ウィリアム・シェイクスピア
「あぁ、金羊裘の来訪ね」
静かに開かれた扉を一瞥することも無く、安楽椅子の少女は本を閉じた。
しかし、それからどうするでもなく、ゆっくりと椅子を揺らすばかりであった。それは以前に見た天使のような悪魔のような、恐ろしく近寄りがたい様子ではなく、まるで全てを見た賢者のような気配ですらある。
静かで、穏やかで、だから少し戸惑って、扉を閉じた後は立ち竦んだ。
「フランドール・スカーレット、でいいんだよな?」
「えぇ、勿論。物置以外に、地下にある部屋なんてこの屋敷にはここ以外ないわよ」
確かに、と思った。
大したことでもないのにそう思ってしまうほど、思考は微かな混乱の渦を見ていた。
顔も見えないから、少しだけ疑ってしまう。けれど、七色の宝石に彩られた羽根が間違いなくあの少女だと主張しているから、やはり何も間違えてはいなかった。
「あんなに苦しい思いをしたのに、またここへ来たのね」
「させたやつがよく言うぜ。ま、本当に同一人物か疑わしいものだけどな」
挑発にも似た言葉に招かれるようにして、少女はようやく安楽椅子から立ち上がった。
振り返った姿は前と変わらず、ただ微笑みだけがあの時と違っていた。
「同じよ。ああして、あなたを笑った私も、こうして微笑む私も。あなたを壊したい私やあなたと仲良くしたい私も、全部同じフランドール・スカーレット」
「だから、お前はここにいるのか」
「違うわよ、それは誰にもあるのだから。それは友の成功を祝いながら妬むような。それは老人の死を悲しみながら安堵するような。ねぇ? 霧雨魔理沙。或いは、人をやめることを望みながら恐れるようにね」
その口ぶりは苦悩の名残。
明らかにこの前のことを意識するわざとらしい台詞。それなのに、この前と違って心臓を撫でるような寒気は少しだってしなかった。
答えを持ってきたからなのかとも思ったが、彼女の穏やかな表情を見れば意識されたものであると見た方が良いような気がした。
「宛名のない手紙。独白のボトルメール。あとは、神への祈り?」
「何の話だよ」
「さっきの言葉のニュアンスかしら。私があなたを傷つけなかった事を不思議に思っているようだったから」
「……また、わかるんだな」
「一つ断っておくと、吸血鬼だからって心を読めたりはしないの。そういう妖怪は、別にいるもの」
「お前も、持ってるかもしれないだろ?」
「我々化け物にとってアイデンティティは大事なものよ。取ってつけたような個性はかえって邪魔にしかならない。私は吸血鬼なのよ。逃れられない運命として、それはここにある」
瞳を閉じ、胸に手を当て、少女はまだ微笑んでいる。
言葉選びのせいもあってか、その姿は姉の方と重なって見えた。
「あなたのアイデンティティはどこにあるのかしら」
「気の触れた地下室の怪物とは思えない哲学的な問いだな。私は魔法使いだ」
「あなたが魔法使いであるのは、人間でいることが苦痛だからなのかしら」
「いいや、私が自由でありたいからだぜ」
「ふーん、あなたは私が吸血鬼であるように人間で、私がまだ知らない何かのように魔法使いなのね」
「お前はなりたい姿とかないのか?」
少しだけ少女の体が震えたような気がした。
それは恐れのような、痛みのような、ただの反射のような、それでいてただ寒いだけのような。少なくとも一瞬のことで、震え以外には何も変わりはしなかった。
けれども、なぜか確信めいたものがあった。
「やりたいことはあるけれど、なりたい姿は特にないわ。だって、私にとって世界はここだからね」
「やりたいことって?」
「秘密」
「へぇ。じゃあ、一緒にここを出ないか」
「なぜ? あなたを苦しませた私を連れ出す理由なんてないじゃない?」
「お前の言葉は苦しかったし、まだ少し怯えがある。ただ、私はとりあえず自分の色々な思いを認めて前に進むことができた。なんにしろ私は変わった」
「よかったわね。素晴らしいことじゃない」
「だから、私はお前を連れ出すんだ。機会は誰にだってあるべきだろ? 少なくとも、悪人でないのなら」
「アハッ、私は悪人よ。だから地下室に押し込められ、あなたを傷つけたのだから」
「悪人かどうかはお前が決めることじゃない。そして、お前は自分を悪だとか善だとかのくくりで考えられてすらいないだろ?」
「いつの間にか立場が入れ替わっているのね。じゃあ、こう言おうかしら。わかったような口をきくのね」
「わからないけれどわかるよ。私は選択から逃げていたから、選択の余地すらないお前の苦しみはよくわかる。だから、ここで私が機会を作り、お前が初めて選ぶんだ。お前は選択を選択するか?」
一歩歩み寄って、手を出した。
崖から落ちた人を助けるために伸ばした手、友好の証として握手を求める手、何かを求めて掴もうとする手。
いずれにも似て、いずれでもない手。本人ですら理解し得ない意図を秘めたそれは、ただ一つの真実としてフランドール・スカーレットの前にあった。
そして、差し出された彼女は微かに目を見開いて、けれどもすぐに微笑んで、やがてもう一度霧雨魔理沙の顔を見た。
「ダメよ」
「何が?」
「化け物はここにいなければならない。これは監禁された哀れな少女なのかしら。それとも、黄金を守る竜のようなものなのかしら」
「発言の意図を汲みかねるな」
「一つに、私がここにいる理由の全てをあなたが知っているわけではないということ」
「一つにってことは別もあるな?」
「慌てないで。お察しの通り、大事なのは次に宣う事。多くの場合、結論は最初に述べるべきだけれど、エンターテイメントにおいてはその限りではないわ」
「オチと同じようにな」
ニコリと不気味に笑った。
「化け物は人間の言うことなんか聞かない。あなたは私を連れ出すんじゃない。私を引きずりだすのよ」
「……これはお前の脚本なのか?」
「人生に脚本は存在しないわ。あなた達の言い方をするならば、この世界は舞台で人はその役者に過ぎない、と言ったところかしら。そして、脚本家がいるならば神様とやらでしょうね」
「劇中劇の類かもしれないだろ?」
「残念ながら作劇の才能はないの。神様に取られてしまったから」
「ハハ、気の利いたジョークだな。それで、お前は選択を私に委ねるんだな?」
「あら、言い方には気をつけてほしいわ。私は選択しないことを選択したのよ。そして、同時にあなたに選択の余地を与えるつもりもない」
「つまり?」
「弾幕ごっこっていう遊び、流行っているんでしょう?」
「問答無用か」
「化け物に話なんて通じるわけがないじゃない」
そう言うと、フランドールは少し距離をとった。
つまりは弾幕ごっこの始まりである。
それなりに安全で、それなりに平等な戦い。光は美しく、眩く、それ故に恐ろしい。
暗き地下に、数多の光が瞬いた。それが消えた時、全てが終わったのだろう。
結果はきっと、言うまでもない。
お待たせしました。
この作品を読んでいて良いと思う部分
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シナリオ
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キャラクター
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台詞回し
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地の文
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語彙・表現
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考察可能な点
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世界観への解釈
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シリアスの部分
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ギャグの部分