これは、なんだ?
赤也は息を切らしながら呆然と立っていた。
何かが違う。何かがおかしい。それだけはわかっていた。
「大丈夫? 次行くよ、赤也」
音が聞こえない。コートの対面に立つ幸村が口を動かしているのが見えているのに、こちらまで声が届いていなかった。
それどころか、周囲にある音が全て聞こえなくなっている。
風も、先輩の声も、自分の靴が地面を踏み締める音さえ、聞こえない。
「そうか。聴覚を失ったんだね……平気だよ。プレーが終わればまた戻ってくる」
幸村がボールを上げて、サーブを打ってきた。
混乱しながらも赤也はラケットを振って打ち返す。
無音の世界でするテニスは、驚くほど孤独を感じた。
動きの一つ一つから音を取り外されて、自分の行動から実感が一つ消える。
驚愕は取り払えず、精神に与える影響は大きいが、負けるわけにはいかなかった。
赤也は必死に幸村の打球に反応し、ボールを打ち返した。
攻めても、攻めても、攻め続けても返ってくる。どこへ打っても隙がない。何度打ち返しても一点さえ取れなかった。
軽い運動をする。その通りではないか。
無音の世界が絶望感をより大きくし、ラリーを長く続ける間、精神が摩耗する。
やがて赤也は正面に来た打球を打ち返そうとしてぴたりと止まる。
ラケットが、消えている。
さっきボールを打った場所に自分のラケットが落ちていて、間に合うはずもないのに、走った彼は転がるようにして拾った。
「触覚を失ったんだね。気をつけた方がいいよ」
幸村が何を言っているのか聞き取れない。
ラケットを握っているのにその感覚がない。
赤也はぶるぶる震え、幸村は彼が立ち上がるまで待ち、サーブを打たなかった。
「どうしたの? まだ試合は終わってない。さあ、続けよう」
感じていたのは途方もない恐怖だ。
発したはずの自分の声すら聞こえなかった。
ネットの向こう側に居るのは、尊敬して、憧れて、いつか倒すと決めた相手。こんなチャンスは滅多にない。やっと巡ってきたと思った。
それなのに、今は彼がこんなにも怖い。
今までの自分のテニスが全て否定される気がして、赤也は言いようもなく絶望していた。
「君はもっと強くなる。でも、リハビリ程度しか動けない俺にこの様だ。それが君の現在地」
絶叫しながら赤也は立ち上がった。
その声も聞こえない。ラケットを握る感覚もない。それがどうした。
勝つんだ。あいつに勝って最強になる。
構えた赤也を見て、幸村は優しく微笑むとサーブを始める。
「行くよ赤也。あと一球――」
*
学校近くのファミレスに着いた時、リョーマは目元を覆いたくなった。
悠介と一緒に入ったことがある。迷うこともなく、制服に着替えてすぐ駆け付けた。
先に到着していたその悠介は、隣に幸村が立っているだけでぎこちない笑顔になって、やあと震える声で挨拶してきた。
相変わらずのヘタレぶりで、リョーマはあからさまにため息をついて俯く。
共に店へ入り、同じ席に着いた。
リョーマと悠介が並んで座り、その正面に幸村が座る。
ここは僕が奢るからなんでも頼んで。幸村に言われてリョーマはまずパフェを注文した。
「最初から話した方がいいかな?」
「は、はひっ!? あぁいえ! なんとなく聞いたので大丈夫です!」
「そうか。じゃあ、考えてもらえた?」
みっともないほど緊張している悠介が、首が取れるのではないかというほど頷いている。
呆れるリョーマは我関せずの態度を貫き、しばらく静観することにした。
「俺は、俺のチームへ君たち二人に入ってほしいと思うんだけど、どうだろう」
「あ、あのー……それについては少し、お聞きしたいんですけど……」
「何? なんでも聞いて。答えられることは答えるから」
「あ、ありがとうございます。えー……それで……」
見るからに挙動不審な悠介は視線をうろうろさせて、喋るスピードも遅くなり、考えもまとまらず悪戯に時間を浪費している。
幸村はにこにこ微笑み、そんな彼を急かしもせずに待っていた。
我関せずのリョーマは届いたパフェを食べ始めている。
「越前は、わかるんですよ。大会でも試合出てて、確か負けなし。決勝でも真田さんと試合して勝っちゃったんで……」
「ビデオを見たよ。素晴らしい試合だった。君は強いね」
「どもっす」
「だから、越前のスカウトはいいんですけど、なんで俺……」
「なるほど。まずは君のその不安を取り除く必要があるわけだ。うーん、そうだね……」
少し考える素振りを見せた幸村は慎重に言葉を選ぶ。
何から説明しよう。
そう考える笑顔はほんわかしていて優しさを感じ、真摯に向き合われているのだと思う。それが余計にファンである悠介を緊張させるのだが本人は気付いていなかった。
「今回の大会があるって聞いて、すぐに参加したいって思った。それから、チームを作るためにまずは他校の選手を知ろうと思って柳を頼ったんだけど。わかるかな?」
「あ、はい。乾先輩と戦った……昔はダブルス組んでたって」
「うん。彼は立海の参謀でね、色んな情報を持っている。まずは柳からおススメを聞いてみようと思ってそうしたら、越前君の名前が挙がった」
興味がないと言いたげな態度で聞いていたリョーマはちらりと一瞥するのみ。
機嫌を悪くすることもなく、くすりと笑って幸村が続ける。
「真田を倒した一年生だ。試合の映像を見てプレーも気に入った。だけどまだまだ強くなると感じたし、一度会ってみたいと思ったんだ」
「そう、でしょうね。こいつは色んな人に評価されてるし。そこまではわかるんですけど」
悠介がリョーマを見ると、彼はちらっと見つめ返してきて、べっと舌を出した。緊張している自分を嘲笑うつもりだ。後でその舌を掴んで引っ張ってやろうと決意する。
悠介の怒気に気付きながらも、幸村は冷静に語っていた。
「その時に柳から君の噂を聞いたんだ。レギュラーではないけどダブルスが得意で、越前君が最も信頼している先輩だって」
「言うほどっすけどね」
「お前は黙って。パフェ食ってなさい」
「その後、赤也からも君のことを聞いてね。以前、越前君と野良試合をした時、君と話していい奴だから気に入ったって」
悠介は関東大会決勝、立海との試合より前の出来事を思い出す。
ラケットのガットが切れたリョーマが遠くの店へ向かう際、迷わないようにと付き添いとして同行した悠介は、切原赤也とジャッカル桑原に出会った。
あの時は物の弾みで止める暇もなくリョーマが赤也に喧嘩を売ってしまい、コートへ移動して試合を行った。その移動中の会話を言っているのだろう。
「あー、覚えてます。プレーは怖かったけど喋ってる時は結構いい奴で」
「同い年なんだよね」
「はい。ただ、やっぱ試合を見てちょっと怖かったから、その後は全然なんですけど」
「あはは、それは俺からも言っておくよ。普段は意外に可愛い奴なんだけど、マナーが悪いのとラフプレーが得意なところはどうにかしなきゃね」
悪口みたいなことを言いたくはなかったが、嘘をつくのも躊躇われたので正直に言った。悠介はバツが悪そうな顔になって口ごもる。
幸村は気にしていなかった様子だ。自分が頼んだコーヒーを口にしながら言う。
「君はレギュラーになったことがないそうだね」
「はい……うちはみんな、バケモノみたいな人ばっかなんで」
「だけど君も上手だと聞いたよ」
「そんな、俺なんか全然。越前にも一回も勝ったことないし」
「ふふ。だからかな」
「え?」
ソーサーの上にカップを置いて、幸村は改めて悠介の顔を覗き込んだ。
「もどかしそうな君を見て、力を貸してあげたいと思ったんだ。自慢じゃないけど俺は部長で、後輩に指導したことだってある。腕はいいそうだし、君を鍛えてどこまで上がるか、見てみたいと思ったから。それが君をスカウトした理由」
「は、はあ……」
「練習試合で手塚ともいい勝負をしたそうだしね。俺が育てた青学の後輩が手塚に勝つって面白そうじゃない?」
「いや、それは部長が慣れてないダブルスだからで、それでも負けましたし……大体俺が部長に勝つなんてあり得ませんよ」
「そう思うでしょ? だから俺が教えるんだよ。君たちをもっと強くするために」
悠介だけでなくリョーマも彼の顔をじっと見つめた。
本気だろうか。他校の生徒が、本気でそんなことを考えているのか。
幸村は二人の視線を受け止めたところで微塵も揺らがず、不信感ありありで向けられる疑念をにこりと受け流してさえ見せる。
半分以上パフェを食べていたリョーマだが、一旦手を止めると唐突に問いかける。
やはり幸村は動揺せずに正面から受け止めようとしていた。
「俺たち青学っすけど、いいんすか?」
「もちろん」
「いずれ全国で会うんでしょ」
「立海が今よりさらに強くなるためにはもっと強力なライバルが必要だ。自分たちばかり得をすると思ったかい? 残念ながらそうはならないよ。君たちを強くすることが立海のためになる」
優しい口調だが強い意志を感じる。初めて違った理由で悠介が怯えた瞬間だ。
「手塚程度で満足してもらっちゃ、更なる高みを目指せないじゃないか」
「へぇ……じゃああんたは手塚部長より強いんだ?」
「お、おい越前、口の利き方」
「いいんだ。好きに話してくれていい」
優しい人なのだろうと想像していたが途端に印象が変わる。
やはり“常勝立海”の部長という肩書は嘘ではない。
穏やかな顔と口調で、幸村は静かに語り、同時に揺るぎない自信を感じさせた。
「今の俺は手塚より弱いよ。病気になって、まだ1セットマッチも満足にできない。それどころか君たちと試合をしたって勝てないだろう」
「ふーん」
「でも俺に時間をくれるなら、手塚に勝てるようになるまで強くすることができると思う。それくらいの逸材を見つけたと思ってるんだけどね」
態度とはちぐはぐな自信満々の発言だった。
これには悠介だけでなくリョーマまで驚いてしまい、目を丸くして口を閉ざす。
「たとえこの大会が終わって全国へ行っても、その頃にはうちの部員も強くなっている。負けるつもりはさらさらないよ」
「にゃろう……面白いじゃん」
今の一言でわかる。悠介より先にリョーマがやる気になってしまったようだ。
まさかと思った途端、嫌な予感を覚えた悠介より先にリョーマが発言した。それは彼の意思や迷いなど無視した決定事項だった。
「チームに入りますよ。先輩も一緒に」
「お前っ、バカ!? 俺何も言ってないだろうが!」
「どうせ先輩に決められるわけないんすから。いいでしょ?」
「二人ともよろしくね」
「ちょっと!?」
逃がさないと言わんばかりに、リョーマと幸村は互いを見合って早々に会話を切った。
抵抗したいが、どうすればいいかわからない悠介は悩み、為す術もなく逃避するように頭を抱えてテーブルに突っ伏してしまう。
「あれぇ……あれ~?」
「うるさいっすよ」
「時間はあるから、ちょっとずつ慣れていけばいいよ。仲良くしようね」
どうせ考え込んだところで決断力はないのだからこれでいいのだ。
リョーマは残っていたパフェを食べ始め、悠介は頭を抱えてうんうん唸って動かず、幸村は兄のようにそんな二人を見守っている。
大会が始まるまで準備期間が設けられている。それまでにメンバーを集めて、練習をして、親睦を深めてチームになればいい。
焦ってはいなかった。予定は立てていないがなんとかなる気がする。幸村は妙な自信で行き当たりばったりに進もうとしていた。
そうとは知らない悠介には、やはり言わない方がいいだろうと改めて思った。
「とりあえずしたい話は決まったね。この後、予定はある? ないならこのままお茶してから帰ろうかと思ってたんだけど」
「ねぇ、それよりさ。リハビリやろーよ。ボール打つくらいできるんでしょ?」
「口の利き方っ」
「寝てていいっすよ先輩」
ぺろりとパフェを平らげたリョーマが言う。挑発的な態度と強い闘争心。なるほど、柳が教えてくれた通りの人物だ。
あっさり受け入れた幸村は拒否しなかった。
本調子ではないが適度な運動は必要だ。少しボールを打つくらい許されるだろう。
飛び起きた悠介を押さえつけるように再び寝かしつけるリョーマへ、仲が良いなと思いながら、微笑む幸村が承諾した。
「いいよ。話し合うよりそっちの方が仲良くなれそうだしね」
「決まりだね」
「越前君っ、ちょっと、痛いなぁ……! 俺別に寝てたわけじゃないんだけどっ」
手を離してやると不満そうな悠介が体を起こす。すぐに復讐を行い、リョーマの両頬が普段よりも幾分か強めにつねられ、引っ張られた。
堪らずリョーマも無言で同じことをやり返し、大声こそ出さないが静かな喧嘩が始まる。
まるで兄弟のようだ。妹が居る幸村は微笑ましそうに見守っていた。
「コートはどうしようか。青学だとテニス部員の迷惑になっちゃうよね」
「じゃあ、ストリートのコートで。無料で夜でもできるとこあるんで」
「そういう場所知ってるんだ。いいね。じゃあそこにしよう」
「それは俺も行くんですか?」
「当たり前でしょ。何聞いてたんすか」
「お前はさぁ、ほんっとにそういう冷たい言い方するよね」
「そりゃ先輩がしっかりしないんだから」
むぎゅむぎゅとほっぺたを引っ張り合う二人の姿はなんだか滑稽で、本当に攻撃になっているのかも定かではないのに中々やめようとしない。
それが二人の日常なのだろうと理解して、幸村はくすくす笑っていた。