クラブチーム、オブリーエン・レーシングのトレーナーは困惑していた。
今日のジュニアグレードの試合、相手であるクイル・レースクラブはエースのエスティメイトだけを警戒すればいいはずだったのだ。
我がチームはジュドモントと並ぶ中央地区の最大手だ。ロンドンの片田舎の中堅チームとは選手層に大きな差がある。そのはずなのだ。
その前提が、六歳の幼女に覆されていた。
「トレーナーさん、あの改造メンコの子、まだ走るですか?」
口を開けて目の前の惨状を眺めていたオブリーエンのトレーナーに、近寄るツインテールのウマ娘の幼女。七歳にしてオブリーエン・レーシングのエースを務めるオコナーという幼女である。ポニースクールへ行ける実力があったが家庭の事情により断念し、クラブ側からのスカウトという形で在籍している。
「ああ、あの子はまだ二走目だからな…あれだけ手を抜いてるなら余力も十分ありそうだ。次のハーフマイルも出るんじゃないか?お前も出たいか?」
クラブマッチにおいては、お互い3人ずつ出しての対戦で行われる12レースに対し、選手一人に付き連闘不可三回というレース参加ルールが存在する。このルールにより強力なエースを持つチームが相当な優位に立つのである。有望な競走バを発掘するために設けられたルールなのだ。
「逆です。あの子いやです。はやいし疲れるです」
「うーん嫌かあ…1200でエスティメイトとやるか?」
「エスティパイセンはいやです。パイセン、スタミナおばけだし、すぐムキになるし。あと1200は疲れるです」
「たまには嫌々言わずに走ってほしいなあ…」
オブリーエンのトレーナーは頭を抱えた。強力なステイヤーウマ娘を擁していた相手チームに、ハーフマイルのエースが加入したのだ。おまけに我がチームのエースはすぐに楽に勝ちたいと言い出す怠け者である。またオーナーの嫌味眼鏡に嫌味を言われると彼は陰鬱な気分になった。彼は若手トレーナーであるが、安定した給料と子供の相手をしていた方が気性難の相手よりも楽そうだと言う理由で、クラブに残った正規トレーナーなのだ。とある少年と気が合いそうな人物である。
「あんな子いたら、きょうの負けはしょうがないです。名前覚えとくです」
「お前、そういう事言えたのか…ええと…名前は…」
「フラン、か」
*****
(どうはしったの?)
『注文通り手を抜いて逃げたよ。知ってる子がいるけど出てこなくてね』
悪い子と交代したわたしは、みんなと話を合わせるためにいつもこうやって確認をした。
悪い子は、約束を守ってくれた。『私はウマだから走れるだけで満足だよ』と言っていた。ウマってなんだろう。ウマ娘とは違うんだろうか。
『それ、外したらだめかな?見え辛いし走りにくいんだけど…私でも本気でスパートできない』
(だめ!)
おば様の用意してくださったメンコは、レース用の物を彩色して付けていた。
レースに出ていたという事実で、弱いわたしの心が震えたから。
色はサリーがきれいなピンク色にしてくれた。クラブの水色のユニフォームに合った色で大好きだった。
あいつの色だ、と悪い子からも好評だった。あいつって誰だろう。
ウマとあいつ、この二つは今もわかっていない謎だった。
「フランさん!いい走りだったわ!」
レースが終わり戻ったわたしを、よくエスティちゃんが迎えてくれた。
併走でわたしが足を止めた時も、たくさん心配してくれた。
彼女にも、わたしは報いなければならない。
わたしは、そう決心していた。
「ありがとうエスティちゃん!あんな走り方でよかったの?」
「十分よ。エースは力を温存するのも仕事の一つよ」
クラブに入ってから、ジェームスおじ様から手を抜いて走るのも大事だと教えられた。
わたしにとっては驚きの話だった。最初からクラブに行けばよかったのかも、とまで思った。
頑張って、無理をして、喋り方にも気を使っていた。わたしは大丈夫、と周りに示したかったから。
「でも次フランさんと走る時は私が勝つから…」
「エスティちゃん、おかおがこわいわ…」
わたしが大丈夫と示すための模擬レースの相手は、エスティちゃんに務めてもらった。
お爺様とお父様とおば様とデンおじ様に見てもらった中で、悪い子が勝った。
エスティちゃんは余りにも負けず嫌いで、あの人もよく苦労していた。
わたしもこの時は、元の口調に戻るくらい怖かった。
「フランちゃん次のハーフマイル、行けるかい?」
「行けるわジェームスおじ様!」
ジェームスおじ様もたくさん心配してくれたけど、わたしの決意を知ってチームに迎えてくれた。
クラブでの走り方を教えてくれた。相手チームの実力を調べて、わたしが勝てるようにいつも考えてくれた。
この人にも、わたしは報いなければならない。
「しかしフランちゃんはとんでもねえなあ…今年は行けるかもな、選抜戦」
わたしがみんなに返せるもの、それはきっと走る事。
走れない弱いわたしが、負けた事がない悪い子に代わってもらう事。
みんなをポニーステークスに連れて行く事。それしかわたしにはできないと思っていた。
*****
「い~や~で~す~!!!!きけんしますぅ~!!!」
「お前が走らないと、あの子がどれだけ走れるかわからないんだよ!頼むから走ってくれよお…」
全力でゲートに入るのを拒否する幼女を、後ろから半泣きで押し込む彼女のトレーナー。
愚かなヒトミミにか弱いウマ娘の幼女をゲートに押し込むのは重労働なのである。
相手チームの長距離エースの一走を温存された状態で、敗北を悟った彼は偵察用オーダーに切り替えたのだ。
エース同士での勝負に持ちかけ、相手の新エースの情報を持ち帰るために。
「絶対い~や~!!疲れるのいや~!!」
「あああああ!!!俺ももういやあああ!!!」
ついにトレーナーが発狂した。この幼女が来るまでは嫌味眼鏡の嫌味さえ聞き流せば楽な仕事だったのだ。
ちなみに嫌味眼鏡ことエイベル氏は、この若手トレーナーに目をかけていて激励のつもりで言っている。この期待株を預けたのも信頼の証である。この若手は実際優秀なのだ。
「あとでニンジンパフェ奢ってやるから!な!」
「二個~!!二個じゃないとい~や~で~す~!!!」
「俺のお財布もいやああああ!!!」
また発狂した。一度交渉したら味を占められたのだ。強かな幼女である。
「わかった!!二個な!!!」
「最初からそういうです」
「こ、このガキ…」
交渉成立と共にスッとゲートに入る幼女。完全に幼女に手玉にとられている。
1枠に入った幼女オコナーは、ほぼ顔半分を覆うようなマスク型の改造メンコを付けた、3枠の相手のエースに目を向ける。
その眼光は、幼いながらすでに勝負に臨む競走バのそれであった。強豪クラブのエースのプライドがあった。
(実際のとこ、こいつはマークしとかないとやばいです。ぱねえです。かなりの力を隠してるです)
彼女自身、この偵察の重要さを理解しているのだ。トレーナーに甘味をせびるのはいつもの事である。
(2枠のペースメーカー、最初は斜行に気を付けながら中央にまとまるです。こいつの脚質は私と同じく逃げと見たです。バ群の対応が見たいです)
発走前にハンドサインを出し戦術を指示する。エースである彼女は戦術の組み立ても任されているのだ。
そしてゲートが開く。その瞬間オコナーは目を疑った。
3枠を出た相手のエースにじわりと擦り寄るはずだったペースメーカーが、置き去りにされているのだ。
先ほどまでは見せなかった、異常なロケットスタートだった。
(は!?あんなの隠してたです?やっべハナとられるです)
しかしこれで終わりではなかった。
相手エースは、そのまま先頭を取らなかった。
オコナーの真横に陣取ったのだ。オコナーはこれを挑戦と受け取った。
(こ、こいつ…!!上等です。返り討ちにしてやるですよ…!!)
先頭を取れたのに、それをせず試合中に併走を持ち掛けられたのだ。明らかな挑発である。
オコナーは憤怒した。この生意気なメンコ野郎をぶちのめしてやると決意した。
怒りに任せたオコナーはペースを上げ先頭をとる。これを見たトレーナーは「挑発に乗るなよぉ…」と半泣きになった。
しかし相手エースはいくらペースを変えようが完全についてくる。どこまでも真横についてくるのだ。
(こいつ何がしたいんですか!!併せてくるだけなら流して直線でぶち抜いてやるです!!)
オコナーが頭の中でぷんすこと怒っている内に、最終直線に差し掛かる。
さあぶち抜いてやるとオコナーは横のにっくき相手エースを眺めたところで、こいつの意図を悟った。
──口角が上がっていた。笑っているのだ。
そのまま、相手エースはオコナーを置き去りにし、先頭で入着した。
(あああぁぁぁナメプされたですぅぅぅううう!!!!!)
オコナーはブチ切れた。クラブでは相手を委縮させる為にやる常套手段だ。
だが自分はやる側だ。やられる側は初めてだった。
せめてメンコの下くらい拝んでやると意気込んで、二位で入着するとともに突撃した。
「おいお前ぇぇえええ!!!ぜってえ許さんですぅぅうう!!!」
「ちょっ、喧嘩はダメ!競走バシップ守って!!!」
すかさずトレーナーが捕獲に入るが怒髪天に達したオコナーに引きずり倒される。彼は辞めようか考えた。
オコナーに後ろを向けていた相手エースがメンコを外し、何やら騒いでいるこちらに振り向く。
「お前ツラ見せるです!!どうせ性格みたく陰険ウマ顔…あっかわいい…」
こちらに振り向いた相手エースは、容姿の良いウマ娘の中でもとりわけ美しい美幼女であった。
手入れの行き届き艶やかな腰まである金髪、短めだが同じ色の輝く耳、綺麗なブルーの瞳、整った顔貌。
オコナーは一瞬怒りを忘れた。この幼女はかわいいウマ娘に目が無いのだ。
しかしナメプしてきた敵だと思い出し、怒りが再燃した。
「お前ええぇええ!!ナメプしやがったですねぇぇぇええ!!次ぶっころすです!!あと今度一緒にご飯食べたいです!!」
しかしそれはそれとして、挑戦状を送りつけながらナンパしに行った。現金な幼女である。
相手エースは何が起こったのか理解できない様子だったが、その後顔が青くなったり眉間に皺が寄ったりと百面相をオコナーに見せた。どんな表情でもかわいいってあるんですね、とちょっと得した気分になった。
「ちょっとオコナー!!!!負けて八つ当たりなんて最低よ!!!」
「げっパイセンです。逃げるです」
一番めんどくさいのが来たので、オコナーがすかさず全力で逃げる。
優等生の皮を被った気性難とは事を構えたくないのだ。
そして一つの決意ができた。
「トレーナー、メニュー見直すです。ちょっと鍛えなおすです」
「本当か!!??お前が!!!??」
トレーナーは驚愕した。この幼女は適当でも勝ててたから、最低限のトレーニングしかしてなかったのだ。
「あの子ちょっとぱねえすぎです。流石にまじめにやらないと勝負にならないです。あとあの子とポニステ出たいです」
「選抜戦出たいの!!?お前が!!?」
トレーナーはまた驚愕した。この幼女は選抜戦なんてめんどくさいだけだと、枠を他に譲ると言って聞かなかったのだ。
「──ちょっとだけ、走るのが楽しくなってきたですよ」
*****
(なんでそんなことしたの!)
『いやあ知ってる子だったから…でもきっと喜んでるよ、あの子』
(そんなひどいことしたらいけないのよ!)
わたしはこの時、悪い子がまたやらかした。とすごく悲しい気持ちになった。
そんな事したらわたしはまた一人になる、と不安だった。
わたしがレースに出るのを、最後まで反対していたおば様にも申し訳なかった。
おば様は、悪い子の事を知らない。それなのにわたしがあの人と走れる状態にまで心を癒してくれたすごい人。
おば様にも、わたしは報いなければならない。そう思っていた。
でも、この時のわたしは、やっぱり幼稚で、子供で、浅はかだった。
──十年経った今、この時のあの人と同じ年になった今だからわかる。
辛くて、いっぱい泣いて、それでも輝く思い出がたくさんあった、優しい日々の記憶。
その中に残る、ただ一つのわたしの後悔。
わたしは、思い出すべきだった。あの人はわたしと同じだって。
わたしが進んだ道を、あの人はもう通っていたんだって。
こんなわたしを見て、一番苦しむのはあの人だって──