「フラン、準備できたかー?」
「できたわ!いってきます!」
「二人ともいってらっしゃい」
「お嬢様、お気をつけて」
母とメイドに見送られ、智哉とフランは日課となった早朝ランニングに出かける。
あれから智哉は、フランのイップス解消の為の練習、そして練習生との地獄の併走の毎日である。
趣味コースの花屋の娘のアンナからは「せんせー人間じゃねー!!」と笑われ、学院コースのエースであるエスティからは「トム先生、次は負けませんから…」と対抗意識を燃やされた。
智哉としてはもう勘弁してほしいと思っている。
フランとの併走がお役御免となった訳ではないが、回数は減った。
姉とメイド、二人がフランの練習に参加するようになったのだ。
特にメイドが参加する回数が一番多い。本人の強い希望だった。
智哉とのあの日の併走が無事終わった事で、フラッシュバックが起きる状況を特定できたのが大きかった。
年上の相手、つまり教師との併走の件をフランは乗り越えていたのだ。
「あ!トム!ねこちゃんよ!」
「おー野良猫か。撫でるなら手を洗えよー」
「はーい!」
フランの復学についての話も進んでいると、智哉はメイドから聞いた。
幾つかリストアップされ、久居留家からも通える位置かロンドン市内にするかを後は決める状態らしい。
フランの学力自体は全く問題なかった。智哉とメイドが教えているが、フランの覚えがよく既に一学年上の科目にまで手を伸ばしている。
しかし、まだ問題が残っていた。同年代のウマ娘と併走できないのだ。
母観察の元、事情を理解しているエスティとの併走でそれは起きた。
300mの併走、その100mも満たない地点でフランが減速し、ついには足を止めたのだ。
青ざめたフランのその顔を、智哉は痛々しくて見ていられなかった。
これが難問だった。友達と思っていた相手に拒絶されたのが、最も大きなトラウマの根源であった。
(やっぱり無理してたんじゃねえか、辛いって言えよ…)
「ねこー、にゃーにゃー」
つい先日そんな事があったにも関わらず、フランは楽しそうに野良猫と戯れている。
智哉はそんなフランを見ると、酷く無力感に苛まれてしまう。
力になると約束したが、自分がやっている事は現状姉でも、メイドでも、他のトレーナーでもできる事だ。自分でなくとも良い事なのだ。
そして自分は姉やメイドのように著名な名バでもなければ、何の後ろ盾も無い未成年の少年だ。何か働きかける力すらない。
過去の教訓から普通でありたいと思っていたはずなのに、今はフランを助ける力が欲しくてたまらない。
他の誰にもない自分の力、ウマ娘の心までは見れない相マ眼が、今はただ煩わしかった。
*****
「…ついた?」
「ああ、着いたよ。でもナサ、急にお邪魔するとフランちゃんに迷惑が…」
「…めいわくはかけない」
眠たそうな目のウマ娘の幼女ナサは、彼女の父の車で久居留邸から少し離れた位置に到着した。
目的は一つだった。大好きな従姉妹を救出しに来たのだ。
「…パパは、ぼくが3じかんでもどらなかったら、けいさつにでんわして」
「いやしないよ!?だからそれはナサの勘違いだから」
ナサは、あのアスコットの王様気取りから聞いた情報を元に、父を強請に強請った。
必殺技、教えないともう口を利かないまで使ってしまった。父は好きなので諸刃の剣だった。
そしてナサは聞いたのだ。
従姉妹は少し遠くにいるけど今は心を癒すのに時間がいる。まだそっとしてやってほしい。
父はそう言ったのだ。
ナサは憤怒した。大好きな従姉妹が遠くで酷い目に遭っている。助けに行かねばならない。
そうして、また父を強請って久居留邸にやってきたのだ。
「…パパ、いってくる。フランをつれてきたら、すぐにげるからここにいて」
「ちょっと待ちなさい!ナサ!」
そしてナサは久居留邸まで走って行った。普通の人間のナサの父では追いつけない。
ため息を吐いたのち、ナサの父が携帯を取り出した。
「…クイルさんのお宅に電話しておくか」
*****
ナサは久居留邸の前までやってきていた。
大好きな従姉妹をいじめている魔の館である。油断は一切できない。
(…グッド。だれにもみつかってない)
潜入作戦の第一段階が成功し、ナサは小さくガッツポーズをとる。
(つぎは、なかにだれがいるか、かくにんする)
ナサは年の割に賢い幼女である。無闇にこのまま潜入するリスクを理解していた。
そして、中の人間を確認する方法も考えてあるのだ。
(すぐおして、かくれる)
伝家の宝刀──ピンポンダッシュである。
ナサは幼女とはいえ、名門エプソムポニースクールのエースの一角である。
その脚力を十全に使えば、インターホンを鳴らしてすぐ物陰に隠れるなど造作もないことだった。
インターホンがカメラ付きの場合は考えていなかった。
離れて耳を澄ますと、電話の音と「お客さんはあんたが出て」「おう」という声が聞こえてくる。
(…たぶんふたり。フランはいない?)
そして、少し開いた玄関の隙間からにっくき久居留邸の住人を見た、見てしまった。
住人は、男であった。年齢は10代半ばから後半、身長170cm以上、顔は整っているが目付きが悪い。
男は人がいないのを確認すると、怪訝な顔で玄関を閉めた。
(…バッド。ふりょうだ。あのめつきのわるさはふりょうだ)
ナサは、こいつは不良だと当たりを付けた。
フランをいじめている首魁に間違いないだろう。
(きっと、あいつがフランをいじめてる。うなぎのゼリーをめのまえでつくって、たべたりしてる)
ナサの脳内で、「やめてちょうだい!それはうまみをぎょうしゅくしてないのよ!なまぐさいだけなのよ!」と、調理される英国名物ウナギの煮凝りに悲鳴を上げる従姉妹。
そして、「やめてちょうだい!それをおいしくたべるのはしょくへのぼうとくなのよ!いますぐやめてちょうだい!」と目の前でウナギの煮凝りをおいしく食べる男に絶叫する従姉妹の姿も映し出された。
これは許せない。絶対に助けなければならない。
(つぎは、うらぐちをみる)
男がいなくなったと思ったナサは、物陰から出て裏口に向かおうとする。
その時だった。
「おっ、やっぱりいるな」
玄関が、もう一度開いた。
卑劣な男は、玄関前でナサが出てくるのを待っていたのだ。
(!!しまった…)
ナサ、一生の不覚であった。
「こら、ピンポンダッシュはだめだろ。見ない顔だけどこの辺に住んでんのか?」
男がナサの目線に合わせて、屈みこみ声をかけてくる。
思ったより優しそうなお兄さんだが、ナサは騙されない。
(…バッド。ちかよられた。にげれるかもしれないけど、かおをみられた)
もうこの男は自分を警戒するだろう。この男を何とかしても中にもう一人いる。
ナサは、覚悟を決めた。
考えていた、最後の手段しかないと覚悟した。
(…ぼくを、みがわりにしてフランをかいほうしてもらう)
自分は従姉妹の為なら何でもできると、ナサは心から思っていた。
自分はあの一等星に魅せられた最初の一人なのだから。星を追い駆けるものなのだから。
「…?どうした?何かあったのか?」
男がナサの尋常ではない雰囲気を察し、声をかけてくる。
「…ぼくはどうなってもいい。うなぎのゼリーをたべてもいい」
「は?ウナギ??あれはやめとけ」
男は真顔で忠告した。姉に食わされた事があるからだ。未だに根に持っている。
「だからフランをかいほうしろ」
「お前フランの友達かよ。アクつええな。あと何か誤解してるよな」
もうナサには聞こえていない。フランの身代わりになる覚悟はあってもやっぱり怖いのだ。いっぱいいっぱいなのだ。
「…ぼくがみがわりになる。すきにしろ」
この男、もう言ってしまうと智哉は運が悪かった。何もしていないがタイミングが悪かったのである。
「あんたこんな小さい子に何してんの…」
このタイミングで、電話の終わった姉が来てしまったのだ。
智哉は、一瞬で姉にコブラツイストの体制に持っていかれ制圧された。
「ちょっ、ぐええええ!姉貴、待てよ、俺何もしてねえよ!」
「あんな台詞吐かせて何もしてないは無いでしょ!この馬鹿!!!」
ナサは、きょとんとした顔でこの二人、いや姉を見ていた。
ナサは競走バを目指すポニースクールの生徒である。
もちろん競走バの先輩に憧れを持っている。それが名バなら尚更である。
その名バが目の前にいるからだ。
「…ミ、ミッドデイさんだ」
「あっ、ナサちゃんでしょ?お父さんから聞いてるわよー」
「姉貴だから俺何もしてぎゃああああ!!」
応対のついでとばかりに姉がコブラツイストを拷問式に切り替える。これは本当に痛いからやってはいけない。
「…ファンです。ナッソー3れんぱ、げんちでみてました」
「えっ、ほんと?今度一緒に走ろっか?」
「姉貴拷問式はやめろよ!これマジで痛ででででで!!!」
弟がうるさいので姉が卍固めに素早く切り替える。拷問式よりは痛くない。
「…!おねがいします!あとでサインください」
「もちろんいいわよー」
「とりあえず外してくれねえかな…」
智哉はもう誤解を解くのを諦めた。最近なりを潜めていたが姉の理不尽はいつものことである。
「…何をやっているのだ。お前達は」
そこにメイドが帰ってくる。食材の買い出しに行っていたのだ。
「…ナサちゃん?」
フランを、連れて
「…フラン、あいたかった」
ウナギのゼリーはマジで食い物じゃないです(真顔
好きな人が読んでたら許し亭ゆるして