外出と軽い運動を認められるようになって、幸村は毎日のように上機嫌な様子だった。
入院生活は他人が思うより辛さを感じていたのだろう。多くは言わないが、彼の態度や笑顔を見ているとずいぶん嬉しそうにしている。
奇跡的な回復力だと聞いていた。手術も成功している。幸村本人も入院する前から、すぐに戻れるようにと可能な限りの努力をしていた。
それでも早過ぎる気はするのだが、彼はすっかりやる気だった。
関東ジュニアオープンテニスの話を聞いて、真っ先に飛びついたのが幸村だ。
立海大附属中学テニス部は全国大会の常連校。今まで数々の輝かしい功績がある。そして今年も全国大会への切符を勝ち取っている。それなのにそちらへの関心はほどほどで、なぜか幸村は至極嬉しそうに準備を始めようとしていたのだ。
柳蓮二は不安を覚えていた。
入院する前と後とでわずかに本人への印象さえ変わってしまい、心配になる。
彼に協力することになったが、体調の不安も含めて、本当にいいのかと悩むようになる。
「生き急いではいないか? 手術は成功した。全国なら俺たちが勝ち進む。お前はもう少しゆとりを持って休んでもいいんだぞ」
柳がデータをまとめた資料に目を通す幸村へ言う。
今の彼は以前にも増して行動力と決断力が高まっている。柳には彼が無理をしているようにも見えてしまって、自分たちを信用してもっと休んでほしかった。
確かに関東大会決勝、初めての黒星がついたのは理解している。“常勝立海”には許されない結果で大会を締めくくった。しかも特別な私情があったとはいえ、否、だからこそか、自身の敗戦から続けて三連敗を喫して優勝を逃したことに責任を感じずにはいられない。
考え込む柳はこれも自分たちのせいだと思っている。
こちらを向いた幸村はそんな心情を否定した。
仲間たちのことは信頼している。これはただの興味本位だと。
「やってみたいんだ。ただテニスがしたい。頑張る理由はそれだけだよ」
果たして、本当にそうだろうか。
自分でも知らない内に疑ってしまった事実に気付いた時、柳は動揺した。
真田と自分と幸村。“三強”と言われた三人で立海に勝利をもたらす。最も信頼すべき相手に疑いを向けたことを、柳は誰にも告げられずに恥じた。
「今まで満足に動けなかったんだ。久々にできることが嬉しくてね」
「そうか……それなら構わんが、無理はするなよ」
「ありがとう。きっと俺は、病気になったおかげで再認識できたんだ」
ぽつりと言った幸村の一言を今も覚えている。
「テニスって、楽しいよね」
子供のような無邪気さとは裏腹に、なぜか彼が大きく見えて、底知れない恐怖を感じた。
*
幸村に敗北した後、赤也はコートを出ようとはしなかった。
駄々を捏ねる子供のように先輩たちへ頭を下げ、更なる勝負を望んだ。
負けたのはなぜか? 自分が弱かったからだ。もっと強くならなければならない。誰にも負けないくらい圧倒的に強く。
大汗を掻きながらコートを走り回り、打ち返されるボールをひたすらに打った。
右へ左へ、或いは前へ後ろへ、息つく暇もない。
それでいい。追い詰められなければ限界など超えられるはずがないからだ。
「本当によォ! お前の負けん気には尊敬するぜ!」
ライン上に着地する深いストロークはジャッカルに拾われる。脅威のディフェンス能力とずば抜けたスタミナで広大なコートを守る守護神。彼を抜くことは難しい。
赤也は一歩たりとも足を止めずに駆け回った。
「あの結果は当然だろうよ。なんせ幸村は天才なんか及ばない“神の子”だ」
妙技のボレーを武器とするブン太がネットに張り付いている。彼がボールに触れた途端、予測できない動きをする打球には散々惑わされた。
怪我も怖がらずに赤也は跳び、肌を擦り剥きながらダイビングボレーで辛うじて拾う。
「君のプレーが悪かったわけではありません。ただひたすらに、幸村部長が強かった」
コートを両断するかのような強烈なパッシングショット、“レーザービーム”が放たれ、柳生が最も得意とするそれはそう簡単に止められるものではない。
倒れ込みながらも赤也は辛うじて拾って、肩をぶつけてもすぐに立ち上がった。
「今のお前じゃ逆立ちしたって勝てねぇ」
ネット際に立つ仁王がボールを強く打ちつけると、ボールはネットを越えた瞬間に視界から消えてしまった。“ダーティートリック”。彼の
きっと自分に向かってくるはずだ。咄嗟に赤也は自分を守るようにボールを返した。
ふわりと浮かぶボールがネットに当たって自陣に落ちる。
その向こうには四人のプレイヤーが存在した。
何分、何時間経っただろう。ボールは一度としてネットの向こうで止まっていない。得点こそ数えていないが、これが試合なら一方的にポイントを取られ続けている。
肩が大きく上下するほど激しく呼吸を乱して、赤也は脱力して跪いた。
練習とは呼べないリンチにも似たそれは、赤也自身が頼んで実現した状況だ。この程度で負けていては幸村には勝てない。彼ら四人を同時に相手にして勝つ必要がある。そう思って何度も挑み続けているのに、いまだ一度として得点できない。
疲労は大きいが、思考はますます先鋭化され、忘我の状態でも異様な力が漲っていた。
顔を上げた赤也は真っ赤に充血した両目でギロリと敵を見る。
ラフプレーを乱用する赤目の状態、通称“危険モード”と呼ばれていた。
以前から知っていた四人の先輩はそれを見ても驚かずに見据える。
「威勢とやる気は認めるが、勢いだけじゃどうにもならねェよ」
「お前が相手にしてんのは“王者立海”だぜ?」
「切原君。テニスは一朝一夕では伸びない。一度冷静になって練習に身を費やすべきです」
「超えてぇよなあ、超えてぇよ」
ゆらりと立ち上がった彼は両手でグリップを握り、再び構えた。
早く来いと態度で伝えている。
言っても聞くつもりはなさそうだ。仕方なくジャッカルは次のボールを持ち、サーブを打って無茶な状況を再開させた。
“危険モード”になった赤也は純粋なパワーとスピードが格段に向上する。攻撃的な意思も明確に強くなって、これまでの試合では相手の体にボールをぶつける、怪我させることも厭わない物理的な攻撃を多用するようになる特徴があった。
ボールに追いつく速度が見るからに速くなり、打ち返す力も増していた。
四人も居れば打ち漏らすことはなかったが、先程までと比べて攻め辛くなったのは確かだ。
「やれやれ、またこれですか」
「マジでキレやすいなぁ。どうするよ」
「怪我する前に止めた方がいいんじゃねぇか?」
「任せんしゃい」
数度のラリーを行うものの、赤也の打球はミスをすれば体に激突する軌道だった。先輩であろうと容赦なく潰そうとしている。
引き受けた仁王が大胆に赤也の打球の前へ躍り出た。
高速のパッシングショット。“レーザービーム”で返して赤也の額に激突させる。くるりと簡単にひっくり返った彼は勢いよくコートを転がった。
「仁王君。私の技を、人殺しの道具にするのはやめてください」
「あの程度で死ぬんなら、こんなとこには立ってねぇべや」
赤也はしばらく動かなかった。
本当に死んだのか、と見つめる四人が心配する頃、ようやく四肢を踏ん張って立ち上がる。数秒気絶していたらしい。大きく頭を振って、再び四人に視線を向ける。
その目はもう赤くない。普段の彼に戻っていた。
「ここまでにしましょう切原君。君の行動はあまりに危険過ぎる。まずは自制心を鍛えなさい。そのすぐキレる性格を改善しない限り、同じことの繰り返しです」
「逃げるんすか……先輩。俺はまだやれますよ」
わずかだが、額から血が流れている。
柳生は眉を動かし、咄嗟に彼の体を心配した。
「仁王君」
「プリッ」
「これ以上続けるわけにはいきませんね。まずは怪我の手当てをしましょう。さあ切原君、早くこっちへ」
「血ぐらいどーってことないっすよ。戻ってください、柳生先輩」
救急箱を取りに行こうと部室へ足を向けた柳生を呼び止め、戻るように言う。
赤也は笑っていた。目は充血していないがかつてない雰囲気に身を包み、見ているだけで嫌な感覚がする姿で四人を同時に威圧している。
「要はネットの向こうへ返しゃあいいんでしょ。腕でも足でもくれてやらぁ。ボールさえ向こうに行きゃあいいんだからな」
「おいおい……」
「いつもと違うキレ方してやがる。柳生、取ってこい。俺と仁王で止める」
「やれやれ……」
救急箱を取りに行く前に、柳生は赤也を説得しようと体の正面を彼に向けた。
このままやらせてもいいことにはならない。先輩として、なんとしてでも止めなければならないとようやく決心したのだ。
「切原君。我々がこれまであなたに何も言ってこなかったのは、ラフプレーも危険モードも勝利のために利用できると思ったからです。マナーより何より、勝たなければならないと思っていた。しかし今の君はだめだ。自分自身さえ壊してしまいますよ」
「戻ってくださいよ、柳生先輩」
「切原君……私はもう戻るわけには――」
「やらせたらいいだろ」
柳生の言葉を遮り、言い切ったのは仁王だった。
三人が絶句する一方、彼だけは冷静な声で淡々と言う。
「お前ら三人、外出とれ。俺一人で十分ぜよ」
「仁王君、そういうわけにはいきません。怪我をさせるつもりですか」
「言ってもわからん奴は体に教えなきゃいかんピョン」
ボールが入っているカートを引っ掴み、サーブの位置まで移動する。
どうやら本気で続行するようだ。
ブン太ははぁ~と大きく息を吐き、やれやれと言いたげなジャッカルも敢えて止めなかった。
「アホらし。付き合ってらんねー」
「やり過ぎんなよ仁王。再起不能になったらシャレにならねぇぞ」
「ちょっと、君たち」
「いいからお前もこっち来いって。どうせこいつら言ったって聞かねぇんだから」
呆れたブン太とジャッカルが先にコートを出て柳生を呼び寄せる。彼もこの状況にはまるで納得できずにいたが、残った二人が動かないのを見ると仕方なさそうに外へ出る。
それからようやく、仁王がサーブを放った。
赤也は当然のように返し、さっきまでに比べれば至極常識的なラリーが始まる。
仁王は、底知れない男だ。
実力の全ては悟らせず、得意の“
口調も言動も外見も、何もかも嘘に思わせる。テニスの腕前ですら理解不能だ。
「弱くなったなぁ、赤也」
「あぁ!?」
「だってお前に勝てないんだから」
赤也が返したボールを、仁王が待ち受け、低い弾道のそれをスマッシュで返す。
狙い違わずに赤也の額に激突した。
さっきの繰り返しのように、赤也の体は軽々と吹き飛び、大の字になって倒れる。
狙っていないはずがない。わざとだ。コートの外で立っていた三人は驚愕し、開けた口も閉じられずに言葉を失っていた。
「立ちんしゃい。お前に教えてやるぜよ」
倒れたままで赤也は仁王を睨みつけ、全身に力が漲る。
「お前のテニスを」
絶叫しながら赤也は立ち上がった。
そこからの仁王のプレーは、確かに赤也を見ているようであった。“危険モード”で暴走した彼と同じパワー、同じスピード、同じスタイルでラフプレーを行い、執拗なまでに赤也自身にボールをぶつけていく。
何度も、何度も、何度でも。全身、ありとあらゆる場所へボールをぶつけ、それでもなお止まらずに仁王のサーブからプレーは始まる。
皮膚が裂けて、血が流れても、血反吐を吐いても、赤也が転んで起き上がれなくても強烈な打球が体にぶつかっていく。
柳生とジャッカルが大声で叫んでも、ブン太が慌てて真田と柳を呼びに行っても、仁王の攻撃は間髪入れずに行われた。
それでも赤也は心を折られず、ただひたすら怒りを溜めて、必ず立ち上がった。
このままでは終われない。何が何でも勝ってやる。
そうして力が漲っていく様を見計らい、仁王は、全てを理解しているかのように呟く。
「お前じゃ誰にも勝てねーよ。幸村にも、越前リョーマにも」
ブチン、と。
何かが切れる音が聞こえた。
変化は一瞬だった。ダメージが蓄積する内に打球を返せなくなっていたはずの赤也が、仁王の鋭い打球を打ち返し、油断していない彼の足元を通過させる。
取らなかったのではない。取れなかったのだ。反応さえ許されないスピードだった。
今のは威嚇。次に攻撃的な思念が空気を伝って全身へぶつけられる。
「フフッ。ハハハハッ。ヒャハハハハハッ!」
肌が赤みを帯び、髪は真っ白になり、目は“危険モード”同様に真っ赤になっている。
赤也の様子が変わっていた。
狂ったように笑った彼は、憎悪を抱いて仁王を見据えた。
「テニス、教えてくださいよ、仁王先輩。全部、あんたの全部ぶっ潰してやるッ!!」
「はははぁ……面白いピョン」
仁王はひどく楽しげだった。
動揺することもなくサーブを構えて、平然と続けようとする。
止める暇はあったかもしれない。だが状況を理解できないことと、何より変貌した赤也を恐ろしいと思ったことで、ゲームが始まるまで柳生とジャッカルは一歩たりとも動けなかった。