呼び出された橋が見える河川敷に、彼は立っていた。
川を眺めて背を向けている。ジャージではなく制服姿だった。それでもこれとわかる後ろ姿で、一度足を止めたが近付いていく。
足音が聞こえれば相手がわかったのだろう。声をかける前に振り向いた。
「約束の時間ちょうどに来る確率、100%だ」
「そちらこそ、約束の時間の五分前に来る確率100%だよ」
出迎えた柳蓮二の前で立ち止まり、乾貞治は次の言葉を待った。
妙な緊張感があった。互いにデータ収集を得意とする者。何の話であるかは悟っていて、また理解した上で来ているだろうこともわかっていた。
意思を窺うかのような幾ばくかの沈黙があった後、柳が口を開く。
その声からは不思議と強い決意が感じられた。
「貞治、俺のチームに入ってくれないか? 優勝するにはお前の力が必要だ」
冷静沈着な彼には珍しい力の入りようだと感じる。その提案自体は予想できていたとはいえ、乾は一瞬、気圧されて言葉を失った。
よほどの事情があったのか、そうした態度は予想していない。だからこそなのか、乾は自分でも驚くほど迷わずに決断する。
予感はあった。
仮に彼から誘われればおそらく自分は迷わないだろう。そう判断すると知っていた。
フッと笑った乾は鞄からノートを取り出す。
膨大な情報が収められたそれはいつしか彼の専売特許のように扱われている。だがそもそもを振り返れば教えてくれたのは目の前に居る柳だ。
「俺のデータが必要なら、喜んで力を貸すよ」
「データだけではないさ。お前なら心から信用できる。俺に勝って青学を優勝させたテニスを、今度は俺のために使ってほしい」
「それでまた強力なライバルを作ってしまいそうだな、教授」
「次は負けんぞ、博士。だがその前にまずは関東ジュニアオープンテニスだ」
柳も薄く笑みを浮かべて、彼を迎え入れる。
幼少の頃、かつてダブルスを組んでいた二人が再び力を合わせることになった。
良い成績で終わろうだなんて思わない。目指すのは優勝、それのみである。乾は瞬く間にそうした柳の意思を汲み取り、同意した。
「大会に勝ち進めば手塚や真田とも戦うことになるだろう。俺たちのデータを揃えれば対処法を見つけられるかもしれない。研究が必要だな」
「ああ。それに奴らもこの準備期間で腕を上げてくるはずだ」
「他のメンバーは?」
「これから探す。だからお前の力が必要なんだ」
「責任重大だな」
そう呟く乾だが顔には笑みが浮かんでいる。
厄介とも称することができる相手ばかり思い出されるが燃えてくる展開だ。何があろうとも勝たなければと思う。
柳と乾はやる気を見せ、早速手元にあるデータの共有を始めた。
*
「なんだか面白いことになっているね」
「面白くないですよ。怒られるし手首痛いし……」
ぶすっと拗ねた顔の悠介を見て、尚更幸村はにこにこしている。
彼の到着によって二人の試合は中断されてしまい、もっとやらせろと金太郎がうるさいが、面倒に感じていたリョーマはあっさり負けを認めた。どうせ一回勝ったし、と思っていたら中断されては勝ったとは思えないらしく、金太郎は鋭意抗議の最中である。
近頃はあちこちへ赴いていたらしい幸村と会うのは妙に久しぶりに感じる。
試合をするとなれば怖いと思うとはいえ、普段の彼はむしろ好きだ。
拗ねてはいてもファンを自認する悠介はいくらか喜んでおり、当然のように彼へ笑顔を見せる。
「四天宝寺の一年生、遠山金太郎君か。噂には聞いてるよ。全国大会出場を決めたらしいね」
「へぇ。有名な子なんですか」
「関西ではスーパールーキーと呼ばれているらしいよ。越前君と同じだね」
「あぁ~、それで戦いに来たって……」
「なー頼むわコシマエ。もっかいやろうや~。こんなん勝ったわけやないも~ん」
「しつこいって」
強気の主張が通らないと察してついに駄々を捏ね始めている。リョーマは面倒そうに回避しようとするのだがそれでもめげずに正面へ回って懇願していた。
およそ“西のスーパールーキー”には見えない姿である。
それでいてリョーマとは案外仲良くできそうなのではないかとも思い、悠介は微笑ましく二人のやり取りを見ていたのだが、幸村の視点では違ったようだ。
「彼を君のチームに入れられないかな」
「それは無理でしょう。大会に関東ってついてるくらいですから、関西の学校には話通ってないでしょうし、そもそも授業もあるでしょうし」
「うーん、でもなんだか残念だね。彼もきっと凄い逸材だと思うんだけど」
「確かにすごかったですよ。ちっこい奴なのにとんでもないパワーでしたから」
「ちっこい言うなや!」
「ちょっと落ち着きないですけど」
「やっぱり惜しい。このまま手放すのは惜し過ぎるな」
ふむふむと頷いた幸村は何か思いついたらしく、悠介に振り返ってにこりと微笑む。
「氷帝の榊先生を頼って交渉してもらおうか。特例として彼だけ認めてもらえないかな」
「えー? 無理だと思いますけどね。あの人頭固そうだし、関西の事情もあるでしょうし」
「だけどこのまま諦めるのは悔やまれるよ。君のチームに彼が加入すれば戦力が――」
「あれ? さっきも気になりましたけど君のチームって言ってません?」
「あっ」
悠介と幸村が異常を感じてぴたりと固まった。
激しい交渉をしていたリョーマと金太郎も異変に気付き、二人に目を向ける。今は話を聞いておいた方が良さそうだと判断したのだ。
「しまった」
「えっ!? なんか話違いません!? 俺は幸村さんのチームに入ったんですよね!?」
「うん、当初はその予定だったんだけどね。やっぱり君がリーダーをした方がいいんじゃないかと竜崎先生にお願いしておいたんだ。だから今は君がリーダーかな?」
「何それっ!? ちょ、何を勝手にそんな……!」
「まあまあ落ち着いて。ちゃんと説明するから」
激しく動揺して騒ぎ出す悠介の肩をぽんぽんと叩き、ひとまず近くの椅子へ座らせる。
幸村は普段と変わらずにこにこしており、今ばかりは敵意を削ごうという明確な考えがあった。
「考えてみたんだけど、俺は試合には出られない。監督やコーチをするだけなら正規メンバーとして参加する必要もないと思うんだ。リーダーは試合に出る人間が務めた方がいい」
「いやっ、それは……」
「だってそうしなきゃ試合に出られないリーダーを含めて五人編成のチームになる。それだと結果的にメンバーが四人なのと何も変わらないんだ。だから俺を外して、君がリーダーになって、残る四人のメンバーを集めた方がもしもの場合に備えられる」
「そうかもしれませんけど、えっと、色々言いたいことがあって」
頭を抱える悠介はうーんと思い悩み、普段にも増して思考を素早く巡らせる。
言いたいことはここで今すぐ言っておかなければ。今回ばかりは流石にファンだとか憧れているとか言っていられない。全く予想しなかったとんでもない事態になろうとしている。
今ここで止めなければと、必要以上ににこにこする幸村へ訴えかけた。
「事前にそれを思いついていなかったんですね?」
「うん。全く気付かなかった」
「俺と喋ってて気付いたわけですか」
「そうだね。チームについて色々話したからね」
「で、俺をリーダーにしようと。それもちょっと問題だと思うんですけど、それ以上に、なぜそれを俺に言わないんですか?」
「……サプライズをしようと思って」
「ひょっとして忘れてました?」
「まさか。俺がそんなに大事なことを忘れるわけないじゃないか。ごめんね?」
はははと大げさに笑って見せて、幸村は勢いでこの場を乗り切ろうとしていたようだ。
言葉を失う悠介とリョーマは白い目をしていて、金太郎だけがなんや? なんや? と覗き込もうとしている。
「まったく、少し入院していたからかな。本気でテニスができない分暗躍しようかと思ったけど意外に上手くいかなくてね」
「暗躍って……それは別に病気とか入院関係ないんじゃ」
「実は今日までにメンバーのスカウトも失敗していてね。氷帝の日吉君と不動峰の伊武君に断られてしまったんだ」
「えぇ……」
「ふふふ。まさかの反応だったよ。どうやら俺が来たのが気に入らなかったらしい」
一瞬、遠い目をした幸村はすぐに笑顔でそれを隠した。
どうやらそれなりにショックだったらしい。あぁ、と二人は妙に納得してしまう。
「当初の予定では君たちと日吉君、伊武君、あともう一人を加えたチームにしようと思って、俺がリーダーになると邪魔だなと思ったわけだけど、結局そっちもダメになっちゃったね。あはっ」
「いや笑えませんって」
「そういうわけだから、関西のスーパールーキーをもらうくらいしなきゃやってられないよね」
「なんか幸村さんのキャラがどんどん……」
「退院の解放感でおかしくなったんじゃないっすか?」
にこにこしているがどこか傷ついているようにも見える。
あまり滅多なことは言えず、悠介が気まずそうに黙ってしまうものの、リョーマはやれやれと言いながら背を向けてしまった。
わかっていなさそうな金太郎だけが小首を傾げて不思議そうにしている。
「ふぅ。ちょっとはしゃぎ過ぎたことは否めない。だからやっぱり宮瀬君がリーダーになった方がいいんじゃないかと思うんだ」
「なんとなく俺もそんな気がしてきました……」
「ただ安心してほしいのは、君たちを鍛えると言ったことは嘘じゃないよ。本来の目的はそっちだから専念しようと思う。これからはコーチとしてね」
そう言われて悠介ははたと気付いた。
幸村は彼らを見捨てようというつもりなのではない。これからもチームの傍で支えてくれる。ただ立場や肩書きがほんの少し変わっただけだ。
それなら、誰がリーダーになっても変わらないのでは?
思案した悠介は好意的に受け止めようとする。責任の所在がわかって少しほっとした。
「ってことは、リーダーとは名ばかりで、結局は幸村さんのチームだってことですよね?」
「うーん、それはどうだろう。大会にエントリーされるのはリーダーだけだからね」
「越前、リーダーやんない?」
「やらないっす」
「安心してよ。言ってもそれほど重労働もないからさ」
幸村は気楽に見える態度でそう言うのだが、悠介にとっては気が気でない。青学だけでも桃城と海堂が、他校であればおそらく真田弦一郎や柳蓮二などがリーダーとして注目される。その中に一人だけ自分のような無名の素人みたいな男が混じっていれば必ず悪目立ちするはずだ。何より幸村が傍に居るのにリーダーではないのだから気にされないはずがない。
将来的に起こるだろう批判の嵐を想像して悠介は震えていた。
彼がそうしてトリップしている間に、幸村は金太郎へ大会の説明をしていたようだ。
「やる! ワイも参加するわ!」
「許可がないから無理なんじゃないの?」
「そんなんなんとかなるやろ。それよりおもろそうやん! 強い奴いっぱい出るんやろ?」
「もちろん。強い人ばっかりだよ」
「ほんならやる! ほんまええ時に来たわー。幸村もありがとうな」
「ふふ、どういたしまして」
やはり今日の幸村はどこかおかしいようだ。或いはこれが本来の姿だったのか。
出会ったばかりのリョーマには判別できないものの、乗り気になった金太郎を前にして楽しそうにしている幸村を見て、呆れた様子で嘆息する。
その間も悠介は不安に押し潰されそうになっているのだから、面倒な奴ばかり集まっていた。
「いつまでやってるつもり?」
「はっ!? ナイフ持った女子高生は!?」
「どういう妄想っすか。先輩も相当ヤバいですね」
危機感を覚えていた悠介がようやく我に返った。
呆れるリョーマは嘆息を禁じ得ない。
右を見ても左を見ても変な奴ばかりだ。
「ほんと、バカばっかり……」
「ちょっと待ってくれ。挽回するから。ただリーダーだけ変わってほしい」
「いや」
「なんでこうなるんだろうなぁ……」
こっちが言いたい、とは思ったがリョーマは敢えて言わなかった。
悠介がしょぼくれている姿など珍しくもない。相手にするだけ無駄なのだ。
話はなんとなくまとまろうとしている。
様子がおかしい幸村がコーチに専念することになり、出会ったばかりの遠山金太郎をチームに引き入れるべく交渉するようで、リーダーは新たに悠介が担当することになった。
それで事態は進展するだろうか。不安はあったが現時点でできることは少ない。
「そうだ宮瀬君。こうなったら残るメンバーは君に集めてほしいんだけど、一人待ってほしい相手が居るんだ」
晴れやかな表情の幸村が言い、対照的に悠介はげんなりした顔をする。
「俺がリーダーになるのは決まってるわけですね……」
「うん。病み上がりだから、俺は。仕方ないね」
「ずいぶん元気な病み上がりですこと。視覚奪われましたけどね」
「心当たりがあって、ひょっとしたら彼が来るかもしれない。だから待ってあげてほしい」
悠介の恨み言はさらりと聞き流して、以前のように余裕を窺わせる態度で優しく言われた。だが先程までのはっちゃけた姿を見た後では冷静に見られない。
彼は歴戦の猛者たる威風堂々さを発揮し、決して迷いを見せようとはしなかった。
「チームの管理と残る一人のメンバーは任せてもいいかな?」
「ノーって言えます?」
「ああ、言ってもいいけど、聞けるかどうかは」
「でしょうね……はあ」
「俺は心配していないよ。君のことは柳に聞いていたから。やっぱりリーダーを務めるのはプレイヤーとしてコートに立てる人の方がいいと思う。今の俺では中途半端だ」
ふざけてはいても、それは本音だろう。
声色や態度から察した悠介は真剣に考えてみる。
どうにも自分は自信がなくて怖がりである。つい最近まで自信を失くしてテニスと向き合うことから逃げていて、ようやく気持ちを入れ替えて頑張ろうと思っていたところだ。メンタル激ヨワとも言われてまた逃げるつもりでいるのか。
迷いはあったが、ここで言わなければ前には進めない。
ちらりと確認した二人が一年生であることも手伝ったのかもしれない。
小声で、自信はなさそうだが悠介が意見を変える。
「まあ……やってみますよ。上手くできるかはわかりませんけど」
「ありがとう」
「無理だって思ったら代わってもらえます?」
「ふふ、どうだろう。考えておくよ」
「これはないな、絶対……」
悠介は大きく肩を落として嘆息した。
ようやくか。そろそろ逃げるのをやめてこういうのもやってもらわないと。
そう思っていたリョーマは当然のように受け止める。
幸村は万事上手くいっていると言いたげににこにこしていて、あまり状況をわかっていないだろう金太郎はきょとんとするも、直後には何の不安も抱かずににぱっと笑っていた。