「千鶴、これで干し物は終わりか?」
日差しが強い中、夥しい数の洗濯物が吊るされ、風で靡いている。梅雨のせいで雨続きだった所為だ。それは致し方ないが、やはり、これだけの量となると骨を折る作業だ。ましてや一人となると、今日のような日差しでは倒れてしまうかもしれん。それなのに千鶴はこれを一人でせっせと干していたのだ。それを見かね、手伝っていた。
「はい、今干しているので終わりです。斎藤さん、ありがとうございました。お蔭様で早く干し終わりました」
笑顔を向ける千鶴は、ぎらつく日差しとは違い、優しさのある光を向ける。
ここ、新選組屯所に来たばかりの時とは大違いだ。いつからこのように柔らかに笑うようになったのだろうか。今はこの姿が当たり前になっており、覚えてなどいない。
だが、その笑顔を見ていると、何故か心が休まる己がいる。
「千鶴、このような量の時は無理をするな。俺に声を掛けてくれ。俺が居なければ他の者でもいい。これだけの量だ。もし、あんたが倒れてしまっては副長に心配を掛けてしまう」
そう言わなくては、千鶴はまた一人で干し物をするだろう。俺達に気を使っているのはわかるが、倒れられては困る。千鶴に何かあっては落ち着かぬのだ。
「はい、ありがとうございます、斎藤さん。今度からは声をお掛けしますね」
一層目を細めた千鶴は朗らかだ。
この、何でもないようなこの刹那が、愛おしいと思った。この刹那を、心に仕舞う為に空を見上げる。入道雲が綿のように広がり、青空を更に青く見せていた。
きっと、いつかこの空と似たような空を見たとき、今日の何でもないことを思い出すだろう。
ふと千鶴に視線を向ける。俺の視線に釣られてか、千鶴も空を見上げていた。
「本当に、いいお天気ですね……あ、斎藤さん、この後ご予定はありますか?」
千鶴は、俺の顔に視線を向けている。その眼差しは俺の返事を今かと待っているようだ。何か良い提案を思いついたと見える。
「今のところ、特に用はない」
用はないと聞いた途端、千鶴の目が輝いたように見えた。どのような提案なのか、期待が膨らむ己がいる。
「はい。これから空を眺めながら、お茶をお飲みになりませんか? 久しぶりに晴れた空を眺めるのは心地よさそうですから」
確かに、暑いとは言え日陰に居れば涼しく過ごせる気候だ。縁側で飲めば心地良いだろう。
千鶴の頬は上がりっぱなしだ。空を眺めながら茶を飲むのを想像しているのかもしれん。
「よい提案だな。丁度喉が渇いていた。頂くとしよう」
先程よりもにこやかになった千鶴は、空になったタライを持ち上げようと手を伸ばした。それを、俺は片手で制し、タライを持った。
「俺がタライを持っていく。その間に千鶴は茶を入れて来てくれぬか。その方がいいだろう」
「はい。それではお願いします。お茶、お持ちしますね」
空を眺めながら、「千鶴と一緒に茶を飲むのはきっと、楽しいものだろう」そう思って千鶴を見ると、俺の気持ちが分かったかのように、少し顔を赤くしてはにかんでいる。
そんな矢先、暑さを吹き飛ばすような、威勢のいい声が聞こえてきた。
「千鶴ー!! 何処に居んだー?!」
この威勢の良さは平助のものだ。平助は所要で外出し帰って来ると、何かと千鶴を探している。恐らく、千鶴に菓子を買ってきているのだろう。たまに千鶴と一緒に食べているところを何度か見たことがある。多分、今日もそれで千鶴を探しているに違いない。そうなると、平助と三人で茶を飲むことになる。
──胸の中に、靄が掛かった。
決して、平助を嫌っているわけでもないと言うのに、何故このような気持ちになるのか。
「何処にいんだよー千鶴!」
平助の声が、まだ千鶴を探している。先程よりも声は近くで聞こえるが、洗濯物で丁度姿が見えないのだろう。平助はこちらにまだ気づいてはいないようだ。千鶴を見ると、何故かクスクスと笑っている。
胸が疼いた。そして気づく。平助と千鶴が仲よくしていることが、面白くない、と。平助は人懐っこい性格からか、千鶴が平助と喋りやすいことは重々承知している。だが、二人きりで仲良く話をしているのを見ると、落ち着かない己がいる。もっと言えば、平助だけではない。左之が千鶴の頭を撫でていたり、総司が千鶴の食べかけの饅頭を横取りしたり、副長でさえ千鶴の前では甘い顔をしている事。そして何より、鬼と名乗る風間とか言う男が千鶴に対して我が妻と呼んでいるのが不愉快だ。
本当は気づいている。これがどういったことなのか。今まで気づかない振りをしていたのは言うまでもない。わかったところでどうにも出来ぬことだ。俺は新選組に全てを捧げると心に決めている。それ故、隊務でなければ千鶴を守ることは出来ん。そのような男に千鶴を想う気持ちを伝える権利などあるはずがない。だからこうして普段近くに居られるだけでも幸せなことなのだ。この想いは、秘めるべきもの。
我に返ると、千鶴は思い切り息を吸う動作をした。
きっと、この場に居ることを知らせるに違いない。そんなことをすぐに感知した。
「平助く」
呼ぶな!!
叫ぶよりも体が先に反応していた。タライを手放していた。己が動いたのかどうかさえ分からない程の一瞬。ただ、千鶴を抱きしめ、千鶴の声を唇で塞いでいた。
「ん? さっき千鶴の声が聞こえたような……」
平助の声が、遠くに感じる。
千鶴の唇は温かく、花弁のような柔らかさで、しっとりとしている。このまま、もっと千鶴を感じていたい──しかし、己が今どのような行動に出たのか、はたと気づく。目の前には栗のような茶色の目、長いまつ毛。
頭が真っ白になり、千鶴を放して突き飛ばした。小さく千鶴が悲鳴を上げたのが聞こえる。
「す、すまぬ!」
このような言葉しか発せられなかった。後はもう、千鶴を背にして走り去ることしか、出来なかった。