気付けばすっかり空の色が変わっていた。
辺りの風景が茜色に染まって、生徒の多くもすでに帰路へついている。
あれだけ集まっていた生徒もすっかり居なくなってしまって、耳が痛くなる喧騒はどこへやら。校内はずいぶん静かになっていた。
一年生が片付けとコートの整備をしている。談笑が聞こえてきて、決して大きな声ではないのに和気あいあいとした雰囲気が伝わってきた。
どこか和やかな風景に心を癒される。
テニスコートを眺めながら、校舎の壁に体重を預けて、だらしない姿勢で座る悠介は大きく息を吸い込んだ後、苦しくなるまで吐き切った。
すでに制服に着替えた後。いつでも帰ることはできる。しかし体の疲労と、なんとなく動きたくない気分だという理由で、いまだに家へ帰らずにいる。
あれだけ晴れやかだった気分も、試合が終わってしまえば夢か幻のように消えてしまった。
「あんだけやって全敗だもんなー……なんだかなあ」
隣に座っていたリョーマがちらりと悠介の顔を見た。
激しい試合をしたからと、一年生でありながら片付けを免除された彼もすでに制服に着替えて帰り支度を済ませている。それなのに帰らないのは悠介がこんな調子だからだ。
いつものように買ってもらった缶ジュースに口をつけながら、冷静に呟いた。
「初めてにしてはよくやった方でしょ。部長も褒めてましたよ」
「んー、でもなー……試合とか久々だったし、勝ちたかったなー」
「俺は公式戦出てましたけどね」
「……んっ? 自慢?」
「まさか。そんなつもりないっす」
平然とするリョーマに噛みつくのもそこそこに、悠介はまたため息をつく。
体のどこにも力が入らず、みっともないほど四肢が脱力していた。
「にしても疲れた……お前よく大会とか出られたな」
「まあ、慣れっすよ。客とかあんまり気にならないし」
「どっちみち俺は無理そうだなー。緊張するし、我に返るとわけわかんないし。みんなああいう環境でやってんだもんなー……」
「緊張してました? いつも通りだったっすけど」
「してたよ。でもなんかもう、あんまり覚えてないなあ、さっきのこと……」
ぐったりした悠介は本人が言う通り、疲れた顔で眠そうにしている。
本人が言うところによれば、個人練習で体力作りを継続しており、本来乾が海堂のために渡す予定だったメニューを毎日こなしているのだという。海堂はそのメニューを2倍にして取り組んでいるらしいので桁違いだが、それでも悠介だってスタミナがある方だと言われていた。
確かに、彼がぐったりしている姿はあまり見たことがない。
ここまで疲れた顔をしているのは、本人が言う通り緊張が大きかったからかもしれない。
考えてみれば悠介は部内でもずいぶん忙しい立場だ。
マネージャーが居ない代わりに雑務をこなして、一年生の世話をして、三年生のお守りをして、二年生を適当にあしらって、自分の練習もして、部活が終われば個人練習をする。
何気なく傍に居たものの、よくよく考えればすごい人なのだなと、リョーマは気付いた。
「先輩はすごいっすね」
「ん? 何、急に」
「素直に褒めようかと思って」
「あー……じゃあもうちょっと褒めてくれない?」
「いや」
「あれ?」
それはそれとして扱い方は普段と変えずに淡々と言い切る。
よっぽど疲れているのか、ため息混じりの悠介もしつこく食い下がろうとはしない。
「そもそも、なんであんなに試合したんだっけ? ダブルスの練習とか言ってたのに」
「先輩のためっすよ」
「俺?」
「メンタル激ヨワだからみんなで元気付けたんでしょ、あれは」
「あ、なんかいじめの予感。変なあだ名つけないでくれる?」
「メンタル激ヨワ先輩っすか」
「お前敬う気ないよね? ねぇ?」
睨みつけてくる悠介をさらりと無視してリョーマは顔を逸らす。
普段であれば頬でもつねって折檻してやるところだが、あいにく腕を上げるのも億劫だ。今回ばかりは見逃してやることにして悠介は寝そべる。
「そういえば俺、タイブレークって多分初めてだ」
「え? マジっすか?」
うん、と恥じることもなく頷いた。
驚きを隠せないリョーマは悠介の顔を見つめており、視線に気付いて、そんなに変なことだろうかと心配になりながら説明する。
「まあ、試合経験自体少ないし、ランキング戦とか練習試合くらいしかないから。勝つのも負けるのもそこまで長引いたことなくてさ」
「へぇ……初めて聞いた」
「別にかっこいい話でもないから、わざわざ言う必要もないんだけど」
「じゃあ今日は得る物多かったんじゃないすか?」
からかうわけではない。意外にも真面目に問われてううんと唸った。
「そうなのかな……でも、終わってみれば楽しかったよ。疲れたけど、やってよかった」
「俺も、楽しかった」
「試合って楽しいな。久々だからちょっと忘れてた」
「データは取られたでしょうけどね」
「あー、乾先輩……勝ったことよりデータの方が嬉しそうだったもんなあ。俺もしばらくああいうプレーしてなかったし、色々思い出させたかも」
「部室から出てこないっすからね……」
二人してげんなりした顔で部室を眺める。
きっと今頃は乾が凄まじい勢いでノートに収集したデータを書き込んでいることだろう。試合直後にフフフと笑う怪しげな姿は見慣れていても恐ろしかった。
そういえば他の先輩も留まっている様子だが、何をしているのか。
部室を気にした後、ふとリョーマは悠介の発言を気にした。
しばらくああいうプレーをしてなかった。
確かにそうだ。悠介があそこまでアグレッシブな攻めをするのも、青学レギュラーの技を次々に使い分けてペースを掴もうとするのも、一年生は今日になって初めて知った。おかげで片付けに従事しながらも彼らの話題は宮瀬先輩で持ちきりだ。
「なんでプレースタイル変えたんすか?」
「うん?」
いつの間にかすっかり仰向けに寝転んで、組んだ腕に後頭部を預けている。悠介はリョーマの視線を受けて気まずそうにして、珍しく言い淀む。
なんとなく察しているのにこの期に及んで隠すつもりなのか。
リョーマはなんとしても聞き出す覚悟だったが、幸い、そうした意思が悟られたのかもしれず、強引に詰め寄る前に、大きなため息の後にぽつりと呟かれた。
「多分、お前のプレーを見たからじゃないかな。自信なんか粉々に砕かれたよ。俺の目指したとこにはすでにお前が居たんだって気付いた」
「ランキング戦っすか」
「そうだな。海堂戦で衝撃を受けて、その後は乾先輩だもんな。俺は必要ないって思った。お前をもっと成長させればな」
そうした本音を初めて聞いた。本人が言っていた、社交的じゃないから心配だ、というのも嘘をついたわけではないだろう。気にかける理由の一つではあったはずだ。しかしそれ以上に自分の目標を達成している人間を見つけて、たとえ後輩でも、こいつしか居ないと信じたのである。
青学が全国制覇するためには、越前リョーマが居ればいい。
誰にも言わずに勝手にそう信じて、そのために傍で支えてやろうと決意した。ジュースを奢るのはたかられているからでもあるのだが、やたらと気にかけたのは青学テニス部全体のためだ。
「事実、お前は大会でも結果を出して、重要な勝負を勝って決めた。お前のおかげで青学が勝ち進んだのは間違いない。だから俺は、多分間違ってなかったんだろうって思ってる」
「メンタル激ヨワっすからね……」
「それやめろ。定着させんな」
ふーっと息を吐いて、上体を起こした悠介がリョーマの顔を覗き込む。
穏やかに微笑んでいて、いつもそうするように優しい顔をしていた。
「今日のダブルスは意外によくできたし楽しかったけど、俺は今でも、お前はシングルスに専念した方がいいと思ってるよ。大会で結果も出してるしさ」
「まあ……」
「部長に言われたんだろ? 青学の柱になれって」
言葉に詰まったリョーマは気まずそうな顔をする。
手塚とのやり取りを知っている相手は少ない。その場に居た手塚と大石を除けば、おそらく目の前に居る悠介だけだ。意識的に話したのは彼しか居ない。
片付けの済んだきれいなコートへ視線を移して、悠介は静かに言った。
「俺もそうした方がいいと思う。お前になら任せられるからさ」
「……勝手っすよ、そんなの」
憤りを滲ませる声を聞いて目を向けると、リョーマは真っ直ぐ悠介を見ていた。
「まだ一回も勝ってないでしょ? 俺は諦めてないんで」
それは、すでに決意した声だった。
誰が何と言おうとやる。そうした強い意思を感じる。その相手があれこれと理由をつけてかっこつけようとするメンタル激ヨワ男ならば尚更、自分が引くつもりはない。
呆気にとられた悠介は困ったように苦笑した。
以前から知っていたはずだ。彼は強い。それは何もテニスだけではなかった。
きっと言っても意見を曲げないだろうということまで知っていて、主張のぶつけ合いで勝てるとは思っていない。だからメンタルが、と言われるのかもしれないと不意に気付きながら、仕方なく悠介は道を譲るように承諾する。
「ハァ、わかったよ……とりあえず一勝。お前に渡すまでは頑張る」
「その後は?」
「その後はまあ、どうなるかわからないけど、やめたりはしない」
「まだまだだね」
やれやれと言いたげに呟いたリョーマにむっとするが、悠介は嘆息して何も言わない。
ちょうど、部室からレギュラー陣が出てきたのが見えた。
近付いてくるのを察して笑顔で迎える。
「ユースケとおチビお疲れ~!」
「やっぱ帰ってなかったのかお前ら」
「お疲れ様です。流石にもう、疲れちゃって」
いの一番に駆けてきた菊丸と桃城を最初に迎えて、当然とばかりに続々と集まってくる。
ぬっと顔を出した乾が悠介に言った。
「宮瀬。明日も練習試合やるからそのつもりで」
「は? ちょ、なんか今、さらっと死刑宣告みたいなことを……」
「心配しなくていいよ。今日ほど長くないから。手塚の意向もあったから最後は1セットマッチにしたけどもう少し色んなパターンを試してみたいんだ。明日は2ゲーム先取で、次々パートナーを変えてみよう。ついでにレギュラー陣のダブルスパターンも考えられる」
「ちなみに拒否権とかは……?」
「もちろんあるよ。でも、そうだな、その練習試合ができないとなると……ちょうど新しい栄養ドリンクができたから試しにそれを――」
「やります! 試合やらせてください! うわぁい嬉しいなぁ!」
わーいと大声を発して悠介が両手を上げた。乾は満足そうに微笑む。
一方、周囲に集まったレギュラー陣は怯えた表情に変わり、憐れみの目を向ける。拒否権はあるが拒否すれば卒倒するだけだ。事実上ないに等しい。
喜んで見せた後に悠介は肩を落とし、重々しくため息をついた。それも当然だろうと“新しい栄養ドリンク”の存在を知らされた一同は同情している。
その反応は予想通りだった。部員の様々なデータを収集している乾にわからないことはない。
そうなれば当然、弱気な悠介をその気にさせることだって簡単だった。
「不二とも組めるぞ」
「えっ」
悠介が明らかにぐらついた。乾の栄養ドリンクより強い影響力で表情が変わる。
期待する様子で不二をちらりと見れば、にこりと微笑んだ彼が頷いた。
「うん。悠介と組めるなんて久しぶりだね。嬉しいな。明日はよろしくね」
「あ、い、いえ、こちらこそ。俺も嬉しいです」
これが本当に、隠し切れないくらい心底嬉しそうなのだから、明らかな表情の変化を見た部員たちが呆れるのも当然だった。
宮瀬を釣るには不二を餌にすればいい。青学テニス部にまつわる定説だ。
あっという間に釣られた悠介は動けそうにないくらいの疲労も忘れてガッツポーズを作り、相変わらずの態度に不二は微笑ましそうに見ていた。
他の部員には白い目で見られている。
(また釣られてんなあ、また釣られてるよ)
(すっげーちょろい。おチビ嫉妬すんじゃないの?)
(アホだ……)
(データ通りだな)
(よかった。相変わらず宮瀬は不二が好きなんだな)
そんな姿を優しく見守っているのは河村だけである。
何も言わないが悠介の個性的な部分として、こいつはヤバい、と誰しもが思う点だ。
隣に座るリョーマも明らかに白い目をしており、どこが普通だ、という気持ちがより強くなる。
「そうだ。越前はいつも通りの練習でいいぞ」
「え? なんでっすか?」
乾が告げるとリョーマは不思議そうにする。質問すると乾はノートを開きながら答えた。
「お前たちのダブルスについては大体わかった。意外と物になりそうだと思ったし、まずは他の可能性について探っていきたい。レギュラー陣と宮瀬を組ませて相性を確かめたくてな」
「えっ、ちょっ――」
「まー越前はバリバリのシングルスって感じっスからね」
「そーそー。ユースケはダブルス専門にした方が良さそうな感じだし」
「もう手ェ抜くんじゃねぇぞ」
「今日の試合を見てたら大丈夫そうだな。よろしく、宮瀬」
「そういうわけだから、明日はいつも通りシングルスに戻ってくれ」
呆然とするリョーマは口を挟む余地も見出せず、大きな衝撃を受けて固まる。
なんて言えばいいのか。
ちらりと悠介の顔を見ると、視線に気付いた彼だが、なぜか照れた様子で嬉しそうに笑う。
「いや、俺はほら、さっき言ったのもあるし……不二先輩と組めるからさ」
妙にイラッとした。
いつも彼にされるように、片手で顎の辺りをガッと掴んで、頬をぐにっとしてやった。
普段から生意気な態度とはいえ、そんな行動は珍しい。
呆気にとられる一同に振り返って、リョーマはいくらか怒りを感じさせながら呟く。
「俺もやります……ダブルス」
「ん、まあ慣れてきたところだろうし、データにはなるけど……」
「乾~、これは素直にやらせた方がいいんじゃない? 後が怖いよ?」
その細腕のどこにそれほどのパワーがあったのか、掴まれた悠介がぎゃあと叫び、逃れようともがいているのだが逃げられない。
これは確かに受け入れた方が良さそうだ。
それはそれで悪くない。乾が承諾するのは早かった。
「そうだな。それじゃあ越前もダブルスに加わってもらおう。宮瀬もいいな?」
「痛い痛い!? もげるもげる!?」
「良さそうだ」
「宮瀬、今のはお前が悪いわ。しょうがねーよなあ、しょうがねーよ」
ぎゃあぎゃあと途端に騒がしくなった集団を少し離れた位置から眺めて、大石は感じ入る様子で頬を緩ませて、手塚はいつものクールな無表情だった。
一時はどうなることかと思ったが、結果は将来的な期待を持てるもの。
予想外に長い試合になったのも、公式戦にも劣らない熱量も、決して無駄ではない。
満足のいく結末に大石がふーっと息を吐いた。
「やっとその気になったみたいだな。桃城と海堂がレギュラーを取って、それから越前が入学早々頭角を現してきたからな。仕方ない部分もあると思うけど」
「シングルスで能力を測るランキング戦では、ああいうタイプが振り落とされることもある」
「そりゃ、個性的なシングルスプレイヤーばかり揃うわけだ」
大石は仕方なさそうに苦笑して言ったが、耳が痛い一言だ。
腕を組んで目を伏せた手塚は静かに思案する。
レギュラーを決定するランキング戦は個人が必ずシングルスで勝敗を競う。シングルスに適性がある強い者が残るのは当然であり、大石や菊丸のようなダブルスを得意とする者が勝つのは稀。こうした方針で
悠介とリョーマがシングルスで戦えば、本来のスタイルに戻っても間違いなくリョーマが勝つ。彼らを知るレギュラー陣は誰しもが自信を持ってそう考えていた。
その一方、シングルスを専門とするリョーマをダブルスに起用するには、パートナーを悠介にする必要があって、他の誰かでは務まるはずがないとも考えられている。
目指すは全国制覇。
すでに関東大会を優勝して制覇したが、苦戦はあった。
改革が必要な時かもしれない。手塚はそう考える。
共に戦ってきた仲間たちを信頼している。しかしその反面、埋もれたままの逸材を放置しておいていいのかという葛藤もあった。
敗北したとはいえ、宮瀬悠介は力を見せた。まだ強くなる兆しも見せている。現時点での実力が全てなのではない。
何より大石と菊丸がいつになく嬉しそうで、新たなダブルスプレイヤーの台頭に危機感を覚えるどころか素直に喜んでいるのが印象的だった。
「一度、考えてみる必要があるな。青学のためになる別の方法があるのか否か」
「そうだな。俺たちの代じゃ間に合わなくても、あいつらが居るなら」
「ああ……」
変革の時が来たのかもしれないと思案する。しかし騒がしい一同を眺めながらというのは些か無理があるらしい。
今日のリョーマはいつになくキレているらしく、いつの間にか悠介の額を掴むアイアンクローに変わっている。
「ちなみに越前、宮瀬と不二が組んだダブルスは全戦全勝だ。不二と組んだ時はやけにやる気が漲るらしくてな。手塚と大石のペアにも勝っている」
「へえ~……」
「もげちゃうもげちゃう!? あっ! 俺ちょっとヤバいかもしれない!?」
「お、おい、ちょい待て越前。そろそろ許してやれって。こいつも悪気はなかったんだ、な?」
「うんうん、嘘じゃないよ。ただ不二のことになると目の色が変わるだけだから」
信頼はしている。が、聞こえてくる会話に一抹の不安を覚えないでもない。
「ついでに言えば、不二がダブルスを提案した時は即決で承諾しているな。宮瀬曰く“手塚部長と真田さんが相手でも負ける気がしない”そうだ。おっと、越前の時は言わなかったな?」
「ぎゃああああっ!?」
「どうどう越前! い、乾先輩も余計なこと言わないで!?」
「ふふふ。可愛い後輩じゃないか」
「あはは……不二にとってはね」
そうしたやり取りを見ていると、果たして本当に大丈夫だろうかと思わないでもなかった。
手塚は眉間の皺を深くして悩んでしまい、大石は力なく苦笑する。
今日の部活は終わってしまった。明日はレギュラー陣全員でグラウンド100周してから練習を始めようと決意して、手塚は大石と共にようやく彼らの下へ歩み寄っていった。