「本気なのか? まだ安静にしておくべきだろう」
険しい表情で真田弦一郎が心配するが故に詰め寄る。
普段から険しい顔をしている彼だが今はどこか不安そうにも感じられ、少し離れた位置に立ち、同じ気持ちでいる柳蓮二は沈黙を保っている。
椅子に座って彼らを見上げる幸村精市は、いつものように微笑んでいた。
「平気だよ。試合をするわけじゃないし、軽い運動くらいはできるさ」
「だが完治ではない。病み上がりで無理をして、病状が悪化したらどうする。確かに手術は成功したがいまだ油断を許さない状況だ」
「わかってる。だから無理はしない。何かあればちゃんと休むから」
「何かあってからでは遅いのだ。何も起こさぬために治療を行っているのだぞ」
「ふふふ、そうだね」
叱られているのに微笑んで、悪びれもせず、自分の意見を変える様子も見せない。
柳はその反応を予想していたに違いない。言っても聞かない幸村の意見を変えることができるとすれば、それはきっと真田だけだ。
任せるように柳が黙っている一方で、真田は幸村のため真摯に語りかける。
それでもうんと言わないのだから彼も頑固な人間だった。
「我々にはまだお前が必要なのだ。全国で青学に借りを返す必要もある。その時、全快したお前にはコートに立っていてほしい」
「もちろんそのつもりさ。でもね真田」
「なんだ?」
「君たちが負けたのは事実だ。勝ったのは青学で、立海大附属は負けている」
背筋にひやりとしたものが走り、真田は声を詰まらせて黙ってしまった。
剣術の心得があるだけにわかってしまう。首筋に冷たい刃を触れさせられているような、常人には感じられないであろう異常な緊張感が生まれていた。
柳も気付いており、静かに冷や汗を掻いている。
幸村の表情は変わっていない。しかし目は言葉よりも雄弁だ。
まるで捕食者。睨まれた獲物は、逃げることもできずに恐怖するばかり。
幸村は優しげな、穏やかな声で話していた。
「例の大会、良い機会だと思う。俺と真田と柳、三人別々で参加しよう。それぞれにチームを結成して競うんだ。もちろん目指すのは優勝しかない」
「幸村……関東大会のことは」
「何も言わなくていいよ。何も……ただ、俺もじっとしてはいられない。やっと回復に向かってテニスができそうなんだ」
真田と柳は肝を冷やし、自らの意思を言葉にできなくなる。
確かに回復に向かっているようだ。それがよくわかった。
「敗北は許されない。そうだろう?」
にこりと笑う幸村から目が離せなくなり、彼との試合を、今になって思い出した。
「君たちも、もっと本気にならなきゃね」
*
「幸村部長! 青学一年をチームに誘ったって本当っすか!?」
飛び込むように走り込んできて、ぶつかる勢いで顔を覗き込む切原赤也の一言に、きょとんとした幸村は少し考えてみた。
にこりと微笑み、優しく返答する。
「うん。本当だよ」
「なんでぇ!? それより先に俺でしょうよ! 立海大附属の最終兵器にして二年生エース! 俺より先になんで他校のあいつなんすか!」
「ごめんね。興味があったんだ」
心底嘆いていると言いたげな赤也が、悲しげな顔で必死に訴えてきた。
苦笑こそすれども、幸村はその選択を後悔していないらしく、それじゃあ君も、とは待ってみても言い出さなかった。別の誰かを誘ったことよりその事実の方が寂しい。
「だったら! 俺にあいつと試合させてくださいよ! 勝った方がチームに入る! せっかく部長が帰ってきたのに、余所の一年坊に横取りされるのは癪っすからね!」
「赤也ァ、余計なこと言うんじゃねェよ。幸村には幸村の考えがあるんだ。尊敬してるっていうなら少しは好きにさせてやったらどうだ」
赤也の大声に反応し、幸村に助け舟を出すため、ブラジルと日本のハーフであるジャッカル桑原が口を挟んできた。
面倒見がよく、聞かん坊な赤也のフォローも多々こなす男だ。彼が言って止まるだろうと予想する者も居たとはいえ、やっと部に帰ってきた幸村が相手とあってか、今日ばかりはジャッカルの言うことでも聞かずにべっと舌を見せる。
「嫌っすよ。これだけは譲れねぇっす。大体、選ばれたのがあのクソ生意気な一年だってのが気に入らねぇ。なんでわざわざあいつなんすか」
「クソ生意気はお前だろうが。今俺に何したかわかってんのか」
「いつものことでしょ。何を今更」
「お前は、一回本気でシメとかないとだめだよなぁ……!」
見るからに表情を変えたジャッカルを視認し、はたと気付いた赤也が素早く逃げ出した。口元は笑っているのに目が笑っていないのは本気の時だ。戦うよりも逃げるに限る。
どたばたと部室を飛び出していった二人を見送り、幸村は変わらずにこにこしていた。
全快祝いに赤也が買ってきたという袋を漁って、丸井ブン太はケーキを発見した。
幸村に了解を得て一つ貰い、大胆にかぶりつきながら、彼は外で騒いでいる二人を気にする。
「しかしまぁ、赤也の言うこともわからんでもないな。大会がどうこうとか聞いてたけど、全国の前にわざわざやるかね」
「ブン太は参加しないのかい?」
「ん~、気に入るチームがあったらだなあ。誰でもいいってわけじゃないじゃん? 俺は攻撃担当だからきっちり防御してくれる奴がいいな」
「それじゃあダブルス志望なんだね」
「一応今はな。だってシングルスになるとコート広いじゃん」
「ブン太らしいね」
日頃、ブン太はダブルスを組む機会が多く、本人がそれを望んでいるからだった。
多彩なボレーを駆使してプレーを魅せる彼は何よりも攻撃を得意としており、ディフェンスは組むことが多いジャッカルに一任するのも珍しくなくて、自分が攻撃さえすれば必ず点は取れるという自信を持っていた。事実、彼がその気になって攻めに転じれば、誰も止められないボレーの妙技だけで得点を重ねていく。
面倒なことは全部ジャッカルに。
シングルスでも結果は出せるとはいえ、走るのが面倒だからやらない。
ブン太の思考は単純明快で、幸村は独特なそれをあっさり受け入れている。
どたどたと再び部室に転がり込んできた後、スピードは負けてもスタミナで勝るジャッカルは思い切りのいいタックルで赤也を捕まえ、首に腕をかけてヘッドロックを繰り出した。
悲鳴と怒声が入り混じり、激しく動き回って埃が舞う。
ブン太は一向に気にしなかったが、嘆息した柳生比呂士が彼らを叱った。
「二人ともやめなさい。部長は病み上がりですよ。揉め事なら外で済ませてきなさい」
「ぐっ、ほ、ほらっ、言われてますよ先輩……!」
「てめぇ、その前に言うことがあるんじゃねぇのか、二年坊……!」
一向にやめようとしない二人に柳生がピクリと眉を動かす。
普段は温厚で礼儀正しい“
その時、柳生は急に押し黙ってラケットとボールを拾い上げた。
幸いにしてその行動に気付いた赤也とジャッカルはぽかんとした顔をする。
「子供のように聞き分けがないなら仕方ありませんね……私の“レーザービーム”は、標的を逃さずに芯を撃ち抜く」
「ややっ、やめます! ほら、俺たちこんなに仲良し!」
「そ、そうそう! ちょっとじゃれ合ってただけだ! 本気じゃねェからさ!」
「そうですか。では、部長の体に障らないように頼みますよ」
柳生が静かにラケットとボールを置いたのを見て、咄嗟に肩を組んでアピールした二人は安堵した顔で大きく息を吐く。
まさかあんな行動に出るとは思わなかった。これなら副部長の平手打ちの方がマシだ。
柳生の手前、一度は止まったが、二人はすぐに至近距離まで顔を寄せて睨み合う。
今は一旦やめておく。だがこれで終わったわけではない。
日頃は仲が良いとはいえ、彼からは先輩への敬意が感じられない。ジャッカルはわからせる必要があると判断して怒りを醸し出し、その念を浴びても赤也はにやりと笑っていた。
「今は泣いといてやるよ。後で覚えてろ。地の果てまで追いかけてやるからな」
「へっ、だったら潰しといた方がいいっすかねぇ? 俺は退く気はねぇっすよ」
「前に貸した3000円の返済がまだだったな?」
「それはもうちょい待ってほしいっす。今色々きちーんで」
しばし睨み合った後で勢いよく離れ、立ち上がった赤也はすぐに幸村へ詰め寄った。
さっきの話がまだ済んでいない。赤也が提案しただけで、幸村からの返答がまだだったはずだ。これを聞かない限りは話を次に進められない。
「ねぇ部長~! 頼んますよ! ちょうどあいつには返さなきゃいけない借りがあるんで、部長の前でぶっ潰してやりますから! そしたら俺をチームに入れてください!」
「やめときんしゃい。しつこく言うても結果は同じや」
今まで沈黙を保っていた仁王雅治が口を開き、赤也が振り返って彼を見た。
眼差しは冷ややかで何を考えているかわからない彼は、赤也を凝視して静かに呟く。
「それにお前、余計なひと言言っちまったぜよ」
「へ?」
「ねぇ赤也」
「はい! なんすか?」
幸村に呼ばれて素早く彼を見る。幸村は先程と変わらずにこにこしていた。
「関東大会決勝シングルス2、負けたらしいね」
ピンと空気が張り詰めた気がした。
一瞬にして部室にある雰囲気が変異し、まるで別次元のようである。
そうなれば部員の行動は速かった。ケーキを食べ終えたブン太は素早く幸村の傍を離れ、柳生はすでに壁際に立っており、ジャッカルは地を這うようにそーっと動き、仁王は初めから居なかったかの如く姿を消している。
部長に呼ばれて笑顔になっていた赤也は、今更その笑みを引っ込めることもできず、かといって楽しげに笑っていられる状況でもなくて、表情が固まって口の端だけぴくぴくしていた。
幸村は赤也だけを見つめている。逃げられない。
「それだけじゃなくて、もう一回負けてるの?」
「い、いやぁ、そのぉ……油断してっ……はいなかったんですけど……」
なぜかだらだらと大粒の汗を掻き始める。室内の温度は変わっていないのに止まらなかった。
幸村はにこにこしている。しかし、視線が脇へ外れない。
沈黙ができてしまい、ますます気まずくなる。何か言わなければ。必死に言葉を考えるのだが一向に出てこないまま、意を決して、赤也は勢いでてへっと笑ってみた。
「そう。越前リョーマに負けたんだね」
「……つ、次は勝ちます! 絶対!」
「君は、自分の感情をコントロールできなくてすぐキレるし、マナーが悪いし、試合時間に無駄な拘りを持っているし、英語はできないし、先輩への態度も不評を買っている」
「そ、そんなに言わなくても……」
つらつらと悪い部分を挙げられてしまい、落ち込んだ赤也が肩を落としてしまう。
「それでも君が、エースとして、レギュラーとシングルス2を任されたのは勝てるからだ。相手が誰でも勝ちを掴み取るという信頼があったからだ」
ぞわりと肌が泡立ち、背を丸くしていた赤也が、目を見開きながら背を反らした。
目を細めて微笑んでいた幸村がはっきりと目を開く。
真っ向から見つめられて息を呑み、硬直する赤也に幸村はあくまでも優しく言った。
「君は勝たなきゃいけなかった。そうだね?」
「は、はい」
「改めて俺に言われなくたって、ちゃんとわかってるよね?」
「もちろんっすよ! 絶対、今度は、負けません!」
「うん。そうか……じゃあこうしよう」
そう言って幸村が近くにあった、自分の物ではない、適当なラケットを握った。
すっくと立ち上がり、赤也へ穏やかに笑いかける。
「俺と勝負しよう。赤也が勝ったら改めてスカウトするよ。きちんと頭を下げてね」
「なっ!?」
予想外の発言に全員が反応した。
避難していた部員が一気に集まってきて、消えたはずの仁王もいつの間にか戻っている。馬鹿げた提案をした幸村へ駆け寄り、必死に止めようとしたのだ。
「何言ってんだ幸村! お前まだ全快じゃないだろ!」
「そうだぜ。こんなことでまたなんかあったら」
「正しい判断とは思えませんね。少なくとも試合はやめるべきです」
「プリッ」
「みんなありがとう。でも大丈夫だよ。軽い運動だ。本気ではやらないからさ」
赤也は、その発言で幸村の体を心配しながらも、同時に、抑えようとしても自覚せずにはいられないほどの、どうにかなってしまいそうな興奮を覚えていた。
幸村のことは好きだ。部長として、テニスプレイヤーとして尊敬もしている。だが彼にとってはいずれ超えなければならない相手でもあって、そのチャンスが今巡ってきた。
心配する気持ちと同じくらい、勝ちたくて仕方ないという衝動から目が離せなくなる。
幸村は気付いていたはずだ。
集まってきたみんなに笑みを見せ、掻き分けるようにして赤也の前に立つ。
戦いたい。表情でそう語る彼を前にしていつものように微笑んでいた。
「赤也。悪いんだけど俺はまだ1セットマッチできるほどの状態にない。だから、2ゲーム先取した方を勝ちにしよう。それくらいなら大丈夫なはずだから」
「おいっ、幸村!」
「どうかな? 勝ったら約束の通りにする」
「俺が勝ったら……幸村部長に、勝ったら」
もはや目的さえも見失ってしまう。細かい条件なんてクソ喰らえだ。
勝負して勝ちたい。幸村精市に勝ちたい。テニス界最強の男を、超えたい。
赤也はいつになく好戦的に笑い、返答はその顔だけで十分だった。
「俺もまだ満足に動けないからね。お手柔らかに頼むよ」
「へっ、何言ってんすか幸村部長……俺は手なんか抜かねぇっすよ。この学校に来たのは、あんたをぶっ倒してNo.1になるためなんだ」
「ふふ、そうか。じゃあ仕方ない。俺もできるだけ頑張るよ」
素早く着替えて、ラケットを持ってコートへ向かう。
衝動が体内を駆け巡っている。待ち切れない。早く試合がしたい。
狂気的に勝負を求める赤也に先輩たちも誰一人といて止めようとはせずに、何も言わなかった。しかし彼らが心配していたのは、赤也の方だ。
確かに回復したばかりの体は心配だが、彼は。
ユニフォームに着替え、涼しい顔で悠々と歩く幸村を見ると、やはり赤也が無事でいられるかばかり気にしてしまっていた。