【ウマ娘、カフェ】ジャック・オー・ランタンの私たち 作:木下望太郎
トレーナー室につけっぱなしのテレビは、随分と気が早いらしかった。ハロウィンを先取りして流れる、トリック・オア・トリートの声。新製品のお菓子を宣伝する、陽気な魔女やお化けたちの口からそれは聞こえた。
「ぜひとも、いたずらの方をお願いしようじゃないか」
じゃらじゃらと音を立ててコーヒー豆をミルに入れながら、アナタはそう言った。
私――マンハッタンカフェ――が首をかしげると、アナタは微笑んで続ける。
「お菓子かいたずらか。お菓子なら君のことだ、コーヒーに合う立派なものを用意するだろうが。いたずらとなると、さて何をするか……困るだろうと思ってね」
アナタは低く笑う。その声がいつもの癖のとおり、猫が喉を鳴らす音のような、小さな咳に変わって消える。
小さく唇をとがらせて私は言う。
「……だったら、私だって……トリックの方をいただきます。アナタから」
同じ笑いと咳が続き、低くアナタは答える。
「なるほど、それは困ったな。ええと……トレーナー室のコーヒー豆を、全部紅茶に――」
「トレーナーさんのユーモアのセンスは、タキオンさんと同レベルですね」
「……だったら、全部麦チョコに――」
粒状のチョコレートをコーヒー豆と間違えたままミルにかけた後の惨状に思いを馳せ、私は――私なりにひどく――顔をしかめた。
「……やったら、二度と口を聞きませんから」
賛同するようにテーブルの上のコーヒーカップが震え、音を立てる――きっと『あの子』だ――。
顔を引きつらせてアナタは苦笑する。
「……正直、無表情に怒るのはやめてほしいがね。――そうだな、いたずらの件は何か考えておくよ。……落書きでもするか、一番大事なものを、一番大事なものに」
私は黙って首をかしげる。
アナタは黙って、骨の浮いた細い指で手動ミルのハンドルをつかむ。ゆっくりとそれを回す。魔女が大鍋をかき回すようにゆっくりと。
ぱりぱりかりこりと豆が砕け、コーヒーの香が立ち昇り。静寂の中にそれが満ちる。
やがてハロウィンの日が近づいたある日。
その知らせは、いたずらと呼ぶにはあまりに酷かった。落書きなどはどこにもなかった、アナタはずっと仕事を休んでいた。
アナタが亡くなった、そう聞かされた。知らなかった、アナタが大病を患っていたなんて。
それどころかアナタは、学園にすら病のことを届け出ていなかった――本当に最期、長く入院したときまで――。アナタは、無理に無理を重ねて私を見ていた。
もしも私がいなかったなら。アナタは、もっと早く入院していた? いくらかは分からないけれど、もっと長く生きていられた?
だったとすればそれはきっと。あまりに大きな私のいたずら。
葬儀に参列し、棺の中のアナタを見ながら、私はそう考えていた。飛んでいって口づければ、童話のように目を覚ますのではないか――そんな風にも考えたけれど。影に縛られたように体は重く、そうはできなかった。本当に、最期に、そうしたかったのだけれど。
ハロウィンの日は――学園のパーティーの日は――それでも来る。
生徒らが主体となって運営される大きなイベント。仮装に出し物、模擬店舗。私も当初の予定どおり、カフェを開いていた。トレーナー室を借りた、小さなカフェ。いつもならアナタと私、時々あの子。それだけの小さなカフェ。今はその内装に、カボチャをくりぬいたランタンを加えた。ろうそくの火がカボチャの果肉を焦がす、わずかに甘い匂い。
ぽつぽつと訪れる客足が途切れた頃、ある先輩がそこに来た。
「儲かりまっかー……って、儲かっとる感じやぁないな」
タマモクロス先輩。このイベントの責任者でもある彼女は、ミイラの仮装をしていたはずだが。今はいつもの制服姿だった。
「まっ、なんや。こういう店は静かなぐらいがええんかもな、雰囲気雰囲気。とりあえずなんぞ、飲みやすいコーヒーとオススメの菓子を頼むわ」
電動ミルで挽いたコーヒーをドリップし、チョコレートの濃厚なブラウニーと一緒に差し出す。
注文の品を彼女は黙って口に運ぶ。うつむきがちに、時折こちらを見ながら。
そういえば何かで聞いたことがある。彼女は何年か前、近しい人を病で喪っていると。それで、私の様子を気にしてきたのだろうか。
食べ終えた彼女はほがらかに――いかにもほがらかな顔をして――笑いかける。
「ごっそさん。めっちゃ美味かったわ! びっくりや、隠れた名店やなここは! もっと皆にも来てほしいわ、他の子ぉにも宣伝しとくで!」
こういうときは、忙しい方がええしな。そうつぶやいて、寂しげに彼女は笑った。
「まぁなんや、そういうことで。あーそうや、コーヒーミルっちゅうの? 電動のあれでガーッて挽いたコーヒー、めっちゃ香りええねんな? ウチもそれ買ってみようかなー、でも何や、メンドうなって結局使わんかも――」
小さく拳を握る、私に呼応したように。近くの椅子に敷いたクッションの上に蹄鉄を押し当てたような跡が現れ、踏みにじるようにそれが歪んだ。
先輩の気持ちはありがたい、そう考えるのとは別のところで。長くは立ち入らないでほしい、私とトレーナーさんと、あの子との空間に。その思いが確かにあった。それはきっと、私もあの子も。
「――それとそうやな、せっかくや。テイクアウトでもう一杯――」
先輩の言葉の途中、ざらり、と音がした。コーヒー豆をミルに移した、まさにその音。
そして、小さく音が響く。手動ミルのハンドルを回す、金属の軋む音。ぱりぱりかりこりと豆の砕ける音。立ち昇るコーヒー香。
見れば。コーヒー豆の入った手動ミル――私は豆を入れていない――、そのハンドルが。ゆっくりと回っていた、魔女が大鍋をかき回すようにゆっくりと。
「……なんや、最近はすごいんやな。ああいう形でも自動のんが――」
「帰って」
「え?」
「出て……今すぐ」
先輩の背を押して、部屋の外へ突き出す。扉を閉めて鍵をかけ、私はミルへと向き直った。それは変わらないペースで動いている。
クッションの上では戸惑うように、蹄鉄の跡がいくつもついては消えていた。
そう、あの子はそこに、クッションの上にいる。だったら、あれは――
やがて動きを止めたミルの中をのぞく。焦げたような茶色をした深煎りの豆、私とアナタが好みの。苦味を引き出す繊細な細挽き、私とアナタが好みの。
私はそれを淹れて飲んだ。アナタが挽いてくれたコーヒーを。
いたずらはやがて来た。
私とアナタで大まかなデザインを考え、発注していた勝負服。それが届いた。暗闇のような、ひどく濃いコーヒーのような漆黒のコート。
コース上に出て袖を通して、そのときに初めて気づいた。身につけた者しか気づかない、袖の内側。そこに黒く、生地の色に融け込むように黒く、小さな刺しゅうがあった。
その形は、この勝負服を身につけた私のシルエット。その下に小さく、Trick or treatの文字。同じく黒い糸で。
――落書きでもするか、一番大事なものを、一番大事なものに――私を、私に。
抱き締めた、身につけたままの勝負服を。自分で自分を抱くように。涙のこぼれた顔を、自分の肩にうずめた。
やがて、ゆるゆるとコートの裾が持ち上がる。骨張った指の形に膨らんだそれが、涙を拭う。
私はそれに身を任せた。
傍らの地面の上では。いら立ったように、いくつも蹄鉄の跡がついていた。
私は駆けた。いくつものレースを。練習コースを。アナタが挽いてくれたコーヒー、アナタが湯を注ぎ淹れてくれたコーヒーを口にして。天使のように純粋で地獄のように熱いそれを。
私は駆けた。夜となく昼となく思うままに、アナタが誘うままに。私のために淹れたコーヒー、ときに口移しでくれるそれを飲んで。悪魔のように黒く、口づけの甘さを持ったそれを。
私は駆けた、駆けた、駆けた。血に飢えた猟犬のように。ときに四つ足で、ときに重力に逆らって壁を。ときに四つ足のまま地面に背を向けて、ときに甲高く