷の跡が織り成す固い感触。武器を握って戦ってきた者の手。彼もアヤメと同じ苦しみと絶望を味わってきた者であることが、その感触と彼の言葉から分かった。

 

「これから再びあなたが歩まれる闘いの人生に、焔の加護があらんことを。――どうか、ご無事で」

 

 同じ地獄から這い上がり、自分とは違う道に新たな人生を見出だした、顔の見えない男。彼に対して抱いていた小さな苦手意識は、その柔らかく穏やかな声と境遇への共感に溶かされてすっかり消えた。

 アヤメは丁重に礼を述べ、カゲロウの祈りとそれが込められた護符をしっかり握り締めて、その場を後にした。

 

◇◇◇◇

 

 ロンディーネからは雑貨屋にない強走薬などを仕入れ、ナカゴに防具の細かい調整を頼むついでに砦で使用されている各種兵器の仕様書を借り、早めに帰宅してそれらに目を通しながら、レイメイ達の帰りを待つ。彼らが戻った後には薬剤の調合作業が控えているのだが、改めて詳細を知ったカムラの里の軍事技術が異常すぎて、理解……というよりも、受容するのに予定より少し時間がかかりそうだ。

 

 特に、固定式竜炎砲台や破龍砲に詰まった技術の高さと、この里の人々の鷹揚とした性格との不均衡には不安さえ覚えた。この二種に関しては砦に据え置かれている設備であるため、話を聞くだけで実物を目にしたことはない。アヤメには兵器を使用した古龍の撃退作戦などの経験も多少はあるが、こんな物はどの大国も所有していなかった。自分も使うことになるかもしれないから操作手順などをざっと確認しておこうと思っただけなのに、とんでもない物を見てしまったと、アヤメは激しく後悔した。

 防衛戦ではハンターですらない里守達がモンスターに向かってこれらを平然とブッ放しているらしい。設計図や製造技術が里の外に漏れれば、たちまち戦争などに悪用されて人間社会が地獄と化してもおかしくないレベルの代物を、だ。そしてその物騒極まりない兵器の資料を、ナカゴは既に何の疑いもなく、アヤメに貸し出してしまっている。アヤメがこの里の生まれだからと油断しすぎだ。もし里外でスパイとして育てられた女だったりしたらどうするつもりなのか。他国の軍で同じ事をすれば、外患の罪に問われて処刑されても文句が言えない愚行である。

 発明したのは十中八九ハモンであろうから、その辺りのリスク管理についてどう考えているのか、なるべく早く聞いてみようと思った。話の方向性如何では、ナカゴがハモンや里長に消し炭にされるかもしれない。しかしそれは世界平和を守るために致し方ない犠牲だ。図面の読み方を教えてくれてありがとう、さようならナカゴくん。アヤメは念の為、あまりに軽率すぎる将来有望な加工屋の青年に、心の中で別れを告げておいた。

 

 思わぬところで精神を磨り減らしてぐったりしていたら、依頼した素材を山ほど抱えて戻ったカガミ・レイメイペアと共に、イブキが血相を変えて転がり込んできた。どうやら、アヤメが防衛に参加することをどこからか聞き付けたらしい。ついに復帰できるのかと半泣きでアヤメに飛び付いて喜び、武器が取れるようになったわけではないと聞いて一瞬落ち込み、それでも共に戦えることが嬉しいと、もう一度泣いて喜んでくれた。

 

 しかし、イブキがアヤメの家へ来た本来の理由はそれではなかった。調査から戻ったウツシの報告を里長やゴコクと共に聞いたので、それを伝えにきたのだ。

 

 ――ヒノエと共鳴した龍は新種の古龍と認定され、『イブシマキヒコ』と名付けられた。身体に備えた風袋から逆巻く威風を生み出し、その力で飛行するが故に、移動するだけで地上を嵐に巻き込むのだという。フゲン達が立てた「百竜夜行はイブシマキヒコの活動に影響を受けたモンスター達の大移動である」という仮説が正しかったことも、そんなイブシマキヒコの生態とモンスター達の動向調査にて、ほぼ確証が取れたそうだ。

 

 ――そして、イブシマキヒコに直接追い立てられる形で再び百竜夜行が発生し、かつてないほどの規模と速度で、こちらへ向かっている。あと二日もあれば、砦付近にまで到達する見込みとのこと。つまり、防衛戦に臨む部隊は、明日の夕刻頃には里を出発しなければならない。

 

 イブキは、ウツシ達がそう話していたと言った。

 

 アヤメは手際よく薬品の調合をしながら、静かにイブキの話に耳を傾けた。乳鉢の中で色とりどりの素材を掻き混ぜ、均一な一色の薬に練り上げる。イブキが報告を終えてカガミと共に去った後も、心に浮かぶ恐れや迷いを素材に重ねて次々と擂り潰すその作業に、夜遅くまで没頭した。

 

 明日、この里を死守する戦いが始まる。終わったと思っていた人生が再び始まる。

 胸がどうしようもなく高鳴り、今夜はレイメイに寄り添っていても、なかなか寝付けそうになかった。

 




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◇◇◇◇

全人類はミノトちゃんボイスで居眠りをするべき

【NPC全登場チャレンジ:残り6人】
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