ゆっくり目を開いてすぐ、見覚えのない天井が目に入った。
気分はすっきりしているが体がぐったり疲れている。
どうして寝ているのだろう? ここはどこだ? 今何時?
少し混乱しているようで状況を知るために体を起こそうとした。だが意外なほどに自分の思う通り動かず、寝返りを打つことさえ時間がかかる。
節々が痛い。筋肉の筋の痛みさえ鮮明に理解できた。
窓の外を見るとすっかり暗くなっている。どうやら夜になっているらしい。何が起きたか思い出せずにますます混乱が深まっていると、唐突に声がかけられて驚いた。
「起きたようだな」
「さ、真田副部長……ここは?」
「保健室だ。学校のな」
「なんでそんなとこに……俺、死んでませんよね?」
「辛うじてな。立てるか?」
真田が力強く腕を掴んでくる。瞬間、激痛が腕から全身へ走った。
「いででででっ!?」
「ふむ。やはりだめか」
「やはりって、わかっててやったんすかぁ!? 鬼ィ! 人殺しィ! 悪魔ァ! もっと優しく起こしてくださいよぉ!」
「甘えるな。これもお前の鍛錬が足りんせいだ」
ぐいっと上体を起こしてやって、ひとまずベッドの上に座った。その間も赤也は大声で喚くのだが真田は一切意に介さなかった。
ようやく座らされて、ひどく疲れ切った状態で赤也が肩を下ろす。
「いててて……ほぼ拷問じゃないっすか。なんでこんな」
「覚えていないのか?」
「へ? なんかありましたっけ?」
きょとんとしている赤也が嘘をついているようには見えない。
真田は真相を告げずに仮説を立てた。
「“無我の境地”との併用か……或いは力を上手く操れていないからだな」
「は? 何言ってんすか、急に」
「なんでもない。それよりもう遅い。帰るぞ」
言うと真田はパイプ椅子に置いていた鞄を取り、赤也の分は投げて渡した。
受け止める際にぎゃあと発して、目に涙を浮かべながら抗議される。
「手渡しでいいでしょうよぉ! なんで投げるんすか!」
「痛みに耐えることもまた鍛錬になるぞ」
「あんたいつの時代の人間だよっ!? 今時そんなスポ根誰も信じてねぇからな!」
「口の利き方に気をつけろ」
「ぎゃあああああっ!?」
さほど力も入れず、友人に挨拶するかのように、肩をポンっと叩いてやった。
絶叫した赤也は再びベッドの上に倒れてしまって、自力では起き上がれず、鋭い痛みに耐えながら芋虫のようにもぞもぞ動く。
「うぅ、俺が何したってんだ……なんだよこの仕打ち。幸村部長ぉ~、柳せんぱーい……」
「あいつらは居ないぞ。代わりではないが、少し付き合え」
「え?」
意外な発言を聞いて目を丸くする。
赤也がそうして真田に誘われたのは初めてのことだった。
*
目的地であるストリートテニスコートに着いた時には、空はすでに真っ暗だった。
照明に照らされたコートは昼間の学校とは違ってどこか風情がある。
遅いと怒るリョーマの頭を撫でてあやしながら、悠介は再び緊張しつつあり、後ろからついてくる幸村の存在が表情を強張らせる。
ファミレスで駄弁っている時点では、一歳年上の優しい先輩で、他校の生徒ではあるが初対面とは思えないほど親しく話せた。しかし一緒にコートに入るのはわけが違う。
なんとなく不安になってしまい、目敏く気付かれてリョーマの冷たい眼差しを浴びせられた。
「なんなんすかその顔は」
「いや、なんか、やっぱりあの幸村さんだなーって思い出しつつあって……」
「ほーんとメンタル紙っすよね。気にしてもしょうがないんだから気にしないでよ」
「お前はむしろ分厚過ぎるだろ……」
嫌だ嫌だと思っていても到着する。
階段を上り切って照明を浴び、急に視界が広がった。
コートには数人の男女が集まっていたようだ。四人でダブルスの試合をしており、他の者は周囲で寛ぎながら眺めている。
辺りを見回した幸村は感心するように微笑んでいた。
「へぇ、こんなところがあるんだ。無料で使えるなんてすごいじゃないか」
「でもダブルス専用らしいですよ。ここで一回、越前とうちの桃城がひどい目に遭いまして」
「うっさい。余計なのいいから」
「よお、お前らまた来たのか。今日は新顔も一緒か?」
以前訪れた際にこのコートで出会った、玉林中の泉と布川が声をかけてくる。
会ったことがあるだけでなく、悠介とリョーマは関東大会で優勝した青学の生徒だ。忘れるはずもなく、以前に比べて優しくされている気もした。
当然一緒に居る幸村にも注目されるのだが、途端に悠介はあからさまに怯んだ。
「あれ? どっかで見たことあるような……」
「こういう場合、言ってもいいんですかね?」
「いいんじゃないかな。芸能人じゃないし、凶悪犯でもないから」
「ある意味有名人ではありますけどね……」
緊張しながらおずおずと、悠介は手で指し示しながら二人に紹介する。
「えーっと、騙すのもあれなので紹介しますけど……立海大附属の幸村さん」
「こんにちは。あ、こんばんはかな」
「こんばんは~。ん? 立海?」
「え? 幸村っ!?」
思わず大声が出てしまい、勢いよく後ずさる。
泉と布川が驚いたことによって、コートに居た全員が彼に気付いた。
「かかか“神の子”幸村!? ほ、本物!?」
「どうしてこんな野良コートに!?」
「野良コート……独特の表現」
「でも言いやすくていいっすね。野良コート」
「この二人に紹介してもらったんだ。お邪魔してもいいかな?」
「は、はいぃ! もちろん!」
「どーぞこちらへ!」
「ありがとう」
初対面でありながら一瞬にしてまるでVIPのような扱いだ。
すでに夜だというのに悲鳴や歓喜の声があちこちから聞こえてきて、芸能人かと見間違うほどわらわら人が集まってしまい、どうぞどうぞと連れていかれる。
いつの間にか幸村は制服姿でコートに立っていて、コートの外から性別など関係なく黄色い声が飛んでいた。
「俺が先に使わせてもらっていいの? みんなは?」
「いいえ全然! お気になさらずお先に!」
「俺たちもう飽きるくらい散々やってたんで!」
「そうなんだ。ごめんね」
「幸村さん、ラケットありますか! なければ私のどうぞ!」
「タオルはどうですか!」
「水は!」
「スポーツドリンクもあります!」
「みんなありがとう。大丈夫だよ。ラケットだけ、少し借りていいかな?」
凄まじい盛り上がりを目の前で見て取り残されてしまう。
蚊帳の外に置かれてしまった悠介とリョーマはやるせない気持ちで眺めていた。
「ほぼ芸能人じゃん……」
「どうだ、すごいだろ。俺のリアクションがおかしいわけじゃないだろ?」
「先輩は大体おかしいっすよ」
「お前の性根という性根を叩き壊してやりたい」
悠介がリョーマの両耳を引っ張り始めた矢先、軽いステップで目の前に少女が現れた。
時折ここへ訪れているという、橘杏だ。以前にここへ訪れた時にも会っており、交わした言葉は多くないがすでに顔見知りである。
にこっと笑いかけられて、悠介はリョーマの耳を引っ張りながら笑顔で応じた。
「君も有名人だよ、越前くん。関東大会の決勝で真田さんに勝ったって。ここではその前から知られてたけど、やっぱりあれからよく話題に上がるんだ」
「へぇ、そうすか」
「その素っ気ない態度なんとかしなさい。せっかくの人気もなくなるぞ」
「余計なお世話っすよ。俺より知られてない宮瀬先輩」
「ぐはっ」
しばらくは集まってくる人々と話していた幸村だが、せっかくコートに来たのだ。そろそろ始めようとリョーマと悠介に声をかける。
なぜか悠介が胸に手を当てて跪いており、杏がくすくす笑っているものの、何かあったのだろうということだけ理解して詳細は聞かなかった。
当初の目的はやはりテニスだ。二人をコートへ誘う。
「二人とも、そろそろやろうか。せっかく来たから軽く体を動かすくらいはね」
「いいっすよ。病み上がりの人潰すつもりもないんで、ちょっとだけ」
「俺の心は潰れたよ……」
「元々潰れてるでしょ。行きますよ」
「お前気遣いとかないの? 優しさとか慈愛とか。ねぇ」
いつものようにぶちぶち文句を言いながら、軽い運動だと聞いて着替える手間を省き、制服の上着だけ脱いでラケットを持つ。
コートに入って幸村と向き合った時、そういえばダブルス専用だったと思い出した。
肩を並べる悠介とリョーマを見て幸村が観衆へ振り返る。
「ごめん、ここダブルス専用だったよね? 良ければ誰かもう一人手伝ってくれないかな。軽く体を動かす程度だから」
そう伝えた途端、全員が一斉に後ろへ下がった。
はて、先程の人気ぶりはどうしたのだろう。
コート内の三人がきょとんとしていて、盛り上がっていた観衆は見るからに動揺していた。
「ゆ、幸村さんと組むとか、そんな恐れ多いことできねぇよ……!」
「そうそうっ。緊張しちゃうし……」
「ミスしたら一生忘れられないだろうな。悪い意味で」
「ううん、やっぱり無理だ!」
どうやら全員が尊敬するがあまり勇気が出ないようだった。
それはそうだろうと悠介は共感し、リョーマは飽き飽きだという顔をしている。
「そうだ橘! お前しかいない!」
「え? 私?」
「お前は兄貴がすごいから耐性があるし、テニスも上手い! お前しかいないんだ!」
「ちょ、ちょっと……!」
やいのやいのと背中を押され、ラケットを持たされ、コートへ入れられてしまった。
呆然とする杏は幸村を前にしてようやく状況を理解したらしい。なるほど、“神の子”と恐れられたプレイヤーとペアを組むのはひどく肩に力が入る。
幸村はにこりと微笑みかけ、緊張していた彼女はびくっと反応してしまった。
「巻き込んでしまってすまない。少しだけ、力を貸してもらっていいかな?」
「えっと、はい。よろしくお願いします」
「うん。こちらこそ」
ようやく始められる。
待ち侘びていたリョーマは肩を回して準備をした。その時、ふと視線を感じると思えば何も言わずに悠介が見つめてくる。どうせまた碌でもないことしか考えていないのだ。睨むつもりはないのだが目に力を入れて見つめ返し、リョーマは冷たく言い放った。
「なんすか」
「俺もあっちの方がいいなあと思って」
「三対一でやるテニスなんかありませんよ。バカ言ってないで構えて」
「あっちの二人は優しそうだなー……」
渋々といった態度で悠介が離れていき、レシーバーの位置に立つ。
リョーマは前衛として前に立ち、ボールは幸村から橘へ渡されたようだった。
「サーブは彼女からでいい? レディファーストで」
「いいっすよ。ガチの試合じゃないんで」
「じゃあお願いするよ。好きな時にどうぞ」
「はい。それじゃあいくわよ、宮瀬くん」
「あっ、名前知っててくれた」
杏がきれいなフォームでサーブを打った。
制服とはいえ手を抜くつもりはない。ワンバウンドしたボールを悠介が正面で迎え、ストレートで幸村の前へ飛ばした。
構えるだけでおおっという声が聞こえる中、闘志を燃やすリョーマが動き、ネットに張り付いて勝気に幸村の前へ躍り出る。
背後は悠介が守ってくれるはず。今は少しも心配せず、ダブルスへの戸惑いもない。
油断は微塵もしていなかった。その時、リョーマの脇腹の横をボールが通過する。
タンっと軽い着地音を聞いた時、振り向けばすでにボールはそこにあって、フォローのため逆サイドへ向かおうとしていた悠介が途中で拾い上げる。突然の出来事に驚いていて、リョーマも視認が遅れて通過した瞬間がわかっていなかった。
立っている位置からして、今のは間違いなく幸村が打った、はずだ。
観衆も同様、たった一球で掌握される。
ふらふらと力なく上がったボールが見上げられる。
幸村は動かず、ただボールを見ていた。
「お願いできる?」
「え? あっ、はい!」
素早く着地点に駆け込んだ杏がバウンドする前にスマッシュした。
浅い位置でバウンドしたため対処は容易い。正面に陣取り、悠介が危なげなく返す。咄嗟の判断でセンターに立っていた杏を避け、幸村とは逆サイドのコーナーを狙った。
打ち返されたのを見てから幸村が駆け出して、一度バウンドしてからベースラインを越える前に追いつく。軽い運動とは言っていたがずいぶん速い。
負けじとリョーマも走っており、ネット際で幸村の正面を陣取って待った。
来るなら来い。さっきとは違ってメラメラ燃えている目が何よりも雄弁に語っている。
「行くよ、越前君」
スイングを見た。ボールの軌道も今度は見える。しかしラケットを振り上げた時、打球はすでにリョーマの顔のすぐ傍を通過していた。
ライン上で弾んでからコートの外へ出ていく。
リョーマを信じ、逆サイドをフォローしようとしていた悠介も取れず、何よりも正面で向き合う一騎打ちでリョーマが抜かれた事実に驚きを隠せない表情だった。
「病み上がりでもこれくらいできるよ。どうだい? 少しは気を使わずに戦えそうかな」
ペアを辞退した観衆の人々は間違っていなかったのだろう。
あんな人と一度でも肩を並べてしまったら、今後どんな選手でも物足りなくなる。
背筋がぞわりとした悠介は、青ざめてそう思った。