One-way Spiral Staircase 作:まりも@tks55kk
片腕を破壊されたナルガクルガはつんざくような悲鳴を上げ、周囲に砕け散った刃翼の破片を撒き散らしながら、もんどりうって吹っ飛んだ。立ち上がろうと足掻くも、右足を地に着く度に悲痛な叫び声を上げては倒れ込む。刃翼はとても生物の一部だとは思えない硬度だったため、きちんと痛覚が通っているらしいことに、アヤメは少し驚いた。
骨折したようなものだろうか? 過去に自分が骨を折った時を思い出して僅かに胸が痛むが、あとほんの少し当たり所が違えば、自分はああして地を転げ回ることすらできない肉塊にされていたであろうことに思い至り、グッと気を引き締める。
しかし、この危機に瀕してなお、アヤメ達が対峙するこのナルガクルガは、一般的な個体よりも一枚上手だった。ようやく体勢を立て直したかと思いきや、すぐさま踵を返し、森の中へ姿を消してしまったのだ。あれほど獲物を殺すことに執着していたのが嘘のような転身だ。己が受けたダメージを冷静に判断した結果の行動だろう。追撃をする暇もなかった。
唐突に訪れた静寂。アヤメが生み出した好機に猛り昂った心もろとも取り残されたハンター達は、呆然と立ち尽くした。
「退いた……のか?」
ライラックが少し安堵したように胸を撫で下ろす。
「あれだけの傷だ、遠くへは行かんだろう。すぐに体制を整えて追うぞ」
フジキは『あれだけの傷』を敵に負わせた功労者をちらりと見やりながらそう告げた。
肩で息をしながらも回復薬を一瓶丸ごと飲み干し、しかし目はまだナルガクルガが消えた森の方向をじっと睨み付けたままのアヤメ。全身から今もビリビリと殺気を立ち昇らせ、触れれば斬れそうな気配を醸し出している。これが一人で狩り場を走り続けてきたハンターの気迫か、と、感嘆せざるを得なかった。
武具の手入れと傷の手当てを手短に済ませ、カヤがアヤメに駆け寄る。全身に浴びた返り血を甲斐甲斐しく拭われて、ようやくアヤメは我に返った。
「とんでもない格好になっちゃって。顔がどこだかも分かんないじゃない。モンスターでも泣いて逃げ出すわよ、今のあなたを見たら」
「はは、確かに。ありがとう、後は自分でやるよ」
「はいはい、そうして。……それにしてもあなた、いつもあんな戦い方してるの? こっちの心臓が潰れたかと思ったわ」
「アタシはアンタみたいに小回りが利かないからね。強行突破で行けそうな時は行っちゃうかな。こんな武器だから、いい感じに当たれば勝ちみたいなところもあるし」
己の得物を示しながらケロッとしてそう言い放つアヤメに、フジキが信じられないといった表情で頭を抱える。
「勘弁してくれよ。あんなモン見せられたら、同じ物担いでる俺まで命投げ捨てろって言われてるみたいだぜ」
「投げ捨ててはいないよ、賭けただけ。で、とりあえず一勝」
「いやぁ、噂通りのトバしっぷりだな。天晴れだよ……」
一本指を立ててニヤリと微笑むアヤメ、呆れて苦笑いするフジキ。場に張り詰めていた緊張感が、ようやく僅かに解れた、その瞬間。
カヤの半身から、激しく鮮血が飛び散った。
「!?」
目を見開いて膝をついたカヤの足元には、漆黒の棘がズラリと突き刺さっている。一瞬で胸から脚までを広く負傷したカヤ自身の身体には、何故か一本も残っていない。彼女に触れた尾棘の全てが、その細い身体を貫通していた。
ハッとして顔を上げると目と鼻の先、先刻ナルガクルガが消えた茂みの中で、怒りに染まった赤い光が二つ、爛々と燃えている。はじめから立ち去ってなどいなかったのだ。
「あんだけぶちキレてるくせに、冷静な野郎だぜ。こっちが緩むのを待ってやがったのか」
ジリジリと後退しながら、密かに狩猟笛を逆手から順手に持ち替えるライラック。他のメンバーの立ち位置や状況を確認しつつ、早くも演奏の準備に入ったようだ。
「くそ……気配も何も全く感じられなかった。あんなに近くにいたのに」
苛立ちと焦りを滲ませながらそう吐き捨て、フジキは庇うようにカヤとナルガクルガの間に素早く位置取って囁きかける。
「おい、やれるか?」
「う……ぐッ……」
粘着質な水音混じりの声にならない声、そしてボトボトとその口から零れる血は、彼女が肺を損傷していることを意味していた。なんとか呼吸はできているようだが、もはや戦闘どころではないことは誰の目にも明らかだ。
フジキに目配せされたアヤメは小さく頷くと、足音を殺してカヤへにじり寄り、慎重に剣を盾にしながら彼女を少しずつ脇へ押しやった。少しでも敵から引き離さねばならない。できればすぐにでも戦線から離脱させたいが、救助を呼ぶ狼煙ひとつ上げる隙すら見出だせない今は、これが限界だ。
藪からナルガクルガが徐々に姿を現す。アヤメに破壊された右前足を引きずりながらも、切断されて短くなった尾を振り回し、残った棘を隆起させて激しく威嚇しているのが見えた。
全身を打ち据えられ自慢の刃翼を砕かれ、満身創痍のはずだ。しかしそれでも、ナルガクルガの全身からは、底の見えない生への執着と怒り、そしてアヤメたちへの殺意が溢れ出していた。
「生きて帰すつもりはないって目だね」
アヤメが呟くと、それにイエスと答えるかのように、スゥ……とナルガクルガが大きく息を吸う。
「なら……ケリつけるしかねェな!!」
後方に控えていたライラックと、ナルガクルガが吠えた。
自らの身体を伝う血を弾き飛ばすほどの衝撃を伴って、ナルガクルガが月夜を仰ぎ慟哭する。負けじとライラックも雄叫びを上げ、高らかに高揚と癒しの旋律を奏でた。特殊な周波数の音色と共鳴したハンターたちの血肉は無意識に滾り、風のような疾さで飛び出してきたナルガクルガが振るった左の刃翼を、四方に散って躱す。
「おらァ、こっちだモンスター!!」
ナルガクルガを挟んで手負いのカヤとは反対方向に避けたライラックが、わざと地面を打ち鳴らしてナルガクルガを挑発する。ぎゅるり、紅く燃える双眸が闇を横薙ぎに払い、そのままライラックの喉笛を噛み切らんと牙を剥いて跳躍した。しかし僅かに遅い。ナルガクルガの牙がライラックを捉えるより速く、ライラックの唸る笛がその横っ面を張り飛ばした。
大剣二人もすかさず追う。フジキは抜刀の勢いを乗せた縦斬りを、アヤメは走る慣性を利用して繰り出した薙ぎ払いを、それぞれナルガクルガの左右から胴へ叩き込んだ。二つの巨大な刃がザクリと肉に食い込み、抉り取る。ギャアッと悲鳴を上げ、ナルガクルガは激しく嘔吐しながら怯んだ。しかし、それでも倒れない。
踏み止まったかと思いきや、筋肉を捻り切るかのような勢いで身を翻し、そのまま一回転。目にも留まらぬ速さで尾を振り抜いた。
「!!」
すんでのところで回避するも、凄まじい風圧に煽られて尻餅をつくアヤメ。咄嗟にガードを選択したフジキは、ガードごと遥か彼方へ弾き飛ばされた。大剣を携えた大柄なフジキが、枯れ葉のように軽々と宙を舞う。
フルスイングの後隙を僅かに残していたライラックは、真っ向から直撃を受けてしまった。成す術もなく背後の大木に背中から叩きつけられ、そのまま動かなくなった。
マズい。マズい。マズい。
素早く納刀して立ち上がったアヤメは、眼前に広がる惨状に目眩を覚えた。
膝から崩れ落ちたライラックは、焦点の合わぬ目を見開いてうつ伏せに倒れたきり、ぴくりとも動かない。おそらく気絶している。カヤは少し離れた場所に退避こそできたが、未だ地に膝をついたまま。次に狙われれば、もう避けることは叶わないだろう。
フジキは剣を支えに、何とか己の足で立ってはいる。しかし、ガードの衝撃から回復しきれていないのか、まだ体勢を整えられていない。彼が剣を構えるより早く、フジキを真っ直ぐに睨めつけたナルガクルガが、僅かに姿勢を低くした。弱った獲物に止めを刺さんとする、獣の圧。全身の毛がよだった。
マズい。
アヤメは弾かれたように駆けた。極限まで集中した視界がスローモーションのように、ナルガクルガの華麗な死刑執行の動作を捕捉する。
全身のバネを使って低く跳び、空中で身体を捻って回転しながら、尾を振り上げる。切断された先端から鮮血が撒き散らされ、辺りに血の雨が降る。尾の着地予定点には、まだ足元が覚束ず、ガード以外の選択肢を失ったフジキ。あまりに完璧で、絶望的な光景。
アヤメの眼前には、怒りに狂ったナルガクルガの紅い瞳。視野が巨大な紅で埋め尽くされた。
ダンッ!!
急制動。己の全力疾走の勢いを全て受け止めた左足が地面にめり込む。両手は背負った大剣の柄に。
ズギャアッ!!
ナルガクルガの尾がガードを固めたフジキを撃ち抜いたが、アヤメは構わずグッと踏ん張り、腰を落とす。抜いた剣はまだ振らない。意識を尾に集中させるあまり前方への注意が散漫になったナルガクルガの頭へ、左肩で思い切りタックルをぶち込んだ。フジキを仕留めることに全神経を注いでいたところへの思わぬ攻撃に、ナルガクルガの視線が一瞬泳ぐ。怯んだ。いける。
生半可な攻撃では足りない。この戦いに幕を引く、最大の一撃を。ここで仕留めなければ――全員死ぬ。
叩き付けた左肩もろとも大剣を身体の内に引き込み、全身の筋肉が捻じ切れる寸前まで、持てる力の全てを溜め込む。極端に上体を捻った体勢からは、もはや敵の姿を目視することすらできないが、命の危機に際して開放された剥き出しの五感全てが、見えない敵の位置を全身で感じ取っている。
もっと、もっと力を。集中、集中、集中――――!
全力で、ありったけを前方に振り切った。
衝撃。
肉と骨が砕ける確かな感触。刃翼を破壊した時とは比べ物にならない、大量の血飛沫が視界を塞ぐ。アヤメの渾身の強溜め斬りは見事、ナルガクルガの眉間を叩き割った。
だが――
「……え?」
不意に、両腕が軽くなる。たった今ナルガクルガの命を粉砕したはずの相棒が、忽然と手中から消えた。
頭が、真っ白になった。
「――アヤメェェ!!」
フジキの悲鳴にも近い絶叫は、大地が割れる轟音に掻き消された。
◇◇◇◇
「……」
万物が消え失せたかのような静寂が、アヤメの全身を包む。何も聴こえない。音もなく揺れる木々の隙間から見えるのは、真っ白な月と満天の星空。
空。アヤメは四肢を地に投げ出し、仰向けに倒れていた。
『「くそッ、あヤメ……聞こエるかアヤメ! おイ、あヤめ!!』」
「……?」
音の無い世界にいたのは一瞬だったのか、長い時間が経ったのか。ようやく耳に届いたのは、金属か何かに反響して酷く歪んだかのような、自分の名を呼ぶ男の声。
あれは――誰だ?
音を認識した途端、猛烈な目眩と、臓物の全てをぶちまけてしまいたいほどの吐き気が襲いかかってきた。思わず身を捩ろうとするも、混濁した意識と身体はまるでリンクしない。ゴボッ、と、腹の底で乱暴にかき混ぜられた吐瀉物が、仰向けのままの口端からだらしなく零れ落ちた。
喉を詰まらせる血の匂い。口内に広がる酸と鉄の味。
これは――何だ?
ビクンッ。
右腕が跳ねた。続いて、右の脚。自分の身体の一部が、独立した生物の如く好き勝手に暴れて制御が全く利かない。不規則なその動きは、徐々に速くなっていく。筋肉がてんでバラバラに痙攣し、その度に鈍い痛みが全身を走る。
……否、『全身』ではない。
アヤメの意に反して跳ねる身体の感覚も、どんどん地面に広がってゆく血の生暖かさも、そして痛みも、僅かに感じ取れるのは右半身だけ。
左半身は、そこに存在している実感さえ無かった。
左の腕は、脚は――どこへ行った?
◆◆◆◆
痛む身体に鞭打って修練場から帰り、寝床に倒れ込んでうつらうつらとしたのも束の間。また、あの夢で目が覚めた。
まだ着替えたばかりなのにもう汗で重くなった寝巻きを忌々しげに脱ぎ捨て、土間が水浸しになるのにも構わず、甕から手桶で掬った水を頭からぶち撒ける。
「……ッ」
冷たい水が左の掌に染み、アヤメは小さく顔を顰めた。
修練場で自ら傷だらけにしてしまったその掌を見つめ、ゆっくりと握り、開く。左手は正しく傷に沿って痛み、指の一本一本に至るまで、きちんと意図した通りに動いた。フラリと二、三歩踏み出し、立ち止まる。まだズキズキと熱を持って痛む左脚、しかしそれはただ痛むだけで、何不自由なく動く。
そう、平穏な日常を送るのには、何の不自由もない。
「……生きてるだけでも奇跡」
かつて医者に繰り返しかけられた言葉を、反芻してみる。紛れもない事実だ。しかし、その言葉が自分にとって何の意味も持たないことは、アヤメ自身が一番よく理解している。
口癖になるほど独り言ちた重みのない言葉は、何度繰り返しても、薄暗い部屋の冷たい土壁に吸い込まれ、虚しく消えるばかり。最近はもう、自分に言い聞かせる価値も感じなくなっていた。
◆◆◆◆
かの激戦でアヤメが負った傷は、数多のハンターを診てきた医者ですら、目を覆うものだった。
頭部にアヤメの大剣を突き刺したままその身を反転させてナルガクルガが放った尻尾叩きつけは、そのたった一撃で、アヤメの左半身を残酷なまでに破壊し尽くした。厳しく鍛え抜き常人を遥かに超越した肉体の強度、そしてランク相応に整えていた防具のお陰でかろうじて原型を留めてはいたが、それすらも奇跡に近い。目ぼしい骨を悉く砕かれ、ありとあらゆる筋肉や腱を無惨に引き裂かれた半身には、書いて字の如く、皮一枚で繋がっているような箇所も複数あった。半狂乱のネコタクに担ぎ込まれてきたアヤメを見た医者は、あまりの損壊の激しさに初めは死体と勘違いし、まだ息があると聞いて腰を抜かしたという。
狩場で意識を失ったアヤメが再び目覚めたのは病院。長い昏睡と、傷による感染症から来る高熱によって朦朧とした意識の中、重い瞼を開くと、見覚えのある女性が安堵に泣き崩れる姿が見えた。その傍らには、頭に包帯を巻いて目に涙を浮かべる金髪の男性。そして、ぼろぼろに歯零れしたアヤメの大剣と大きな包みを携えた、体格の良い男性。
フジキ達だった。
彼ら曰く――
アヤメに最期の一撃を放った直後、ナルガクルガはその場で息絶えた。おそらくヤツも無意識だったんだろう、とはフジキの談。そのお陰で迅速な応急処置と救助要請が可能になり、結果として無事とは到底言い難いものの、全員が生還できたのだと言う。アヤメの命を賭けた頭部への一撃は、間違いなく致命傷だったのだ。
また、アヤメが事前に尻尾を切断していたお陰で、アヤメだけでなくカヤとライラックも命拾いしたとも聞かされた。あの切断がなければ、カヤを貫いた尾棘の数はもっと多かっただろうし、重量と長さが増していた分、振り回しの直撃を受けたライラックも気絶では済まなかっただろう、と。
「あのナルガクルガは、間違いなくあなたが仕留めた。あなたがいなきゃ全滅してた私たちには、何も受け取る資格はないわ。だから、あれはあなたに」
カヤが、アヤメの大剣と共に置かれた包みを指し示した。アヤメがまだ自力で起き上がることすら叶わないのは彼女も分かっているはずだが、それ以上の説明はない。中身は、傷が癒えてから自分で見てくれ、ということらしい。
「完全に実力不足だった。俺とカヤは、それぞれ故郷に帰ってしばらく鍛え直すことにしたよ。今日をもって俺たちのパーティは解散だ。本当に……すまない」
ライラックはそう言い、深々と頭を下げた。
「……アンタは……?」
アヤメにそう問われたフジキはおもむろに跪き、アヤメの右手を静かに取る。出会った時とはまるで別人のように、窶れた覇気の無い顔。口を開く直前、彼は何故かヘラリと笑った。
「……情けないが、俺は……俺は、おそらくもうダメだ。アンタがやられた瞬間が頭に焼き付いて離れない。月を見るだけで足が震えて止まらないんだ。すっかりポンコツになっちまった」
「…………」
「……でもな、アヤメ」
今にも泣き出しそうな笑顔を顔に張り付けたまま唇を震わせ、フジキは握る手に力を込めた。
「アンタは、本当に強い。だから……諦めないでくれ」
◆◆◆◆
「強い……か」
濡れたままの身体で布団に背を預け、埃の積もった天井の梁を見上げた。ここに越してきて以来、掃除らしいことは一度もしていない。先住の蜘蛛が糸を垂らして狩りに出掛けようとしていたが、アヤメの視線を感じたのか、音もなくスッと梁の裏へ戻って身を隠した。
あの時フジキに握り締められた右手の感触は、今でもうっすらと覚えている。震えていたのはフジキの手だったかそれとも自分か、それすら曖昧な程度でしかなかったが。
「それなら……どうして、アンタたちが作ってくれたこれを着て、狩場に出られないのかな」
自嘲しながら移した視線の先には、寝床の壁に吊るしたナルガ装備一式。あのクエストの報酬金全額とこれが、あの日フジキ達が持参した包みの内容物だった。ギルドカードの情報をもとに突き止めたアヤメ懇意の加工屋へ依頼を出し、アヤメの寸法で完璧に仕立てさせた逸品。気の遠くなるような長期に亘るリハビリを経て退院し、かつての故郷であるカムラの里へ帰ることを決めて加工屋へ別れの挨拶に出向いた際、『デカい男が血塗れの素材を持ち込んで、泣きながら依頼してきた』と聞いた。
「戦えるハンターに使ってもらえる方が、アンタも少しは浮かばれるだろうに……ねぇ。そんなこと、ない?」
自分に命を奪われ、それと引き換えに自分の半身とハンター人生を奪ったモンスター。その遺骸からの分け前で誂えられた防具に向かって、静かに問いかける。
「死んでまで戦い抜いた誇り高いアンタが……アタシの所に来ちゃったばっかりに、まるで普段着みたいに使われてさ。可哀想だよ、ホント」
互いに最期の一滴まで生命を絞り出して戦った、かつての好敵手。その亡骸も今は、何も言わずただそこに在るのみの脱け殻だ。
歩けるようになってからは、ハンターとしての装備に身を包めば少し気分が変わるかもしれないと、この防具に袖を通して毎日のようにあちこちへ出掛けた。街の市場、少し離れた辺境の村、時にはハンターが集まる集会所にも。それは居をカムラの里へ移した今も漫然と続けている日課だが、『ナルガクルガの熱い魂がアヤメを奮い立たせ、肉体の限界を超えさせて狩場へと誘う』――などというロマンティックなことは、一度たりとも起きなかった。当然、彼がアヤメに残した傷が、突然癒えることもない。
アヤメの身体は既に、日常生活には何の支障も感じないまでには回復している。それどころか、かなり激しい運動もできるようになった。走ることは勿論、ここへ来てから覚えた翔蟲での疾翔けさえも、今は難なくこなせる。多少の荷物を抱えて移動するくらいなら、現役のハンターに追随することも十分可能だろう。怪我の前から持ち合わせていた頑丈さや治癒力に加え、悪夢に目覚める度に部屋を飛び出し、過去を振り払いたい一心で疲れ果てるまで身体を酷使する、現実逃避という名の孤独な鍛練が為した奇跡だ。
しかし、動けるようになったというのはあくまでも『常識的な範疇で』の話。ゼンチも言っていた通り、対モンスター用の大物武器を扱うには、ハンターのみが使える極めて特殊な技術や呼吸法、それらによって強化した常識外れの膂力が必要だ。そんな常識の外を生きていたあの頃に戻ろうとすれば、たちまち今日のように地べたを這いずり回ることになる。いくら逃れようと足掻いても突きつけられるその現実は、アヤメを呪うように狩り場から遠ざけた。
病院のベッドで目覚めた時から今に至るまで、不思議とあの強大なモンスターに対する恨みや怒りは感じたことがない。因果応報と言えばそれまで。狩らなければ狩られる。ハンターとはそういう生業である。
むしろ、彼を思い出す時に湧き上がるのは、あの圧倒的な強さと生への執着に対する、畏敬の念。また、ほぼ相討ちだったとは言え、あれだけの相手と戦って勝利できたことには、一種の誇りさえ感じているくらいだ。故に、戦うことができなくなった今も、この防具を手放せないでいる。自分が確かに彼と戦った、戦えるハンターであった証だから。
しかし、得たものの代償に失ったものはあまりに大きい。
ハンターとしての肉体と自信、充実した日々は、命と天秤に掛けても釣り合うはずのものだった。しかし今、その天秤の片側は空っぽだ。バランスを失って傾いた秤の片腕に吊るされ、ぶらりんと宙に浮いた空の皿。その心許なさは耐えがたい苦痛となって、アヤメの心をじくじくと蝕み続けていた。
『生きてるだけでも奇跡』
生きてるだけじゃ、死んでるのと変わんない。
いっそ、殺してくれりゃあよかったのに。
「……」
不意に訪れた眠気が、徐々に意識を濁らせ始める。考え疲れたからか、身体が冷えたからか。半身を失う悪夢に飛び起きるのはしょっちゅうだが、今夜は随分無茶もしたし、感傷にも浸りすぎた。心身ともに、ボロボロだ。
今日も結局、昨日から何一つ進まず、何も変わらなかった。そんな日々にも、もう慣れたと思っていた。それなのに今夜は何故か、今日と変わらない明日がやって来ることが、こんなにも苦しい。
「……あの子……」
ふと、イブキの笑顔が脳裏に浮かぶ……が、そこでついにぷつんと思考は途切れた。もう、今日は何も考えたくない。
アヤメは再び一人で、空虚な微睡みへと沈んでいった。
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◇◇◇◇
いくらなんでも大怪我させすぎたかなと反省はしている
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