One-way Spiral Staircase   作:まりも@tks55kk

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6-crybaby【泣き虫】

 狩りに出る予定はない。出られるようになる見込みも一向に立たない。しかしそれでも、目覚めれば無意識にハンターの装備へ手が伸びる。少し寝惚けている朝などは、ふと気付いたら全身きっちり仕上がっていることもある。今朝がまさにそうだった。一介のハンターとして駆け抜けた日々の記憶は、頭の頂から指の先に至るまで深く染み付き、いくら待てども色を失ってはくれない。

 そして、一度装備に身を包めば、目が、足が、自然に狩りの気配を探してしまう。アヤメが集会所に引き寄せられるのは、習慣を通り越してもはや本能だと言っても過言ではない。

 

 以前ウツシが予告していた通り、最近は里外から出入りする応援ハンターの姿を見る機会が増えてきた。里に迫る大きな災いが理由であることを考えればそのお陰と言うのは少々気が引けるが、集会所でこれまで通りに過ごしていても、『この施設に入り浸る唯一のハンター』ではなく『不特定多数のハンターのうちの一人』でいられるのはありがたい。無論、決して広くない施設なので、従業員達がアヤメを見失うはずがないことは重々承知しているが、居心地の悪さは少しだけ和らぐ。かつての活動拠点を思い起こさせる喧騒、その中だからこそ得られる独特の孤独感は、アヤメの心を逆に落ち着かせた。

 

 里外からのハンター受け入れが始まった直後には時折あった、見知らぬ者からのパーティ参加の勧誘も、出入りの人数が増えてからはとんとない。安堵と虚しさを同時に噛み締めながら猛者達の群れに埋没し、いつも通り川を眺めてうさ団子を頬張る。

 しかし今日は、そんなアヤメに声をかける人物が一人。

 

「アヤメさん。少し、お時間よろしいですか」

 

 控えめでありながら凛と耳に通る、少々抑揚に欠けた女性の声。聞き慣れたその声にアヤメが振り返ると、先程までクエストカウンターで忙しく受付業務に励んでいたはずのミノトが、書類の束を手に佇んでいた。

 

 長寿の竜人族である彼女と姉のヒノエも、アヤメの幼少期を知る者であり、さらに言えば、二十年以上も前であるその当時からほとんど変わらない外見を保っている人物だ。今とほぼ同じ風貌の彼女達に手を引かれてヨチヨチと里を散歩していた記憶は、アヤメにも朧気ながら残っている。ただし、当時のアヤメは幼かったので、ヒノエとミノトの区別はあまりついていなかったが。

 最近のミノトは業務で忙しいので、朝晩の挨拶以外で言葉を交わすのは久しぶりかもしれない。少し嬉しいような気がして、ごく軽い気持ちで返答した。

 

「ご存知の通り、いつでも暇だよ。何か手伝う?」

「いえ、お気遣いありがとうございます。皆様出払われて、ようやく手が空きましたので伺いました。……こちらを」

「……!」

 

 何の説明もなく、ミノトの手元から突然取り出された一枚の紙切れ。その紙面を一目見た瞬間、アヤメの心臓がバクンと跳ね、緩んでいた気持ちは電流を流されたように痺れて張り詰めた。

 

「……これは?」

 

 思わず声が上擦る。「これは」とは言ったが、これが何なのか、仮にもハンターであるアヤメに分からないはずがない。

 現役時代に何度も何度も手にし、いつも穴が空くほど読み込んでいた、今も夢に見ることさえある懐かしい書式。アヤメが知る物と画風は違うけれど、ターゲットの特徴をよく捉えたモンスターの肖像画――

 

「フロギィとドスフロギィの、狩猟クエストの依頼書です」

「いや、それは見れば分かるよ。そうじゃなくて。なんで?」

 

 さらりと言ってのけたミノトは、普段と変わらず涼しい顔で平然としている。一方の自分は、声色に明らかな動揺と苛立ちを滲ませ、そんな自分の声にさらなる苛立ちを覚える悪循環に陥っている。その悪循環の中でひたすら繰り返される疑問。

 ――武器を持つこともできない自分に、何故?

 

 心臓の拍動が激しさを増し、口を開けばミノトに聴こえてしまうのではないかと思うほど、背中や喉にまでバクンバクンと鳴り響く。止まれ。止まれ。止まれ。

 

「イブキさんは他のクエストに出立されたばかりですし、現場が少々遠方である故か、他のハンター様方にもなかなか受注していただけないものですから」

 

 彼女が何を言わんとしているのか、ここまで聞いてまだ分からぬほど未熟でも鈍感でもない。だからこそ祈った。

 お願い。これ以上言わないで。ミノトさん、お願い――

 

「アヤメさんにこれを、お願いできないかと思いまして」

 

 頭を殴られたような目眩がした。

 

「ごめんミノトさん。無理だわ」

 

 考えるより前に即答していた。

 様々な感情を限界まで押し殺して選んだ短い言葉は、自分でも呆れるほどに棘だらけだ。依頼書に釘付けになったままの虚ろな目は泳ぎ、どうしてもミノトの顔を見ることができない。彼女は今、どんな目で自分を見ているのだろう。

 やってしまった、と思った。

 

「……左様ですか」

 

 ミノトはしばし無言で立ち尽くしていたが、やがて一言そう呟き、手にした依頼書を手元の束へ差し戻した。

 

「では、こちらは一旦留保しておきます。急ぎの案件ではございませんし」

 

 未だ顔を上げられないままでいるアヤメに構わず、落ち着いた静かな手つきで依頼書の束をペラペラと捲るミノト。手早く頭から最後までに目を通してそれを閉じると、小さくフゥと息を吐き、いつもと何ら変わらぬ、抑揚のない声で言った。

 

「やはり今は、他にこれと言った物がありません……またリハビリに良さそうなクエストが入りましたら、お声掛け致しますね」

「……ッ」

 

 さっきよりも更に強烈な目眩がした。

 顔を上げたそこには、既にミノトの姿はない。踵を返してスタスタとクエストカウンターの方へ戻っていく後ろ姿を目で追ったアヤメは、色素の薄い細髪を片手でグシャッと乱暴に掻き毟り、震える胸から声を絞り出した。

 

「……なんかホント、ごめん。ごめんねミノトさん」

「……アヤメさん?」

 

 振り返ったミノトと、ついに目が合う。いつも表情に乏しい彼女の瞳に、悲しみの色が浮かんでいる。ミノトの人柄を知らない人間ならば、まず気付かないであろうほどの微かな揺らぎ。しかし、アヤメはもうそれを容易く読み取れる程度に、彼女の不器用な優しさを知ってしまっている。

 胸は刺されたように痛み頭には血が昇り、目の前が真っ暗になった。

 

「ごめん。ちょっと頭冷やしてくる」

 

 追い抜きざまにそれだけ言い残して、アヤメは足早に集会所を後にし、その日はそれきり戻らなかった。

 

◇◇◇◇

 

 逃げるように立ち去ったアヤメを黙って見送り、溜め息をついてカウンターの席に戻ったミノトに、テッカちゃんとぷらぷら遊びながら事の始終を見守っていたゴコクが声をかけた。事情を理解しながらも優しく明るい口調は、落ち込むミノトを慮ってのものか。

 

「お疲れさんでゲコよーミノト。いやぁアヤメの奴、相当カッカ来とったでゲコなぁ」

「はい……やはり、差し出がましかったでしょうか」

 

 そう言って肩を落とすミノトに、何か手を動かせば気も紛れぬかと、殴り書きした新たなクエスト依頼書を投げ渡してみるゴコク。

 宙を舞う書類を表情一つ変えずノールックで華麗に回収するミノトの妙技は正確無比で、今や新たな里の名物ともなりつつある。しかし、今日は掴んだ書類がミノトの手中でグシャッと潰れてしまった。どうやらダメそうだ。ゴコクが書きかけていた二枚目を鞄にしまうと、その気配を察したミノトも構えていた手を卓上に下ろした。

 

「あの子はちゃんとおぬしの真意も分かっとるでゲコ。だからこそ辛いんでゲコな。おぬしのせいじゃないから気に病むでないよ、ミノト」

「ニャー、そうは言ったってニャあ」

 

 何気ない風を装ってテッカちゃんの眼前で団子を振りながら慰めるゴコクに、それまで黙って算盤を弾いていたマイドが口を挟んだ。

 いつもミノトの隣で業務に就いているマイドは、里の衆の中でも特にミノトの性格や動向をよく把握している。ミノトの方も、他人からは「何を考えているのか分からない」と言われがちだが、マイドには心を開いてよく相談事などをしていた。

 

「何週間も前からあれやこれやと悩みまくって、やっと声かけたのにあれじゃあ、凹んで当然ニャよゴコク様。ニャ? ミノトさん」

「ありがとうございます、マイドさん……ですが、致し方ありません。わたくしのやり方がいけなかったのです」

「まあ、結果的に上手くいかなかったのはそうニャけど、あっちの都合もあるからニャ。良いとか悪いとかの話じゃないと思うニャよ」

「……はい……」

 

 沈み込んだミノトを見て、結局ゴコクと大して変わらないことしか言っていないのに気付き、気まずそうに沈黙するマイド。俯いたまま黙りこくるミノト、テッカちゃんに団子を取られたことにも気付かず考え込むゴコク。三人の間にえも言われぬ重い空気が漂い、集会所入口付近が通夜か葬式かといった様相を呈し始める。

 そこに、恐る恐ると言った様子のヒノエがひょっこりと顔を出した。

 

「こんにちは。あの……アヤメさん、何かありましたか? 随分と思い詰めた顔をして通り過ぎていかれましたけれど」

「姉様」

 

 表でのクエスト受付等を担当している彼女が業務時間内に集会所へ来ることは、よほどの用件がなければ基本的にはない。それだけヒノエが見たアヤメの様子が只ならなかったということだろう。普段なら大好きな姉の姿を一目見るだけで悩み事の九割くらいは解決するミノトだが、今日は流石にそうもいかなかった。

 

◇◇◇◇

 

 食事場の椅子に腰掛け、ミノト達から事の経緯と顛末を聞いたヒノエは、少し困った顔をして微笑むと、まずは落胆に打ち拉がれる妹を労った。

 

「……そうでしたか……それであなたまでこんなにしょげているのね。……でもミノト、ゴコク様やマイドさんの仰る通りですよ。あなたはあなたにできる事を、精一杯考えたのですから」

 

 姉に諭されながらなおも俯くミノトの表情を「今にも泣き出しそうな顔」と正しく認識できる者は、皆が家族のように親しいこの里の中にもそう多くはいない。その貴重な存在のうちの一人であるマイドに頭を撫でられながら、ミノトは消え入りそうな声で、己の無力を呪った。

 

「……わたくしは本当に言葉足らずで……あの方が苦しむ姿を、側でずっと見ているのに……どうお声をかけて励ませばよいのか、分かりません」

 

 カウンター越しにミノトが見つめ続けてきたアヤメは、いつも皆に背を向けていた。力なく欄干に身を預け、深く深く息を吸っては吐き、時折何かに耐えるかのように頭を垂れる。同じ場所で何日もそれを続けたかと思えば突然フラリと出ていき、翌日には身体のそこかしこに傷を作って現れたこともあった。アヤメは何も語らないが、自身も大物武器を扱うミノトには、その傷が武器を手に取り必死に足掻こうとした跡であることは、本人に尋ねずともすぐに分かった。

 

「わたくしも姉様のように、人を暖かく勇気づける言葉が上手に話せれば……日々そう思って、考えているのですが……」

 

 今にも折れそうな心に抗い続けるアヤメの後ろ姿を思い、ひたすらに自分を責める妹を、ヒノエがそっと制して言う。

 

「いいえ、ミノト。血の滲むような努力の日々を突然喪ってしまったアヤメさんの痛みは、上辺の言葉で繕って差し上げられるような、簡単なものではありませんよ……ともすれば、あなたが双子の片割れである私を喪うこととも……はうっ?」

 

 突然ゴコクに釣り竿で頭をペシと叩かれて目を白黒させ、それからハッと口を閉じたヒノエが見たのは、月のように美しい切れ長の目をかっ開いて虚空を見つめ、石像と化したミノトの姿。

 

「……ミノト。ミノト?」

「ヒノエ、もうちょっと他になかったでゲコか」

「大丈夫よミノト。ヒノエはここにちゃんといるでしょう? ほら、私を見て。そう、はい、息を吸って。吐いて。そう」

「……コホン。失礼致しました。もう大丈夫です」

 

 ヒノエが受付のカウンター越しに頬を優しく両の掌で包み、頭を撫で肩を抱きちょっと揺さぶり、背中を擦ってようやく、ミノトの顔が生気を取り戻す。その様子を眺めてケタケタ笑っていたマイドが、ふと遠い目をして頭の後ろで手を組み、ふんぞり返ってポツリとぼやいた。

 

「小さい頃はミノトさんにも負けず劣らずの引っ込み思案で、いっつもピーピー泣いてる子だったのにニャあ、アヤメさん……大人になって、泣くことも忘れちゃったのかニャ」

「そりゃあ、あの若さで上位ハンターにまでなっとるんだし、怪我も含めて色々あっただろうから、ハナ垂れ泣き虫のまんまなわけはないでゲコが……しかしまあ、三つ子の魂百までと言うからねぇ」

 

 手持ち無沙汰を紛らわすように、ゴコクが再び紙と筆を取った。淀みない筆運びでさらさらと描き上げたのは、左頬の泣き黒子を『泣き虫印』とからかわれては泣いていた、幼い日のアヤメの姿。いつものようにミノトへ投げ渡して「ちゃんと見ろ」と促すと、可愛らしかったあの頃を思い出させる懐かしいその絵に、ミノトの頬が少し綻んだ。

 

「意地を張る根性が付いただけで、気が優しいのも泣き虫も、根っこは変わっとらんと思うでゲコよ。黙って何かをじーっと考えとる後ろ姿なんか、チビの頃とまるきり同じでゲコ」

「ええ、本当に……そういえば昔のアヤメさん、物を考える時や悪戯をする時は、とても静かなお子さんでしたね。あれは……いつだったでしょうか。珍しく泣く声が聞こえないと思ったら、たたら場の脇に一人で黙々と、それはもう大きな穴を掘っていて」

 

 大人しかったアヤメがある日突然起こした事件を思い起こし、ヒノエが目を細めてクスクスと笑う。何の事だったかとしばらく首を傾げていたマイドも、当時の滑稽な光景を思い出すなり、手を叩いて笑い転げた。

 

「ニャッハハ! あったニャそんな事! 知らずに通りかかったゴコク様が足突っ込んで、ひっくり返ってギックリ腰になったやつニャね! 慌ててスッ飛んできた親にこれ以上ないってくらいこっぴどく怒られて、泥んこだらけの顔でまたピーピー泣き喚いてたニャ」

「あれにはホントに参ったでゲコ……叱られちゃあ泣き、潰れたカエルみたいになってるワシを見てはまた泣き……結局、泣き疲れて寝るまで泣きっぱなしだったんじゃないでゲコか」

「ふふふ、そうでしたね。私が宥めて寝かし付けたので、よく覚えておりますよ。……でも、それだけ叱られたにも関わらず、何故か『ごめんなさい』とは絶対に言わなかったのですよね。いつもはそんな子ではなかったのに」

 

 今では覚えている者もほとんどいなくなった、平和で些細な笑い話と、小さな謎。同じ光景を思い出しながらもどこか切なげな表情で、ミノトは手にしたゴコクの絵をじっと見つめた。

 

「『カメのおうちを作りたかった』と、後日ご本人から伺いました。たたら場の火は暖かいから、あそこに池を作ればカメも暖かいだろうと……それなのに作るなと言われて、納得できなかったようです。だからではないでしょうか」

 

 べそをかきながらも固く引き結んだ口の中で歯を食い縛り、話に耳を傾けるミノトの手をギュッと握って語っていた、小さな小さなカムラの焔を思い出す。

 二十年越しに明らかとなった新事実にしばらく目を丸くしていたゴコクは、やがてそのいたいけな姿を想像して「ホッホ」と小さく笑った。

 

「てことは、あの意地っ張りも実は、三つ子の頃から変わっとらんっちゅーことでゲコか。……まったく、大したモンでゲコ」

「ええ。とても優しくて真面目で、強い方です。昔も、今も」

 

 ミノトの呟きに頷きながら、いつもアヤメが佇んでいたテラスを見やり、ヒノエが祈るように言う。

 

「……早く、元気になってくださるといいですね」

 

 同意を示す沈黙と共に皆が視線を送った先で、アヤメが食べかけのまま忘れていったうさ団子に、桜の花弁が一枚、ハラリと落ちた。

 

◇◇◇◇

 

 ミノトとの一件から数日が経った。アヤメは今日もいつもの装備を身に付け、集会所にいる。ただし今はもう宵の口、勤務を終えたミノトが間違いなく帰宅した後だ。集会所はハンター達の憩いの場に姿を変え、日中には提供されない酒と肉の匂いで満ちている。

 

 どんなに多忙を極めようが、雨が降ろうが槍が降ろうがバゼルギウスの爆鱗が降り注ごうが、ミノトが絶対に何がなんでも残業をしないことは、アヤメだけでなく里中の誰もが知る公然の事実である。理由はもちろん、放っておくと永遠にうさ団子しか食べない姉ヒノエの為に、自宅で夕食を作るという重要な重要な使命があるから。不本意ながら彼女を意図的に避けている今のアヤメは、ヒノエとうさ団子に感謝せざるを得ない。

 

 「頭を冷やしてくる」と集会所を飛び出したあの後、実際に流れる川へ頭を突っ込んで、どうすればよかったのかと散々考えた。しかし、いくら頭を冷やしても、自分の復帰を親身に考えてくれていたミノトに八つ当たりしてしまった罪悪感と不甲斐なさで、胸が詰まるばかり。

 謝罪と感謝を伝えてあのクエストを受注しようか、挙げ句の果てにはドスフロギィくらいなら素手で倒せないかと馬鹿げた事まで考えたが、群れる習性を持つ肉食モンスター相手に、そんな事ができるわけがない。ミノトの静謐な瞳に映った悲しみと優しさを思い出せば出すほど、どの面を下げて会えばいいのか分からなくなっていった。

 

 それでも半ば無理やり集会所へ赴いているのは、イブキが帰ってきたと聞いたからだ。ミノトの件を相談するなどということは全く考えていないが、弓の素材の礼もしたいし、何よりただ単に顔が見たかった。

 あの明るい笑顔を見れば、少しは沈んだ気が晴れるかもしれない。関わる者の心に鮮烈な風を吹き付けるあの不思議なハンターに会えば、ロンディーネの言う『燻った火種』とやらに、何か変化が起きるかもしれない。他人頼みとは何とも情けないが、今はプライドを捨ててでも、前に進む足掛かりと心の拠り所が欲しかった。

 

 噂によれば、某教官から「あんまり帰ってきてくれないと愛弟子不足で俺死ぬ」と泣きつかれて渋々、クエストを終えたらきちんと帰宅することにしたのだとかなんとか。狩り場に穴を掘って住んでいるから帰ってこないのだという話はさすがに冗談だと思っていたが、あまり冗談に聞こえなくなってきた。

 

「あっはははは! 狩り場に穴掘ってって、そんなわけないでしょ! ウケる!」

 

 ――そんな話を聞かされた本人は、もう何杯目になるか分からないビールのジョッキを片手に、ひっくり返る勢いで爆笑した。

 

 集会所にやって来たところを捕まえて件の弓の礼を伝え、「今日は全額奢る」と言ったが最後、イブキはずっとテンション最高潮のご機嫌モードである。

 しかし、イブキの人懐こい性格に引っ張られていつの間にか旧知の友のようになっているが、よく考えたら会って話したのもまだ数回、食事を共にするのは今日が全くの初めてだ。奢ると言った以上は内臓を売ってでも奢る覚悟はしているけれども、極めて異常な健啖家の多いこの里で生まれ育ったイブキが一体どれほど飲み食いするのか全く読めないので、アヤメは和やかに歓談しつつも、テーブルの下では密かに財布を握り締めて怯えていた。

 

「里にいる時間が短かったのは本当だけど、クエストや武具を取りには来てたし、その時はちゃんと家にも帰ってたよ。まぁ、お風呂だけ入ってまたすぐ出ることも多かったけど」

「それにしたっていなさ過ぎでしょ。アタシずっと里にいたのにほとんど見かけなかったよ。武具の作り過ぎで素寒貧になって、クエストの合間に延々とお金になる鉱石でも掘ってたんじゃないの」

「……何故それを」

「やっぱり穴掘って暮らしてたんだ」

「えへ、へへへ……」

「心配してた里の皆には『ハンター辞めて炭鉱夫になってた』って言っとくわ」

「辞めてないから!!」

 

 ――ハモンさん。金の勘定、やっぱりできてなかったよ。

 地獄から湧くような重い重い溜め息をついて項垂れるハモンの姿がありありと目に浮かぶ。面白そうなので、明日にでも教えてやろうと思った。

 

「ちなみにイブキ、所持金の最低どこまで行った?」

「……全財産六十八ゼニー」

「勝った。アタシの最低記録、五十三ゼニー」

「どんな生活してたらそんなことになるの? もしかしてアヤメさん、しっかりしてそうに見えて、実はお金の計算できない人?」

「いやアンタにだけは言われたくないよ。目くそ鼻くそじゃない」

 

 しばし無言で睨み合うも堪え切れず、二人同時にプッと吹き出す。どちらからともなくジョッキを掲げ、何度目かの乾杯をした。

 

 卵を盗んで、激昂した飛竜に追い回されたこと。大技を派手に空振りして肝が冷えたこと。恐ろしい顔をしたモンスターの美しい歌声に思わず聞き惚れたこと。苦戦の末の勝利があまりに嬉しくて、そこら中を転げ回って喜んだこと――

 イブキは目を輝かせてハンター生活のエピソードを語り、アヤメはそれにじっくりと耳を傾けて、二人で沢山笑った。世間話でクスリとする程度のことはあっても、他人と共に過ごす時間を楽しんでこんなに笑うなど、一体どれぐらいぶりだろうか。

 

 大自然の中を生き生きと駆け回るイブキの姿をその語りから想像すると、まるで自分自身もそうしているかのように胸が躍り、心がパチパチと気持ち良い音を立てて小さく爆ぜる。出会った頃は彼女と自分を重ねて苦しんでいたが、振り返ればあれは『重ねていた』のではなく、まだそこに在りもしない彼女の未来を『妬んでいた』だけだったのかもしれない。

 他人と視界を共有して心を重ねるのは、とても心地好い。その視界の共有を上位ハンターとして駆けてきた自分とも容易くやってのける存在に成長したイブキに、アヤメは今や大きな頼もしさを感じていた。

 

◇◇◇◇

 

 血腥い話題の多い物騒なガールズトークにひとしきり花を咲かせる間に、夜はすっかり更け、集会所の客もほとんど捌けた。

 ようやくイブキの飲むペースが少し落ちてきたことにアヤメが安堵していると、不意に背後から伸びてきた手が、イブキの短髪を不躾にぐしゃぐしゃと撫でた。

 見れば、酒瓶を抱えた見知らぬ男が二人。揃って筋骨隆々の体つきに、一人はモンスターの爪に切り裂かれたのであろう大きな頬の古傷、イブキに声をかけた男の背には巨大な太刀。彼らもハンターであることは、その風貌からすぐに分かった。

 

「おーうイブキ、えらくご機嫌だなぁ」

「あら、どーも! 一緒に飲むー?」

「ちょっとイブキ」

 

 何の相談もなく彼らに着席を促すイブキにギョッとしたアヤメは、彼女を引っ張って耳打ちした。よく知らない人間と馴れ合うのが得意でないのもあるが、正直今はそれよりも、自分の手持ちが心配だ。全財産を失うことはそうそうないとは言え、所持金がスッカラカンになるのも、ぼちぼちいい歳なのでできれば避けたい。

 

「誰? 奢るとは言ったけど、アンタだけだよ?」

「こないだ帰りの船で仲良くなった人達! 大丈夫、お支払いはキッチリ分けてもらうから。なんならちょっとチョロまかしてあっちにも払わせちゃお」

「アンタ……どこでそんな悪さ覚えたの……」

 

 男達に見えないようにこっそり指でゼニー硬貨を形作り、悪戯っ子よろしくペロリと舌を出すイブキ。もしこんな愛弟子の姿をウツシ教官が知ろうものなら、育て方を間違えたと盛大に狼狽えるか泣き崩れるか、ともすれば、突然錯乱して腹をかっ捌くか。いずれにしても、想像しただけで食欲すら失せる面倒臭さである。この件については自分の胸にしまって、墓まで持って行こうと誓った。

 

「こんな美人の隣に座れる話なんて、お断りする理由がねぇ。お邪魔するぜ、姉さん」

「……どーも」

 

 イブキの悪巧みに気付く様子なく、無事アヤメの隣に腰を下ろした傷の男に、無愛想な挨拶をして目を逸らす。それを見るなり、イブキとじゃれていた太刀の男は目を剥いて憤慨した。むくれながらイブキの隣にドスッと座ると、八つ当たりするように彼女の頭をグサグサと指で突つく。

 

「ズルいぞお前、しれっと良い席取りやがって。こんなチンチクリンの隣じゃつまんねぇよ、ちぇー」

「あたっ、ちょっ、誰がチンチクリンって!? そりゃ、アヤメさんと並んだらそうかもしれないけど……」

「……アヤメ?」

 

 抗議するイブキの口からその名前が発せられた瞬間、男達はポカンとして顔を見合わせた。それから、幽霊が消えていった物陰を覗き込みでもするかのようにソロソロと身を乗り出し、二人してアヤメの顔を凝視する。

 

「アヤメって……もしかして『あの』?」

「?」

 

 何の事だかさっぱり分からず困惑するアヤメだったが、座ったばかりの剣の男が再び立ち上がって叫んだ次の台詞で、ようやく彼らの驚きの理由を理解した。

 

「おいおいマジか! アヤメっつったら、ずっと誰もやれなかった大物を一人でブッ倒したっていう、幻の女ハンターの名前じゃねぇか。え、マジで? 本物?」

 

 彼らは、かつてアヤメが拠点にしていたあの街のハンターだったのだ。

 

 かのナルガクルガ戦で狩り場から直接病院送りになって、そのまま長期入院。退院後も、加工屋への挨拶以外には誰とも話さず里への帰途についてしまったので、自分があの街のハンター達の間で語り草になっているなど、思いもよらなかった。しかも、微妙に事実が歪曲されているのが気に食わない。周りに他の客がいなくてよかったと思う。

 ふと隣を見れば、イブキは元々大きめの目を瞼から取り落とすのではないかというほど見開き、分かりやすく「マジで?」と書いた顔で呆然としている。狩りに出られず腐っている姿しか見せてこなかったのだから、当然の反応だろう。

 

「……確かにアタシはその名前だし、なんかそれっぽいのも狩ったことはあるけど、一人でじゃないから。同名の人違いでしょ」

 

 事実と違う話で注目を浴びるのは何とも気色が悪い。早くこの話題を切り上げようと、溜め息をつきながら髪を掻き上げて精一杯とぼける。しかし、アヤメは嘘が下手だった。

 その下手くそな誤魔化しで逆にアヤメを『幻の女ハンター』だと確信した男達は、興奮を隠すこともなく、ぺらぺらと自分達が知る情報を並べ立てた。

 

「四人パーティだったんだろ、知ってるよ。けど本人達が『アヤメが一人でやった』っ言ってたって聞いたぜ?」

「そうそう。しかもその狩りで見たアンタの闘いぶりにビビッて、三人ともハンター辞めちまったってな。そんなヘッポコ連れてったんなら、一人でやったのと変わんねぇよ」

「……」

 

 違う。共に命を懸けた一夜限りの仲間達、彼らの必死に戦う姿。それを思い出しながら、アヤメは頭痛がするほどの強い不快感に苛まれた。

 

 止めを刺したのは自分だったかもしれない。しかし、身を呈して奏でたライラックの笛の音がなければ、あれだけの破壊力は出せなかった。敵の懐に飛び込み続けて転倒させたカヤの執念と勇気がなければ、尾の切断には至らなかった。フジキの丁寧で正確な攻撃の蓄積がなければ、ナルガクルガの鋭い刃翼は、アヤメを真っ二つに引き裂いていた。

 あの狩りの成果は、決して一人では成し得なかった。

 

 ただ、その後の彼らについては――アヤメは、何も知らない。知っているのは、あのパーティが解散したことだけだ。「帰って鍛え直す」、涙ながらにそう言った二人が実際にどうしたのかも。「俺はもうダメだ」、力なくそう呟いた彼が今どこで何をしているのかも。アヤメは何も知らないし、今となっては知る術も持っていない。不器用なアヤメは胸を掻き乱す複雑な心境を言葉にできず、ただ黙って酒を呷った。

 

「ヤバ。有名人通り越して偉人じゃん。教えてくれればよかったのに」

 

 そんな事情を露ほども知らぬイブキは、男達によって次々に明かされるアヤメの過去にいちいち驚き、もう驚き疲れたというような様子でアヤメを詰った。彼女の脳内に浮かんでいるであろう誇張されたイメージを今すぐにでも払拭したいが、この男達がいる場では、詳らかに説明する余地は与えてもらえそうにない。イブキとはまた別の機会にゆっくり話そうと、仕方なく、言葉少なに弁明をするに留めた。

 

「……アタシも知らなかったんだよ、こんな話になってるなんて。それに実際はホント、自慢できるような内容じゃ全然なかったんだし」

「謙遜すんなって。狩ったのは事実なんだろ? 立派なこったよ、その細腕で」

 

 酒瓶の中身を豪快に呷り、傷の男がアヤメの肩をパンパンと叩いて陽気に笑う。その瞬間に彼が素早く走らせた舐めるような視線が、ピクリとアヤメの頬を震わせた。直感的に嫌な感じがしたが、苛立ちで自分が過敏になっているだけかもしれないと考え直し、深呼吸をして気持ちを落ち着かせる。

 

「いやぁしかし驚いた。女だとは聞いてたが、まさかこんなにスラッとした別嬪さんだとはなぁ。大剣振り回してるって話だったし、女の皮被ったラージャンみたいなのを想像してたぜ」

 

 何を想像したのか、イブキがブッと吹き出した。目覚ましい速さで伸びているとは言え、さすがにまだあの凶暴な金獅子の狩猟許可が出るランクではないはずだが、遭遇したことくらいはあるのかもしれない。だとすれば散々追い回されただろうに、よく生きて帰ってきたものだ。

 

 笑うイブキを押し退けてテーブルに身を乗り出し、今度は剣の男が、装備に包まれたアヤメの上半身をジロジロと無遠慮に眺め回す。先程傷の男に感じたのと同じ嫌悪感が背筋を走った。

 とてつもなく、嫌な予感がする。

 

◇◇◇◇

 

「なあなあ、今着けてるその装備が、何人ものハンターを屠った化け物ナルガクルガってやつ?」

「……まあ、そうなるね」

 

 短くそう答えると、剣の男は片眉だけを持ち上げ、ヒュウと小さく口笛を吹いた。

 

「偉業達成の噂だけ残して消えた幻の凄腕ハンターが、化け物で誂えた立派な装備を纏って、渦中のこんな辺境にひょっこり現れたってことは……またでっかい手柄を上げて、名に箔を付けようって魂胆かい」

 

 今度はギラギラとした野心的な目で、剣の男が問う。

 外の者から見ればカムラの里がそういう意味を持つ場所であることに、ここで生まれ今も暮らすアヤメは些かも思い至っていなかったが、確かにハンターであればそう考えるのは自然なことだ。そんな魂胆なのはそっちだろうという言葉が喉の手前まで出かかったが、何とか堪えた。

 

「違うよ。ここはアタシの故郷。最後の狩りで怪我して武器持てなくなったから、帰ってきただけ」

 

 災禍が迫る故郷に、何の役にも立たない身体になって、ただ帰ってきただけ。手柄とやらが立てられればどれだけ良いかと、小さく歯噛みする。

 

「ははぁ、怪我? 姿を消したのはそういう理由だったのか。凄腕ハンターも結局、防具の下は人間なんだな。……そんじゃあもうハンター稼業は引退して、ガッポリ稼いだ報酬金で、悠々自適の隠居生活?」

「今のところは休業ってことにしてるけど……そうなるかもね、この調子だと」

「ふーん」

 

 行儀良くテーブルに向かって、瓶から酒を食らう傷の男がそっけなく言う。しかしその口調とは裏腹に、横目でチラチラとこちらを伺う視線は唾液のようにねっとりとしていて、もはやそれを隠す気もない様子だ。

 先程頭を過った嫌な予感が、アヤメの中で急速に膨れ上がっていく。

 

「……じゃあ、狩りにも行かねぇのにそんなカッコしてんのは、一体どういう訳だい」

 

 白けた風を装いつつ、傷の男は身体をこちらに向け、頬杖をついてアヤメの横顔と上半身をじっくりと眺め回した。あたかも、これから料理する為の上質な肉を品定めするかのような目で。

 

「別に。アンタには関係ないでしょ」

 

 彼の視線に気付きながらも気付かないフリをし、しかしもう全身を駆け巡る不快感は露にして、アヤメは真っ直ぐ前を向いたまま短く吐き捨てた。

 

「さすがは迅竜ナルガクルガの防具。さぞ動きやすいんだろうなぁ、いい感じにスッカスカでさ」

「……」

 

 迅竜の飛び抜けた機動性を人の身体で再現するために、安全性を損なわないギリギリのラインまで嵩張るパーツを減らし、軽量化した装備。その代償として露出せざるを得ない胸部側面や腹部――そこにあるアヤメの滑らかな素肌を、傷の男は卑しい笑顔を浮かべて鑑賞している。イブキの向こう側からは、剣の男がクックッと笑う下品な声が聴こえた。

 

「……なあ」

 

 不機嫌ながらも騒ぎはしないアヤメに気を良くしたらしい傷の男は、ついにアヤメの肩へ馴れ馴れしく腕を回した。頬が触れるほど顔を寄せ、酒臭い吐息と共に囁く。

 

「もうハンターやらねぇんなら……そのうち、金に困るだろ」

 

 ――やっぱり、そう来た。

 

「……だったら何?」

 

 目だけを動かしてギロリと睨め付けるも、男はまるで怯む様子なく、心底可笑しいと言わんばかりに鼻で笑った。

 

「おいおい姉さん。そんなナリしといて、これで分からんほど初心ってことはねぇだろうよ。あんなお嬢ちゃんの前でわざわざ言わせんなって」

 

 先程からじっとテーブルの一点を見つめ、黙りこくってジョッキを握り締めているイブキを指してそうおどけると、男は肩を抱いていた手で、アヤメの細い顎をぐいと掴み上げた。されるがままに己と向かい合ったアヤメの顔を正面から見つめ、醜悪な笑顔で悪びれもせず言い放つ。

 

「買ってやろうか、って話」

 

 左頬の泣き黒子がビキリと引き攣って跳ねたのが、自分でも明確に分かった。様々な感情と思考が入り雑じったドス黒い塊が腹の底で煮え繰り返る。虫酸が走る。吐きそうだ。

 イブキを挟んで二人のやり取りを興味深そうに眺めていた剣の男は、アヤメに抵抗する素振りがないと見るや嬉々として膝を打ち、上機嫌で新たな提案を重ねてきた。

 

「そりゃあいい。ここでの滞在中だけでも構わんが、いっそ俺たちについて来たらどうだ? もちろんアンタは狩りなんかする必要はねぇ。俺たちがちゃんと食わせてやるし、毎日たっぷり可愛がって……」

 

「……あったま来た」

 

 不意にイブキが発したその一言がアヤメの耳に届いたのと、目の前の傷男が宙を舞ったのは、ほぼ同時だった。

 

「は!?」

 

 思わず素っ頓狂な声が出て、怒りも何も消し飛んだ。

 

 文字通り目にも留まらぬ速さでテーブルに乗り上げ、イブキは傷男の顔面を殴り飛ばしていた。アヤメの眼前でイブキに蹴散らされた卓上の器やジョッキが、床に叩き付けられて粉々に砕け散る。テーブルを踏み付けて飛んだかと思ったらアヤメと男の間に着地し、吹っ飛んで無様に尻餅をついた男を目掛けて猛然と振り下ろそうとしたイブキの拳、その手首をアヤメは咄嗟に掴んで止めた。

 

「てめぇいきなり何しやがる!!」

 

 怒りで顔を真っ赤にして立ち上がった傷の男が、腕を振りかぶったままアヤメに止められてがら空きになったイブキの頬を、容赦なく横殴りに打ち抜く。首を弾けさせてよろめいたイブキを受け止めたアヤメは、正面に回り込んで胴にしがみつき制しようとしたが、イブキはそれを器用にひらりと躱し、追撃の構えを取ろうとしていた傷の男を、今度は胴への回し蹴りで遥か彼方へ弾き飛ばした。

 

「イブキ! ストップ!!」

 

 すかさず彼に掴みかかろうとするイブキに後ろから飛び付き、無我夢中で羽交い締めにした。アヤメよりも若干小柄なイブキの足が一瞬僅かに宙に浮いたが、アヤメの腕を振り解こうと踠くイブキの力は尋常ではなく、生半可なやり方では止められそうにもない。怒りに理性を失ったモンスターの如く荒れ狂うイブキに右へ左へ振り回され、アヤメは形振り構わず上擦った声で喚き散らした。

 

「いいから! もういいから! イブキ!!」

「良くない!!」

 

 目を血走らせて吠えるイブキの身体から、灼けるような熱と殺意が伝わってくる。骨を折りでもしなければ止められないと腹を括り、本来なら人間に対しては使うべくもない、ハンターとしての全力を振り絞って締め上げた。

 しかし、こちらは慢性的な手負い、相手は現役ハンターである。折って止めるどころか、内側から強引にギリギリと拘束が抉じ開けられそうになる。よもや大物武器を振るう時よりも強いのではないかと思うほどの負荷に、とうとう左半身の古傷がじわじわとあちこちで悲鳴を上げ始めた。

 

「ぅぐ……あッ……っこの、馬鹿力ッ……!」

 

 身体の奥深くを走る鈍痛に耐えかねたアヤメの口から、小さく苦悶の呻きが漏れる。それでもイブキの抵抗は止まない。完全に我を忘れている。

 

「クソガキがぁ……」

 

 膠着状態に陥った二人を暗く燃える瞳で睨みながら、傷の男がゆっくりと立ち上がった。その手には、ハンターが常備している剥ぎ取りナイフ。

 

「めんどくせぇ。二人まとめてぶった斬ってやる」

 

 背後からは、氷のように冷たく沈んだ男の声と、太刀に手を掛ける金属音。背筋が凍った。

 

「……!!」

 

 殺される。しかし、この手を緩めればイブキが人を殺してしまう。もう身体は限界だ。これ以上イブキを留めることも、彼らと戦うこともできない。どうすればいい。どうすれば――

 

 四方八方から極限に追い込まれ、ついに思考停止しそうになった瞬間。

 

 調理場から放たれた無数の包丁が風を切り、まるでナルガクルガの尾棘のように、男達の足元にズラリと突き刺さった。

 

◇◇◇◇

 

「ヒッ!?」

 

 明後日の方向から飛んできた突然の襲撃に驚き、間抜けな声を上げて腰を抜かす男達。それを見たイブキが僅かに身体の力を抜いたのを察して、アヤメは慎重に様子を伺いつつゆっくりと拘束を解き、疲労と痛みでへたり込みそうになりながら包丁の出所を探った。

 一際鋭く光る大きな包丁を手にしたオテマエが、テクテクとこちらへ向かってくるのが見える。率直に言ってものすごく怖い。

 

「うさ団子になりたくなかったら今すぐ荷物まとめて里から出てけニャ、このアンポンタン共」

 

 立ち竦むアヤメとイブキの傍らに仁王立ちしたオテマエは、阿呆面を晒して唖然とする男達を交互に睨み付けながら、キッパリとそう言い放った。

 続いて、未だ怒りと興奮のあまり肩で息をしながら拳を震わせているイブキに向かって、幾分かの呆れと優しさを含む声で諭す。

 

「イブキ、あんたもとりあえず座るニャ。『泣き虫印』がまた泣いとるニャ」

 

 ハッとして我に返ったように、イブキがアヤメの顔を振り返った。こちらを見つめる表情には、まだまだ燻る怒りと多少の疲れ、そして困惑の色が見える。

 泣き虫印――アヤメ自身も久方ぶりに聞いたその渾名をイブキが知るはずがないし、泣いてもいない。分からないのはお互い様だと思いながら黙って見つめ返すと、イブキはようやく不承不承ながらその場で腰を下ろして胡座をかき、不貞腐れるようにアヤメ達から目を逸らして俯いた。

 

 その様子を窺っていた男達は、そろりそろりと武器を手に取り、襲いかかる隙を探して密かに身構えていた。が、いざ動こうと僅かに身じろぎをした瞬間、身体の周囲にフワリと謎の風を感じて踏み留まる。その判断は賢明だった。

 

「誰がまだやれと言ったニャか。今すぐバラバラになりたいのかニャ」

 

 オテマエが言い終わると同時に、男達が身に付けていた衣服だけが、紙吹雪のようにバラバラになった。

 

「はあァァァ!? 何だよこのアイルー太刀筋まったく見えねェぞ!? えっ太刀!? いや包丁筋!?」

「知るか!! ……くっそ、覚えてろよてめぇら!!」

「次来たら刻んで団子にせんといかんからニャ。ちゃーんと覚えとくニャ~」

 

 たちまち男達は真っ青になり、それから丸裸にされた自分達の恥ずかしい格好を認識して真っ赤になり、最後は前後不覚になって、悪態をつきながら転がるように逃げ出した。

 あの様子なら、二度とこの里に現れることはないだろう。万が一現れたとしても、うさ団子にされるだけである。

 

 ピラピラと手を振って朗らかな笑顔と恐ろしい台詞で彼らの後ろ姿を見送ったオテマエは、フンスと一つ鼻を鳴らすと、荒れに荒れ果てた食事場の惨状を前に項垂れるアヤメを振り返り、その背をヨシヨシと優しく擦った。

 

「よく頑張ったニャ、アヤメ」

「……ごめん……後で弁償するから……」

「あ? こんなもんアイツらを里に入れた責任者にぜーんぶツケとくから、気にしなくていいニャ。誰か知らんけどニャ? ウツシかニャあ、弟子の躾もなってないことニャし」

 

 外部の者の出入りを管理しているのは郵便屋のセンリであるはずだが、あっけらかんとそう宣い、オテマエはニカッと笑った。人間よりも遥かに小さな身体で全てを受け止めるその大きな器に溺れかけながら、必死に空気を吸い込んで頭を下げる。

 

「……ありがとう、オテマエさん」

「ニャ」

 

 腰の後ろでゆるりと手を組み、「よろしい」といった顔で頷くと、オテマエは顎先で傍らに座り込んだままのイブキを指して、わざとらしく鼻の頭にくちゃっと皺を寄せた。

 

「そんな事より、その暴れん坊をとっとと連れ出してほしいニャ。いつまでも殺気立っててヒゲがピリピリするニャ」

 

 自分のことを言われているのを分かっていながら、苦虫を噛み潰したような顔でそっぽを向いて、黙りこくっているイブキ。拗ねた子供そのものの横顔からは、先程の狂気じみた獣のようなオーラこそ消えたものの、遣り場がなくなってしまった怒りを無理やり抑え込む苦痛が溢れ出ている。胡座の上に押し付けた拳の内側からは、強く握り締め過ぎて己の爪で傷付けたらしい血が一筋。

 

 アヤメはしばらく呆然自失でそんなイブキを見下ろしていたが、やがて、彼女が頑なに顔を背け続けるのは、屈強な男性ハンターに本気の殴打を食らって無惨に腫れ上がった頬を、自分達から隠そうとしているからであるらしいことに気付いた。よく見れば唇の端から夥しく出血し、それを膝にボトボトと垂れ流している。殴られた際に口の中を相当深く切ったのだろう。激情と戦いながらもせめて心配をかけまいと意地を張る健気な姿に、胸がギュッと締め付けられた。

 

「……イブキ、行こ」

「……」

 

 一つ大きな溜め息をついてアヤメが手を差し伸べると、意外にも素直にその手を取り、少しフラつきながらイブキは腰を上げた。相変わらずだんまりのまま目も合わせないが、従う気はあるようだ。足元の覚束ないイブキに肩を貸し、もう一度オテマエに深々と頭を下げて、アヤメは集会所を後にした。

 

◇◇◇◇

 

 イブキが一言「こんな顔で帰ったらカガミとカシワ(オトモの名前だそうだ)が失神する」と溢したきりまた喋らなくなったので、身も心もボロ雑巾のようになった二人は、互いに支え合い足を引っ張り合いしながら、里の端にあるアヤメの自宅へ転がり込んだ。

 

 使われていなかった納屋に無理やり簡素な竈を拵え、手洗い場代わりに巨大な水甕を置き、あとは剥き出しの土に適当な蓙や畳を配置して、余った場所に貰い物の戸棚や箪笥をいくつか並べただけの、殺風景な空間。しかも、結局コミツとセイハクに破壊されたきりほったらかしていたので、出入口の扉はそこらの板を雑に立て掛けてあるだけで閉まらない。常識的に考えてわざわざ他人を招き入れる場所ではないし、それ以前にこれは果たして家と呼べるのかどうかも定かではないが、今は非常事態なので仕方がない。

 

 中に通されるなりアヤメの手を振り払い、借りてきた猫のように部屋の角へ張り付いてうずくまったイブキを、じゃあ壁際でいいからとどうにか宥め、小窓から差し込む月明かりが当たる位置まで、強引に引きずり出して座らせる。すぐさま抱えた膝に埋めようとした顔を捕まえて、これまた強引に上げさせると、片目を塞ぎかけるほどに赤黒く腫れ上がった痛々しい頬と、未だ口の端から零れ続ける鮮血が露になった。

 微かに幼さも残しながら、ハンターらしい精悍さをしっかりと併せ持つ、飾り気はなくとも整った相貌。本来は十分に美しいはずのそれが暴力的に歪められた様を目の当たりにして、アヤメは無言で憤りに唇を震わせた。

 

 先の騒動でイブキが見せた華麗な体術。もしあれを以て対等に殴り合っていれば、ここまで酷い顔にはならずに済んだかもしれない。腕を制してノーガードであの殴打を受けさせてしまったことを一瞬後悔しそうになったが、相手を喰い殺しかねない勢いで暴れ狂っていたイブキの目を思い返し、口をついて出そうになった謝罪の言葉は飲み込むことにした。

 

「とりあえず……うーん、冷やそうか。氷がないから、水で悪いけど」

 

 心底嫌そうな顔をしながらも大人しく傷の確認をさせたイブキの頭を無意識に撫でて立ち上がり、箪笥の中から手拭いをあるだけ引っ張り出して、まずはその内の二枚を水甕に浸す。打撲と激情で熱を持ったイブキの頬が少しでも癒えるよう祈りながら、丁寧に。

 軽く絞ったそれを手にイブキの元へ戻り、また膝に埋めていた顔を上げさせて、一枚を腫れ上がった顔にそっと充てがうと、手拭いから溢れた水が涙のように、イブキの尖った顎を伝って落ちた。

 

「……なんで止めたの」

 

 されるがままに手当てを受けながら、開いている片目で真っ直ぐにアヤメを睨み付け、イブキが明確な非難の意志を宿す声で呟いた。

 止めなければ殺していただろうと言いたいところだが、そのつもりだったと答えられても困るし、そう答える気がしてならない。アヤメはしばし逡巡し、記憶の中に無難な模範解答を見つけて返した。

 

「ハンターの人間に対する暴力はギルドにバレたら厳罰、場合によっちゃ資格剥奪。アンタも知ってるよね」

「知ってる」

「だからだよ。……はい、口開けて」

 

 律儀に即答しつつ無抵抗で指示に従う優等生の口内に、空いた手でもう一枚の濡れ手拭いを捩じ込む。途端に水と唾液と血が混じった液体がボトボトと口の端から溢れ、慌てて引き抜いた手拭いは真っ赤に染まっていた。これは、洗って少々圧迫する程度では当分治まりそうにない。

 相当痛むだろうに、イブキは医者でもないアヤメの雑な処置にも顔色一つ変えない。この子は、ハンターとして生きる厳しい日々の中でどれだけ多くの傷を負い、その痛みに耐え抜いてきたのだろうかと思う。

 

「……泣いてた」

 

 立ち上がって棚から止血用の薬剤を探すアヤメの背に、イブキが問いかけとも断定ともつかない言葉を投げてきた。脈絡のないその言葉の意味を図りかねてアヤメは一瞬手を止めたが、すぐに集会所での出来事を思い出し、小馬鹿にするように鼻で笑い飛ばして、再び捜索作業に戻った。

 

「ああ、オテマエさんが言ってたアレ? ……泣くわけないでしょ、あれくらいの事で。アンタを止めるための方便ってやつだよ。多分ね」

「……」

 

 この沈黙は、納得していない時のもの。まだ短い付き合いだが、これはかなり早い段階で把握した、分かりやすい彼女の癖の一つだ。

 アヤメは小さく苦笑しながら左向きに振り返り、左頬の泣き黒子を指で示して、イブキの頭に謎を残しているのであろうオテマエの台詞を補足した。

 

「子供の頃、コレのせいでよくおちょくられてたんだ。『泣き虫印のアヤメ』って。大昔の事なのによく覚えてるもんだよね、忘れてくれりゃいいのに。……あーごめん、これしかないや。もっかい口開けて」

 

 この里では単なる魚として食されているサシミウオ。その鱗を乾燥させた物には血液を凝固させる・傷の回復を促進する等の効能があり、アヤメが活動していた地域では、天然の傷薬として広く利用されていた。以前は医者から処方された外用薬も大量に持っていたのだが、長い療養と無茶な悪足掻きを続ける間に使い切ってしまったらしく、薬棚に残っていたのは僅かな各種薬草と、このサシミウオの鱗だけ。最近は少々の傷なら自分では手当てすらしなくなっていたので、補充をすっかり忘れていた。

 

 差し出された不審物をあからさまに訝しむイブキを宥め透かし、カラカラに乾いた鱗を半ば無理やり口に突っ込む。不味かったらしく、二度ほど噛んだかと思ったら物凄い勢いで顔を顰めて、血と一緒にいきなりベッと吐き出した。痛みは我慢するのに不味いのはダメらしい。

 突然子供っぽくなった膨れっ面が妙に可愛らしくて叱れなかったので、朝になったら必ずゼンチに診てもらうという約束だけ取り付け、好き嫌いを理由に人様の家で血を吐き散らかす罰として、頭をわしゃわしゃと撫で繰り回してやった。見た目には大層痛々しいが彼女もハンター、この程度の傷なら一晩くらい放っておいても死にはしない。汚されたら片付ければいい。

 

◇◇◇◇

 

「……あんな事されて、悔しくないの」

 

 散々甘やかし倒したお陰か、頑なだった態度をようやく少し軟化させたイブキは、すっかり温くなった頬の手拭いをアヤメから手渡された新しい物に自分の手で取り替えて押さえながら、それでもまだまだ不機嫌そうな顔で言う。出る側から飲み込んでいるのかそれとも止まったのか、口からダラダラ垂れ流していた血はいつの間にか見えなくなった。

 今まで何もかもをアヤメに委ねて大人しく世話を焼かれていたのは、もしかしたら、彼女なりに甘えていたのかもしれない。だとしたらなかなかの甘え上手だ。してやられたかと頭を掻きながら、アヤメはイブキと並ぶ形で壁に背を預けて肩膝立てに腰を下ろすと、身体が軽く反るほど大きく一つ息を吸い、集会所で溜まった澱ごとまとめて一息に吐き切った。

 

「ああいう阿呆は、街に出れば掃いて捨てるほどいるからね。そりゃイラッとはするけど、もう慣れたよ。アンタも覚えときな、一応女なんだし」

「……一応……」

 

 開きかけた心の石扉がまた閉じる音がする。小さなからかいをきちんと拾って抗議する余裕ができたらしいことに内心ホッとしたが、せっかく出てきたのにまた引きこもられては堪らない。露骨にむくれて拗ねるイブキの頭をくしゃっと撫でて小窓から覗く白い月を見上げ、笑って素直に謝った。

 

「ッハハ、ごめんって。アタシの代わりに怒ってくれたのにね。……それに」

 

 ――素直になったら、不意に、口からするりと本音が零れ落ちた。

 

「悔しいのなんて、今に始まったことじゃないから」

 

 本音を吐いたらすぐにまた苦しくなって、痛みに耐えようと両膝を抱えた。

 それでも痛くて痛くて耐えられなくて、先刻までのイブキと同じように、固く背中を丸めて膝に顔を埋めた。

 

 来る日も来る日も、身を焦がし尽くして余るほどの悔しさに悶え苦しみ続ける。あの白い月の下で喪った物を切望しながら、あの白い月の下でたった一人、虫のように這いずり回って過ごす。そんな無間地獄の毎日に比べれば、今日起きた出来事など、取るに足らないゴミ以下だ。

 

 この殺風景な荒ら家に差し込む白い月光のように、自分を優しく照らし、静かに見守ってくれる里の皆の顔が、走馬灯のように次々と脳裏を過っては消える。ずっと張り詰めていた糸が、胸の中でプツンと切れた。

 堰を切ってしまった感情の激流は止まらない。いくら叫んでも足りない。それでも声にならない声で、誰にも言えないたった一言を心が繰り返し叫ぶ。

 ――悔しい。悔しい。悔しい。悔しい。

 

◇◇◇◇

 

『……』

 

 強く爪を食い込ませた膝がついに破れて、血を流し始めた時。

 永遠と錯覚するほどの長い沈黙を、不意にイブキが破った。

 

「……?」

 

 何かを呟く声にハッとして顔を上げたが、まだ腫れの引かぬ頬の内側で発せられたその声はあまりに小さく、意味を持たない音の羅列としか聞き取れなかった。

 イブキはアヤメと同じように両膝を抱えて縮こまっていたが、その目は何か得体の知れない強い感情を伴って、真っ直ぐ前を睨み付けているように見える。自分が一人の世界に閉じ籠っている間に彼女が何を考えていたのか、今更不安になってきた。

 

 落ち着かせるために連れてきた後輩の前で、不覚にも取り乱してしまった。気まずい。乱暴に両脚を投げ出してとりあえず深呼吸をしてみる。当然ながら何も解決しない。どうしよう。

 この色々と終わった空気をどうしたものかと途方に暮れ、半ば投げやり気味に隣を見やると、ピクリとも動かないままイブキが唐突に、今度は聞き逃しようのない明瞭な声で言葉を発した。

 

「アヤメさんが使ってた大剣、ある?」

「……え?」

 

 イブキはやはりピクリとも動かない。何を言っているかは分かるが、何故今このタイミングでそうなるのか、皆目見当もつかない。

 

「……そこにあるけど。なんで?」

「貸して」

 

 訳が分からずありのままを答えて尋ね返すと、もっと訳の分からない豪速球が飛んできた。

 

「なんで」

「いいから。貸して」

 

 何を考えているのかは分からない。しかし、こうなったら梃子でも動かないことはなんとなく分かる。一体今度は何が始まるのだろうか。アヤメは諦めて目を閉じ、もう一度深呼吸をして、「どうぞ」と身振りで大剣の在り処を示した。

 仮にアヤメがそうせずとも少し辺りを見回せばすぐに分かる場所、二人が背を預けている壁の角に、かつての相棒は立て掛けられている。

 

 アヤメが示す先に目的の物を見つけたイブキは、頬を冷やしていた手拭いをそっと傍らに置くと、黙って腰を上げ、切っ先を下にして置かれた大剣の柄に片手を掛けた。

 

 慣れた手付きで刀身を倒し、腰の高さで柄を止めて、両手で握り締める。両脚を前後に大きく開いて腰を落とし、全身の筋肉に力を漲らせた次の瞬間、イブキの身長よりも遥かに巨大な大剣の切っ先は軽やかに虚空で半円を描き、イブキの真正面斜め上でピタリと停止した。

 完璧過ぎるほど基本に忠実な、豪胆ながらも美しい大剣使いの所作。そこだけ時の流れが止まったかの如く微動だにしない切っ先。長らく見ていなかった相棒の本来あるべき凛とした姿に、もはや大剣を振るうことが叶わない身であるアヤメの胸が、ズキリと痛んだ。

 

 構えた姿勢のまま大剣を見つめ、じっと何事かを考えている様子のイブキをぼんやりと眺めながら、ハモンが「まだ武器が定まっていないようだ」と言っていたのをふと思い出した。

 言われてみれば確かにイブキは、見かける度に違う武器を担いでいたような気がする。大剣を背負う姿はアヤメの記憶にはないが、サラリとやってのけた先程の型を見る限り、ハンター認定を受けるために上辺をなぞっただけではなく、実戦で使用した経験もあるのだろう。

 ――しかし仮にそうだとすれば、静止したままのイブキが何かを噛み締めるように呟いた言葉と、辻褄が合わない。

 

「……重い」

 

 彼女は確かにそう言った。しかし、そんなはずはないのだ。

 怪我で満足に身体を使えないアヤメは大剣を自在に振ることこそできないが、逆に言えば、置いてある物を持ち上げて構えるくらいは、よほどの長時間そうしているのでもなければ今でもできる。なのに、健康が防具を着て歩いているような現役ハンターで、しかもおそらく大剣を含む複数の武器種を使いこなしているらしいイブキが、構えただけでこんなに苦しげな声を出すほどの重さを感じるわけがない。その程度の半端な鍛え方で狩り場に出掛けていれば、とっくの昔に死んでいる。

 物理的な重量の問題でなければ、精神的な何かだろうか? やけに思い詰めたような顔をして、このボロボロに歯零れした大剣に、一体何を見出だそうとしているのか。

 

「ん」

 

 真顔で大剣と見つめ合っていたイブキが、小さく頷いた。どうやら彼女の中で、何か区切りが付いたらしい。

 さあ、次は一体何をする?

 

「んっ」

 

 ブォンッ。

 遠心力を利用して片手で勢い良く跳ね上げた刀身を、ドスンと派手な音を立てながらその細い肩で受け止めて、豪快に担いだ。

 

「帰る」

 

 そのままスタスタと、部屋の出口に向かって歩き始めた。

 

「ちょっちょちょっと待っまって待て待て待て、待って」

 

 アヤメは舌も脚もごちゃごちゃに縺れさせながら、不弁があまりに過ぎる後輩の肩に縋り付いた。

 

「あの、え、帰る? どうすんのそれ」

「借りる」

「は?」

「貸してって言った」

「言った。うん、聞いたけど。えっいや、え?」

 

 混乱を極めて会話が成立するかしないかの境目辺りまで思考力と語彙力が低下しているアヤメを他所に、己には迷いや過ちなど一つたりともないという口調と足取りで歩を進めるイブキ。出口を一歩跨いだ瞬間、来た時と同じようにアヤメの腕を振り払うと、来た時とは違う色の怒りと悲しみを滲ませた瞳でアヤメを睨み付け、捨て台詞を吐いて、猛烈なダッシュで走り去った。

 

「泣いてんじゃん、『うそつき』」

 

 最後の四文字は、意味を聞き取れなかったあの小さな小さな呟きと、同じ音だった。

 

 ――泣いてる? アタシが?

 

 みるみるうちに小さくなって夜の闇に消えたイブキの後ろ姿を呆然と見送るアヤメの頬を、柔らかい肌触りの夜風が撫でる。左目の下の『泣き虫印』だけが、何故かひんやりと冷えたような気がした。

 




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◇◇◇◇

泣き黒子がある人は涙脆いんですって
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