【ウマ娘、カフェ】ジャック・オー・ランタンの私たち 作:木下望太郎
「学園一の奇人の称号、望んだものでもなかったのだが……まさか、人に譲る日が来るとはねぇ」
そう言って笑った、友人――だと向こうは思っている――、タキオンさんは。深呼吸をして息を整えた後、続ける。
「それにしてもだ。キミの口にしたコーヒーの残滓、カフェテリアの皿に残ったソース、ゴミ箱に捨てたパンの袋まで勝手に調べさせてもらったが……薬物などは一切検出されなかった。ああ、これも勝手に調べさせてもらったが、洗濯物に付着した汗からもね」
タキオンさんは白衣の袖を持ち上げ、流れ落ちる汗を拭う。そしてあごに指を当て、淀んだ――いつもの――目で私をのぞき込む。
「それでいてキミのレース成績はすこぶるいい、見てのとおりさ。奇行を帳消しに出来るかはともかくとして、すこぶるねぇ。するとなると、だ……」
食らいつくように、脳髄の奥まで覗き込もうとするように、私の目を見る。
「何があった? 私の科学や化学じゃない、キミの得意なオカルトだよ、何があった、えぇ? 何があった聞かせたまえ私に、限界のその先の手がかりを――」
彼女は私の肩をつかんだ。よりによって勝負服を着た私の。アナタの勝負服を着た私の肩を。
ぶん殴った。彼女の体は宙を舞った。レース後の表彰式――彼女が二着――の、その席上で。
カーテンを閉め切った暗い部屋。ハロウィンの模擬店に飾ったカボチャのランタンは、片隅で腐りかけている。謹慎を言い渡され、部屋で一人私はいた。勝負服を身につけて。
いいえ、一人ではなかった。コーヒーミルは今も回っている、空っぽのまま、きしきしと、ゆっくり軋む音を立てて。
傍らの絨毯ではそれとは別に、蹄鉄の跡がついている。ひどくいら立ったように、何度も何度も、音を立てて。やがてその音が高くなる。早鐘を打つように音の間隔が狭まる。ちぎれた絨毯の糸が宙を舞う。
変わらずミルは回っている。
やがて足音は、しびれを切らしたように。一度、一際大きく響き、そして消えた――まるで床を蹴って跳んだように――。
その数秒後。蹴飛ばされたように、コーヒーミルが壁まで飛んで叩きつけられる。
「……!」
私は駆けた、部品が外れて床に散らばるミルへと。
周辺の絨毯では再び何度も足音が響き、蹄鉄の跡が絨毯を打つ。ミルを踏み潰そうと、粉微塵に壊そうとするように。
私は抱えた、ミルの部品を全て。足音はなおも響き、それが何度も私の背を打つ。肉に食い込む蹄鉄の感触。
いつしかそれが収まり、息をついたそのとき。
蹴り飛ばされたように、壁にかけていた姿見が私の前へと吹き飛んできた。外側の木枠が盛大に欠けてしまったそれは、目の前の壁へと背をもたれかからせた。
そこには映っている、黒いコートを着た私が――いや。私にそっくりな誰かが。私と違い、ひどく古びて
押し殺したような声が鏡の方から響く。
『……やメ、ろ』
私は応えず、ミルを抱え直した。
『やメろ。……捨テろ、そレを』
私は応えず、鏡を睨んだ。
『やメろ。……長ク持ッていルもんじゃナい……丁度、そッちのそレのようニな』
真っ黒な顔が視線で指した、その先には。火のついていない、腐りかけたカボチャのランタン。ジャック・オー・ランタン。言い伝えでは確かそれは、天国からも地獄からも拒まれた、さ迷える哀れな亡霊。
『捨テろ、さモなきャ、そウなルぞ……。お前モ、そイつや、俺ノよウに……天にモ地にモ居場所なドなイ、さ迷ウだケの魂に』
私は応えなかった。ミルを抱き上げ、コートの埃を払って立ち上がる。姿見の前から去ろうとしたそのとき。
『捨テろ! 今ナら間に合ウ、お前ハ来ルな!』
声と共に、鏡の中の私が動いた。私の動きとは全く別に。片脚を高く上げ、目の前のものを蹴り飛ばす動き。
同時、蹴飛ばされたかのように。私の体は吹っ飛んでいた。姿見の反対側、部屋の出入口へ。ドアをもろともにぶっ飛ばしながら。大きな窓から光差し込む廊下へ。
「あ……」
光の中、湯気のような煙が白く立つ。私の髪から、肌からわずかに。そして勝負服と、抱えたままのミルから、燃え上がるように盛大に。
「ああ……あ……!」
私の中から、何かがぼろぼろとこぼれ落ちる。淀んでいた澱《おり》のような何かが。それは許されたように煙へと変わり、天へ天へと立ち昇っていく。
片手を伸ばす、舞い上がり消えていく煙へ。片手は抱え込む、煙を上げるミルを体ごと。
目を上げれば、いつの間にか部屋の入口に姿見が転がっていた。
『そレでいイ……お前ハ、来ルな』
「あ……あ……!」
両手で、体で、きつくミルを抱き締めた。
煙を上げるミル、蹴り飛ばされて歪んだその部品が、強く抱いた拍子に外れる。そこからこぼれ落ちた、コーヒー豆の欠片が。香ばしい香りをたたえた、暗闇の色をしたそれが。
「……!」
目をきつくつむり、私はそれを噛み締めた。
アナタの、口づけの味がした。
そして噴き上がる、闇色の煙が。私の肌から、髪から、影から。ミルから上がる白煙など掻き消し、全てを黒く塗り潰すように。
『な……』
私はミルを抱えたまま立ち上がり、部屋の入口へと歩む。片脚を大きく上げた。踏み下ろす。
音を立てて砕けた姿見は、もう何も言わなかった。
「……さようなら、沈黙
腕の中ではミルのハンドルが、愛おしげに、きしきしと鳴る。コートの裾が持ち上がり、優しく私の体を撫でた。
漂う黒煙が窓からの光をさえぎり、作り出された影の中を。私はアナタと走り出した。あの子に背を向けて。
それからも私たちは駆けた。闇の方へ、闇の方へと。
誰もいない廊下を、夜の芝の上を、プールの水の上すら。
月明かりの下の道路を、ビルの屋上へと跳び、さらに次の屋上へと跳び。影の中に音もなく着地して。
時に足音もなく、時に誰かの悲鳴をBGMに。時に開かずの教室の中を、あるいは3番目のトイレの中を。時に風で耳まで裂けた口で、時に人の顔をした犬のように四つ足で。あるいは八尺もある人影となって、あるいはくねくねと身をよじらせて。私はアナタと駆けた。
そんな子たちは他にもいた。片脚を失った子が、首に縄をくくったままのトレーナーが、両の手首から血を流す子が。体の半分が潰れたトレーナーは、さあ走ってこい、と、あらぬ方向に首をねじ曲げた子の肩を叩く。骨のようにやせ細ったトレーナーは血の涙を流す子に、お前がナンバーワンだ、と笑顔を向ける。
そしてアナタも、私の肩を抱き寄せる。珈琲のような口づけ。
私たちはそうして駆ける。天にも地にも、居場所などなくても。
永遠に離れてしまうぐらいなら、永遠に一緒にいよう。ジャック・オー・ランタンの私たちは。
(了)