部長の手塚と、副部長の大石を前にした、男子テニス部顧問の竜崎スミレは、毅然とした態度で二人に視線を送っていた。
どうやら迷いはないらしい。決断は彼女ではなく彼らがした。
面白いことを考えたな、と認める一方では、彼らの提案は賭けのようにも感じられる。今一度覚悟を問う必要があった。
「本当にいいんだね?」
「はい」
「もう決めたことですから」
「あたしは悪いとは思わないさ。むしろ面白い提案だと思うし、あんたたちの口からそう言ってくれることを嬉しく思う。だが、三年生を無下に扱ったとは思われないかい?」
スミレの発言は責任ある二人を案じてのものだったのだろう。正直な意見を聞きたがっていて、本当にそれでいいのかを問うている。
それでも構わない。大石がにこりと笑って答えた。
「あいつらはそんな風に受け取りませんよ」
「俺たちは全国制覇を目指しています。今もその気持ちは変わりません。ただ、そのために三年生に残された時間は少ない。成長を望むのなら後輩たちに任せた方がいい」
「ふむ……確かにそれは来年の青学テニス部にとっても有り難い話だけどね」
思案するスミレは三年生を気遣っているらしい。
その心配はいらない。そう言って手塚と大石は自信を窺わせていた。
「それにリーダーじゃなくてもチームのメンバーとして参加することはできるでしょう?」
「まあね。スカウトされれば、だけど」
「あはは……仮にスカウトされなくても部活はできますし」
「あいつらに賭けてみたいんです。全国へ行く前に、今後の青学のために」
手塚の強い意志を聞いて、スミレは苦笑してやれやれと呟いた。
「仕方ないね。そこまで言われて認めないわけにはいかないよ。それで行こう」
「ありがとうございます」
「そうと決まればあいつらを呼んできておくれ。あたしから話すよ」
「わかりました」
スミレが認めると、手塚の表情は普段と変わらなかったものの、彼を見る大石は嬉しそうに微笑んでいて、よほど期待しているのだろうと察することができる。
後輩想いなのか、或いは新たなレベルへ達する予感がして喜んでいるのか。
その両方かもしれないと思い、スミレは微笑んでいた。
「あ、そうだ。手塚、あれも言っておかないと」
「ああ、そうだな」
「まだ何かあるのかい?」
踵を返そうとした寸前で大石が何かに気付いたようだった。
言われて手塚が再びスミレに向き直る。
「いくつか条件をつけてやってほしいんです」
「ほう。それはまた、あいつらに枷でもつけるつもりかい?」
「はい。何もかも自由にさせるより、あいつらが伸びると思うんです」
それはそうだと認めて、スミレは考えもせずに承諾した。
*
乾が打ったボールを待ち構え、力を込めて強力に打ち返した。
河村の一打は大きな音を立ててコートの向こう側に落ち、球出しをしている乾は納得した様子でその軌道を見送る。
「グレイトー! 絶好調だぜ!」
「さっすがタカさん、パワフル~」
それから少し遅れて、隣のコートで悠介がボールを打ってコートの向こうへ返す。
プレーに問題はなかった。しばしの無言。
思わず振り向いた悠介は海堂を見る。
打ち返す様を見ていたはずだが、何も言ってこなかった。
「ああいう声掛けとかないの?」
「うるせぇ。必要ねぇだろ」
「ほんっとにこの子は口が悪いし愛想も悪い」
「どけ」
素っ気ない海堂に友好を求めるも、あえなく撃沈する。
一年以上付き合ってこんなものかと悠介が嘆息する頃に、テニスコートへ入ってきた二年生の荒井が大きな声で呼んできた。
「宮瀬ー! 越前! ちょっと来てくれ!」
何事かと思って乾に視線を送り、頷いたのを確認してから向かう。
リョーマも共にやってきて荒井の前に立った。
「どうした荒井。トラブルか?」
「お前はなんで俺を見たら必ずそう言うんだよ。もう何もしてねぇぞ」
「前科があるからなぁ。越前、ほら、こいつが荒井」
「あぁ……」
「ちょっ、おまっ、忘れてんのか!? あんなことがあったのに!」
驚愕する荒井だったがリョーマは見るからに興味がなさそうな顔をしている。以前、他の二年生も加えて彼らの間に諍いがあったのだがすっかり忘れているらしい。
リョーマは元々他者に対する関心がない。他人の名前と顔を覚えるのも苦手だった。
それにしたって覚えているだろうと絶望する荒井を気遣い、悠介が顔を寄せてこっそり囁く。
「ほら、お前のラケット隠して、お前にボロボロのラケット使わせて試合したけどズタボロにされて大負けした器がちっちぇ先輩」
「あーはいはい。あの荒井先輩」
「いいよ説明しなくて! つーかお前の表現ひどいな!? 俺は謝って反省したんだよ!」
荒井は数ヶ月前の自分を恥じる様子で、掻き消そうとするかのように大声を出した。
なんて良い反応をするのだろう。
こういう反応が欲しかったのだと振り返って海堂を確認してみれば、悠介がそうするだろうと察していた彼があらかじめ厳しく睨んでおり、視線が合って苦笑する。友好的に軽く手を振ってみると海堂はそっぽを向いてしまった。
呼ばれた理由を荒井に聞いたのはその後だった。
別に大した用事でもないのだろうと興味を見せない二人を前にして、どこか普段と違った態度の彼は急いでいたようだ。
「で、何の用? 早く戻らないとデータが取れないから乾先輩に怒られるんだぞ」
「それがよ、お前らを呼んでる奴が校門で待ってるんだ。来てほしいってよ」
「校門で? うちの生徒……ならここまで来るよな。他校の人?」
「ああ。しかも、その、なんだ……」
何かを言おうとして荒井は言い淀んだ。言っていいのかという躊躇いが感じられ、なぜそう思うのかはわからないが困惑しているのは間違いない。
なんとなく不安を覚える状況である。悠介とリョーマは不思議そうに互いを見合った。
「とにかく行ってみてくれ。ここまで来ないのはつまり、騒ぎになるからで、お前らが行かねぇと話は進まないんだろうからな」
「うーん。よくわからないけど行ってみるか」
「そっすね」
二人が了承しても荒井の表情は晴れなかった。
ラケットをコートの隅へ置いて、悠介が了解を得ようと乾に声をかける。
「乾先輩。俺たち呼ばれてるらしいんでちょっと行ってきます」
「ああ。早く帰ってこいよ」
我が子の心配をする親のような言葉を受け取って出発する。
校門まで呼び出されるなど初めての経験だ。これがリョーマ一人だけなら女生徒からの愛の告白かもしれないと思うのに、一緒に呼び出されてはそれも違うだろう。呼び出される理由がわからずに悠介はあれこれ考えを巡らせる。
「他校の人からの呼び出し……誰だろ? しかもなんで俺たち二人?」
「さあ。なんか悪いことしました?」
「いや、してない、と思う……」
「万引きとかしてませんよね」
「してたらお前が気付くだろ。最近ずっと一緒に帰ってるし。っていうかお前が捕まえろ」
「俺だって四六時中先輩を見てるわけじゃないんで、速く取られたらわかんないじゃないすか」
「そもそもさあ、取るはずないってなんで思えないわけ? お前は」
「痛いっす」
感情の赴くままにほっぺたをぎゅっと摘んでやりながら、理由が気になって足取りは速く、校門に到着するまでさほど時間はかからなかった。
学校の敷地内にそれらしき人物は見当たらない。居るとしたら外だ。
さあ誰だ。どこからでも来い。
二人はそんな気合いを入れて校門の外へ出る。
探していた人物はすぐに見つかった。
他校の制服を着て、彼らを待っていたのだろう、ぽつんと立っていたのをすぐに見つける。しかしその人物があまりに意外で、驚愕した悠介は硬直していた。
「こんにちは。初めまして、だよね?」
ふわりと柔らかく微笑むきれいな顔。細身の優男といった様相だが只者ではなくて、他人の顔と名前を覚えるのが苦手なリョーマでも、彼はどこか特別だと察する。
ひょっとしたら有名な人なのかもしれない。リョーマは隣に立つ悠介を見た。なぜか彼はいつにも増してアホ面を晒していて、口を開けたままわなわなと震えている。
「先輩? どうかしたんすか?」
「え、えええっと、あ、あなたは……」
「自己紹介からした方がいいかな。俺は幸村精市。一応、立海大附属中学校のテニス部部長をしてるんだ。よろしくね」
名前を聞いて悠介の肩がビクッと動いた。見るからに動揺して慌てふためいており、不二と対峙している時より挙動不審になっている。
彼がおかしいのは珍しいことではないと思っているリョーマだが、ここまでの反応と、何より立海大附属中学テニス部と聞いて何かに気付いた。
関東大会の決勝で戦った学校だ。あの厳しい激闘を忘れるはずがない。
「立海大附属って……あの帽子の人のとこですよね。へぇ、部長さんなんだ」
「アホだなお前はっ」
「アホじゃないっす」
いつもとまるで変わらない口調と声色で喋り出したリョーマに素早く反応し、がしっと両手で彼の頭を掴んで押さえる。果たしてその行動に意味があるのかは知らないが、リョーマは頭を掴まれた状態で悠介の顔を睨みつけた。
ぐぐぐと押し合う二人を前にして、幸村はにこにこして見守っている。
「多分わかってないだろうから言っとくけど、立海大附属の幸村さんって言ったら、正直日本中学テニス界で最強の男だ。一年の頃から誰も勝てないくらい強いんだぞ」
「テニス界最強?」
「俺のこと知ってくれてたんだ。ありがとう」
穏やかな声で幸村に声をかけられ、悠介は彼を見ると再び固まった。
本物だ。おそらく、多分、間違いなく、噂に聞いた本物の幸村が目の前に居る。
失礼があってはならないと慌てて身だしなみを整え、ぼけっとするリョーマの背筋を手で押さえて伸ばさせてやり、緊張した面持ちの悠介もきれいに直立する。
落ち着きのない悠介に呆れながら、リョーマはすぐに背を丸めた。
中学テニス界最強の男。悠介が緊張する理由は多分それだろう。
立海のことは覚えている。リョーマが戦った真田弦一郎は副部長の立場で、まるで侍。嫌に威圧感を感じさせる中学生には見えない男だった。
目の前に居る彼は、その真田と比べて、全く正反対の印象を受ける。
柔らかな笑顔。線の細い体。女性にも見えてしまう中性的な容姿。涼やかな声まで美しい。
力強さを感じる非常に男性的だった真田の方が部長に見えてしまうほど、良く言えば目を止めずにはいられない美青年だが、悪く言えば頼りなさそうな外見だ。
テニス界最強と聞いた時点で負けん気を見せるリョーマは緊張というより警戒している。
本当にこの男は強いのか。睨むわけでもなく、じっと幸村を見据えている。
「でもそれは前の話だよ。病気になってしまってね。青学との試合も出場できなかった」
「あ……聞きました。お体は大丈夫ですか?」
「うん。手術が上手くいったんだ。今はリハビリの段階だよ。完全復帰とはいかないけど、前に比べればずいぶん動ける」
少なくとも真田のように対峙しただけで怖いと思うような相手ではなかった。
それでも、機嫌良く話してにこりと笑いかけられるだけで、ガチガチになる悠介は気をつけをしたまま動けずにいる。ずいぶんな緊張だった。
「一人で外出するのも許されたし、少しずつだけど、リハビリがてらにテニスを再開したんだ。テニス界最強だなんて昔の話だよ」
「そ、そうなんですか。それでもすごいことですけどね……」
「今は、ただテニスができるだけで嬉しい。そんな感じかな。何もかも新鮮に感じてるよ」
緊張している一方、幸村に笑いかけられて悠介はずいぶん喜んでいる様子だった。
忙しい反応だな、と呆れつつ、ちっとも感動しないリョーマは冷静に尋ねる。
「で、俺たちに何の用っすか?」
「越前おバカっ!? 口の利き方に気をつけろ! 桃や海堂とは違うんだぞ!」
「いや、いいんだ。普段通りに話してくれればいい。その方が俺も有り難いから」
リョーマが退屈そうにしているのに気付いたのだろう。どうやら彼は自分のことを知らなかったようだということまで理解して、しかし気分を害したようには見えない。
早速本題に入った方が良さそうだ。
幸村は改めて二人を見やり、先程までと変わらない口調でさらりと告げる。
「早速だけどいいかな? 俺はね、君たちをスカウトに来たんだ」
「は?」
「スカウト?」
上ずった声を出した悠介にくすりと笑いつつ、幸村が頷く。
「関東ジュニアオープンテニスについては聞いてる?」
「あ、あぁ、はい。なんか、氷帝の先生が発案して開かれることになったって」
「そう。立海ももちろん参加する。そこで俺も、リーダーとして参加したいと思ってね。君たちにはうちのチームに加わってほしいんだ」
「……はぁっ!?」
堪らず悠介が大声を出した。帰宅しようとしていた生徒が驚いて大勢振り返っている。
今回ばかりはリョーマもまた驚愕している。見知らぬ相手から突然のスカウト。思い当たる理由が見つからなくて困惑する。
嘘や冗談を言っている様子はない。幸村は真剣に彼らを見ていた。
「俺自身はまだ満足なプレーができない。体力も戻ってないしね。だから、次の世代を担う有望な選手を集めて育ててみたいと思ったんだ。リーダーというより監督の立場かな」
「い、いや、越前はいいですけど、俺は別に……」
「数日前の噂を聞いたよ。越前君とダブルスを組んだそうだね」
口を開けたまま固まってしまった悠介は、笑みを深める幸村に真っ直ぐ見つめられている。
「ダブルスで手塚といい勝負をしたそうじゃないか」
「あ、あー……えー……」
「確かに君のことはこれまでよく知らなかった。ごめんね。だけどうちの柳がきちんとチェックしていたよ。ダブルスが得意で、不二周助の技を本人から受け継いだんだって」
意味もなくあわあわと口だけ動かして、混乱が極まって何も言えなくなってしまう。
動揺する悠介とリョーマを、幸村は決意を抱いて誘った。
「本人に会って決めたよ。今の君は自信がないかもしれない。俺は、君みたいな人をもっと強く育て上げてみたいんだ。一緒に来てくれないかな?」
おそらく、理解の範疇を超えたのだろう。
何かが切れるような、或いは小さな爆発か、確かに音を聞いた気がした。
目を回した悠介はひっくり返ってしまい、リョーマと幸村も反応が間に合わず、突然倒れた彼を見て校門前にちょっとした騒ぎが起こってしまった。