急な来訪でも竜崎スミレは流石の貫録でまるで動じなかった。
わざわざ職員室ではなく応接室を用意したのは、客人であるという理由だけでなく、相手に敬意を払う態度があったからである。丁重に扱う必要があるだろうとの判断があった。たとえ相手が学生だとしても。
「なるほどね……そういうことかい」
スミレの呟きに幸村はにこりと微笑んだ。
理解してもらえたようでよかった。そんな様子が窺える。
まさかの提案であったが、なるほど、そんなことを考えていたとは。中々面白いと思ってスミレは笑みを浮かべていた。
おそらく受け入れてもらえるだろうと幸村が思うのも当然だった。
「あんたはそれでいいのかい?」
「はい。彼なら大丈夫だと思うので」
「こちらとしては嬉しい話だけど、あんたに何の得があるのかわからないんだ。ぜひ聞かせてもらいたいんだけどねぇ」
問いかけても幸村は迷いを見せず、穏やかだが毅然とした態度だ。
強い覚悟を感じる瞬間だった。
スミレは感心して話を聞く。
「できることはなんでもやってみたいんです。しばらく入院していましたから」
「噂は聞いているよ。もう平気なんだね?」
「ええ。周りには心配されているんですがね。流石に試合をできるほどではありませんが、日常生活に問題がない程度には回復しました。本当はテニスがしたいんですけどそれもできないので、だから自分以外の誰かを導きたいと、そう思ったんです」
「その考えは立派だけど、立海の方は平気かい?」
「彼らのことは心配していませんよ。俺が居ない間も上手くやっていました」
幸村は笑みを絶やさずに、目には意志を表しながら語っている。
「むしろ、彼らと少し距離を置くことでさらに強くなってくれるのではないかと思っています。まあ、大会に参加したい俺のわがままかもしれませんがね」
「たとえそうだとしてもあんたを否定したりはしないさ。ただあまり無理をするんじゃないよ。体を壊さないように十分注意しな。仮に指導だけだとしてもね」
「ははは、気をつけます。みんなにもよく言い聞かせられているので」
幸村が佇まいを直して立ち上がった。
もう行くのだろう。やる気が感じられるので一所でじっとしていられないのかもしれない。
スミレも立ち上がり、彼を送ってやろうとする。
「勝手で失礼ですが、俺はそろそろ次へ行きます。まだメンバーを探さなければならないので」
「ああ。あいつらにもよろしく言っておくれ。負けるなよ、とね」
「はい。ちゃんと伝えておきます」
「手続きの方はきちんとやっておくよ」
「ありがとうございます。それでは」
スミレがそう言うと、幸村は心底嬉しそうに微笑んだ。
*
幸村のチームに加入することになって以降、学校の部活動への参加は免除されるらしい。コートを貸してほしいのならば話は別だが、そうでもないなら顔を出す必要はないと言われてしまった。スミレには端的に「帰りな」とまで言われている。
普段は青春学園のテニスコートで練習している時間に、追い出されてしまった悠介とリョーマは数日前にも訪れたストリートコートに来ていた。
近頃は人が来ていないのか、それとも時間帯の問題か、利用者は少ない。
橘杏が居たのは不思議と安心する要因だった。まだ友達と呼べるほど親しくなったつもりはないものの、顔見知りである彼女が快く迎えてくれたのは有り難い展開だ。
「宮瀬君、ちゃんとテニスできる?」
「えっ? 何をいきなり」
心配そうな顔の杏に問いかけられて、言葉面だけを受け取り、早々にディスられているのか? と悠介はどうしようもなく心配になった。
よくよく表情を見れば傷つけようとする意思がないことはわかるはずなのだが、ただでさえ同じ学校の女子ですら話す機会は多くない青少年だ。見てくれを見て滅茶苦茶下に見られているのかもしれないと疑心暗鬼になってしまう。
そうなっているのだろうと気付いたらしく、杏はすかさず説明を始めた。
「そうじゃなくて、この間、幸村さんと試合したでしょ? そのことだよ」
「あ、ああ、そうなんだ。そのこと……ってどういうこと?」
「あの後、気になって調べてみたんだ。そうしたら、幸村さんの噂を聞いたの」
「まあ、全国常連のすごい人だからね」
「幸村さんと対戦した人、ほとんど必ずと言っていいほどテニスをするのが怖くなってイップスになってるんだって。あの時、宮瀬君も目が見えなくなったんでしょ?」
言われて思い出す。
あの夜を想えば今でも恐怖が湧き上がってくる。だからあまり考えないようにしていた。
プレーの間だけ見えなくなったはずの左手の掌を見つめて、悠介は記憶を辿った。
まだ万全ではないと言っていた幸村は、それでも驚くほど強く、ボールをどこへ打っても必ず自陣へ返ってくる。それだけならば上手い人はいくらでも居るため珍しくもない。だが幸村のテニスは明らかに他とは一線を画していた。
徐々に視界が狭まってくる感覚があったのだ。おそらく、どこへ打っても必ず返されるというイメージが頭から離れなくなり、自らの肉体に影響を及ぼしていたのであろう。
幸村はただテニスをしていただけだ。だがあまりに強過ぎた。
強過ぎることが相手に勝てないという強迫観念を持たせ、五感を奪い取ってしまう。
一つでも感覚を失えば普段通りにはプレーができなくなり、逃れようのないイップスとなって、やがて幸村に敗北する。
噂は聞いていた。知っているつもりになっていた。体感して驚いたのは、凡人の予想など遥かに超える衝撃を与えられたからだ。
最強と呼ばれるのも納得だ。あの人に勝てる人物を誰一人として想像できない。
「正直、思い出すと怖くなるよ。突然目が見えなくなって何が起こったのか理解できなかった。今ならわかるけど、あれは、俺が幸村さんを怖いと思ったからだ」
「うん……」
幸村自身はいつも優しい。
言葉遣いは柔らかく、悠介の想いに共感を示して、考えが違っても穏やかな態度を崩さず、異なる選択肢を提示するに留まり、決して変化することを強要しなかった。ここ数日のやり取りを通してみても、本人と接した悠介は彼を優しい人なのだと思っている。
だからこそ、その反動も手伝って、まるで隙の見えない彼のテニスは恐ろしい。勢いで押しても攻撃に専念しても持久戦に持ち込んでも、絶対に勝てない。そんなイメージを叩き込まれて体が思うように動かなくなり、まるで縄で縛られたかのように歩くことさえ難しくなった。
あのまま続けていても、きっと自分一人だったならば降参して試合を放棄したはずだ。
越前はどうだっただろうか。ふとそう思う悠介は、リョーマならきっと最後まで続けようとしたのだろうな、と考える。
ふーっと息を吐いてコートを眺める。
行き交うボールは気合いを入れて打ち返されていて、それは打っている本人を見ずともインパクトの音を聞けばよくわかった。
「大丈夫、テニスができなくなるほどじゃないよ。でも今は、幸村さんと試合をするのが怖い。またああなるんだろうなって思うから」
「そうだよね……でもよかった。テニスをやめようとは思ってなくて」
杏がにこりと笑いかけると、少し驚いた顔をした悠介の表情から力が抜けて苦笑した。
「もうちょっと前だったらやめてたかもね。ちょうどぐらついてた時があるから、立ち直っててよかったかな」
「そうなんだ。何かあったの?」
「うーん、優秀な同級生と生意気な一年のせいかも」
「ふふ、なるほど。それはしょうがない」
納得した様子の杏がコートへ視線を戻した。
今日はずいぶん荒れているなと思っていたところで、理由は間違いなく幸村だろう。しかし悠介とは対照的な姿になんとなく理解した気になる。
一人でコートへ入ったリョーマの対面には、偶然訪れていた青少年が四人立っている。本人の希望によって四人を同時に相手にして点を取ろうとしている。
これで取れなきゃ、あいつから取れない。
やけに怒っているリョーマはそう言って臨んでおり、その目はすでに超えなければならない男を見据えているようだった。
「本当にすごいね。越前君」
「うん。俺なんかよりずっとすごい」
今日のリョーマは何かが違っていた。相手コートへ打ち込む打球はいつにも増して迫力があり、四人が同時に守るコートから点を取ろうと躍起になっていて、打ち返す度に打球が強くなっているようにすら感じられた。
一体どこまで行くつもりだ。限界はあるのか。
コートの外で見守る悠介は寂しげにも見え、杏がその表情を気にする。
「宮瀬君だって頑張らなきゃいけないでしょ? 負けてられないよ」
「そりゃ、頑張ろうと思ってるけどあいつには勝てないって」
「そんなことない。諦めたらそこで試合終了だよ? 諦めなきゃチャンスはあるんだから」
「あ゛ぁ~、メンタルが激ヨワだってあいつに言われてるなぁ、俺」
「ふふふ。ここから、ここから。幸村さんくらい強い人と戦ったら逆に諦めもつくでしょ。死ぬ気で努力すれば何とかなる」
可愛い女の子が応援してくれるという、思春期の男子としては嬉しい状況だ。ただ悠介は異様にメンタルが弱いことを指摘されていて、嬉しい反面、ぐっと心に重くのしかかる。
両腕で抱えた自分の膝に頭を預け、彼は見るからに疲れた顔を見せた。
「ひょっとして俺のこと死なせようとしてる?」
「え? そうなっちゃうかな」
「結構頑張ってるつもりだったんだけどなー……結局あの結果だもんなぁ」
「いや、うん、頑張ってるよ。宮瀬君はよく頑張ってる。ただちょっとレベルが、あっ、いやそうじゃなくて」
「そもそもレベルが違い過ぎるからなー……」
「ううんっ。そんなつもりじゃなかったの、ごめんね?」
ますます落ち込んでしまったようだ。
自らの膝に顔を押しつけてしまう悠介に、杏はそっと寄り添い、困りながらも元気付けようと優しい声をかけていて、肩に触れてわずかに揺り動かした。
拗ねてはいるが一応顔を上げてくれる。しかし悠介は大きくため息をついた。
「スポーツは結局才能か……」
「そんなことないよ。うちの石田君や神尾君だって精一杯努力して強くなったんだから。宮瀬君だってまだまだこれから成長できるよ」
「石田君って、ガット破ってた人でしょ?」
「うっ」
「神尾君は走ってる自転車追い抜いちゃうし」
「それは私もどうかと思うけど。でも努力すれば誰でも――」
言いかけて杏自身も疑問を持ち、果たしてそうだろうかと考えてしまう。
答えはすでにわかっている気もしたが、縋るように悠介は聞いてみた。
「……できるようになる?」
「うーん……」
杏は腕組みをして目を伏せ、眉間にはわずかに皺ができ、改めて真剣に考えてみる。
やはり即答はできなかったようだ。
改めて考えれば考えるほどとんでもない技を持った選手が多い。努力すれば誰でも彼らのようになることができる、と言い切ってしまうのは無理がある気がする。
「でも、なんとかなるかもしれないから」
「俺はそう思えないんだけどなぁ……」
「ほっといていいっすよ。この人いっつもこうなんで」
テニスウェア姿で汗を掻き、タオルで顔を拭いながらリョーマがやってきた。
杏は咄嗟に彼を見て、興味を持つようにリョーマの言葉を待つ。
「必殺技ないとか言ってますけど、不二先輩の“
「えっ、そうなの? すごいじゃない宮瀬君。もっと自信持った方がいいよ」
「それは無理っすよ。メンタル激ヨワなんで」
「うん、それはちょっと思った」
「お前らが敵にしか見えなくなってきた……」
馬鹿にされているらしいと察して悠介は敵意を露わにし始めた。
苦笑した杏は否定するために小さく手を振って、いつものことだとリョーマは意にも介さない。あらかじめ用意しておいたドリンクを口にしている。
「自信持ったってレギュラーにはなれないしさ。それで痛い目に遭ったんだ」
「あはは……青学は部員も多いだろうからね。そういう人も当然居るよね」
「それはいいですけど、次は先輩ですよ」
「は?」
「四人居るんで点取ってください」
リョーマに指し示されて悠介は絶句した。なんて馬鹿げたことを言っているのだろう。関東大会で真田に勝ったリョーマですらずいぶん苦労したというのに、できるわけがない。
態度を見ただけで逃げ腰なのだとわかる。そこまでは予想通りだ。
嫌そうな彼の顔を見てもリョーマは驚いてはいなかった。
「あれお前の練習じゃないの?」
「違いますよ。あれくらいできなきゃあの人には勝てないんだから先輩もでしょ?」
「ダブルスで挑もうと思ってる?」
「ダブルスで負けたじゃないっすか」
「俺、幸村さんに勝てる気がしないんだけど」
「頑張ればなんとかなるでしょ」
呆れた悠介は開いた口を閉じられぬまま、一瞬黙ってから改めて言う。
「お前バカだなぁ」
「先輩もバカでしょ」
「まあまあ」
苦笑する杏が止めに入るとリョーマが再びラケットを握った。
もう一度やるのだろうか。そう思った悠介に振り返る。
「だったら、俺と試合しましょうよ。今度は本気で」
正面に立ったリョーマは目を覗き込んで、真剣な表情で言ってくる。
今になって思い出したが、本来のプレースタイルに戻してからリョーマに勝負を挑まれたことは一度としてなかった。大会のことや色々があったから暇がなかったのも確かだが、言われるまで全く気付かなかった。
関係は変わらずに続いていたため、てっきりもうなくなったのかと思っていた。
リョーマは真剣な様子だ。冗談や苛立ちをぶつけるためではない。
今ここで、本気の悠介と戦ってみたいと、強い意思を示すその目が雄弁に語っている。
「先輩は勝てないみたいなこと言いますけど、俺と本気でやったことなんかないじゃないすか」
「それは……その」
「もう腹括ったんなら、やってくださいよ」
表情からは迷いが感じられたが、結局、後輩のおねだりには弱い男だ。
盛大にため息をつき、仕方ないという態度ではあったものの、すぐにラケットを手にとって立ち上がる。制服を脱いでテニスウェアになったのも本気の証だ。
思いがけない試合が見られそうだと知って杏が期待して頬を綻ばせていた。
「しょうがない……一回だけだからな」
「1セットマッチですからね」
「はいはい」
「じゃあ私審判やる。二人とも頑張ってね」
生き生きと杏もコートの傍へ立つ。
向き合った二人は表情が変わり、急に決まったゲームだが、本気でやり合おうとしていた。