ナサの来訪の二日後。
智哉とフランは日課の早朝ランニングに出ていた。
二日前、フランは辛い思いをしたばかりだ。昨日はランニングを休み、今日も寝かせておいてやろうと智哉が一人で行こうとしたら、フランは普段通りについて来た。
「トム、おいていこうとするなんてひどいわ!」
「悪かったから機嫌直せよ…」
「しらないわ!」
今は智哉の横でぷんぷん怒っている。最近は遠慮せず言いたい事を言うようになったし、こうやって怒る事も増えた。久居留家の全員がその変化を歓迎している。
だからこそ智哉は疑問に感じている事があった。
フランは、弱い子ではない。先日のナサとの併走の一件で見ても、精神的に強いとさえ思える。
辻褄が合わないのだ。そんな子が友人の拒絶のみで、あれ程の心的外傷に陥るだろうか。
最初は競走に向いていない優しい女の子だと思っていた。だが親交を重ねるほどそれだけの子ではないと感じる。芯の強さがある。
姉も、母も、メイドでさえ見落としている何かがある気がしてならない。
あの歓迎会の日、二人でお互いの過去を語り合った時のフランの言葉を思い返す。
そこで智哉は、背筋がぞくり、と寒くなるのを感じた。
一つだけ、矛盾があった。フランが知っているはずが無い会話を知っている。
思わず智哉は、足を止めた。
「トム?どうしたの?」
「…フラン、今すぐ家に帰るぞ。姉貴と母さん、いやサリーさんもだ。みんなに用ができた」
そこまで話した所で、二人の前後に自動車が止まった。
ランニングコースでは一番人影の少ない、森の中の一本道だった。
それぞれ、降りたのは三人。両方の車両の運転席から誰も降りていない事を智哉は確認する。
六人とも、スーツ姿の男だった。智哉とフランをしっかり目に入れて近付いてきている。
フランが首をかしげ、男が智哉に声をかけようとした。
──その瞬間、智哉はフランを抱き上げて、森へ走った。
「ふえっ!?」
「舌噛むぞ!黙っといてくれ!」
「でも、あのおじさま、なにかごようが」
「いいから!」
(姉貴に事件の話を聞いた時に何で気付かなかった!フランは何か聞いちまってる!)
あの歓迎会の日、フランは言った。
『わたしは、それはしかたないとおもったの。でも、いちばんえらいせんせいが、わたしのクラスのせんせいをしかったのよ』
『せんせいは、わたしにはできませんといって、スクールをやめてしまったわ』
(裏口採用の追及だろうが授業内容の叱責だろうが生徒の前で絶対やらねえ!できませんと返すのも不自然だ!それにフランの居場所はどこから漏れた!?)
久居留家は、ロンドン郊外の片田舎に居を構えている。虱潰しに探すにはあまりにも範囲が広い。
足を動かしながらそこまで考えて、智哉は二日前にやってきた幼女が脳裏に浮かんだ。
(名簿だ…名簿から縁戚関係を辿って尾行されたんだ。となると家もバレてる。俺がランニングしてたのも間違いなく見られてるな)
あの事件の当事者の中で他校の名簿まで見れる人間など一人しかいない。アスコットの校長である。
ある程度撒いたのを確認した所で、智哉は足を止めてフランを降ろし、木陰に屈みこむ。
この混血の体に初めて感謝した。相手はこれを知らなかったから逃走できたのだ。
「トム…どうしたの?おかおがこわいわ」
(フランはきっと、それがヤバい話だったとはわかってない。でもそこにいたのを知られてる)
智哉は、16歳で超難関の統括機構トレーナー試験を合格できると保証される頭脳の持ち主だ。普段ほとんど使っていないその明晰な頭脳を今、全力で働かせていた。
(ギリギリで気付けたから助かった。とりあえず脱出だ。直接行動に来たって事は向こうもなりふり構ってねえと思う。目的もどういう相手かもわからねえ以上対峙するのは全力で避ける。フランを守るのが最優先だ)
一つ一つやるべき事を頭の中で並べてから、不安そうなフランに目を向ける。
先日辛い思いをしたばかりなのだ。絶対に守らなければならないと智哉は心に刻み込んだ。
「フラン、いいか?今から警察に行く」
「えっ、おうちにいかないの?」
「ああ、家はダメになったんだ。大丈夫、ちょっとおまわりさんに話するだけだよ」
英国は銃規制が厳しい上で警察機関には多数のウマ娘が在籍している。
普通の人間が犯罪を起こそうにもすぐ制圧されるのだ。つまり相手が銃を持っているか余程追い詰められているかの二択だと智哉は推察している。素手や刃物程度なら簡単に制圧できるがフランもいる以上リスクは冒せない。フランは人間よりは当然強いが幼い女の子だ。荒事に巻き込みたくないのもあった。
(問題は何人いるかだ。あの六人だけって希望的観測はしない、他にいると思って動く。森を抜けるか、迂回するか。携帯は森だと圏外、迂回して姉貴やサリーさんに連絡するか、それとも…)
前後を塞いで包囲された状況だった。フランの誘拐が目的だった場合は、囲みを抜けられる事を想定してルート上に他の人員が配置されている可能性が高い。森は携帯が圏外だが恐らく一番手薄だろう。迂回してルートに戻れば姉やメイドに連絡も警察機関へ通報もできる。
智哉は考えた末に、森を抜けて隣町へ脱出する事にした。
立ち上がり、フランをまた抱き上げる。
「よし、また走るぞ。森を抜けるけど大丈夫か?」
「え、ええ…でもトム、わたしもはしれるわ」
「いいんだよ。しっかり掴まってろよ」
フランにそう伝えると、智哉は駆け足で走る。早朝ランニングやっててよかったな、と何処か他人事のように思った。そのせいで今孤立しているのは考えないようにした。
隣町までは4km程度の距離だ。森は原生林ではないが、超人の類に当たる智哉はともかく、普通の人間が舗装されていない道を4kmも走破するのはかなり厳しい。
加えて向こうは土地勘もないだろう。有利な状況にあると智哉は考えている。
(森に入られた場合を考えて、少数を隣町側に配置している可能性がある。そいつらと遭遇したら厄介だな…)
いざとなったら少数の人間程度なんとでもなる。ただ、暴力を振るう自分をフランに見られたくなかった。
*****
(俺の嫌な予感って当たるんだよなあ…)
隣町まで残り1kmの時点で、予想通りの状況となった。
先に智哉が追手を確認できたのが不幸中の幸いであった。こちらを察知される前に木陰に隠れられたのだ。
追手は、二人だった。先ほどの六人と同じくスーツ姿で、間違いなく森に入る恰好ではないしハイキング客でもない。ここまで智哉は、自分の思索が全て勘違いの妄想で、本当はあの六人は道を聞きたいだけだったのかも、と考えてはいた。しかし、逃げて正解だった事が今証明された。
(隠れてやりすごすのもゆっくり避けるのも無理だ。足音でバレる)
地面は、枯葉で埋め尽くされている。原生林では無いから身を隠せる木も少ない。
(…やるか。一人一発ずつ。殺さねえ程度に確実に仕留める)
智哉が覚悟を決めて、フランを降ろす。
ここまで不安にさせないように何かしら喋りながら移動してきた。
しかしフランは聡い幼女である。何か異変が起き、智哉がそれに対処しているのを察している。
小声で、智哉とフランは言葉を交わす。
「…いいかフラン?ここで隠れてるんだぞ」
「トム、あそこのひとたちと、たたかうのね?あぶないことはやめてちょうだい」
「大丈夫だって。俺は結構強いんだぞ?姉貴やサリーさん程じゃねえけどな」
涙目のフランを優しく撫でたのち、手ごろな石を拾ってその場をゆっくりと離れる。
距離は60mほどだろうか。手前に一人、そのすぐ奥に一人。二人とも智哉から見て右方向に進んでいる。横から不意打ちを仕掛ける形である。
ゆっくり振りかぶって、石を遠くに投げる。当てるのが目的ではない。物音を立てるためだ。
放物線を描き遠くへ飛んだ石が、そのまま枯葉の敷き詰められた地面へ落ちて、強い音を立てる。
追手の首がそちらへ向く。その瞬間、智哉は加速した。
一気に距離を詰めてくる存在に気付き、振り向いて懐に手を入れる追手。智哉は脳内で舌打ちした。
(二人とも持ってんのかよ。警察仕事しろよ)
しかしもう遅い。智哉は60mなら5秒以内に近付けるのだ。
手前の一人目が手を抜く前に、その顎先を勢いのまま爪先で蹴り上げる。
倒したかは確認しない。確実に顎を砕いた手応えがあった。そのまま崩れ落ちる男を右肩に担いで盾にして、二人目に猛然と突撃する。
二人目はもう抜いていたが混乱し、恐怖していた。突然襲い掛かってきた少年が60mの距離を4~5秒で詰め、相棒を一撃の元に倒して軽々と担いで向かってくるのだ。こんな状況想像していなかっただろう。
だから、相棒を盾にされているのに引き金を一度引いてしまった。
ここで智哉の間の悪さ、運の悪さが出た。担いでいた男に当たらず、智哉の左肩に命中し、貫通した。
あっ結構痛え、と智哉は脳天気に考えていた。
そして距離を詰めると担いだ一人目ごと、二人目を撥ね飛ばした。
そのまま追手二人は数m吹き飛び、地面を転がって動かなくなる。
動かないかを確認した後、大きく息を吐く。
(くっそ一発貰った、結構痛えしフランが泣くかもなあ…)
智哉は、自分が痛い事よりもフランの心の方を心配していた。これ以上負担をかけたくなかった。
(考えるのは後だな。とりあえず身包み剥いどくか)
智哉は倒した二人に近付き、なるべく指紋を付けずに所持品を確認する。
拳銃は小型で、銃身の短いものだった。BBCニュースで密輸拳銃の定番のようなものだと智哉は聞いた事があった。
懐からは警察手帳、恐らく偽造だろう。後は無線機と財布。
それらをランニング中いつも持ち歩いているボディバッグの中身と、入る範囲で入れ替える。フランのお気に入りのスポーツドリンクとはここでお別れとなった。
もう一度追手が生きているか確認した後に、フランの元へ戻る。
「ごめん、待たせたな。行こうぜ」
「トム!かたから、ちがでてるわ!」
「ちょっと穴空いただけだよ。こんなん寝れば治るって」
「だめよ!おいしゃさまにいって!いますぐいって!」
ジャージの肩口が血で染まる智哉を見て、フランがぽろぽろと涙をこぼす。
「あーもう泣くなって、病院は行くから」
「でも…でも…」
ぐずぐずと泣くフランを右手で抱える。左手側だと血が付くからだ。
「もうちょっとで森は抜けるからさ、そしたら姉貴とサリーさんに連絡するぞ」
「びょういん!」
「お、おう」
*****
「…なんでいるんすか?」
「そんな事よりお前、その肩はどうした!」
「…えっ…あんた、その怪我…何…」
森を抜けたそのすぐ先に、姉とメイドが待っていた。
姉の愛車が近くに止まっている。何かしらのこちらの位置を把握する手段で先回りしたのだろう。
「…防犯ブザーっすか。フランの」
「ああ、GPSが仕込んである。それよりも病院に行くぞ」
「いや、その前に話があるんすよ」
フランはメイドから貰った防犯ブザーをいつも肌身離さず持ち歩いている。
それにGPSが仕込まれていた。どこにいても駆けつけるという話は嘘ではなかった。
智哉はゆっくりとフランを降ろし、ぐずるフランに頭を撫でながら声をかける。
「フラン、大事な事なんだ。歓迎会の事覚えてるか?あの時の俺との話」
「…ええ、おぼえているわ」
「あの時の話のさ、校長先生とフランの先生の話、姉貴とサリーさんにしてやってくれないか?辛くてもしてほしいんだ」
「うん…うん…」
「ごめんな」
もう一度フランの頭を撫でて、姉とメイドの方へ顔を向ける。
「というわけで姉貴とサリーさん、かなりヤバい事になってるみたいっす。詳しくはフランから。あと、俺のボディバッグに色々入ってます」
「トムあんた病院…しんじゃうから…」
姉が口を抑えながらわなわなと震え、初めて見る取り乱し方をしている。フランの前だからやめてくれよ、と智哉は思った。
「…わかった。ミッドデイはこの様子だ。私が聞こう」
「うす、お願いします。そんじゃ後頼みます」
そういうと智哉はその場でぶっ倒れた。限界だったのだ。
薄れゆく意識の中で智哉は、フランの前で倒れたくなかったけど、カッコつかねえなあ──と考えていた。