職員室へ行った手塚と大石が帰ってきたのを見て、テニス部員のほとんどが、噂の関東ジュニアオープンテニスに関する話題なのではないかと予想していた。
何を言われるのだろうと待ち切れない部員が多い中、現れた手塚は真っ先に言った。
「桃城、海堂、職員室へ行け。竜崎先生から話がある」
「バァさんが? あ、ってことは例の大会の? ……なんで俺と海堂だ?」
「詳細は職員室で聞け。それから宮瀬。宮瀬はどこへ行った?」
情報が少なくても察するものはある。部員たちのざわめきが大きくなった。
テニスコート全体が大きく動揺する中、報告しておいた方がいいだろうと思って荒井が手塚の傍まで駆け寄る。
「あの、部長……宮瀬と越前なんですけど」
「どうした荒井。何があった?」
「さっき、校門のとこで二人を呼んでる人が居たらしくて、俺は又聞きしたんで会いに行ったんですけど……」
言い淀む荒井を手塚が見つめて、助け舟を出すように大石が歩み寄ってくる。
「宮瀬と越前はその人のところに行ったのか?」
「はい……それで、その人が」
「荒井。言いたいことがあるならはっきり言ってみろ」
手塚に促されたことで決意し、荒井は思い切って発言する。
「その人、立海の幸村だったんです……多分」
「はああぁ~っ!? なんだそりゃ!」
咄嗟に大声を出したのが桃城だったが、他の部員も似たような反応だった。
慌てて桃城が駆け寄ってきて荒井に詰め寄る。彼は本人を見たはずだ。本物だとしたらあり得ないはずの事態が現実になっていることになる。
「確かなのか!? 立海の幸村は病気で入院してたって話だろ!」
「た、多分本物だ。本人も名乗ったし、本人にしか見えなかったから……」
「ってことは、宮瀬と越前……はあっ!? ど、どういうことっすか手塚部長!」
テニスコートの中で大騒ぎになっている。
普段であれば手塚が練習を続けるよう一喝するところだが、彼自身も驚いているのか、すぐに部員を落ち着かせることができなかった。
良からぬ予感がして冷や汗を掻く大石が小声で尋ねる。
「て、手塚……それってつまり」
「先手を打たれた、ということか」
「幸村が復帰したのか? ずいぶん早い……」
衝撃に見舞われる青学テニス部だったが、そこへ二年の女生徒が駆け込んでくる。
息を切らして走ってきた彼女は、部員たちの動揺にも負けないよう、大声を発した。応対したのは振り返った大石だった。
「あの! 男子テニス部さん!」
「あ、ああ。どうかしたのか?」
「さっき、校門で宮瀬君が倒れたんです!」
「はああぁ~!?」
またしても桃城が口火を切り、部員たちの絶叫が続く。
度重なる変化にテニス部はパニックに陥った。
*
目を開けてすぐ、どこかで見た覚えがある天井が目に入った。
気分はすっきりしていて少し混乱する。
どうして寝ているのだろう? ここはどこだ? 今何時?
疑問が次々に浮かんでくるが答えはわからないまま。白いシーツを敷かれた清潔なベッドに、仰向けで寝転がったまま必死に考える。
死んだわけではなさそうだ。必死に考えて出した結論がそれだった。
恐る恐る起きてみようとした時、シャッとカーテンが素早く開けられてビクッとする。しかし物音の向こうに居たのがリョーマだと視認して気付き、ほっとした。
「起きました?」
「お、おぉ……ここどこ? 保健室?」
「そうっすよ。先輩がパニック起こして気絶したんで、手伝ってもらって運んできました」
「そうなんだ。えーっと、ありがとう」
「どういたしまして」
ベッドの端に腰掛けたリョーマが見てくる。
悠介はまだ少し混乱しており、困惑しているのが見て取れた。
今更、呆れたところで見捨てるつもりなどないものの、リョーマはため息交じりに質問する。
「何があったか、覚えてます?」
「え? えー……覚えてない」
「でしょうね。簡単に言えば、先輩のメンタルが激ヨワだから気絶したってことですよ」
「なんだよそれ。確かに頭とか打った覚えはないけど……俺何してたんだっけ?」
あまりにショックが大きかったようで、直前の出来事をすっかり忘れている。
今度こそ大きくため息をついて、リョーマは指に挟んだ小さな紙切れを差し出した。
「これ」
「ん? 何これ?」
「また会おうだってさ」
何か書いてある。上体を起こすと紙切れを受け取って広げてみた。
文字を確認した悠介があっと声を漏らし、何が起きたのか、映像として鮮明に思い出す。途端にまたしても頭がくらっとした。
そうなるだろうと予想していたリョーマが咄嗟に背中を支えて、体を起こすのも億劫で、しなだれかかるような姿勢で悠介が弱々しく呟いた。
「お、思い出した……幸村さん」
「ほんと激ヨワっすね。会っただけで気絶します?」
「う、うるさいな。だから言ってるだろ。俺は普通だ……」
「普通より弱いっすよ。暴力振るわれたわけでもないのに。優しかったじゃないっすか」
「うぐっ、ぐっ」
ぐうの音も出ずに反論はできなかった。
確かに、会っただけなのだ。会って話をしただけで目を回してしまった。しかしそれは彼について逸話を知っているからだという気持ちもあって、知らなかった越前とは違うだろう、とも思う。
起き上がれそうにないと判断してリョーマは支えていた彼を寝かしてやる。普段の態度はともかく気遣いのある優しい手つきだった。
ぐったりする悠介を寝かしてやり、枕元に座って顔を見下ろす。
喋るくらいはできるだろう。色々知っていそうだから質問しなければならなかった。
「あの人、強いんすか」
「強いなんてもんじゃないよ。中学テニス界最強。“神の子”なんて呼ばれてる」
「ふーん……神ねぇ」
「試合してるとこ見ればわかるよ。あの人は別次元だ。手塚部長や跡部さん、真田さんの試合なら俺だって見たことあるけど……全く別物だった」
ぴくりと眉が動く。
強いことは察していた。どれほどなのかと思っていたがずいぶんな物言いだ。
果たしてそれは悠介個人の判断なのか、それとも。
興味を覗かせたリョーマは冷静に聞いた。
「じゃあ、手塚部長よりも強いってことっすか?」
「うーん、それは……病気したらしいし、今はなんとも言えないけど」
「先輩はどう思うんすか? 勝手な意見でいいんで教えてくださいよ」
悠介は閉口し、過去に観た試合を思い返す。
映像でも、現地でも観戦した。圧倒的な試合。何をしているのかもよくわからなかった。
「俺が観たあの試合。印象としては、幸村さんの方が強い……と思う」
「へぇ。かなり評価高いっすね」
「それはまあ、その、単に俺がファンだからってのもあるけど」
意外な発言にリョーマがわずかに目を丸くした。
なんとなく合点がいく。会って喋っただけでパニックになり、気絶して倒れたのは、単なる緊張だけではなくてそういった理由があったのか。
「またっすか。好きな人が多いんすね」
「う、うるさいなっ。それだけすごい人だってことだ。いいだろ、それくらい」
「とにかく、病気はしたけどめちゃくちゃ強い人ってことっすね」
体感はしていないが情報として理解する。
クールな瞳の奥、メラメラと炎が滾っているのを、悠介はこれまでの付き合いがあるために理解していた。今度はこちらがやれやれといった態度で嘆息する。
負けず嫌いで向上心がある。大した奴だと、後輩ながら尊敬の念を覚える。
現在の状況はわかった。
つまり、幸村に出会ったことで気絶してしまい、保健室に運ばれた。
ようやく時計を確認する。最後に時間を確認してから一時間と少し経っていた。どうやら一時間近くは気絶したままだったらしい。
その間、リョーマは傍に居てくれたようで、くすぐったさを覚えながら安堵する。
特に疲れているわけでもないのにぼけっとしてしまう。
幸村に会った衝撃は大きく、説明を聞いてもまだ現実味を帯びない。
悠介はどこか夢見心地でぼんやりいていて、不意にリョーマも心配そうに見つめる。
「あっ、部活……」
「部長も副部長も様子見に来てくれたんで大丈夫っすよ」
「そっか。でも俺、起きたから」
「まだ本調子には見えないっすけど。寝てた方がいいでしょ」
「うん……越前は、戻った方がいいんじゃないか?」
「流石にこの状態のあんたを置いていけませんって」
普段は生意気だがこういう優しい一面がある奴なのだ。
頬を緩ませた悠介は抵抗せず、素直に受け入れる。
「ごめんな。ありがとう」
「別に……いっつも世話になってるんで」
言いながらリョーマは帽子を目深にかぶり、そっぽを向いてしまう。
いい奴だな、などと思い、感動すら覚えて悠介はしばらく感じ入るように黙っていたのだが、顔を背ける彼を見ていて、何かおかしいと気付いた。
不思議と体に力が戻り、悠介は彼の腕をそっと掴む。
「あれ? おい、ちょっと、まさか照れてる? 顔見せろよ」
「照れるわけないでしょ。最近先輩きもいっすよ」
「きもい言うな。いいからこっち向けって。お前なんか照れてるだろ」
「照れてない」
「素直じゃないからなー」
「あ~うっさい……」
完全に背を向けられてしまったが部屋を出て行こうとしないあたり、拗ねてしまっても心配はしてくれているらしい。
振り払われた腕をベッドへ置いて、悠介は上機嫌そうに笑っていた。
ため息ではなく、深く息を吐き出して、ふと冷静になる。
幸村が来たのには理由があった。それを思い出す。
ひょっとしてからかおうとしていたのだろうかとも考えたが、やはり自身が憧れている人を疑うのは憚られるのか、初対面なのにそれはないだろうとすぐにその考えを捨てる。それならあれはどういう意味だったのだろう。自分の記憶に自信のない彼は、リョーマへ尋ねた。
「幸村さん……スカウトに来た、って言ってたよな」
ぽつりと呟くような問いかけ。
表情を変えたリョーマは振り向いて悠介を見る。
ぼんやり天井を見上げる彼は覇気を失って、いつものように悶々と思案していたようだ。
「あれ、どういう意味だろ」
「そのままの意味じゃないっすか。多分」
「そうなんだけど。ほら、越前はさ、真田さんに勝ったからわかるとして、なんで俺まで巻き込まれてんのかなーって思って」
「柳って人と、赤也って人に話を聞いて、うちに来たって言ってましたよ」
悠介がリョーマの顔を見る。視線は交わり、照れることもなく話せた。
「俺が気絶した後、幸村さんと喋ったのか?」
「ちょっとだけ。色々言ってましたけど、とりあえず、面白そうだから一緒にやりたいって」
「その色々が知りたいのに。ちゃんと覚えといてくれよ……」
「気絶する先輩が悪いんでしょ。俺にあたらないでくださいよ」
二人がほぼ同時にため息をついて、お互いを責めるように一呼吸置く。
むっとした顔になりつつも、伝えるためにリョーマが悠介の持つ紙切れを指差した。
「とにかく、それ」
「あ、そっか」
「また会おうってそういうことでしょ?」
紙切れには幸村のものと思われる連絡先が書かれている。状況からして連絡をくれという意味なのだろう。それはそれで緊張するので、悠介の眉間には深い皺が刻まれた。
考えるだけで緊張して息苦しくなってくる。
悶える悠介を見て当たり前のようにさらっと受け流し、そういえばとリョーマが切り出した。
「これも言っといた方がいいと思うんすけど」
「何? なんか大事件?」
「さっき桃先輩と海堂先輩が
「ふ、不祥事か? 殴り合いの流血沙汰?」
「違いますよ。例のオープンテニスなんちゃらとかいうやつ、あれのリーダーやれって言われたらしいっす。さっき様子見に来て言ってました」
聞かされた瞬間はきょとんとしてしまい、一拍ほど遅れて理解する。
まさかそんな事態になるとは予想していなくて動揺してしまった。だが動揺する悠介などいつでも見られるのでリョーマは大してなんとも思わない。
「お、おぉ、そうなんだ。桃と海堂? 部長と副部長じゃなくて?」
「そうみたいっすね」
「なんかすげー意外な人選。二年に任せようとしたのかな」
「先輩も含まれてたらしいっすよ」
「はぁ!?」
今度の反応は早かった。
目を見開いた悠介は思わず飛び起き、リョーマの顔を覗き込む。
「お、俺が? リーダーやれって?」
「一応ね。でも、あの人が来たから今は保留にするって」
「ああ、うん、そうか……それもそうだな。先に誘われたのは幸村さんだし。でもリーダーってなんで俺……」
「二年に任せようとしたんじゃないっすか。先輩も一応二年だし」
「そ、そうか……うーん」
情報が多く、一つ一つが当人にとっては衝撃的で余裕がないらしく、一応と言われても噛みつくこともしない。悠介は頭を抱えてしまった。
まったく世話が焼ける。リョーマは呆れた顔で言った。
「まあ俺は、どっちみち先輩とセットにされる予定だったみたいなんで、どっちにしろあんまり変わりませんけど」
「そうなのか。それ、俺は有り難いけど、お前はいいの?」
「別に断る理由もないんで」
視線を外して発言した。ふと戻すと悠介がじっと顔を見つめてくる。
嫌な気配がした。
リョーマが嫌悪感を込めて睨みつけると、にやりと笑われる。
「照れないんだ」
「きもい」
「きもいはやめろ。真剣に傷つくだろが」
「傷ついてほしいから言ってるんすよ」
「まったく、なんでこんな刺々しい性格になったんだか」
「先輩に対しては先輩のせいだから」
刺し合うように会話するのだが空気が剣呑になることはなく、いつも通りに過ごしている。
落ち着く時間が必要だと判断し、再びベッドに倒れた悠介ははぁ~っと深く息を吐いた。