「トム、ごきげんよう」
「フラン、おはよう。よく眠れたか?」
翌朝、智哉は身支度をし、朝食を食べに移動するところで、フランとばったりと出くわした。
「よくねむれたわ。もうつらくないわ」
流石の子供の回復力である。フランは昨夜のつらいわモードから完全に回復し、その場で元気いっぱいの様子でくるりと回る。
「そりゃよかった。今日は友達が遊びに来るんだろ?」
「そうなの!アンナちゃんとエスティちゃんがあそびにくるのよ」
フランが満面の笑顔で、両手を上げて全身で喜びを表す。
フランにはイップスの克服や、復学先の選定など、まだ問題は山積みだ。それでもこの笑顔に智哉は救いを感じた。
「わたし、いままでおともだちはナサちゃんだけだったの」
「ナサちゃん?」
「いとこなのよ。エプソムのポニースクールにかよっているわ」
エプソムポニースクール──クラシックの頂点を競う、ダービーとオークスが行われる英国競バの殿堂、エプソムレース場に併設されるポニースクールである。フランの通学していたアスコットポニースクールと人気、実績遜色の無いもう一つの名門だ。
「おー、こりゃまた名門だな…その子とは連絡とれてるのか?」
智哉の言葉を聞き、フランの耳が力なく垂れさがる。
「…とれていないの、サリーにおねがいしたけど、まだいけませんって…」
「ごめん、嫌な事聞いたな…」
しゃがんで、フランの頭を撫でる。フランはされるがままに、智哉の手に頭を擦り寄せた。
初めて会った時は、ここまで懐かれるとは思ってもいなかったし、自分がここまで情をかけるとも想像していなかった。
(完全に情が移っちまったなあ…)
今まで、姉と自分の二人姉弟だったが、そこに妹ができたような心持ちだった。親元に返す時にはひどく寂しく感じるだろう。
(そういやフランに名前ちゃんと教えてなかった気がするな…まあトムって呼び慣れてるだろうし、今のままで良いか)
初対面時の事を想起した事で、ふと、フランに本名で自己紹介していなかった事を思い出した。いずれ聞かれたら教えればいいだろう。
「よし、飯食いに行こうぜ。あ、今日俺は姉貴と出かけるけどさ、俺の部屋は自由に使っていいからな」
「ゲーム、おかりしてもいい?」
「全然いいぜ」
フランと手を繋ぎ、ダイニングへ向かう。しかし、フランにここで聞き忘れた事があった。
*****
──そして現在、姉の愛車の車内で死ぬ程後悔していた。
(なんでフランにこのメイドの事確認しなかったんだよ朝の俺!!!!姉貴がやばいって言う相手なんだぞ!!!!いっそのことフランに会わせて、俺に何もしないように言わせりゃよかった…)
後部座席の自分の隣には、今、件の危険なウマ娘メイドが座っている。自分を、ひたすらに睨むメイドが。
容貌は、ウマ娘の中でもとりわけ美しいメイドであった。鹿毛を短く肩口で切り揃え、ロングスカートのヴィクトリア朝風のメイド服を違和感なく着こなしている。いや、レースを観に行くのにメイド服を着てるのはおかしいのだが、智哉は怖すぎてツッコめなかった。
正直、姉とも遜色ないスタイルと顔貌を持つメイドである。智哉も先入観なく見れば目を奪われただろう。それにどこかで見た事がある顔だった。しっかり見れば思い出せそうだが、怖くて横目にしか見れない。
──目が血走り、顔面に血管が数本浮かんでいた。
まず、初対面で挨拶した時から、自分を見るやこうなった。そして、姉の車に乗り込む時にも問題が起きた。
姉の愛車は、ドイツのさる自動車メーカーの高級SUVである。
アウトドア派でちょうどいい足がほしかった姉は、10代後半の身でありながらこれを即金でポン、と購入した。
姉は現役時代G1を6勝し、遠い米国の地でも偉業を成した名バである。成功者なのだ。
智哉は姉のこの愛車を心底うらやましがって、自分も自動車免許をとったら貸してもらえないか考えた。傷付けたら殺されそうなので断念した。
そしてこのメイド、姉の愛車を見るやいなや、鼻で笑いながらこう言った。
「旦那様のお車の、4分の1程度の値段だな。安物だ」
主人の財産でマウントを取ったのである。意味が分からない。姉のこめかみがぴくり、と動き、智哉はこの時点で全力疾走で自宅まで逃げようか検討した。
それから、智哉はなんとかしてこのメイドの隣を姉に押し付けたいと考えて、必死に頭を動かした。そこで使用人の乗車の際のルールがあるらしき事を思い出した。後部座席は主人、使用人は前部座席のはずだった。
これだ!と智哉は真っ先に後部座席に座った。
──メイドは、自分の動きを見てから、隣に座った。
ここで智哉は姉に嵌められた事を疑った。自分は生贄にされており、今日ここで死ぬのではないか?とまで考えている。現在進行形で生きた心地がしない。
そして、現在に至るのである。
「…」
(めっちゃ見てくる…これ目で殺しに来てない?俺目で死ぬの?)
智哉は、あまりに隣の何人か殺ってそうなメイドが怖すぎて、ほぼドアに張り付くように座りながら窓から景色を眺めている。窓の反射でメイドの顔が見える。逃げられない。現実は非情である。
ここで智哉は姉に助けを求めようと考えた、昨日何かあったら助けてくれ、と頼んでいたのを思い出したのだ。当然の権利だった。そこで「あねき たすけて」と口パクでミラー越しに姉に伝えた。
姉はミラーを見てから、目をそらした。見捨てられたのである。
話が違うじゃねえか!と智哉は叫ぼうと思ったが、もう一度思い返したら自分は確かに頼んでいたが、姉はそそくさと二階に上がっていった。最初から助ける気はなかったのである。
打ちひしがれながら、景色を見る作業に戻った所で智哉は声を上げそうになった。
──メイドが至近距離まで近付いてきている。具体的には、肩の当たる距離まで来てメンチを切ってきている。
そしてメイドがようやく喋った。
「私は、お前に言う事がある」
「な、なんすか…」
絞り出すような声に震えあがる。これからお前を殺すと言われた時のために、智哉は窓を破って逃げる準備に入った。
「…」
しかしメイドは、そこから何も喋らない。代わりに顔の血管の本数が増えた。
(この人の血管どうなってんだこれ。切れたりしねえのかな)
智哉は恐怖のあまりどうでもいい事を考え出した。現実逃避である。
「…」
しばらくそのまま沈黙が続き、智哉の気が遠くなり始めた所でようやく救いの手が入った。
「サリー、あんた言いたい事あるなら早く言いな。うちの弟睨み殺す気?手出さないって約束したでしょ」
運転中の姉である。智哉は姉を信じていてよかったと思った。さっきまで自分は売られたと疑っていた事は忘れた。
「…手は元々出す気は無いし、人は睨んだ程度で死なん」
俺は今死ぬかと思ったんですけど、と智哉は抗議したかったが胸の内に留めた。
「んじゃ早く言えばいいじゃん。そういうとこ昔っからヘタレるわよね」
あんまり刺激しないでくれよ姉貴、と智哉は抗議したかったがこれも胸の内に留めた。
「そもそもだ。何故お前がいる前で話す事になった?お前は関係ない。失せろ」
「は?関係ないは無いでしょ。あたしにお嬢様を助けて~って、泣きそうな声で電話してきたのどこのどいつよ、サリーちゃ~ん?」
姉が嘲るような喋り方で、メイドを挑発し始めたので智哉は頭を抱えて蹲った。死にたくないから身を守る準備に入ったのである。
隣のメイドの血管がまた増えている。
「あれはノーカウントだ。それ以前に旦那様とクイル様が動いてくださっていた。お前はお嬢様を連れ出しただけだろう。いや、お嬢様を私の元からさらったと言うべきか」
「ああ?その言い草は流石に無いんじゃね?」
マジギレ直前の姉の喋り方に智哉は震え上がった。肉親には向けない声であった。
「競走中止二回やらかして学院クビになるような、どうしようも無い奴に人さらい呼ばわりされる筋合いないんだけど」
メイドの目が怒りで文字通り真っ赤に染まる。もうこの人なんでもありだな、と智哉はどこか他人事のように思った。
この姉の言葉で、智哉はこのメイドの正体を完全に思い出した。
姉の、現役時代のライバルである。姉との叩き合いを見事勝利しオークスも獲った名バだ。メイド型勝負服の異色のウマ娘として人気だった。そしてとんでもない気性難でも有名であった。
「──0勝3敗。知ってるか」
「…は?」
「お前の、私との戦績だ」
開戦の合図であった。
「ああ!!?G1あたしの3分の1しか獲れてない奴が調子乗んな!!!統括機構に引きこもっててアメリカで勝った事もないだろ!!!!」
「姉貴前見てくれ!あぶねえよ!!」
姉は後ろのメイドに唾を吐く勢いで罵る。前はたまにしか見ていない。
「お前が私に負けて統括機構から逃げただけだろうが!!!!!!G1などクビにならなければお前と同じ、いやもっと獲れたはずだ!!!!」
「やっても無いのに言うな!!!!ダッッッッッさっっっ!!!!!」
「だから姉貴前見てくれってええええ!!!」
姉が怒りに任せてハンドルを左右に回し、車が蛇行し始めた。対向車がいないのが幸いであった。
「お前が私に勝ったことがないのは事実だろうが!!!!お前が格下!!!!私が格上だ!!!!」
「あんたそもそもアイリッシュオークスの後は散々じゃん!!!!ナッソー3連覇とかあんたにゃ無理でしょ!!!悔しかったらやってみろよ!!!!もう無理だけどね!!!」
「お前!!!表に出ろ!!!!」
「あーいくらでもやったろうじゃん!!!」
「だから前見ろってええええ!!!」
智哉は争う二人を見ながら、
こいつらとは二度と車に乗らねえと誓った。
トッム「カイエン乗りてえ!」
補足ですがこのメイドの元ネタは連対率で見るとガチです。アッネの元ネタも同じくらいガチなのでそこでマウント取れないのです。