「だからオレは今、トレーナー寮の親父の部屋に住んでます。去年まではアイルランド公国にいましたけど。オレが家にいたら、母さんにも迷惑かけるから…」
目の前で暗く落ち込む、障害競走のクイルトレーナーの御子息を見て、私は今とても困っている。
私こと統括機構トレセン学院生徒会長ガリレオは、知人から息子に声をかけてやってほしいと頼まれて、学院のトレーナー寮に住んでいる少年と会うことにした。
この少年が私のキングジョージ制覇を現地で見ていてくれて、私のファンというのもあったからだ。
生徒会長である前に私は競走バでもある。
ファンが苦しんでいるならいくらでも助けになるさ。
だから会う事にしたんだが…。
この子の半生、重すぎだろう!!?
これなんとかしろって無茶ぶりにも程が無いかい!?
安請け合いした私も悪いけども!
まずい、まずいぞ…いつもみたいに適当にかっこつけたらダメな奴だこれ…。
シーちゃん、助けて…。
『姉者はいつも適当すぎるからな、良い薬だ』
私の脳内でもそんな事言うのやめてくれよ!
我が好敵手よ、君ならどうする…。
『アメリカでなんでダート走ったの?私と走ってほしかったなあ』
行けると思ったんだようるさいなあ!練習では手応えあったんだよ!
もういいよ!脳内とは言え君達に聞いた私が馬鹿だった!
…そうだな、誰かの言葉じゃない。
例え不格好でも、私の言葉でしっかり彼に伝えよう。
彼は胸の内を明かしてくれたんだ。私がそれに応えなくてどうする。
「…トモヤ君、この話、誰かにした事はあるのかな?」
私の質問に、トモヤ少年が顔を上げてこちらを見る。
しかし、顔整ってるなあこの少年。ウマ娘の血が濃いとは聞いたが…。
トレーナー寮でも彼はすごいと評判らしいし、そんな暗い過去が無ければ楽しい人生を送れているだろうに…不憫な子だ。
「…母さん以外では、会長が初めてです」
「そうなんだね、ありがとう」
…うん、伝える事は決まった。
しっかり、彼の目を見て伝える。
「君は、確かに人より力が強い。足が速い。頭も良い」
「でもそんなすごい君は、今苦しみ、悩み、懸命に生きようとしている」
「私はね。人もウマ娘も、体じゃない、心の在り方だと思うんだ」
「君はただの、すごいだけの人間だよ。立派に人間の心がある。人間だからこそ悩むんだ」
「だからね、君はもう、前を向いてもいいんだ。いや、私は君に前を向いてほしい」
「君にはウマ娘の血も流れているんだ。だから、その足で走ってほしい」
「それが、私の望みだよ」
トモヤ君は、私の言葉をしっかり聞いた後、俯いて静かに涙をこぼした。
私は精一杯言葉を伝えたと思う。
でも、この少年はまだ苦しみ、悩むだろう。
誰か、この少年が共に歩める、彼の痛みを理解してくれる誰かに出会えた時に、彼はようやく救われるのかもしれない。
私は、この少年の未来に幸多き事を望むのみだ。
そうだ、良い事を思いついた。
「そういえば、君はトレーナーになりたいんだったね?それなら是非我がチーム・クールモアに──
*****
「母さん、実際にどうなんだ?」
智哉は、クラブマッチを見届けた後に、クラブハウスにある母の相談室を訪れていた。
フランの実際の状態を確認するために。
「正直に言うわね、無理なはずよ。でも、走った後の脳波の状態を調べたけど、影響はあるけど正常値といえる数値だったわ」
カルテや相談記録を纏めた仕事机に座った母が、頬杖をついて応える。
「…お手上げよ。ママはこのお仕事をして長いけど、初めてのケースよ。情けないわね…」
「…母さんは、俺が辛い時も助けてくれた。母さんが無理なら他の誰にも無理だ」
母は、苦しんでいた智哉の心の治療も行っていた。
ある理由で治療半ばで智哉は家を離れ父についていったが、それでも感謝している。
「パパとママは止めたんだけど、ヘンリー理事とセシルさんが、最終的な責任は取るからどうしても、とおっしゃったのよ。良い機会と思ったのかもしれないけど…あら、トム君、名前を聞くのは嫌だったかしら?」
「もういいよ、誰かわかってたし。二人とも有名人だしな…それよりもじいさん何やってんだよ」
ため息をついて、母の用意した椅子に智哉が乱暴に座る。
親族の強い意向もあったとは聞いていた。だがその理由が全く読めないのだ。
二人とも、トレーナーの大家として著名人である。イップスにも理解があるはずだ。
しかもフランは孫であり、娘である。不可解な状態の肉親を何故止めなかったのか。
「一例だけね、過去に同じケースがあるのよ。とある名バにね」
「…誰なんだ?」
「ダンシングブレーヴ、って言えばわかるかしら?」
ダンシングブレーヴ──出走15名中11名までがG1バという、歴代でも屈指のメンバーが集まった凱旋門賞で脅威のレコード勝ちを収めた伝説的名バである。アメリカの地で競走直後に難病であるマリー病を発症し倒れ、日本で静養していると智哉は覚えている。
「…伝説の名バじゃねえか。嘘だろ母さん」
「本当なのよ。ママもね、イップスの症例研究で学んだときに驚いたわ」
「詳しく聞かせてくれ、母さん」
母は、ゆっくりと語り出す。
「ダンシングブレーヴはアメリカで最もウマ娘が多い州、ケンタッキー州に生まれ、幼少期はそこで過ごしたらしいわ。その後、チャーチルダウンズレース場にあるチャーチルポニースクールに入学するはずだったんだけど…トム君、アメリカの競バ組織については勉強しているかしら?」
「ああ…あっち複雑なんだよなあ。国土が広すぎるからなんだけど、トレセン学院のような組織が無いカレッジ制だったよな。トレーナーも字が書けて登録料払えればなれるって聞いた時は耳を疑ったよ。全て本人次第ってのは自由の国らしいとは思うけどな」
米国の競バ事情は複雑怪奇である。まず、各レース場が営利団体として独立しており、それぞれが英国から取り入れたポニースクール制度を発展させたカレッジ制度をとっている。内部昇格制は存在するがその門戸は広い。
そして、かつては日本の
更にややこしいのが
まだある。ライブ関連の事業の振興を目的とした
更に近年顕著化したドーピング問題に対応するためにドーピング規制標準委員会まで設立された。
そして上記それぞれが協力関係にあるが上下関係が存在しない。
ここまでがトレーナー試験の競バ史問題に出てくるのだ。受験者は試験対策で怒り狂うのが恒例であった。
トレーナーに対しても、アメリカならではの自由の気風を体現した施策がとられている。
資格試験が、存在しないのである。各地のカレッジに登録料を支払い、届け出れば誰でもトレーナー資格を得られるのだ。
ただし、全てが自己責任である。本人の競走バ育成の実力があればどこまででものし上がれるが、実力が無い者は管理バに見切られ自称トレーナーに落ちぶれるのみである。
正にアメリカンドリームを体現した施策であると言えよう。
「ごめんね、脱線したわね。トム君がしっかり勉強してるか知りたくて」
「いいって。試験対策はしっかりやってるよ」
母が、舌を出しながら智哉にお茶目に謝罪する。
母は、競走のために若さを長く保つウマ娘である。
二児の母なのに、その容貌は姉と並べばまるで姉妹のようだった。
父が溺愛するのもさもあらん。完全に尻に敷かれている。
「話を戻すわね。でも、ダンシングブレーヴはチャーチルに入らず両親と英国に渡り、アスコットポニースクールに入学したのよ。そして、渡航の理由がね、イップス治療だったの」
「…マジかよ。なんでポニースクールに入れたんだ」
衝撃の事実であった。かの伝説的名バが、イップス治療のために英国に渡航していた。
「治療を始めたらすぐに完治したと資料にはあったわ。未だに心理学会では解明不可能の謎とされているわね。一つだけ仮説として…」
「…何だ?」
「ウマソウル具現化症」
「なんすかそれ」
ウマソウル具現化症──ウマソウルとは、ウマ娘が別世界の名前を得るため、そして競走中に人知を超えた力を発揮するためにその身に宿る魂の名称である。
それが存在する事は判明しているが、魂などというものを調査する方法など存在せず、未知の領域となっている。
ウマソウル具現化症とは、余りにも大きいウマソウルが、時に意思を持ち宿主に協力しているのではないか、という仮説である。
以上の話を智哉は母から聞いた。眉唾物であったが、自身も超常的な力を持つ身だ。
そういう事もあるかもしれない、と思った。
「なるほどなあ。でもそれが本当だとしても打つ手がないよなあ」
「…そうね。だからねトム君」
母が、真剣な表情で智哉に語り掛ける。
愛する息子に言うのは残酷な話だった。しかし、息子しかいないと思っていた話だ。
「…トム君は、辛いと思うわ。でも、フランちゃんを見守ってあげてほしいの。あの子が進む道を」
「母さん、やっぱり気付いてたんだな。今のフランが俺とそっくりだって」
「…ええ、わかるわ。トム君の事だもの。もちろんパパもね」
両親は、今のフランの状況を、かつての智哉と重ねて見ていた。
気付いていたのだ。何故急にレースに出たいと言い出したのか。
姉は、その時トレセン学院にいた。だから知らないのだ。
「…元からそのつもりだったよ。俺も一年くらいあんな感じだったしな。会長みたいに気の利いた事でも言えりゃいいけど」
「ありがとう、トム君。優しい息子を持ってママうれしいわ」
「やめてくれよ、そういうの…」
照れくさくなった智哉が目を逸らす。母のこういう優しさは救いになっていたが、それでも気恥ずかしいのだ。
「それでねトム君、話が変わるけどお願いがあるのよ」
「うん?なんだ母さん」
母が、仕事机から何かしらの書類を取り出す。
名前を書く欄以外は、色の付いたクリアシートで内容が読めない書類であった。
「これにサインしてくれないかしら」
「…なにこれ」
「ママを信じて書いてほしいのよ」
智哉は物凄く嫌な予感を感じたが、母を尊敬しているし当然信じている。
訝しく思いながらも書く事にしたのだった。
「…これでいいか?」
「ええ、十分よ。ありがとうね」
「いいって」
話は終わったと、智哉が立ち上がる。行動指針が決まったのだ。
「フランの事、どこまで力になれるかわからないけど…がんばってみるよ。俺が折れるかもしれないけど」
「…ごめんねトム君。明日はフランちゃんとお姉ちゃんがお出かけするそうだけど」
「ああ、ついてくつもりだよ」
「あのナサって子も来るらしいんだよな」