1 後輩は負けず嫌い
高く放り投げられたボールを見て、まずい、と思った。
落下してくる軌道に合わせて緊張感が高まっていき、膝を曲げて、心構えも終えた状態で待つのだが反応できる気がしない。
腕を伸ばせば届く位置に到達して、ラケットが振るわれた。強くインパクト。日頃とは違う回転を与えられたボールが飛んでくる。
ルール上、サーブは規定の範囲内で一度バウンドしてからでなければ打ち返せない。しかし今回のボールは普段とは回転が違っていて、跳ね上がる軌道も違う。
ツイストサーブ。地面を跳ねると同時に俺の顔面を狙うかのようだった。
幸いにも俺は何度となくそのサーブを体感していた。だから他人より慣れがある。
ステップを踏んで避けながらスイング。迎え撃つようにラケットで捉える。意外なほどパワーはあるが理解していれば返せないほどではない。わかった上で打ってきているのは間違いないが返さないという選択肢はなかった。
返されたことについて微塵も驚きを見せずにラリーが始まる。
相変わらず、上手い。
おそらく単純なパワーは俺の方が上なのだが、スピードやテクニックは相手の方が上。単純な練習量や努力はもちろん、あまり好きな表現じゃないが才能の違いを感じずにはいられない。
鋭く、速く、狙いが正確で、嫌味なくらい絶妙にギリギリ届く位置や俺の苦手なところに打ち返してくる。こっちが必死になって走り回ってるのに向こうは余裕の笑みだ。針の穴を通すみたいなコントロールは素直に尊敬するが、こういうところはやなやつだと思う。
ラリーを続けて、一定のリズムでボールがコートを行き来する。スピードは相当なものだろうという自負がある。なんせ俺も限界ギリギリで息が切れるし驚くほど集中力が要る。ここまで付き合えたんなら並の部員の中では優秀な方なんじゃないかとさえ思った。
激しいやり合いの最中に、いよいよ勝負を決めにきた、その瞬間を目の当たりにした。
右手で持っていたラケットを左手に持ち替えたのだ。
悔しいことに、この生意気な一年生は左が利き手なのに右手でプレーをして、多少は付き合えても所詮は並の部員を弄んでいたのである。しかもさらに悔しいことに、一矢報いてやりたいと息巻いたところで、毎度の如く左手になった途端にポイント取られてしまう。
惚れ惚れするほどきれいなフォームで、さっきより鋭くなって足元を抜かれた。俺の一挙一動を知り尽くしているんじゃないかと思うほど完璧な一球。
まるでスナイパーだ。
そんな陳腐な表現しかできない自分が情けないものの、あいつがすごいのは間違いじゃない。
「まだまだだね」
息が切れたまま肩を落とす。
そう言って、越前リョーマは俺に笑いかけた。
*
「お前、俺のこと嫌いなの?」
宮瀬悠介の問いかけに、傾けていた缶ジュースを戻して越前リョーマは驚いた。
どうしてそんな質問をされたのかが理解できない。彼にしてみれば、いつも通りに練習をして、いい汗をかいた程度の感想だったのに、彼はそうではなかったのか。傷つきこそしないが心底不思議そうな顔で座り込む彼を眺め、逆に問いかける。
「どうしたんすか? いきなり」
「俺を先輩だと思ってる?」
「思ってますよ。俺なりに慕ってるつもりですけど」
「俺の心のケアとか、考えることないだろ」
一体何を言われているのかと考えていたら、その一言でああと納得する。
練習試合のことを言っているのだ。
日頃からリョーマは悠介とシングルスの試合をすることが多い。連戦連勝、むしろ負けたことなど一度もない。リョーマは誇るつもりこそなかったが、可能性すら感じられずに負け続けている悠介は積もり積もった感情が大きかったようだ。
理由を察してリョーマは冷静にジュースを口にする。
考えてみればそのジュースもいつものように悠介に奢ってもらったものだ。試合の勝敗で賭けたわけではなく、彼が先輩だから、という理由だとリョーマは理解している。習慣になってずいぶん経つもので、もちろんお礼は言うがそれも気にしているのかもしれない。
「考えませんよ。勝負は勝負、でしょ?」
「そりゃそうだけど」
「俺が手ェ抜いて勝っても嬉しくないでしょ?」
「そりゃそうだ」
「だからっすよ」
「ほんっとに可愛げのねぇ」
素っ気ない対応に呆れる悠介は嘆息した。しかしいつも通りの態度であり、指摘するのも今更であって、そんな彼だから気にかけているという点もある。
気にするだけ無駄だろう。ふてくされるのをやめて、悠介は態度を変えた。
「まだ一回も勝ったことないなー……まあ、左手使わせるようになっただけマシか。俺も成長してるんだって思っとこう」
「先輩はうまいんだけどプレーがマジメ過ぎるんすよね。うちは変な人多いのに」
「それは俺も思うけど、お前も含めてうちを普通だと思うなよ。みんなバケモンなんだ」
切り替えは悪くないらしく、悠介の声はすぐに普段と同じ調子を取り戻す。
気難しく見られがちな越前とも親しい間柄であり、答える声も冷静さを崩さない。
「俺だって、入部当初はそれなりに自信あったんだ。小学生の頃も結構評価が高い方だったし、中学でも活躍するつもりだった。だから青学に……天才とは呼ばれてなかったけどな」
「うまいと思いますよ、先輩は」
「お前に言われてどう答えりゃいいんだよ……」
「ありがとうでいいんじゃないっすか?」
「ありがとう」
「いいえ」
やれやれと言いたげにまた深く息を吐き出して、悠介は壁に背を預けて足を伸ばす。
すでに部活は終了し、片付けも済んで、いつ帰宅してもいいという状況だ。負けが続いて気落ちしているらしい彼はいつも以上に足が重く、立ち上がろうとさえせずにだらしない姿勢を保ち、帰ろうという様子を見せずに座り込んでいる。リョーマは仕方なく彼に付き合っているだけだった。
ジュースを奢ってもらったとはいえ、そろそろ帰ればいいのに。そう思いながらも敢えて言わずに黙っている。
気にしているのも確かだが、いつからか普段から二人で行動することが多く、悠介と話すことに戸惑いや緊張はない。何をするでもなく缶ジュース片手に駄弁っている状況は珍しくもなかった。
挨拶をして帰っていく生徒も多い中、二人はだらだら喋って一向に立ち上がろうとしない。
部室のすぐ傍に居たせいか、当然姿を目撃される。
帰り支度を済ませて出てきた桃城武は二人を見てにやりと笑った。
真っ直ぐ帰ろうかとも考えていたのだが思わず足を止めて声をかける。珍しくもない組み合わせとはいえなんとなく気になるのも確かだった。
「お前らずっとくっついてんな。で、越前に負けてへこんでんのか?」
「うるせーやい」
「そんなに落ち込むなよ。いつものことだろ」
「あ、余計に傷つく一言」
「おっ、そうか。わりぃわりぃ」
からからと笑って言ってやれば、悠介はむすっとした顔でそっぽを向いてしまう。良い反応だとその態度を見た桃城は上機嫌そうだ。
同学年で同じクラス。ついでに同じ部活に所属している。一年生の頃から親しくしていて、からかうとその顔をして、かといって心底傷ついているわけでもない。相変わらずだと笑うのである。
今は良い相方が居るようで、意外だが面白い組み合わせだった。
「お前だってレギュラー圏内なんだからよ、あともうちょっと頑張りゃ目指せるんだぞ。だからそう腐んなって」
「そのもうちょっとがどんだけ遠いか、レギュラーのお前はわかってないんだって……」
「教えてやろうか、ダンクスマッシュ。俺とダブルス組んでダンクコンビなんかどうだ?」
「できないっての。そもそもパワーが違うんだから。自分の馬鹿力忘れんなよ」
ジト目で見られてからからと笑うのだが、はたと気付いた桃城は、不意に笑みを消すとすかさず思考を巡らせた。
冗談のつもりで言ったとはいえ、ひょっとしたら。革新的なアイデアを思いつく。
上手くいくかはわからない。だがただ単に見てみたい、と強く思った。
「そうだ。お前ら、ダブルスやってみたらどうだ?」
「は?」
当然と言えば当然だろう。即座に悠介が怪訝な顔をした。
その反応は予想通り。もし自分が同じことを言われても同じ反応をする自信がある。
それは、以前に身に覚えがあったからに他ならない。
「いやいや、無理に決まってるだろ。だってお前」
「わかってるって。俺と組んだ時のことだろ? 確かにあの時はどうにもならなかったが、お前がやったら話は別かと思ってよ」
「ないない。ただのダブルスならともかく、俺にはみんなみたいなとんでも技はないし、何より組む相手が――」
「俺はいいっすよ」
言い終える前に悠介が硬直し、驚きを見せた桃城はにんまりと笑む。
視線は当然、発言した本人へ向けられた。
平然と、なんでもないことのように言ったリョーマは、沈黙した状況を不思議にも思わずに再度言い切る。
「やってみます? 俺と、ダブルス」
リョーマが悠介を見て呟くと、逃げるように視線を逸らされ、ふと空を見上げた。
「明日……雷かな」
「ぷぷっ。ああ、もしくは地震かもな」
「ほんっと失礼っすよね、この人たち」
放心している悠介と楽しげな桃城に、リョーマは棘のある声で呟いた。
その後で、佇まいを正して、空気を変えようと些か真剣に桃城が発言する。
「真面目な話、宮瀬はシングルスよりダブルスで評価されてるだろ。うちじゃ誰と組んでも上手くやれるのは大石先輩かお前くらいしか居ないんだし、そっちに集中したらどうだ?」
「それはまぁ、考えたことはあるけど……」
「確かにうちは層が厚いかもしんねぇが、あとはお前のやる気次第だ。三年生が引退するまで待つなんてつまんねーよなあ、つまんねーよ」
図星を突かれた。耳が痛い。
入部当初、共にレギュラーを取ろうとやる気を見せていた悠介は、先に桃城だけがレギュラーになったのを素直に祝福した。しかし自責の念に駆られてもいて、諦めている一面も否定できない。
いつかは。そう思っていても時間は限られている。
三年生の引退まで待ってレギュラーになるのは、果たして、本当に自分がやりたかったテニスなのかと考える瞬間は多かった。
ぐうの音も出ずに閉口してしまった悠介は思わずリョーマの顔を見る。気付いた彼も首を動かして正面から見つめ返された。
確かに心は動いていた。しかし見つめ合った途端、猛烈な不安に襲われる。
悠介は思わず桃城に言った。
「それはそうだけど、なんで越前?」
「面白そうだろ」
「お前はほんとに悪い奴だよ……」
「それ、俺にまでダメージありません?」
中学一年生にして天才的な実力と実戦に対する度胸を持ち合わせる越前リョーマに、決してダブルスをやらせてはいけない。不可能だからだ。
青学テニス部では決まりごとのように語られ、約束されていた。
原因は地区大会、桃城とのコンビで見せたダブルスとは呼べない唯我独尊のプレイ。あんなにできないならシングルスに固定した方がいいと誰もが口を揃える。
せっかくやる気になったのに。そう思う悠介は頭を抱えてため息をつき、見るからに失礼な態度を隣で見たリョーマはジト目を向けている。
けらけら笑う桃城だったが、半分は本気、半分は冗談。発破をかけられればいい程度の軽い気持ちで発言していたようだ。
その気になったのは当人たちより、むしろ話を聞いていた他の部員だ。
突然ずいっと影が差して、覗き込まれたことに気付くと三人は同時に表情を変える。
太陽が沈みかけているせいか。分厚い眼鏡がきらりと光った気がした。
「面白そうだな。明日、早速試してみるか」
「い、乾先輩……聞いてましたか」
「ああ。ばっちりと」
にこりと笑う乾貞治が立ちはだかっていた。
様々な部員が居るものの、少なくとも悠介にとって、彼ほど怖い先輩は居ない。
怒っている姿など一度として見たことがなく、面倒見が良くて、常に穏やかな話口調で理路整然と語る人物だ。部員の大半から尊敬されており、下級生から声をかけられることも多い。しかしその一方で恐れられている一面もある。主に怪しげなドリンクを作る点などだ。
乾がやると言えばおそらく実行されるだろう。頭脳明晰で信用されているだけでなく、様々な選手のデータ収集に燃える彼が黙って見過ごすはずがない。
げんなりする悠介に対し、気を取り直した桃城は再び笑みを浮かべた。
「宮瀬のダブルスの可能性は慎重に考慮する予定だったが、越前をパートナーにするのは考えもしなかったな。良いデータが取れそうだ」
「先輩、今までのデータだけで無理だってわかってるんじゃないですか? 一旦冷静になって考えてください。相手はあの越前ですよ」
「そんなに言われます? 俺」
「物は試しだ。やってみれば案外ハマるかもしれない」
秘蔵のノートを開き、これまで集めたデータを見ながら、ぶつぶつ言い始めた。
最も怖い時の乾だ。データが関わると人が変わる。プレーだけでなく全てを見透かされるような気がするのはレギュラー経験のない悠介であっても同じだった。
「じゃ、早速明日だな。楽しみにしてるぜ。逃げんなよ宮瀬」
「ふむ。軽い練習を用意しておくか。その後は試合だな」
意気揚々といった様子の桃城と乾を見て、悠介は大きく肩を落とした。
ちらりとリョーマの表情を窺う。
彼は普段と変わらず、何を考えているのかわからないクールな無表情だ。
「先輩。逃げないでくださいよ」
それなりに付き合いがあるせいか、ついわかってしまった。
どうやら怒らせてしまったようだ。
負けず嫌いが本気になった時、どうなるか。同じ部活に居て痛いほど身に沁みている。
逃げられるわけがないだろうと、悠介には気まずげに顔を逸らすことしかできなかった。