智哉は振り上げた拳をそのまま姉に向けて振り下ろす。ウマ娘の血を引く智哉の拳の強力な風圧で、姉の髪がさらりと揺れた。
「…怒ってるんでしょ?殴ればいいじゃん」
──寸止めだった。
智哉はそのまま外壁に身を寄せて、右手で頭を抑えながら姉の横に座り込む。
「…姉貴、知ってるか?ムカついて人殴ると、後で気分悪いんだよ」
過去の経験、思い出したくも無い記憶が、寸前で家族を殴る行為を踏み止まらせたのだ。
智哉にとっては過去から得た、嫌な教訓だった。
「あ~もう!一発くらいはいいかなって覚悟して来たのに」
余談だが、姉は覚悟した上で智哉を軽く挑発したが、当然の権利として後で報復するつもりであった。命拾いしていたのである。
姉は、頭を軽く掻いてから智哉の前に立ち、
「──本当にごめん。フランちゃんの件はあたしが悪い、あんたに嫌な役回りをさせた」
頭を下げて謝罪した。
それをぽかん、と口を開けて智哉が見つめる。
「何よその顔」
こういう所が憎めない姉なのだ。この気性難の姉は、理不尽だが筋を通す女だった。
完全に毒気を抜かれた智哉が深く息を吐く。
「姉貴さあ…マジそういうとこなんだよなあ…」
こういう部分を元彼にはちゃんと見せていたんだろうか。姉の交際関係に思いを馳せてしまう。
「あんたそれどういう意味よ…」
「何でもねえよ。それよりフランから事情は聞いたし、聞いて納得もした。でもわかんねえ事が一つあるんだよ」
フランは、賢い子ではあるがまだ年端もいかない少女である。幼女の視点の話では把握できない事があった。
「アスコットポニースクール、今どうなってんだ?名門にそんな教師入れるもんなのか?」
「ああ、気付くわよね…あんたなら」
アスコットポニースクールは、ポニースクールの中でも特筆すべき超名門である。
無論、教師陣も優秀な逸材揃いで、いくらフランが天才競走バの才能を持っていようと、他の生徒との線引きをしっかり引いて対処できるはずだった。
だが、今回の一件で未来の名バ候補のフランは、いつ走れるように快復するかもわからない心の傷を負い、本来善良なウマ娘である同級生達も、相応にフランを追い出した罪悪感を負っているはずだ。
「簡単に言うとね、コネよ」
「はあ?できんのかそんなこと?」
「…普通は無理ね。でも今回はできてしまった」
ポニースクールの教師陣は、未来の名バ達を育成するために高い能力が求められ、厳しい査定評価制度が設けられている。基準を大きく下回った教師は最悪免職すらあり、受け持つ生徒達に負けず劣らずのエリート集団である。
「新人だったのよそいつ。裏口採用の。親が資産家らしくてさ、娘に内緒でたんまり積んだらしいわ。当然新人だから査定でひっかからなかった。採用者は当然クビよ」
「採用者は、奥さんが重い病気だった。すぐに手術するのにお金が必要で、積まれて魔が差したそうよ」
「面接で落とせばよかったんだけどね。気持ちだけはあったらしいわよ。面接官が熱意を感じたってね。笑わせるわ」
「新人はね、慣例で一年生の担任になるのよ。Aクラスを受け持ったけど、そこにたまたま入ってきたのがフランちゃん」
徹頭徹尾、汚い大人の都合であった。あまりの胸糞の悪さに、智哉は眩暈を覚えるほどだった。
「裏口教師は家に引きこもって出てこれないそうよ、ある意味彼女も被害者ね。あたしは同罪と思うけどね…」
姉はそこまで話すと、深く、深く、ため息をついた。姉は、筋を通す女である。理不尽ではあるが曲がった事は大嫌いな女だ。自分の話で嫌な気分になった。
「聞きたいなら続けるわよ」
「…頼むわ」
聞きたくは無い。だがフランの事情に自ら首を突っ込んだのだ。聞く義務があった。
「統括機構理事会は今、上から下までひっくり返ってる状態よ。名門でこんな不正起きたから当然ね。アスコットの校長は引責辞任したいと申し出たけど、ウェルズ理事長が慰留してるわ。校長はね、裏口教師を追及したタイミングに責任感じてるから…」
「ああ…フランが言ってたよ。先生がいなくなったのは、自分のせいだとみんなに言われたって」
「…ッ!本当はね…フランちゃんのせいじゃないって、あたしも言ってあげたいのよ!でもそれを伝えるのに!あんな良い子にこんな話できないわよ!!」
「わかってるよ。落ち着けって」
何もかも、タイミングが悪すぎただけだった。ただ、それだけの話で、一人の無辜の少女が心に傷を負ってしまった。あまりのやるせなさに、姉が声を震わせる。
「…今のところ、マスコミには嗅ぎ付けられてはいないわ。校長が迅速に対処したから。理事長もそこを評価したから慰留してる。Aクラスの子達は今カウンセリングを受けさせてケアしながら、一番優秀な教師を担任にしたらしいわ。ああ、ガリレオ会長も慰問したわね」
懐かしい名前を聞いて、あの人は変わらないなと、智哉が少し思索に耽る。
「校長は、フランちゃんの復学はいつでも受け入れるとフランちゃんのパパに申し出たけど、固辞したわ。このまま転校になるわね」
「…だろうな」
未だ走る事ができないのだ。ポニースクールに通えるはずがない。
「フランちゃんをうちで預かってるのは、当事者のあの子を万が一嗅ぎ付けたマスコミが、あの子に接触するのを避けるためもあるわ。あたしも思うところがあるけど…統括機構としては、こんな大スキャンダル何としても阻止したいから…」
「…ッおい!!」
姉は、拳を握りしめていた。今にも爆発しそうなのを抑えていた。
「…あんたも我慢しな。理事長も苦渋の決断よ。それに、ウチじゃなくても他所で治療のためという名目で静養してたと思うわ…」
大人の都合を押し付け、傷付いた少女を親元から離すのかと、智哉は当たり散らしたい気持ちを何とか抑えた。
「わかった…」
「まあ、こんなとこよ、嫌な話でごめんね…」
最悪の気分だった、聞かなければよかったとまで思う。まだ資格すら持っていないトレーナーの卵の自分から見たら、遥か天上で一人の少女の処遇が決められていた。
胸糞の悪さを抑えながら、智哉が姉に訊ねる。
「…なあ、フランを連れてきた日にこの話をしなかったのはなんでだ?」
「あんたこれ聞いたらフランちゃんと向き合えた?フランちゃんの境遇も含めて」
「ああ…そうだな…」
逃げていた。フラン自身の境遇も自分の過去を想起させて忌避しただろう。傷付いた少女に向き合わなかっただろう。
(姉貴が正しいわ。ヤブヘビどころの話じゃねえしな…んん??ヤブヘビ…?)
ふと、智哉はこんな話聞いて大丈夫なのだろうか、なぜ姉はここまで知っているのだろうかと気付いた。嫌な予感がする。
「な、なあ姉貴…」
「なによ、大体話したけどまだ聞きたい事ある?」
「い、いやさあ…この情報って、どこから…?」
姉はその言葉を聞いて、待ってましたとばかりにニヤリと笑った。嫌な予感しかしない。
「あーー?聞きたい?聞いちゃう~?」
「い、いや、やっぱり大丈夫っす…」
「えーー?教えるけどーーーー?」
「いや大丈夫っす…すんません勘弁してください…」
耳を塞ぎながら背を向け、こっちに回り込もうとする姉から全力で逃げる。聞いてしまったら本当に戻れなくなるのを智哉は察した。
「ふん、ヘタレなのは直んないわねえ。まあいいわ、いずれ会うと思うし」
「勘弁してくれよ…」
ここまで深い情報を持っている相手となると、統括機構理事の一人なのは間違いないだろう。天上人である。智哉は全力で逃げたくなった。
「わかってると思うけど他言は禁止よ。あんたの周りだとうちの家族しか知らないから。ジェームスおじさんもここまでは把握してないわよ」
「親父も関わってるのか?」
「関わってるからフランちゃんをうちに連れてこれたのよ」
父は花形の平地ではないが、障害競走においては有力トレーナーである。姉の情報源の人物と二人がかりなら横槍を入れる程度には政治力もあるのだろう。
そう考えていると、姉が手を叩いてから体を伸ばした。
「はい!暗い話おわりー!あーお腹へった。フランちゃんとご飯食べよっと」
「あー姉貴、もう一個だけ」
「えーもういいでしょ。なによ」
どうしても、気になる事があった。初日にフランを自分に預けた事だ。
いきなり自分に預ける状況が不自然すぎた。
「母さんがカウンセリングして、俺がフランの相手するのはついでだろうけど…何でいきなり俺だったんだ?母さんじゃなく」
「んー…」
姉は言うべきか悩んだ素振りを見せて、
「あんたの事信じてるから」
──爆弾を落として、クラブハウスに戻っていった。
「姉貴さあ…マジそういうとこさあ…」
ウマ娘要素は浜で死にました。
アッネの見た目は身長伸ばしてポニーテールにしたダスカをイメージしてます。
なんでフられたのか書いててもわからなくなってきた…。