【ウマ娘】マルゼンスキー「君の母親に似てる、って?」   作:木下望太郎

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彼女が私服に着替えたら(前編)

 今日、母が死んだ――もしもそうなら、むしろどんなにか楽だろう。けれど実際、母は生きていて。けれどあの優しい彼女は、きっともうどこにもいない。――いや、それは今に始まったことじゃない。父が死んだあのときから、優しかった母は――

 そこまで考えて僕は腕を上げ、ワイシャツの袖で額の汗を拭った。

 

「あっつぅ……」

 

 照りつける日差しに顔をしかめながら目の前を――現実を――見る。広い砂浜では多くの選手――ウマ娘――が、あるいは長距離を走りあるいは短距離に磨きをかけ。またあるいは体力を鍛えるべく沖へ向かって泳ぐ。

夏合宿。当然誰もが練習用の水着か、動きやすいジャージ姿。彼女らに声をかけ、指導するトレーナーらも同様だった。

 その中で僕だけが――所用での外出から帰ったばかりとはいえ――ネクタイを締めている。場違いな感覚に顔をしかめながら、砂浜を――すでにじゃりじゃりと砂の入った革靴で――――歩く。

 程なくして、探していた選手は見つかった。僕が担当している、マルゼンスキー。

 

「あ、トレーナー君」

 

 彼女の方も僕を見つけ、かぶっていたストローハットを持って大きく手を振る。

 僕はそのとき、目を瞬かせた。何度も瞬いた、そうすればこの目の――あるいは頭の――バグが直るかと思って。

 そこには母がいた、若き日の。優しかったあの頃の。

 無論そう見えたのは一瞬だ、ただの錯覚だ。何しろ彼女が、マルゼンスキーが、記憶の中の母のような格好をしていたから。ジャージでも練習用の水着でもない、彼女の私服。清楚な白地に、小さな花柄を慎ましく散らしたワンピース。

 豊かに波打つ栗色の髪を揺らしながら、母は――いや、マルゼンスキーは――僕の方へと歩んでくる。片手でスカートの砂を払いながら。

 

「どうしたの、そんな格好で。着替えてくればよかっ――」

 

 その言葉をさえぎるように、僕は言ってしまっていた。

 

「マルゼンスキー。その服装をやめてくれ。僕の前では」

 

 あるいは消してしまってくれ、僕の方を。

 

 

 昔は良かった、誰もが口にすることだろうけれど。僕の場合は本当に、昔こそが幸せだった。

 子供の頃は両親も健在だった、おぶわれた父の背中は大きく、その傍らで栗色の髪を揺らして微笑む母は美しかった。僕を撫でる手は温かく、滑らかだった。

 けれどあるとき、父が心を病んだ――先天的なものか後天的なものか、具体的な病名などは、小さかった僕は知らないが――。元々こだわりや思い込みの強い、言い出したら聞かないところはあった。それが自身の心に食い込むかのように強く出た。いもしない敵にいつもつけ回されていると怯え、僕や母にさえ命を狙われていると思い込んだ。

 何度かの入退院の後、父は。屋根から落ちて亡くなった――自死か、何かから逃げようとしたのかは分からない。

 そうして、母もまた変わってしまった。

 いや、父が病んだときから変わっていたのかも知れない。あの優しい微笑みは消えた。憂うようなしわがいつも、眉間に頬に宿っていた。お父さんのようになるな、というのが母の口癖になった。優しかった頃の父のことを、口にしたことは一度もなかった。

 懸命に働きながら無理をして、僕に様々な習い事をさせた。お父さんのようになるな、勉強して立派な人になれ、と母はいつも言っていた。確かに僕は、優秀にはなった――難関である中央のトレーナー試験、そこに現役合格できるほど――が。無理をして昼夜なく働く母と僕の生活とは食い違い、顔を合わせることも少なくなった。

 以来僕は、母の笑顔を見ていない。遠い記憶の中の他は。

 

 

「え……どうしたの、トレーナー君」

 

 僕の言葉に――あるいはこわばった表情にか――、マルゼンスキーは戸惑ったように眉を寄せた。すらりとした眉、それすらも母に似ている。

 僕は言葉を止められなかった。言いがかりに近いと分かっていながら。

 

「伝えたはずだろう、所用に出る間は練習は休みにすると。君もオーバーワークが続いた、宿舎で休んでおくようにと。どうしてここにいる」

 

 マルゼンスキーは困惑したように目を瞬かせる。

 

「それは、後輩ちゃんたちが練習を見てほしいって……」

 

「担当のトレーナーの仕事だ。それに、見ていただけではないだろう」

 

 僕は彼女のスカートと、その下からのぞく脚を指差す。そこには、払い切れていない砂がついていた。

 

「そりゃあ、ふざけて少し一緒に走ったりは――」

 

「ふざけてだって? とにかく――」

 

 そこで僕は、どうにか言葉を止められた。――習っただろ、指導の基本だ、『アンガーマネジメント』、六秒待つんだ、大体これはただの八つ当たり――。

 大きく息を吐いて吸い、意識してゆっくりと言う。

 

「とにかく、だ。休養するんだ、宿舎に帰って……砂だらけのその服も、着替えて。もし練習したいのなら、軽くなら構わない……着替えてから、ね」

 

 マルゼンスキーは何度か目を瞬かせ、それから大きく息をついた。

「そう、ね。でも……ふふ」

 

 微笑む。母のように。

 

「着替えろ着替えろーなんて、言われるのもチョベリバかも。ビーチでネクタイなんて締めてる人には、ね」

 

「それ、は……がっ!!?」

 

 それに賛同するかのように、あるいは罰のように。どこかから飛んできたボールが、僕の頭を直撃した。いい音を立てて。

 

「ト、トレーナー君! 大丈夫!?」

 

 倒れかけたが、僕はどうにか踏みとどまった。駆け寄るマルゼンスキーを手で制し、かぶりを振る。転がるボールを拾った。

 駆け寄って何度も謝ってくる子たちに、苦笑いして肩をすくめてみせる。

 

「いいんだ、お礼を言いたいぐらいだよ。ちょうどいい目覚ましになった」

 

 

 ボールを持った子たちが立ち去った後。マルゼンスキーはいたずらっぽく微笑む。母とは違う表情。

 

「さてと。それじゃあお言いつけどおり、着替えてきましょうか。ちょっと待っててちょんまげ」

 

 練習をするということか。そう考えて、汗を拭きながらその場で待っていたが。

 

「トレーナー君、お待た~☆」

 

 彼女は確かに着替えてきた、が。その大人びた曲線を持つ体は、ごくわずかな布地にしか覆われていなかった。彼女が身につけているのは、練習用の指定水着などではなく。黒いビキニ――しかも下着以下の面積しかない大胆なもの――だった。

 

「なっ……そ……な……!?」

 

 口を何度か開け閉めして水着を指差す、そんなことしかできずにいたが。慌てて視線をそこからそらす。

 練習を続けていた回りの子たちが、遠巻きに彼女へ視線を向け。あるいは小さく、黄色い声を上げる。

 マルゼンスキーは微笑んで――母のようだったかは分からない、その豊満な果実から目をそらすので精一杯すぎる――、言い放った。

 

「それじゃさっそく行きましょうか! 今日は終日ドライブデートよ☆」

 

「ん? ……え?」

 

 僕は大きくー―比喩ではなくあごが外れるかと思った――口を開けていた。

 

「えええええぇぇっっ!!? な、練習じゃ!!? ドライブって君、なんで水着、ドライブで――」

 

 ばっちーん☆ と音がしそうな勢いで、彼女は大きな目でウインクしてみせる。愛車のキーを掲げてみせた。

 

「さぁ、ノリノリアゲアゲでかっ飛ばすわよ!」

 

 強引に僕と腕を組み、駆け出す――思い出した、指導の基本。『ウマ娘の筋力の前に、成人男性の力など赤子のそれにも等しい』『だからあきらめろ』――。

 

「待って、それこそ着替えろ君、っていうか待って、助け、誰か、誰かーー!!」

 

 砂浜に深い引きずり跡を残しながら、水着の美女は高速で駆けていった。駐車場へ。

 

 

「レーコーMサイズ二つ下さ~い☆」

 

 言われてレジの店員が固まったのは、言葉の意味――アイスコーヒー――が分からなかったからだけではないだろう。

 コンビニに彼女はいた。海の近くでもなんでもないコンビニに。大胆不敵な水着の彼女は、レジの前に堂々と立っている。胸の谷間から取り出したカードを手に。

 僕はといえば、彼女に腕を組まれたまま――拘束具の如き力強さだった――そこにいた。せめて両手で顔を覆って。

 

 

「はい、あ~ん☆」

 

 高速道路をかっ飛ばして――本来なら彼女の運転というだけで遠慮したいが、もはやそんなことはどうでもいい――やってきたドライブインで。彼女は名物のアイスクリームをこちらに差し出す。

 

「……」

 

 エサを与えられるひな鳥のように、なすすべもなく僕はそれを食べる。味など分からない。何しろそれより、視線が刺さる。喫茶コーナーの客と店員、全てからの。

 そのときウェイトレスが、おずおずと彼女に声をかけた。

 

「あの……お客様。失礼ですが、その、お召し物は……」

 

 マルゼンスキーは眉を下げ、肩をすくめて――その細い肩を――みせる。

 

「それがね、うっかり着替えを波に濡らしちゃって。んもう、まいっちんぐ!」

 

 ウェイトレスは何か言いたげだったが、あいまいに微笑んで下がっていった。

 

 

「ほほーう、なるほど……奥ゆかしさを感じるわね、この曲線……」

 

 言いながらあごに手を当て、壁にかけられた墨絵を熱心に見ていた。墨より黒い水着の美女は。訪れた美術館で。

 

「このかすれ具合がまた、何ともバッチグーね……」

 

 身をかがめ、食い入るように絵に顔を近づける。そのせいで、ふさふさと揺れる尻尾とはち切れそうな黒い布地が、後ろにいる僕の方へと突き出される。

 さすがに目まいを感じ、頭に手を当てながら僕は下がった。

 そのとき、館員であろう年かさの男性が静かに彼女へ声をかけた。

 

「もし……失礼ですが、お嬢さん。何か羽織るものなどは……」

 

 マルゼンスキーは顔を上げ、腕組みをして口を開く。

 

「ああ、新調した勝負服を着てみているんです。日常の動きも妨げないことが分かりました……レースでも十分使えそうね」

 

 男性は口を開けたが、やがて視線をそらせた。

 

「そう、でしたか……マルゼンスキーさん、貴方ほどのウマ娘がそうおっしゃるなら……そうなのでしょうな」

 

 しきりに汗を拭いながら男性は去っていった。

 

 

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