「えっと……確かに彼はうちのテニス部員だけど」
「どこにおんの?」
青春学園のテニスコートの入り口前に立ち、大石は困惑していた。
すでにチームへ加入するようスカウトを受けていた彼だが、続々と先輩たちが練習に参加できなくなる状況を心配して、部活動の様子を見に来ることが多い。今日もそうして部員のメンタルに気を配っていた時、来訪者は突然現れた。
副部長として向き合い、渡された写真を見て嫌な予感を覚えたのである。
少年は前触れもなく一人で現れた。
逆立った赤い髪、豹柄のタンクトップ、古びたラケットを背負い、非常に小柄だ。目はくりくりと大きく、感情表現が豊かで、今は唇をきゅっと結んでいる。
目的はおそらく道場破り。テニスであるこの場合はコート破りとでも言うべきか。とにかく写真の男を探しているのは勝負するためではないかと察するのだ。
こういった状況は初めてだ。過去の活動でも経験がない。全く初めての体験に大石は困惑すると共にどうしたものかと悩んでいる。
「彼は今、関東ジュニアオープンテニスという大会に出場するために、チームのメンバーと練習しているんだ。だからここには居ないんだよ」
「ほんならどこに行ったん?」
「それは、俺にもわからないけど……」
「多分あそこっすよ。大石副部長」
大石が言い淀む一瞬、助け船を出そうと桃城が声をかけてきた。
近頃は自らのチームを結成するために駆け回っていた彼だが、練習場所として青学のAコートを使わせてもらっているらしく、彼だけはメンバーを連れて青学で練習している。
助けてくれたのは有り難いが、果たして教えていいものかどうか。
悩む大石とは裏腹に、桃城は面白そうだと思って教えた。
「無料で夜も使える一面だけのストリートコートがあるんで、そこに行ってるんすよ。宮瀬から聞いたんで間違いないっす」
「そ、そうか。だそうだけど、場所はどこかわからないし……」
「俺が教えましょうか? 前に行ったことあるんで」
「おい、桃」
「大丈夫っすよ。多分大石副部長が考えてる通りでしょうけど、面白そうじゃないっすか」
可愛げのある笑顔ではあるが悪巧みをするように笑っている。
大石は頭を抱えて嘆息した。
宮瀬の苦悩がわかる気がする。こういった仲間に囲まれて振り回されているのだから、確かに気が滅入るのもわからなくはない。
「つーわけで、俺が連れてってやるぜ」
「おう。よろしくなー」
年上だとわかっているのかいないのか、気楽な関西弁で喋って少年は笑う。
大石から写真を返された彼は、写っている顔を見て闘志を覗かせた。
「ようやく戦えるなぁ……コシマエリョーマ」
「え? いや、彼は……」
*
一球目のサーブを打つ前から、リョーマは左手でラケットを握っていた。
これまでの練習試合では右手に持っていることが多くて、一度も勝ったことはない。その時も手を抜いていたつもりはない。ただプレースタイルは明確に違っていて、覚えた技の一切を使わなくなっていたのは確かなのである。
それを許さない。リョーマの鋭い眼差しははっきりと伝えていた。
もちろん、そのつもりはない。
今日ばかりは本来のスタイルで、持てる力を全て注ぎ込む。
そうしなければ後が怖いだろうと、こんな時でも悠介は不安に襲われていた。
「行きますよ」
「どうぞ」
宣言してからリョーマがサーブを放つ。
逆回転ではない。真っ直ぐやってきたボールを打ち、相手コートへ返した。
ひどく静かな立ち上がりだ。際立った特徴もなく、スイングや打球は美しいが、それだけならばほんの五人程度の観客も驚きはしない。
早速攻めようとリョーマが勝ち気を見せた。
ボールを強く打ち返し、素早く前へ走ってくる。シングルスを、殊更ネット際での決め手を得意としている彼に迷いはなかった。
そうした戦法を知っている悠介だが、あまりにもリョーマが速く、ネットに到着する前に返すことは難しい。
咄嗟の判断でロブを上げる。
そう来るのはさほど珍しい判断ではない。誰にでもできることだろう。踵を返したリョーマは素早く追いついて、振り向いてから打つ程度には余裕があった。
どちらが仕掛けるのか。
杏が考えた途端、悠介が動く。
ネット際の対決を得意とするリョーマを相手に、悠介が前へ出てきたのだ。スピードは見るからにリョーマの方が速い。それでも、ロブを上げて後ろへ下げたため彼の方がネットに近付く。
返ってきた鋭い打球を返そうとする。
その構えを見て、咄嗟に気付いたリョーマは先に走った。
繰り出された“スネイク”は大きく曲がって地面を跳ねた。
気付くのも走る速度も速いリョーマは追いつき、逆に隙だらけに見えるスペースを狙う。力を入れてストレートで打球を返した。
意外にも、菊丸を連想させるダイビングボレーで悠介が飛びついてくる。ネット際から急角度でボールを返されて、常人であれば得点されていただろう。
諦めずに走っていたリョーマは確実に以前より速くなっていた。
今しがた見たのと同じように、地面を蹴って着地を考えずに跳び、背筋と腕を伸ばして辛うじて打球を拾う。返ったのはギリギリだったがそれが良かったのだろう。
急いで起き上がっていた悠介はコートの端に落ちるボールには届かなかった。
「くそっ」
「残念。足は俺の方が速いんで」
「いちいち言わなくていい」
「ふぃ、15-0……」
観客が居ないせいか、意外なほど静かだったが、たった今見た攻防はおよそ普通とは言えない。
海堂薫の得意技“スネイク”に、菊丸英二を思い出させるダイビングボレー、常人を超えた足の速さと一瞬の判断力。
流石は青学。そう言われずにはいられない1ポイントだった。
「マジかよ……」
「速過ぎね?」
「こっちのはレギュラーじゃないって聞いたのに」
「めちゃくちゃ球曲がったけど……」
先程、リョーマに協力してその強さを痛いほど思い知った四人が言葉を失っている。
彼らの反応など気にならない。ラインの外まで戻り、地面にボールをつきながらリョーマが悠介を見て言った。
「俺、負ける気ないんで」
「知ってるよ。一回も負けたことないんだから」
「だから本気でいきますよ」
リョーマが放ったサーブは、地面に触れると同時にぎゅっと沈み込む。凄まじい逆回転で一瞬力を溜めてから、弾き出されるように跳ね上がった。
その技は知っている。悠介はいつもの通り、ツイストサーブに反応した。
確かに普段より力強さは感じたが、彼と試合をした回数は最も多い。たとえ敵わないと知っていても経験ならば誰よりも積んでいる。
強烈なストロークで真っ直ぐ返した。
打ち返した後になってリョーマの姿が見えないことに気付いた。
スライディングで姿勢を低くしていた彼がネットの下から勢いよく飛び出してくる。
狙う場所は知っている。だが届かない。繰り出されたドライブBがコートの隅を叩いて、まるで悠介から逃れるように外へ出ていった。
「へへっ」
「くそ~、俺だってわかってるんだぞ?」
「だったら返してくださいよ」
「あ、傷つく一言」
すぐに準備をしてリョーマがサーブを打つ。
もはや観客がついてきているか否かなどまるで気にしない。リズム良く打って自分のペースに巻き込もうとしている。
そうでなくとも彼は観衆の反応など気にしないだろう。悠介も冷静に対処した。
とにかく攻撃を得意とするプレーヤーなのだ。攻めて攻めて攻めまくる。何よりもそんなテニスを得意としている。
対して悠介は状況によって対処を変える手数の多さを武器にしようとしていた。抑えの利かない爆発力を持つリョーマとは相性が最悪。考えている間にまた攻められているので一手が遅れる場面が非常に多かった。
これまでの経験から、向き合い方を変えなければいけないと判断する。
悠介は最初の一手から攻めた。
相手が攻めてくるのなら敢えてこちらからも。単純だがリョーマの虚を衝くことに成功する。
大石直伝の“ムーンボレー”を放ち、大きな半月状を描いてベースライン上を狙う。
前へ出ようとしていたリョーマは冷静に、しかし急いで踵を返した。彼の足ならば間違いなく追いつくことができるだろう。問題はその後だ。
後ろを向いたままジャンプして、リョーマはコートに背を向けたままボールを打ち返した。
素晴らしいテクニックで返ってきたボールを見ても驚きはない。それが越前リョーマの当たり前だからだ。悠介は冷静に打ち返そうとしていた。
驚いたのはリョーマの方だ。視線でボールを追っていると彼の構えを見て声を漏らす。
返球を予想して前へ出ていた悠介が優しくラケットを振るい、ボールに触れた。
ふわりと飛んでネットを越え、地面に触れた途端、強烈なスピンで転がる。ころころと転がるそれは悠介の方へ向かっていく。
手塚が誇る伝家の宝刀、“零式ドロップ”。
なんてものを持っているんだと、リョーマは思わず苦笑していた。
「よくもまぁ、そんないっぱい……」
「一番苦労したんだぞ。手塚部長もいい人なんだけど口数は少ないし」
「まあ俺もできますけどね。教えられてないけど」
「あ、そっちの方が傷つく……」
がっくりと肩を落としてしまう悠介は、どうにもメンタルが弱かった。性格をよく知るリョーマだからこそでもあるが、比べられてしまうとどうにも気落ちしがちだ。
そうして彼がショックを受けた瞬間、黙っていることができなくなり、コールも忘れた杏が思わず悠介へ声をかけてきた。なぜかちょっと怖い顔をしていて、その背後に居る青年たちも開いた口が塞がっておらず、おや? と不思議に思ってしまう。
「ちょっと、宮瀬君」
「何? アウトじゃないよね?」
「違うけど、あなたなんで落ち込んでたの?」
「なんでって……」
「あなた、全然普通じゃないわよ」
「え、なんで」
四人の男たちもうんうんと首を縦に振っている。何やら緊迫した雰囲気に感じられて、それほどおかしなことをしただろうかと考えてしまった。
悠介にしてみれば、教えてもらった手塚とは比べ物にならないほどバレバレの攻撃で、実戦で使うには奇襲くらいしか使い道がない一打である。手塚のそれは他の攻撃とほぼ変化がなく、本当にどちらかわからない状態で奇襲に使える。しかし悠介の零式ドロップはラケットヘッドが大幅に下がるため、見る人が見れば何を狙っているのかは即座に伝わってしまう。
本物をよく知るが故にまだまだだと考えるのだ。
たとえ質の悪い模倣でも、使えること自体が凄いとは思っていない。
なぜ彼らが恐れ戦いているのか、悠介にはまるで伝わっていなかったようだ。
「はぁ、心配して損した……」
「ほーんと嫌味な先輩ですよね」
「あれ? 嫌われようとしている」
目指す位置が高過ぎたのか、はたまた越前リョーマとの試合の日々が感覚を狂わせたのか、杏には不評を受けたようで少し傷つく。
それでも試合は続くらしかった。
リョーマが再び位置につき、悠介も自然と意識を試合へ戻していく。
「本気で行くって言った手前、俺もアレ使わなきゃだめっすよね?」
「いやいやいや。ちょっと待って越前君。俺取ったの1ポイントだけだよ? そもそも真田さんとか手塚部長とかじゃないんだからね」
「さっきの、ちょっとイラッとしたんで」
「ど、どうしてでしょう。謝るからやめとかない?」
「You still have lots more to work on.(まだまだだね)」
フオンっと風の音がした。
サーブを構えるリョーマの体からオーラが吹き出されて辺りの空気が一変した。
関東大会決勝、真田弦一郎と戦った時に見せた状態だ。行動を共にすることが多い悠介は切原赤也と戦った際にもこれを見ている。
どうやら“無我の境地”という状態らしい。
精神が研ぎ澄まされ、肉体は普段以上の身体能力を得て、能力は格段に向上する。
いわゆる覚醒した状態なのだと、その手の話に詳しい人物が語っていたのを聞いたことがある。
この状態になった時、リョーマの真価が発揮される。真田との試合を見ている限りでは制限時間は非常に短く、下手をすれば満足に動けなくなるほど疲弊する技なのだが、中学一年生とは思えないほどのスタミナと気迫を持つリョーマはその力を使いこなしているように見えた。
今まで見た様々なテニス、様々な技を模倣し、時には本人さえも超えて、自らのテニスをさらに強化させてプレーを行うことができる。
悠介は思わず冷や汗を垂らした。何もそこまで本気になることはないじゃないか。
「あのー、越前君。僕は普通のテニスをする予定だったんですけど……」
「行きますね」
「聞いてくれるわけありませんよね。あぁもう、やるよ。やりますよ」
ボールが放り上げられて、ラケットが振るわれる。
直後には腰を落として身構える悠介の股の間を抜かれた。
速過ぎて反応できない。それどころか見ていた人々は何があったのかも理解していなくて、あんぐりと口を開けたまま硬直し、コールもなかった。
「ちなみに今の入ってるよ」
「え? え? え?」
「はぁ~……またボロ負けの予感が」
混乱する杏は中々状況を理解できず、とりあえずでリョーマに従って得点を告げた。果たしてこの試合の審判を務められるのだろうかと大きな不安に襲われていた。
それは悠介も同じで、このままでは滅茶苦茶にされてしまうと心から不安で震えている。
リョーマだけが楽しげに、本気の勝負を楽しもうと口元に弧を描いていた。