軽い運動だ。
そう言っていた過去はいざ始まれば忘れてしまった。
汗が流れてもなお走り、一球も逃したくないと全力で動き回る。
リョーマは挑むために敢えて幸村の前へボールを出した。すでに何度か見えている。どこにでも打ってこいと強気で待ち構えた。
幸村も挑発に乗り、涼やかな微笑みを保ったままでショットを打つ。
打球は左を抜けようとしている。確実に見えていた。
素早い反応でボールを捉えて、わずかに押されながらも打ち返した。
ようやくやり返せる。そう思ったリョーマは、ネット際まで攻めてきている幸村に気付き、驚愕した瞬間には手が届くだろう右側を抜かれていた。
咄嗟に振り向くと悠介は間に合わない。
ボールは誰にも触れられずにコートを出てしまい、壁へぶつかった。
「こういうこともできるよ。うん、前より調子はよくなってるみたいだ」
「そうっすか……侮れないね」
「ありがとう。君もとてもいい動きをしているよ」
皮肉にしか聞こえない。遥か上の次元から言われているかのようだ。
真田と戦った時とは違う。
どちらが強いとか、どちらが弱いとかではない。立っている場所が違い過ぎるのだ。汗を掻くほど本気で動き回ってもいまだ対応できずにいる。
体への負担を可能な限り減らすためという理由で、幸村はここまで杏にサーブを任せていた。点を取り合うきちんとした試合でもない。
観衆の許可ももらって、打った回数は9球。
10球目を打った時、杏が一番最初に声を漏らした。
サービスエース。悠介がボールを拾えずに見送ってしまったのだ。
「先輩?」
「え、越前……俺」
リョーマが振り返ると悠介は呆然と立っている。
取れなかったはずはない。杏の打球はテクニックこそあるがパワーはさほどなく、サーブは確かにきれいだが悠介であれば取れるはずだ。
わずかに体が震えていた。ゆっくりと左手を上げて掌を見ている。
不自然な動作にリョーマが違和感を持っていると、誰よりも先に幸村が気付いた。
「視覚を失ったんだ。今、彼には何も見えていない」
聞いた瞬間は意味がわからなかった。だが、理解した途端、リョーマは静かに驚愕する。
悠介は恐る恐る顔を動かして、リョーマを探している様子なのだが、どこに居るのかわからないようで視線は恐怖しながら緩慢に動いている。
そんなことがあり得るのか。当の本人だけでなく周囲の誰もが混乱していた。
「心配いらないよ。プレーが終われば元に戻る」
リョーマは幸村へ振り返った。
先程とまるで変わらず、この異常事態で笑い、穏やかな態度を保っている。
「最後に一球。越前君、俺と勝負してくれないか。君のシングルスが見たい」
そう言って幸村はラケットを構えた。
*
「やっぱ似合ってないっすね」
暗くなっても時間は浅く、店内にはそれなりに客が入って賑わっている。
真田は普段と同様、厳しい表情を崩さず、ただ純粋に包みを開いてハンバーガーを口にしようとしていただけだ。目の前に座る赤也もそうしている。この店では何ら不思議ではない当たり前の行為をしているだけなのに、なぜか赤也は気に入らない様子で眉間に皺を作っていた。
「やっぱ真田副部長は和のイメージっすよ。お茶点てて抹茶とか、和菓子とか、寺とか刀とかそういうのっすよ。制服でハンバーガーって違うと思いません?」
「俺とて学生だ。帰宅途中の買い食いくらいする」
「そりゃそうですけど、ちょっとイメージがなあ」
「それともなんだ。俺はハンバーガーを食ってはいかんと言うのか?」
「いえいえ、そんなことは言いませんけど」
言いながらも真田は大口を開けてハンバーガーにかぶりつく。大胆な判断と豪快な食べ方は男らしくてよく似合っているのだが、やはり何か違う。
不承不承という表情で赤也も自身のハンバーガーを口にし、しかし先輩に奢ってもらった食い物は格別だと喜んだ。
我ながら珍しい状況だ。
真田と赤也は二人っきりでファーストフード店へ訪れている。今までそんな経験はない。誘われたのも今日が初めてのことだった。
周りから見ればきっと何でもない学生の帰り道なのだろう。同じ学校の生徒が客として店に来てハンバーガーとセットのポテトを食べているだけだ。大声で騒ぐこともなくて、片方は頻繁に成人男性に間違われはするが落ち着いた態度で礼儀正しい。
当人にしてみればこんなにも異常な状況はそう滅多にないのだが、そう気付く人は居ない。他の客はそれぞれ思い思いに過ごしている。
こんなにも異常事態なのにな、と赤也は口には出さず考えていた。
理由もないのに呼び出されるはずはない。
おそらくは説教。赤也は真田に怒られてばかりいた。
そもそもが厳格で鉄拳制裁すら辞さない指導好きの男だ。真面目で融通も利かない。二人きりになって怒られないはずがない。
表面上の態度はいつも通りで、赤也は内心、大変緊張していた。
「時に赤也よ」
「はい? なんでしょう、真田副部長」
「嫌に緊張しているな。まあそれはいい……さっきのことは思い出したのか?」
「さっきのこと? あぁ、保健室で寝てたあれ」
「その理由だ。覚えているのか?」
「いやぁ、さっぱり。俺ってやっぱりなんかやっちゃいました?」
「お前を呼び出したのは他でもなくそのことだ」
「やっぱり……」
何もなく一緒に帰るぞなどと言われるはずがなかった。やはり説教のためなのだ。わかっていたとはいえ少し残念な気持ちも隠せない。どれだけ厳しくて、いずれ倒す目標だと見定めていても、先輩とこうして一緒に居る時間は嫌いではなかった。
少しばかりがっかりする赤也を気に掛けず、先を急ぐ真田は改めて問いかける。
「理由もわからないのに言っても反省はできん」
「そう言われても、俺は本当に何があったのか……」
「わかっている。だが思い出せ。お前はコートで仁王と打ち合っていたんだ」
「仁王先輩と? 俺が――」
言いかけた時におぼろげな映像が脳裏に蘇ってきた。
ああ、そうだった。四人の先輩に一斉にコートへ入ってもらい、同時に相手をしたのだ。
「あ~そうだ。先輩方に頼んで同時に相手してもらったんすよ。そうでもしなきゃ、俺は」
言いかけて次なる映像が思い浮かぶ。
なぜ四人を同時に相手にしたのか。はっきり言って無茶な行動だ。既定のコートに四人も詰め込めばどこへ打っても返ってくるのは決まっている。
その理由は、圧倒的な恐怖として思い出された。
「あ、あぁ、そうか。そうだった……幸村部長に、負けたから」
真田は表情を変えずに険しい顔で聞いている。
全てを聞いたわけではない。そうか、幸村と戦ったのか。今初めて聞いて、なるほどと納得してから無言で先を促す。
赤也は思い出そうとしている。
少しずつ、一つずつ自身の経験が、自分の見た映像として蘇ってくる。
キーワードは仁王。戦っていた。彼と一対一で。
その時赤也は、まるで背に羽が生えたかのような解放感を感じる。風を掴んで、どこまでも飛んで行けそうな。そんな錯覚を覚える感覚が全身を駆け抜けた。
「あの時、俺は……!」
「そうだ。おそらくお前は赤目の状態を進化させ、そのまま“無我の境地”へ到達した」
持っていたハンバーガーを落としてしまう。普段なら大騒ぎする出来事だが、真田の顔を凝視する赤也は微動だにせず呼吸を乱した。
“無我の境地”。関東大会の決勝でも聞いた言葉だ。どんなものかは覚えている。
赤也の指先がぶるぶる震えていた。
「忘れろ。抑えるのだ。それはお前を死に至らしめる力だ」
歓喜が胸の内を満たそうかという瞬間、狙い澄ましたかのように真田が止めた。
固まった赤也は息を短く吐き出し、落ち着こうとする。
どういう意味だ? なぜ忘れなければいけない?
理解できずにいる赤也に真田はいつになく穏やかに語った。
「お前の見出したそれは危険な力だ。使い続ければ取り込まれ、依存し、本来のお前自身に戻れなくなる。自分を忘れることになるぞ」
「何、言ってんすか……俺の力でしょ? 他の誰でもない、俺の」
「たわけ。その考えが魅入られているというのだ。お前自身の力だが、そのお前の力がお前自身を破壊しようとしている。その力は、使わない方が身の為だ」
真田は叱っているのではない。説得しているのだ。日頃の態度とは違って、赤也を心配して止めようとしている。
その違いに赤也も気付いていたが、今は目を逸らせない衝動に襲われて気付いてもいた。
殺し合いのような仁王とのラリーを経験して、自分の中の何かが目覚めた。
真田はそれを危険だという。触れない方がいい。真田はいつも正しいことをしてきた。赤也を正道に進ませようとしていたのも常に彼だった。その彼が言っているのだから、忘れた方がいい。目を合わせない方がいい。
そう思いながらも誘惑には勝てず、赤也は、振り返ろうとして。
「落ち着け。息をしろ。ゆっくりとだ」
真田に肩を掴まれて、穏やかな口調でそう言われた。
過呼吸になりかけていた赤也はやっと自分の状態に気付き、ゆっくり呼吸を繰り返す。
なるほど、理解できた。こういうことだ。真田はこれを止めたいのだ。彼に止められなければおそらくすでに掴んでいたはずだ。
自らの意思で変化できそうなことに恐怖する。
手を伸ばせば、いつでも掴める位置にそれがあるのだ。
恐怖する一方で、心は勝手に動き、気付けば赤也の口元には笑みが浮かんでいる。
真田の目から見れば赤也の表情はちぐはぐだった。
瞳には恐怖が映って、見開いた状態で困惑しているというのに、口元だけが喜びを表している。すでにどこか違和感がある。これが本来の赤也の状態とは思えない。
良からぬ扉を開けてしまったようだ。
彼自身が心を強く持たなければ、いつでもその力を使えてしまう。そして使い続ければいずれ、彼は切原赤也ではなくなってしまうかもしれない。
真田が彼の下へ残ったのはこのためだ。
柳でもない、幸村でもない、真田こそが今の赤也に必要なのだ。少なくとも本人と柳はそう判断したからこの状況に至っており、迷う彼を導いてやるために向き合っている。
ハンバーガーをがぶりと噛んで咀嚼し、真田は赤也にも食事を促した。
「まずは食え。腹が減ると碌なことは考えん。対処法はその後に教えてやる」
「食欲、すっかり失せましたよ……」
「それでも食え。食えば力が増してくるぞ」
苦悩する赤也だが、言われた通りにハンバーガーにかぶりついた。
負けじと真田も自らのそれを大口で喰らい、あっという間に食べつくしてしまう。
店を出た後、二人は夜の道を歩いた。
どこへ行くのか告げられていない。それでもついていくのは何か考えがあるからなのだろうと言われずとも察していたからだ。
「お前は確かに強い。立海のエースという称号は嘘ではない」
「っス……」
「だがまだ未熟だ。テニスの力量は無論、精神を鍛えねばなるまい。今のお前に必要なのは自制と忍耐、そして誇りだ。立海の看板を受け継ぐつもりならばテニスのマナーを身につけろ」
前々から言われていたとはいえ、改めて注意されたことにより気まずさを覚える。
赤也は所在なさげに首の後ろを触り、従順に真田の背中についていった。
「これからしばらくの間、俺がお前を鍛えてやる」
「え? じゃあ俺、真田副部長のチームに――」
「甘えるな。それがお前の望みだったか? 己の野望を妥協するな」
ぴしゃりと言われてハッとした気になる。その場に居なかった彼は知っていたのだ。
「お前が幸村に挑んだのはなぜだ?」
「あの人に……認められたかった」
「ならば俺のチームで己を慰めるな。もっと強くなれ。今のお前が持つ力はいまだ未熟さを隠し切れん半端なものだ。それでは幸村は認めず、誰もついてこないだろう」
真田が足を止めた先に、古風な道場がある。目的地はそこだったようだ。
ファーストフードやハンバーガーよりよほど似合う場所ではないか。
やはりそういうことかと考えて、ここで何が行われるのか、期待を表して赤也の口元に薄く笑みができつつある。
「赤也よ。俺はお前を次期部長に推す気はこれっぽっちもない」
「え!? なんでっすか! 俺は――!」
「三年生の引退後、部を引っ張る力となるのは間違いなくお前だろう。しかし今のお前はあまりに不安定だ。今のような試合を続けていれば必ずや部に軋轢を生み、部員の心は離れていく。それでは俺たちの期待に応えられんはずだ」
鍵を開けて、中へ入る。
無人の小さな道場はひんやりしていて空気がそこにあることをより鮮明に認識できるかのよう。
堂々と足を踏み入れた真田に続き、赤也は戸惑いながら靴を脱ぐ。
「俺を失望させるなよ。力を蓄え、俺を超えていくがいい。そう簡単にはいかんがな」
「は、はいっ!」
「では構えろ。一から鍛え直してやる」
竹刀をぽんと投げ渡されたことで、赤也は慌てて鞄を置いた。
俺はまだ強くなることができる。何をさせられるのかはわかっていないものの、真田が直々に鍛えてくれるこの状況、そして期待されているのだという事実が確かに決意に変わった。
言われるがままに竹刀を構え、真田の特訓は誰にも知られずに始まった。