「無理だよ。俺はもう見てられねえよ…あいつ、今日絶対走れねえよ…」
憔悴しきった弟を前に、姉が呆然と立ち尽くす。
ここまで弱った弟を見たのは、冤罪での拘留から戻ってきた時以来であった。
そして、まるでフランが走れない事を確信したかのような発言。
姉に考えられる事はただ一つだった。弟は、隠している力を使ったのだ。
「…あんた、もしかしてフランちゃんの事、視たの?」
「ほんの、一瞬だけな…ほとんど見れてねえけど、一つだけ赤いプレートが目立って目に付いた」
智哉が、頭を抱えて蹲る。相マ眼で見た物に、耐えられなかった。
「トラウマって、書いてあったよ」
「…嘘でしょ。じゃあフランちゃん、何で走れてるの…?」
「母さんから聞いた話で、フランの中にいる何かに、代わりに走らせてるって仮説があるらしいけどな…他に理由がつかねえ」
「そんな、どうしよう…フランちゃん先行っちゃったわよ!」
フランとメイドは、選抜戦出場準備のために、既にアスコットレース場に入場している。
今年は六歳~七歳の部のハーフマイルが最終種目である。今から出場を止めれば可能性はあった。
「…止めても無駄だと思うぜ。昨日、あいつと芝コースで話したんだけどな。そんなもん抱えてるのに、平気だから見ててくれって言われたよ」
「…なんでそれを昨日言わないのよこの馬鹿!!」
姉が、蹲る智哉の胸倉を掴み引き起こす。
そのまま怒りをぶつけようとしたが、弟の目を見て息を呑んだ。
完全に荒み切って、虚無を称えた目であった。
「言える訳ねえだろ。俺が怪我したせいでああなっちまったのに」
「やっぱり、そういう事だったのね」
「…気付いてたのか?」
姉が智哉の胸倉から手を離し、そのままベッドに落とす。
「何年あんたのお姉ちゃんやってると思ってんの?弟が隠し事してるってくらい何となくわかるわよ」
姉は、最近の異変を薄らと察知していた。
その上で、自分が知ってはいけないのだろうと見て見ぬふりをしていたのだ。
「それなら尚更行くわよ。そのママの話通りなら、フランちゃん何とも無いかもしれないでしょ」
「…俺は行けねえよ。もう、見てられないんだよ…たまんねえんだよ」
「は?なっさけない事言ってんじゃないわよ。あんたトレーナー目指してるんなら、一度面倒見た子に最後まで付き合いなさいよ」
姉は、辛辣であった。弟の心労を全く意に介していない。
「どうせ、俺はどう頑張ってもトレーナーになれないだろ。それくらいわかってんだよ」
「試験受けても無い分際で、わかった風な口聞くな。いいから立ちな」
「暴力事件なんて起こしたやつが!!理事会の承認もらえる訳がねえだろ!!!」
トレーナー試験合格者は、理事会で資格を与えるに相応しい人物であるかの最終審査が待っている。
素行も当然審査対象である。
智哉は、自らの過去が枷となっている事に気付いていたのだ。
「いいから来いっつってんのよ!!!ごちゃごちゃやかましい!!!」
「えっ姉貴?ちょっ俺の話ぎゃあああああ!!!!」
しかし姉には関係なかった。ついに四の五の言い訳する弟にブチ切れたのだ。
姉は智哉を持ち上げてベッドにボディスラムで叩きつけた後に、そのまま足を交差させて背中に座り込んだ。
高速で繰り出される、見事なシャープシューターであった。
「その起きたばっかの恰好で!!あたしに無理やり連れてかれるか!!!すぐに用意して出るか!!!選べ!!!」
「ぐええええええ!!姉貴マジで絞るのはやめてくれよ!!!背骨折れっぎゃあああ行きます!!!すぐ用意します!!!」
姉の見事な交渉術でついに智哉が折れた。背骨は大丈夫だった。
「ふん、最初からそう言えばいいのよ。あんたのトレーナー資格はパパが色々動いてるし、いくらでも抜け道なんてあるから」
「マジで?いやそれより姉貴、もうちょっと弟をいたわってくれねえかな…この二か月大分しんどかったんだけど…」
「あんたは自分で思ってる以上にタフだから余計な事考えなくていいのよ。とにかく朝ごはん食べるわよ」
そのまま二人でダイニングへ向かう。そこには両親が待っていた。
姉が母とハイタッチし、父が不思議そうに智哉を眺める。
「ママー、連れてきた!」
「ミディちゃん、お疲れ様」
「おい息子、何で来てんだお前。ミディもサッちゃんも待ってくれよ」
父が疑問の声を上げ、家族全員が注目する。
父は必死であった。妻から息子の状態を聞き、父の威厳を見せるチャンスだったのだ。
「いや、おかしいだろ?ここはミディが連れてこれなくてよ、サッちゃんとミディが泣いてるのを慰めた俺が、颯爽と息子を説得するとこだろ?サッちゃんが俺に惚れ直すとこだろ?おい息子戻ってもう一回ウジウジしてこい」
台無しであった。息子の事よりも娘と妻にかっこいい所を見せたかっただけである。
「完全にクソ親父じゃねえか。絶対戻らねえよ」
「パパじゃ無理でしょ」
「デンちゃんは無理ね」
デンちゃんは、母が父を呼ぶ時の愛称である。
なんだかんだでこの二人の夫婦仲は、姉弟が砂糖を吐くレベルだった。
そして父の威厳は地に落ちていた。最初から無いものは増やせないのである。
「じゃあパパ、父の威厳って事で運転よろしくね。トムはすぐ食べて支度しな」
「おう…」
「ッス…」
久居留家は、代々男の立場が弱い一族であった。
*****
アスコットレース場──英国王室が所有し、ロンドンの西58kmに位置するウィンザー城の西南アスコットにあるレース場である。
欧州三大競走の一つであるキングジョージ六世&クイーンエリザベスステークスの開催地としても知られ、英国の数あるレース場の中で最も格式が高いレース場と言われている。
その歴史は1711年、時の女王陛下がウマ娘、ひいては自らが走るに相応しい場所として発見した事から始まる。
競バの発祥の地において二番目に古いレース場であり、本人がかつての名ウマ娘であり大のレース好きである現女王陛下も頻繁に観覧に来る、正しく王家の栄光溢れる競バの聖地なのだ。
芝コースのみ、一周14ハロン(2800m)の角の丸い三角の形のコースはゲートからの長い直線と高低差の激しさが特徴的で、その標高差はなんと約22m。
これは日本のかの中山レース場の標高差の約4倍にあたる。
その由緒正しきレース場にて、競走バを目指す幼いウマ娘達の祭典──ポニーステークスが、いよいよ始まろうとしていた。
『──今日出走する子供達は、立派な競走バを目指す未来の名バ達です。ご観覧の皆様も、暖かい目で、楽しく、共に歓声を送りましょう。私のラーメン屋台も後で──え?ダメ?どうして…』
来賓の、アイルランドの公女殿下の気の抜けるような祝辞に万雷の拍手が送られる。
SPらしきウマ娘が手で×を作りながら予定にない発言を遮り、その横に立つギザ歯のロジカルな雰囲気のウマ娘が呆れた表情で頭を抑えていた。
「えっ、殿下のラーメンってちょっと食べてみたいんだけど」
「日本でハマったらしいな。てかあそこにいるの
到着した久居留家一行は二手に分かれた。現在智哉と姉はグランドスタンドのパドック前で殿下の祝辞を聞き、両親は何やら用事があるとトレーナー席に向かった。
「で、あんた大丈夫なの?」
「姉貴、それ聞くの遅くない?無理矢理連れてきてそれは無くねえ?」
「ここまで来て引きこもって逃げたら、あんた本当にダメになってたでしょ。悩むにしても見届けてからにしな」
姉のこの発言は的確に智哉の現在の心情を突いていた。最後の最後で逃げようとしたのを阻止したのだ。
「そうだな…腹括るわ。逃げても姉貴が連れ戻しに来るなら逃げようがねえし…」
「あったり前でしょ。何の為に引退して帰ってきたと思ってるのよ…」
「ん?何か言ったか?」
姉が何やら小声で言ったのを聞き取れず、智哉が聞き返す。
「何でもないわよ。それよりもフランちゃんはまだ六歳よ。ここで走れなくても、学院の入学までにみんなで力になって走れるようになればいいのよ。あの子が競走バになりたいと望むならね」
「…そうだな。そうだわ」
「あんたもサリーも急ぎすぎだし重く考えすぎよ。最初からあたしに言えばよかったのに」
智哉にとって目から鱗の発言であった。姉が思ったよりも色々見れているし考えているのに驚いたが、顔に出すと報復が怖いので堪えた。
フランの出走取消は、間に合わなかった。「あんたがウジウジしてたせいでしょ」と、智哉はそこでもまた姉に折檻された。
そして、この二人の会話をこっそり聞いていた人物が一人存在した。
(なんかよくわかんねー話だけど…フランちゃん走れないのか!?みんなにいおう!!)
走り去る人影は、クラブの練習生、アンナであった。
一方──競走バの控え室。
「いいわね?このフランって子には要注意よ」
「うーん?あねうえ、フランクではないのか?」
「フランクは今回のハーフマイルにはいないわね…誰から聞いたの?」
「アスコットのきょうしだ!まあだいじょうぶであろう!フランクならはやいってナサニエルからきいたが!」