告解   作:ないしょ

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第3話

 男は奇声を上げて走り続けた。逃げ続けた。

『父様と母様は、最期に、何か言っていたか?』

 恐ろしいあの言葉から逃げたい。逃げ出したい。その一心で走り続けた。

『ホワイトモンスターはもう人ではない。奴らの言葉に耳を傾けるな』

 トラファルガー・ローの言葉を掻き消すように、遠い昔に何度も何度も、何十回も何百回も聞かされた言葉が蘇る。

 上司も言っていた。戦友も言っていた。政府から来たという者たちからの言葉であった。それが世界の言葉であった。

『既にホワイトモンスターはこちらに銃を放っている。武力行使に出ているのだ。それにより、我らが同胞に重症を負わせている!!』

 ホワイトモンスターに撃たれた同胞の足の傷を、腹の傷を、映像電伝虫により見せられた。既に戦争が始まっているのだとまざまざと見せつけられた。

『ホワイトモンスターを根絶やしにする以外、もう世界を救う術はない。世界を滅ぼそうとするホワイトモンスターを一匹残らず駆除せよ! 奴らは既に人ではない。我らの敵なのだ!!』

 毎日朝と夜の一時間、一人分の映像電伝虫のモニターに向き合い、その映像を一人で見る。それが、殲滅作戦が行われる一週間前より男たちに課せられていたことだった。

『敵の言葉に決して惑わされるな!! 奴らは我らを殺すためにいくらでも嘘を吐き、欺き、攻撃してくるのだ!! 一匹でも逃せば、一瞬にて珀鉛病は世界に広まるだろう!! さすれば、我々の友人が、家族が、仲間が、次々に感染していくことになる!』

 聞く、見るだけに留まらず、自らの口でその言葉を呪文のように唱え続ける時間もあった。問題に解答するように、上司からの言葉に対して何度も返答をした。ホワイトモンスターの言葉は聞いてはならないと。

 あの、目が眩むほど何度も見続けた映像と聞き続けた言葉に、トラファルガー・ローの真っ直ぐな瞳と言葉が混ざる。

『父様と母様は、最期に、何か言っていたか?』

 それは思い出さないようにしていた言葉を引き連れてきた。

『トラファルガー先生の話を聞いてくれ!! 頼む!!』

 顔も覚えていないホワイトモンスター達の言葉だ。

 男が撃ち殺したホワイトモンスターのうちの何人かが、まるで同じ呪文を唱えるようにそう言っていた。トラファルガーの話を聞け、と。

『ホワイトモンスターの言葉に惑わされるな! 奴らは我らを欺き、我らを伝染の驚異に晒そうとしているのだ!! いいか! 珀鉛病は伝染する!! 治療法はない!! それが世界政府から出された答えなのだ!!』

 何度も何度も聞き続けた言葉が、男自身が自分に言い聞かせた言葉が、ホワイトモンスター達の言葉を上塗りするように重なる。そうすればまた、あの金の眼と静かな言葉がそれを引き裂こうとして、どんどん重なっていく。ぐるぐると、声が重なり、響いて、煩い。煩い。追いかけてくるな。

 男は走る。あの地獄の声から逃げたくて走る。ひたすら走る。

 しかし、走っても走っても距離が開かなかった。それが男の頭の中で響くものだから、どれだけ逃げてもすぐそこでその言葉は響き続けるのだ。

 それにようやく気づいた男は、走るのをやめて地面に何度も額をぶつけた。

 がん、がん、がん。

 ぶつけて、ぶつけて、額に血が滲んで、砂を噛んで、ようやく男はわずかに心を落ち着けた。

 ぼぅっとする頭で空を見る。木々の合間から赤く染まり始めた空が見えた。

 男は山の中にいた。周囲は暗くなっていく。

 もう何も見たくない。何も聞きたくない。

 耳を塞ぎ、地面に額を擦り付けて目を瞑る。

 暗い。暗い。真っ暗だ。そんな闇の中でふと、先程見た赤らむ空を思い出す。

 随分時間が経った。アレは、どうしただろうか。

 あの海賊に追い回されていると、長年思い続けていた。しかし、不思議ともう、あの海賊が自分を追うことはないと思う。

 トラファルガー・ローは男に対し執着を持っていない。

 それは男にとって嬉しいことのはずだった。この苦しみ続けた十六年からの開放のはずだった。

 しかし、男が感じたのは――神から見放されたような、底知れぬ不安だった。

 男の罪を知っているのは、理解できるのは、トラファルガー・ローただ一人なのだ。

 ドクドクと心臓が脈打つ。焦燥感が湧き上がってくる。

 彼が行ってしまえば、男はあの地獄の世界にただ一人取り残される。

 嫌だ……嫌だ……。

 頭を掻きむしり、男は体を縮めて震えた。

 そうして、また、あの言葉が蘇る。

『父様と母様は、最期に、何か言っていたか?』

 恐ろしく感じていたはずの言葉が、このときはすっと男の中に入ってきた。恐ろしさから消し去ろうとしていた景色が、ありのままに蘇る。

 あの子供は、怒りも恨みも見せず、ただ純粋に、男に問いかけていた。

 男は知っている。男だけが知っている。

 赦しも罰も与えなかったあのときの子供が、唯一男に望んだことだ。

 もう、島から出ていってしまったのだろうか。

 そう考えたとき、ぞくりとまた恐怖が沸き立った。取り返しのつかないことをしたような、そんな恐ろしさを感じた。

 男は顔を上げた。木々の合間から空を見れば、赤かった空はほとんど紺に染められていた。深い闇夜が近づく暗い空の色は、あの子供の髪色に似ていた。このまま夜になればあの子供を闇夜に隠し、もう二度と会わせてくれぬだろうと、漠然と感じた。

 男は立ち上がった。そして、再び走り始めた。来た道を戻り、町へ、町へ。

 足をもつれさせながら、息を荒げ汗をかきながら、一心に走った。

 自分が何をしたいのか、何が正義で何が悪なのか、なにもかもぐちゃぐちゃになりながら、それでも、本能が足を動かした。

 

 

 

 食堂には少量の酒が並べられていた。食材がないからと、ルフィはサンジに頼んで食材を持ち込み、再びこの場でうまいうまいと飯を食べ始めている。

 そろそろ出港の時間かと思いきや帰ってこない仲間たちを探しに、ロビンやウソップ、チョッパーまでも食堂に現れていた。

 サンジが怯える食堂の店主と溶け込むのにさほど時間はかからなかった。料理人同士、やはり気が合うのかもしれない。

 和気藹々と二人のシェフが作った料理を囲み、麦わらの一味は団欒している。その中に、ローもいた。

 隣に座るルフィにこの魚がうまいと勧められれば、「ほぅ」と箸を伸ばし、気に入ったのか「黒足屋。これ、おれも」とサンジに声をかけている。

 船長二人に向かい合う形でチョッパーとウソップがぱくぱくと次々料理を口の中に入れている。

 そんな彼らのテーブルから一席分離れた場所で、ナミはドリンクをストローでちゅぅちゅぅと吸っていた。その形の良い眉を八の字にして。

 彼女の浮かない顔を見て、隣に座ったロビンから「どうしたの?」と声がかかる。ナミはなんと答えたものか困った。

 ルフィが冒険をやめて一緒に食堂へ入っていくのを見たとき、ナミはどうフォローをしたものかと頭を悩ませた。ローをそっとしてやったほうが良いと思ったからだ。

 しかしそんなナミの心配とは裏腹に、ローはいつもと変わらぬ顔でその食欲に呆れを見せつつ、特に気にした風もなく彼を受け入れていた。先程までのことが無かったかのように、やけ酒をするでもなくゆっくりと酒を嗜みつつ、この団欒に溶け込んでいるのである。

 距離感を測りかねて離れた席に一人座ったナミだけが妙に浮いたという、なんともよくわからない形となった。この状況を伝えようにも本人のいる前でするのは憚られる。

「……後で話聞いて。ロビン」

「えぇ、もちろんよ」

 にこやかに笑う仲間に、ナミは一人癒やされた。

 半ばテーブルに突っ伏すような形でナミはローの飲む酒へと目を向ける。緑色のワインボトルの中身はあと三割ほどだろうか。店主が自分用に置いていたものらしい。それを少しずつグラスに注いで、ローはゆっくりとその中身を減らしていく。

 あの中身がなくなれば、この食事会はお開きとなるだろう。

 ボトルが浮く。ローが持ち上げたのだ。そして、グラスに残った中身の全てが注がれる。

 ローはそれに口をつけた。こくりこくりと彼の喉が動く。一度グラスから離れた口の端が、僅かに上がった。何に対して笑ったのだろうか。――ナミには、自嘲の笑みに見えた。

 本当に、この一本の酒だけで今回のことを終わらせるに足るのだろうか。船にある酒を持ってくるべきだろうか。

 色々考えてみるも、今回の件は自分たちが口出しできる範疇を超えているという結論に至って、ナミはただ、酒が減っていくのを眺めていることしかできなかった。

 ゆっくりではあるが、着実に減っていくワイン。

 きっとどんな酒よりも重く胸が焼けそうなものだろうに。どうしてこうも淡々と飲み続けられるのか。見ているこちらの方が胸が苦しくなる。

(あぁ……でも)

 ウソップの話にルフィとチョッパーが笑う。チョッパーに話を振られ、ローの表情が僅かに和らぐ。

 このひとときを紛らわせるような笑い声がここにあってよかったと、ナミは船長の判断に力なく笑った。

 作られた料理も間もなく無くなる。

 自分にできることは、戻ったら後腐れなくすぐに船を出港させることくらいだろうと、闇夜の船出をナミが思い描き始めたときだった。

 バン、と勢いよく食堂のドアが開かれた。

 ひゅ、ひゅ、と荒い息遣いが聞こえてくる。

 ウソップとチョッパーは気にせず会話を続けていたが、ルフィの食事の手が止まった。皿を片付けるサンジの足も止まり、食堂の店主の息を呑む声が入る。

 ナミが振り向けば、そこには肩で息をするあの狂人の男がいた。

「あんた、さっきの……っ」

 ナミは警戒の目を向ける。ウソップとチョッパーが食堂の空気が冷えていくのを敏感に察知し口を閉ざした。先程まで団欒のあった食堂が一気に静まり、男の荒い息だけが残る。

 狂人の男は相変わらず周囲に見向きもせずにローへと見開いた目を向けていた。扉に背を向ける形で酒を飲んでいたローが僅かに振り向く。

 今度は一体何を口にするつもりなのか。ナミは懐の武器へと手を伸ばした。またあの聞くに堪えない罵倒をローに浴びせるというのなら、ローが彼に何もしないことを選んだとしても、自分が殴り飛ばしてやるつもりだった。

 しかし、荒げた息を整えた男から出た言葉は、先程までの狂ったものとは違っていた。

 

「お前の父親は、珀鉛病は伝染しないと叫んでいた」

 

 ナミは息を呑んだ。静かになった場に、男の声だけが響く。

 見開かれた男の目。がたがた震える瞳が、相変わらずローだけを見続ける。

 男は続ける。

「だから、待ってくれと……私を真っすぐ見て、叫んでいた」

 こんなに瞳を震わせているのに。先ほどまであんなに息を切らしていたのに、男の言葉はやけに真っすぐ、震えることなくしっかり紡がれる。

 男は不思議な感覚の中にあった。ずっと纏わりついていた恐怖や怒りや苦しみが、今や何も感じられない。ふわふわと頭が浮ついたような感覚のまま、本能だけで口を動かしていた。

 呪いのように纏わりついていた狂気が消えていた。冬島にある冷たく波紋のない湖の水面のような、澄んだ静かな世界。でも冷たく霧が出て視界が霞むような、そんな感覚の中にいた。そんな中で、男はあの日のことを思い出す。あの両親の最期の時を思い出す。

 彼は怯えと焦りに目を震わせ、それでも、懇願するようにこちらを見ていた。これから自分を殺す人間に対して、真っ直ぐ目を向けて、言葉が通じることを祈っていた。情に訴えるように、人に訴えるように、分かり合える仲間であることを信じるように。必死に私に訴えていた。

「私は、すぐに射殺した」

 それらは、モンスターの常套手段だ。人の皮を被り、そうやって人を騙そうとするのだ。それが、ホワイトモンスターだ。そう、私は教えられていたからだ。

 多くのホワイトモンスターが彼の話を聞いてくれと叫んでいた。そんな彼を、私は撃った。銃を向けている最中でも、逃げることなく私を真っ直ぐ見続ける男を撃ち殺した。

 心臓を狙った。跳ねた名札が私の足を打った。倒れ行く男の隣で、一緒になって私の方を見ていた女が叫んだ。

 甲高い女の叫びに切り裂かれるように、男はふとあの時の映像から現実へと一度目を向ける。

 トラファルガー・ローは静かに男の言葉を聞いていた。ゆっくりと瞬きをしながら、無表情で、されど男の言葉の一言一句聞き逃さないような真剣さをもって聞いている。

 だから、男は再びあの日へと意識を戻す。

「お前の母親は、夫が撃たれて、その遺体に縋りついた」

 くしゃりと、絶望に満ちた表情で夫を見つめる妻も、私はすぐに殺してやろうとした。

「でも、すぐに顔を上げて」

 彼女は私へと顔を向けた。今しがた夫を撃ち殺したばかりの私に顔を向け、夫と同じ表情で私を見つめていた。絶望に満ちた顔で。それでも、希望を求めて。情に訴える顔で。そして、子供たちへの愛が宿る表情で。

「『お願い、子供たちだけは見逃して』と、言った。それが、最期だ」

 ありきたりな言葉だ。どこにでも転がってそうな言葉。私の故郷にも、それを言いそうな仲睦まじい親子がいた。よく挨拶をした。どこぞやの小説にも泣ける話として紡がれていそうな、本当にありきたりの言葉。それに魂を込めて、アレは、あの女性は、言っていた。

 だから、そんな言葉を聞いてしまったから――

「…………そうか」

 トラファルガー・ローの言葉が響く。

 静かな、低くどこか甘く感じる不思議な声音が響く。

「だから、だな」

 あぁ、そう。だから、なんだ。

「おれがあのとき生き延びたのは、あんたが撃たなかったからじゃない」

 そう、おれのせいじゃない。

 あの日、おれがあの子供を殺せなかったのは……。

 

「父様と母様が、おれを守ってくれたからだ」

 

 トラファルガー・ローは目を伏せて、静かに笑って、そう言った。

 

『ホワイトモンスターの話など聞くな。すべては嘘である。騙されてはいけないのだ』

 それは男に今まで呪いのように纏わりついていた呪詛の言葉。確かな力を今まで持っていたはずのそれは、今この時、どこまでもちっぽけで、何の力も持たなかった。

 男に今まで纏わりついていた呪いが完全に切り裂かれて晴れ渡るような、不思議な感覚がそこにあった。

 今この時も、男の中で何が正しいとか、何が間違っているとか、それらは定かではなかった。でも、ただ、ただ単純に

 私はあの日の子供の、この表情が見たくてここに来たのだと。

 その素直な感覚だけはどうしようとひっくり返せない確かな芯となって男の心にあった。

 あの子供の、ぎゅっと寄せられた眉と、僅かに揺れて見えた瞳は、哀しみと、深い愛に満ちていた。

 あの日の両親の愛を受け取って、遠い昔に確かにあった幸せの日々に微笑んでいた。

 そうして、彼はすぐそこにあったグラスの中に残る僅かな酒を一気に飲み干した。

 

 

 

 男は気づけば外を歩いていた。てとてとと、いまだ宙を浮いているような、地に足のつかない感覚で山の中を歩いていた。

 暗い空を見上げ、ぼうっと歩く。

 あの日、トラファルガー・ローが死ななかったのは、私が彼を逃したからじゃない。

 彼を逃したのは私ではない。彼の両親であった。

 ならば、私に罪はない。彼を逃したことに罪はなかったのだ。

 ならば、赦しも罰も、あるわけがないだろう。

 男は十六年続けた無意味な時間に茫然としていた。

 てとてとと、真っ暗な闇の中を歩く。慣れた道であるが故に、迷うことはない。

 やがて開けた場所へ出た。

 町が見渡せる丘の上。遠くに見える海にぽつんと船が遠ざかっていくのが見える。

 それを眺めた後、男は足を進めた。

 そして、男は小さな小さな建物の前に辿り着いた。

 それは、男が作った自分の為だけの告解室。

 ぎぃ、と音を立てて扉を開ける。

 小さな建物に一つだけある窓からは月の淡い光が差し込んでいた。その中に、男は入る。扉を閉めればパタリと音がして、男以外には何もない空間が生まれる。

 何度も何度もここに膝をついてきた。ずっと赦しを乞うていた。

 しかし、今まで告白してきた罪はもう、罪ではない。

 それでも、男は再び、ここに膝をついた。

「神よ……私は……」

 やつれた顔を窓へ向ける。月の光が唯一差すそこへ目を向ける。

 ぐっと肺が重くなって、首が絞められるような感覚があった。

 重く、深く、大きすぎるものが、喉を通る。

 その苦しさに、男の目から次々と涙が溢れた。

 あれらが本当にただのモンスターであったなら、私はあの日、銃を撃つことを躊躇わなかった。

 あれらが本当にただのモンスターであったなら、そこに愛も情も見出さなかった。

 その重さに押しつぶされそうになりながら、それでも、男は窓から見える唯一の光に向かい、言う。

「私は、……罪のない人々をっ……殺し、ました……」

 蚊が鳴くような声で、喉を締め付けられながらもそう言って、男は地面に額をつけて泣いた。

 

 十六年を経て、男はようやく告解できた。

 

 

 

 

 

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