トムとフラン   作:AC新作はよ

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スッ……
ひさしぶりなので肩慣らしに別ルート上げときますやで。


20XX年4月、統括機構トレセン学院にて

英国サフォーク州ニューマーケット、統括機構トレセン学院の中心部であるニューマーケットレース場と、郊外のモールトン市街を結ぶモールトン・ロードを東へ1.4マイル進んだ先、学院都市の中心部にも近いこの場所には近代レース黎明期より由緒正しき一つの練習場が設けられている。

 

統括機構三大チームの一つであるチーム・ジュドモント本拠地、ウォーレンプレイス練習場である。

 

近辺にはジュドモント家次期当主の友人で提携関係にある、英連邦バルバドス侯爵ミハイル・シュタウトがジュドモント家当主より譲り受けたフリーメイソン・ロッジ練習場があり、更にはチーム・ゴドルフィンの施設であるダルハムホールウマ娘幼稚園、ついでにジョエル・ガスデンの邸宅とジュドモント家のニューマーケットにおける別荘も近い。

 

「おはよー雑用くん!今日もウチのチーム付きなんだ?」

「あ?……ジャクリーンか、今日は早えな?」

「うん!来月には1000ギニーだし、今日はワーク先輩と合同練習だから楽しみで来ちゃった!」

「そりゃよかったな、頑張れよ」

「えー雑用くんも付き合ってよ!またアドバイス欲しい!」

「知らねえよ自分のトレーナーに聞け……ああ待て、お前たまに直線で変にヨレる癖あるだろ?そこは直しとけよ」

「嘘でしょ、そんなのある?雑用くんなんでわかるの?」

 

英国が誇る大チームの本拠地という肩書きに恥じない、広大かつあらゆる練習設備が揃った見事な練習場である。

急勾配の坂路も備えた本格的な練習コースに、ウマ娘に有為な効果が見られる練習法と設備が和洋問わず取り寄せられ、レースを控えたチーム所属のウマ娘達はここで昼夜問わず練習に励んでいる。

 

「ところで雑用くん、それ何持ってるの?」

「あー……土と肥料だよ。お前んとこのオーナーから持ってこいって指示があってな、こんな重いモン一人で運ばせやがって……」

「オーナーに土と肥料って……バラのお手入れの手伝い?へー?雑用くんが?ふーん?」

「んだよその顔……もう練習行けよお前」

 

練習場の敷地内には、ジュドモントの一族が品種改良を行ってきた美しいバラのみが植えられた庭園が存在し、伝統として一族に連なる者、一族に忠誠を誓った使用人のみが手入れを許されている。

 

その美しいバラ園の中心部にあるクラブハウスの、ジュドモント家のプライベートエリアの広間にて現在、当主を除く一族の面々が集まっていた。

 

「フラン……まだ、決められないかい?」

 

次代の当主であるセシル・ジュドモントが、顔色を伺うように眼前の愛娘に問いかける。

対面の、編み込んだ金髪を二つのシニョンにまとめ、瞳の色に近いサファイア・ブルーのトレセン学院制服に身を包んだ少女は、父の目をその蒼く、昏く沈んだ瞳で真っ直ぐに見つめた。

 

「お父様、以前も言いましたが……わたしにトレーナーは必要ありません」

 

世界に名を馳せる名門ジュドモント家の長女、フランケル。

13歳にして、美しいとしか言いようのない完璧な美貌を宿した少女である。透き通った白い肌に輝く艶やかな金髪、そして神が配置したと言っても過言ではない精緻なバランスで整った目鼻立ち。

 

しかし、この少女の完璧な美貌には瑕疵があった。長い睫毛の向こう、大きな瞳は常に昏く沈み込み、そして父セシルを含む家族ですら、ある日を境に笑顔を見たことがない程に冷たく、感情を浮かべない表情。

 

勝利を当然の如く貪る、氷で作られた怪物。

 

ジュドモント家の保有するクラブチームにおいて、正しく絶対的な成績を残した彼女に対する世間の評だった。

 

頑としてて聞く耳を持たない、という姿勢を崩さない娘に父セシルは悲し気に眉を下げ、言葉を詰まらせた。

いつからか、父が目に入れても痛くない程に可愛らしかった笑顔を失った娘は、1月に統括機構トレセン学院に入学して現在に至るまで選抜レースにも出場せず、チーム所属のトレーナーはおろかチーム外の有力トレーナーからの勧誘にも全く興味を示していない。

当然の事ながら、世界中の公的機関主催レースの出走はトレーナーと契約したウマ娘のみに限られている。統括機構においても例外は存在しない。

暗に、レースに出るつもりがないと言っている娘のその昏い瞳を覗き込み、父セシルはもう一度説得を試みる。

 

「そうは言ってもね……フラン、君と同年代の子はみんなトレーナーを見つけて未勝利戦(メイドン)

に向けての準備期間に入っているんだよ。ナサや、君をライバルと言っているあの子もだ……彼女達と、走りたくないのかい?」

「興味ありません。走れば……私が勝ちます。結果は見えていますので」

 

娘の言葉に、セシルは強く息を吐いた。父の贔屓目抜きでもこの発言は間違っておらず、実際に走ればこの速すぎる娘は確実に勝つだろう。

学院において、娘は孤立していると使用人から報告を受けているのも父セシルの悩みの種となっていた。

 

クラブの怪物を懲らしめてやろうと考えた上級生や、フランの態度に腹を立てた同級生にレースを挑まれるも、その全てを完膚なきまでに叩きのめした後にねぎらう事もなく、健闘を称え合う事も無く、ただただつまらなさ気に相手を見やり、その心まで折る。

入学からたった三ヶ月の間に、フランに心を折られたウマ娘が学院を去る事件も起きており、生徒達に恐れられた彼女の周りにはついに誰もいなくなった。

 

速すぎる故の孤独──かつて、生徒会長ガリレオやその妹シーザスターズ、そして副会長ドバイミレニアムが苛まれた苦悩の只中に愛娘はいる。

それが父セシルの懸念だった。

だからこそトレーナーとの契約を勧めている。出走すれば、娘の中で何か変化が起きるかもしれないと期待していた。

 

「でもね……君は、トレセン学院の生徒だ。入学した以上、いつかはレースに出なければならない……出れば、楽しい事もあるかもしれないよ?」

「………‥では、この方なら契約します」

 

そう言うと、フランは鞄の中から一冊の競バ誌を取り出し、セシルの眼前に並べた。それを見て、セシルの右隣に祖母と並んで座っていた次女が小さく息を呑む。

フランが指で示した表紙の人物に、セシルは眉を顰めた。娘は今、無理難題と理解した上でそれを要求している。

表紙にはアメリカのスーパースター、覆面の謎多き怪人トレーナーが写っていた。

 

アメリカ競バ界において圧倒的な実績と人気を誇る、覆面の怪人ジョー・ヴェラス──アメリカ屈指の名門チーム・カルメットのトップトレーナーにして、大統領もファンと公言しているアメリカンドリームの体現者である。カルメット総帥アリス・ダーウィンの覚えも良く、我がチームから絶対に手放す気は無いと世界中の彼を欲する有力チームを常々牽制している。

去年、二年間の休養に入るとチームから発表され、現在はどこにいるかもわからぬ身でもあった。接触すら、大家であるジュドモント家を以てしても不可能な存在である。正に無理難題であり、フランはレースに出るつもりが無く、これを口実に父の追及を躱そうとしていた。

 

「フラン、彼が無理なのは君もわかっているだろう!」

「そうですか……ではこの話は終わりですね。失礼します、お父様」

「待ちなさい!フラン!!」

 

フランが席を立ち、広間を後にしようとした時、次女ノーブルが絞り出すような声を上げた。

 

「姉さん……どうして」

「何?ノーブル」

 

冷え切った関係の妹が珍しく自分を呼び止めた事に、少しばかりの興味を抱いたフランの足が止まる。

俯いたままのノーブルは手を握り締め、言葉を続けていく。

 

「姉さんはそんなに、そんなに速くて特別なのに……」

 

「どうして、走らないの?楽しそうじゃないの?姉さんみたいに速ければ……速ければ、わたしなら……」

 

ぽたりと、膝の上にノーブルの瞳からこぼれた雫が落ちる。

それを見て、フランはつまらなそうに息を吐き、時間の無駄だったとばかりに背を向けた。

 

「そうね……絶対にわからないわ」

 

普通のウマ娘に生まれた事がどれだけ幸せな事かもわかっていない、唾棄すべき妹。

自分が普通のウマ娘ならば、友人と思った相手に拒絶される事も、誘拐犯に襲われる事も、自らを庇った専属メイドが、爆弾の爆風により目の前で怪我する事も無かった。

自らの苦悩など何も知らずにただコンプレックスを拗らせ、距離を置こうとする妹に対し、フランは失望している。

 

「……普通の子のあなたには、ね」

 

「ッ!!ねえ、さん……!!」

 

「やめなさい!二人とも、僕の大事な家族なんだ……お願いだからやめてくれ……」

 

ノーブルが立ち上がり、姉に憎悪を込めた視線を向けた所で、セシルが悲痛な叫びを上げた。

これを見てフランは少しばかり自分の発言を後悔した。父は嫌いではないし、心配と苦労をかけているのもわかっている。

忸怩たる気持ちを抱え、フランは逃げるように広間を出ようと足を運ぶ。

 

 

「──お待ちなさい」

 

 

その時、今まで一言も発していなかった祖母がフランを呼び止めた。

泣きじゃくるノーブルの頭を撫でた後、フランに向き直った祖母はにこりと笑って見せる。

フランの背筋にぞくり、と寒気が走る。祖母は笑ってはいるが、明らかに上の孫に対して怒っていた。

 

「……おばあ様?」

「フラン、ウマ娘に二言は無くてよ。この方なら、契約しますわね?」

「……ええ、おばあ様、その方を連れて来れるのなら、ですが」

 

いくらアメリカの伝説のウマ娘である祖母でも、それは過去の話である。英国に籍を移した現在、そこまでの影響力は無いはずと考えたフランは祖母の問いに答え、今度こそ広間を後にした。

 

 

 

 

 

 

*****

 

 

 

 

 

 

『あの、怒ってたよね?君のおばあさん……すごいな、私は逆らえる気がしないよ』

(おばあ様は、淑女だけどアメリカウマ娘でもあるから……わたしの態度が癪に障ったのね。こわかった……)

 

幼き日より共にあった、心に潜む怪物と言葉を交わしながら、クラブハウスの廊下をフランが歩く。

かつて抱いていた心の中の怪物への恐怖は、不器用ながらも自分を守ろうとする怪物の本意を知った事で過去の話となっていた。

時刻は通学前の早朝、窓から朝の陽光が射し込み、色とりどりの美しいバラの庭園を眺めようと足を止めた所で、一人のウマ娘が近付いた。

 

「お嬢様、出発の準備はできております」

 

鹿毛の髪を肩口までで切り揃え、ロングスカートのヴィクトリア朝風のメイド服を着こなしたフランの専属メイド、サリスカ。

現役時代は英国、アイルランド双方のオークスを制覇した名ウマ娘であり、フランがただ一人心を許した使用人である。

しかし現役時代の彼女と現在の姿にはただ一つの差異があった。その左目は青いバラの刺繍が入った眼帯に覆われている。

 

かつて、主人を身を挺して守り切った彼女が受けた、名誉の負傷だった。

 

メイドの声に振り向き、その姿を目に留めたフランの口許が少し綻び、頷いて返す。

 

「ええ、サリー、行きましょう」

 

後ろに控えるメイドと共に、クラブハウスを出て学院に向かう。

送迎の運転手もメイドの役目である。一人、使用人を増やそうと父セシルの提案と共に家宰の縁者を紹介されたが、他に誰も側に置きたくない為に固辞していた。

ふとフランが後ろのメイドを覗き見る。隣室で控えていたであろうメイドは、先ほどの家族会議での妹との諍いも聞こえていただろう。しかし何も聞いて来ない事に少し寂しさを覚え、世間話をするかのように話しかけた。

 

「お父様にね、トレーナーを決めなさいと言われたわ」

「ええ、お嬢様には必要です」

「はっきり言うのね」

 

主人の言葉をばっさりと切り捨てるメイドの発言を、咎めもせず当然の事のように受け止める。

この主従にはよくある事だった。札付きの気性難として鳴らしたメイドは、時に主人への讒言も厭わない。

フランとしてもこう返してくる事は予想の範囲内である。

 

「お嬢様程の才能を腐らせるのは英国にとって多大な損失です。それに学院に入っておいて走る気が無いのは些か矛盾しています。走る気が無ければ最初から入学しなければよろしい。お嬢様のご学友が怒るのも道理でしょう」

「耳が、つらいわ」

 

更なる追討ちにフランは耳を絞らせた。

ぐうの音も出ない正論である。フラン本人も理解している部分だった。

しかし、かつて受けた苦難、そして現在の自分を省みて、フランはある事を悟った。

 

「……入学したのは、家への義理よ。でもそこまで」

 

自分は、走っても勝利以外何も得られない。

それどころか、走ろうとした幼きあの日、思い出したくもない苦難にも襲われた。

そしてクラブでは怪物とまで呼ばれた。不思議と得心が行った。

 

怪物を心の中に飼っている自分は、やはり怪物なのだろう。

 

そう考えた時、心の中が軽くなると同時に、酷い虚無感と怒りに襲われた。

釣り合いが、まるで取れていない。

簡単に勝利を得られたとしても、それ以外何も得られないと三女神に突き付けられたかのような現実。

運命を、呪ったのだ。

 

そして、フランは走らないと決めた。運命というものがあったとしても、従ってやるものかと。

 

「一年もすれば、いくらチーム・ジュドモント所属でも退学を勧告されるから、そのまま普通の学校に行って……卒業したら家を出て暮らすわ」

「お嬢様、それは……」

「家はノーブルに任せればいいでしょう?あの子は、わたしが近くにいない方が良いから」

 

少しだけ、メイドに微笑みを向ける。

自分が得られたのは、心の中の怪物と、命を賭けてまで守ってくれた彼女だけだ。

だから信頼できるメイドにだけ嘘偽りない本心を伝える。

それ以上、メイドは何も言ってこなかった。二人黙ったまま、クラブハウスの扉を開き、バラの庭園の中を歩く。

 

バラの庭園の中心地、全体を見回せる地点で急に、フランの足が止まった。

 

「お嬢様?」

 

怪訝な顔でメイドが主人へ言葉を投げる。

主人はただ一点、メイド見習いに何やら小言を言われているツナギ姿の青年の背中を眺めている。

 

「……あの方は?」

 

ようやく我に返ったフランのやや感情の篭った言葉を聞き、メイドは顎に手を置いて青年を眺める。

かつて主人が側付きにしようという提案を断ったメイド見習い、そして珍しく主人の興味を得ているであろう青年、その姿にメイドは見覚えがあった。

 

「あれは、シエラと……ああ、彼ですね」

「知っている、方?」

「知っている、と言いますか……学院の有名人です、お嬢様」

「そうなの?」

「ええ、ご学友をお作りにならないお嬢様は知らなくても無理はありませんが……ナサ様からも、距離を置かれているようですし」

「耳が、つらいわ」

 

メイドのチクリと刺すような讒言に耳を絞りながら、フランは青年の元へ近付く。

主人の興味を引く人物、何かの刺激になるかと考えたメイドが、件の人物への補足を加えようと口を開いた。

 

「学院においては雑用くん、と呼ばれていますね。チームに所属していないサブトレです」

「そう、どうして有名人なの?」

「すこぶる有能なようです。それと……彼が帯同したチームにおいて、ふと口にした言葉が成長のきっかけになる生徒も多いとか」

「……正規のトレーナーがいるのに、彼の言葉を聞き入れているの?それほど優秀なのにどうして免許を持っていないの?」

 

「女王陛下への不敬罪により、二年間の奉仕活動を統括機構理事会より申し渡されています」

 

もう一度、フランの足が止まり、メイドへ振り返る。

きょとんとした、メイドの言葉の意味がわからないと言った表情だった。

珍しい主人の表情に、メイドは心の中のカメラで何度もシャッターを切った。永久保存である。

 

「ふけい、ざい?」

「ええ、公示されています。仔細は不明ですが……陛下の下賜を断ったそうです」

「待って……あの方は貴族の出なの?」

「いえ、臣民かと思います。これはどうでも良い事ですが……ミッドデイの弟ですから」

 

英国は中世より続く、色濃く貴族社会の名残を残した階級社会である。

ただの臣民が国家元首たる女王陛下の拝謁、並びに下賜を受ける事は最上の名誉とされ、断った場合は陛下に恥を掻かせたとして罪に問われる事すら有り得る。

臣民ならば当然受けるはずの名誉を断った上で、何故か罪に問われるのではなくサブトレとして奉仕活動をしている青年。しかもフランも知っている、とある名ウマ娘の弟だった。

何となく、その背中に惹かれる何かを感じただけの相手の、あまりに意味のわからない経歴に眩暈を覚えたフランが額を抑える。

 

「お嬢様、お気持ちはわかりますが……彼に関しては、深く考えない方が良いでしょう」

「よくわからなすぎて、つらいわ」

「今もよくわからない状況になっていますので……あちらをご覧ください」

 

メイドが指を示した方向にフランが目を向け、そして頭に疑問符が大量に浮かんだ。

ここはチーム・ジュドモントの本拠地である。当然他チームのトレーナーは部外者であり、練習中に立ち入ることはあまり良い顔はされない。

 

「だから……今日はウチに連れて行くと彼には既に伝えてあります」

「それは困る。今日は彼に幼稚園で聖ベイヤード伝説のドラゴン役をやってもらわないとならない。子供達が楽しみにしている」

「あの……できれば、今日はジャクリーンとワークの合同練習で彼に意見を貰いたいのですが……」

 

その部外者が二人いた。三人目はチーム・ジュドモント所属のトレーナーである。

しかも部外者二人は、チーム・クールモアで既にトップトレーナーとしての名声を得ているジェシカ・オブリーエン、更には世界に名を馳せる天才、フランチェスカ・ディ・トーリだった。

三大チームのそれぞれのトレーナー達が、一人のサブトレを取り合っている意味がわからない状況に、フランがもう一度額を抑える。ついでに言うとケッカの言っている事も意味がわからない。明らかにサブトレの業務ではない。

 

「トーリさん、あなたの事は尊敬していますが……それはサブトレの業務ではありません。彼はあなたの持ってくる案件が毎度無茶が過ぎると先日漏らしていました。我がクールモアの練習に帯同させた方が彼のためにも……」

「それはおかしい。彼は君にこき使われるのが一番しんどいと言っていた」

「何ですって?あの男………!」

「あの……私の話を……はあ……」

 

言い争う有力トレーナー二人になんとか口を挟もうとするも、茹で上がるもやしに阻まれてため息をついた青年が、こちらに気付く。

チーム・ジュドモント所属の若手トレーナーである。当然フランも知っている人物だった。

一応、主人を守るために牽制を兼ねてメイドが前に出る。

 

「おはようフラン、これから通学だろうか?ああ、サリスカ、もうフランには言い寄らないし勧誘もしないよ。そこまで邪険にされると私も傷付く」

「……リックお兄様?」

 

チーム・ジュドモントの若手トレーナーにして、ジュドモント家の分家であるバンステッド家の嫡男である青年、リチャード・バンステッド。

以前は会う度にフランに契約の言質を取ろうとあれこれ策を弄し、その度に父セシルに追い返されていた青年だった。

その認識でフランの前に立ったメイドだったが、以前とは違う様子に一度頭を下げてフランの右斜め後ろ、定位置に戻る。

 

「リックお兄様……何かあったの?」

「少し、自分の認識というか……現実を知る機会があった、と言っておこうか。今の私は、トワとジャクリーンの担当で手一杯さ」

 

そう言い、バンステッドの貴公子と呼ばれていた彼らしくない、自らの刈り上げた頭を撫でる。

そして、以前の無駄な自信に満ちていた彼とは思えない、素直な笑みを浮かべて後方、まだ小言に晒されているサブトレを見た。

 

「随分、やりこめられてしまったが……おっと、あちらも決着がついたらしい」

 

リックの言葉により、三人が視線を変えた先では、ケッカがふんすと息を吐きながらなにやら理事長のサインが書かれた書類を取り出し、それを見たもやしが最初から出しなさいと声を上げて茹で上がっていた。どうやら口約束を盾にしたもやしに対抗して辞令を取り出したらしい。もやしの言う通り最初から出せば良い話である。最近注目していた若手と絡みたかっただけだった。

 

「仕方ない、合同練習はシュタウト侯に見てもらうとしよう。フラン、失礼するよ」

「え、ええ……いってらっしゃい」

「そうだ、君も彼と一度会ってみるといい。彼には良くない噂もあるが……人品は私が保証する」

 

そう言い残すと、練習場の方にリックは去って行った。

更に向こう側では、ケッカに辞令を見せつけられ、青い顔でサブトレの青年が引きずられて行くのがフランの目に映る。

呼び止めようと小さく手を伸ばしたフランだったが、首を振りその手を胸元に下げた。

今日は平日、学院の通学の時間である。完全にタイミングを逸していた。

 

その時、心の中の怪物が小さく嘶いた。

 

 

 

『彼だ……ようやく、見つけた』

 

 

 

 

 

 

 

*****

 

 

 

 

 

 

 

「毎度毎度、辞令を盾に無茶苦茶しやがって、あの人……俺が先生の教え子と知った途端これかよ……」

 

夕日を背に、サブトレの作業着であるツナギを着崩し、帽子を深く被り目元を隠した青年が何やらぼやきながら自宅までの道を歩く。

彼はトレセン学院において、雑用くんと呼ばれ親しまれている青年である。名付けたのはもやしである。

 

「あと一年残ってるとか冗談じゃねえぞ、ダンの担当やる前に殺される……」

 

彼は有能で気が利き、ついでに言うと人間レベルを遥かに超えて頑丈であるために各チームから酷使、もとい重宝される立場にあった。

本日の彼の業務は、チーム・ゴドルフィンが運営するダルハムホールウマ娘幼稚園の四月の行事、聖ベイヤードのドラゴン退治のドラゴン役だった。サブトレの業務ではないが、何故か理事長の許可が下りている。

相棒たるトレーナー、聖ゲオルギウスを侍らせて世直しの旅に出た聖ウマ娘ベイヤードの伝説にならい、幼いウマ娘達がおもちゃの剣を持ってドラゴン役を追い駆け回すという、幼年期のウマ娘の競走本能と闘争心を刺激する大切な行事である。

雑用くんは「アスカロン!アスカロン!!」などと言われながら剣でしばかれ、「なんじはりゅうなり!」と言いながらのしかかる幼女の群れにもみくちゃにされた。

 

二度とやらねえと心に誓いつつ、家に近付いた雑用くんがふと自宅前のいつもと違う変化を目に留める。

雑用くんの自宅は境遇を哀れに思った理事長の計らいにより、格安で利用許可を与えられている郊外の一軒家である。

その家の前に一台の車が停まっている。黒塗りの、送迎用の国産高級車だった。

雑用くんはその車体に刻まれたエンブレムに顔を顰めた。最近よく呼び出されているチーム・ジュドモントの刻印がついている。

 

「またじいさんか?バラの世話が使用人しか出来ないなら最初に言っとけよ……」

 

世話の仕方がなっていない、使用人としての意識が足りない、等と自分に小言を飛ばすメイド見習いの少女の言を思い返しつつ、青年が一言文句を言おうと近付こうとしたその時、一人のウマ娘の少女が車から降り立った。

 

少女の顔を見て一瞬、雑用くんは目を奪われた。

ウマ娘という枠で見ても、余りにも美しすぎる少女だった。小ぶりの耳が夕日に照らされて金色に輝き、優しげな目元と、その昏く沈んだ瞳がひどく雑用くんの印象に残る。

遠き地で、今も自分の帰りを待ってくれている少女と出会った時の姿、そしてかつての自分に近い何かを目の前のウマ娘の瞳に覚え、目が離せない。

何度かウォーレンプレイス練習場に出入りしている雑用くんが、チームエンブレムのついた車から出てきた初めて見る少女、その素性についてはすぐに予測が付いた。

噂の怪物令嬢だな、と雑用くんは考え、何用だろうかと少女の言葉を待つ。

 

「………」

「………」

 

そのままお互い固まった。

 

何も言ってこない少女に雑用くんが困惑する一方、少女、フランも混乱の渦中にあった。

 

(何かしら?この人、すごく変な感じがするわ)

『彼に、目を見せてもらうんだ、そうすれば……』

 

その顔を見た瞬間、今まで知らない感情に襲われている。心の中の怪物が何か言っているが今はそれどころではない。

見た目は冴えないサブトレの様相だが、上背があり、足が長い。

その顔もすこぶる整っている。目元が隠れて見えないのが残念だが、何故かとても好ましい。

更に付け加えると、雑用くんはサブトレとしての勤務が終わった直後であり、相応に汗をかいている。だが不思議な事に、フランの嗅覚は目の前の青年から良い匂いが漂ってくるように感じた。

 

(なにかしら、この人の匂い……嗅いでると落ち着く、ような……)

『私の話聞いてる?聞いてないよね?』

 

固まったまま、すんすんと鼻だけを動かす。雑用くんが寒気を感じてびくりと震えた。

 

(よくわからないわ、なにかしら、なにかしら……)

(えっ何こいつ、突然なんか嗅いでるっぽいんだけど……)

 

続いて、フランは目の前でドン引きしている雑用くんはそっちのけで、ツナギの胸元に目を付けた。

幼稚園児にもみくちゃにされ、疲労困憊の雑用くんは胸元を少し開いており、タンクトップのインナーとその先、鍛えられた胸板が顔を出している。

それをフランは凝視した。有り体に言うとガン見である。とあるウマ娘の言葉を借りると、とてもすごく見ている。

 

(胸元がよく見えてるわ……見ているとおちつくわ)

(今度は何見て……ああ、そう言う事か)

 

ひたすら胸元を凝視する怪物令嬢に若干の恐怖を覚えた雑用くんだったが、彼女の言わんとしている事を察した。なお勘違いである。

 

(話す前にだらしない身だしなみを何とかしろって事、だな?お嬢様だし当然か……)

 

そう思い、ツナギのファスナーをしっかり閉めようと手をかける。

 

「やめてちょうだい」

 

間髪入れずに、手をむんずと掴まれた。

ひえっ、とか細い悲鳴を雑用くんが上げる。

 

「……なんすか?」

「どうして隠すの?そのままでいいのよ」

「いや、お嬢様に見せるモンでもないって言うか……」

「そのままでいいのよ」

 

そう言いながらも目の前の令嬢はただ胸元を凝視している。ここまでまともに会話が成立していない。

そのまま手を掴まれ、時に指を絡めたりしつつも令嬢は一切声を出さないまま時間が過ぎる。

ふと、足に何かが触れる感触を覚えた雑用くんがそっと自らの足を覗き見ると、令嬢の尻尾まで絡みついていた。完全に身動きが取れない状態である。

居た堪れなくなった雑用くんが、何とか状況を打破しようとようやく口を開いた。

 

「あの……俺に用事だと思うんだけど、何の用……?」

「………?」

「なんで首傾げるんだよ……」

 

しかし無駄な努力だった。フランは完全に自分の目的を忘れている。

更にフランは雑用くんの手を頬に当てたりしてみたが、何やら物足りなさを感じてまで来ていた。

 

(……少し、物足りない気がしてきたわ)

『もういいから、落ち着いたら私の話を聞いてね』

 

物足りなさを解消すべく、上から下まで青年を舐め回すように眺めた後、もう一度胸元に目を向ける。

何となく、吸い込まれるような感覚を覚えた。

 

(直接、吸ってみたらどうなるのかしら)

 

名家の跡取りかつ深窓の令嬢としては完全にアウトな発想に至ったフランだったが、ここで流石に躊躇した。

既に手遅れではあるが、これからやろうとしている行為は未婚の男性に抱き着く事になる。祖母に上流階級の淑女の手ほどきを受けた彼女としては越えてはいけないラインだと考えた。

 

「………スゥー」

「………………」

 

あっさり越えた。

 

(……なんだこれ、なんだこれ………)

 

雑用くんは、突然現れた学院で噂になっている怪物令嬢が、ほとんど会話を交わす事も無く自分の胸元に顔を押し付けて深呼吸し始めるという、余りに意味不明な状況を呑み込めずなすがままにされつつも、何とか状況を整理しようとあれこれ思案し始めた。現実逃避である。

 

(まさか、まさかとは思うけど……俺、今セクハラされてる……のか?いや、これくらいの年の子なら当たり前のスキンシップだってダンが言ってたな……でもあれはアメリカの話だろ、こっちでもあるのか?いや待て……その前にこれじいさんとかこいつの家族に見られたら俺やばくねえか?ジュドモントの跡取りだろこいつ……でもどうすんだよこれ、マジで人の話聞く気ねえぞこいつ)

 

アメリカで自分の帰りを待つ少女の言葉を思い返しながら、現実逃避の末に雑用くんは現状の危うさに気付いた。

相手はこの英国において屈指の名家の跡取り娘である。英国ではただのサブトレの雑用くんの身では、木端どころか糸クズにすら等しい天上の存在であり、もしこの状況が露見すれば、自らの身が当局に拘束される事すら有り得る。ついでに言うと雑用くんの父の友人、あの次期当主も怒り狂うであろう。

 

(どうする?無理矢理引き剥がすか?駄目だ、ほんの少しでも怪我させたら終わる。それは最終手段だ……その前になんとか説得……)

 

事態を何とか収拾すべく、雑用くんが動こうとした所で先にフランが動いた。

 

がばっと身を起こすと、雑用くんのツナギのファスナーに手をかける。

完全にアウトである。越えてはならない一線のその先、スピードの向こう側に大飛びで突っ込む気だった。

その目的に、即座に気付いた雑用くんがなんとか手を掴んで全力で抵抗に入る。

 

「おまっ、待て!!やめろ!脱がすのはやめろ!!!」

「いいのよ、ちょっとだけなのよ」

「ちょっとで済まねえんだよ!!!!!」

「減るものじゃ、ないのよ」

「俺の命が減るんだよ!!!誰か助けてくれえええええ!!!!!」

 

据わった目で、万力の如き力を持ってファスナーをズリ下げようとする怪物に、ついに雑用くんの泣きが入った。

なりふり構わず助けを呼んだその時、全力疾走でこちらに向かう影が雑用くんの目に映る。

助けが来た、と雑用くんは安堵した。

 

 

「お前!!!!!お嬢様に何をした!!!!!!!!」

 

 

しかし現実は非情である。やってきたのは顔に何本も青筋が走った気性難メイドだった。

このメイド、実は近くに身を潜めていたが、主人の奇行にフリーズしていた。今ようやく復活した所である。

雑用くんは、明らかにヤバそうなメイドがこちらに真っ直ぐ向かってくるのを見て天を仰いだ。最早助かる道はない。

 

「あの、もう何でもいいから……こいつ離してください」

「何!!!!?お前がお嬢様に何かしてこうなってるんだろうが!!!!お嬢様がこんな淑女の風上に置けぬことをするはずがない!!!!!!」

「いやもうそれでいいっすから………ごめんな、ダン。帰れそうにねえわ」

「お星さまを数えているあいだに、おわるのよ」

 

 

 

 

 

 

 

 

この後、怪物令嬢フランケルがついにトレーナーと契約したというニュースが世界に齎され、怒り狂ったアメリカ大統領とチーム・カルメット総帥、そしてダンと名乗る少女が英国に殴り込んでくることになるが、それはまた別のお話である。




本編の続きも書いてるやで。

日本編、結構話数かかりそうだから、帝王賞を区切りに一旦キャラ紹介してもいいですか?主人公とヒロインの現状とかも書いていきたいなって……。

  • いる
  • いらない
  • 全部終わってからでいいッス。早く書け。
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