テニスをやめようと思ったことは一度もない。
子供の頃の夢は、多くの小学生が野球選手やサッカー選手に憧れるのと同じで、俺はたまたまプロテニス選手に憧れていた。
きっと無理なんだろうなんて思っても、相変わらずテニスは好きなままだった。
せめて部活として、充実したテニス生活を送りたい、と思う程度には興味を持ったまま。
レギュラーを取りたいと思うのも自分的には自然な流れだったのだ。
憧れだけで青春学園中等部に入学したわけだが、同級生に居る桃城と海堂を見て、素直にあちゃあと思った。
なぜかそりが合わない二人は練習中は常に競い合っていて、そのせいか練習量も他の部員に比べて何倍も多くて、メキメキ実力を上げていった。その姿を間近で見ていて、これはまずいと危機感を覚えるくらいだから相当な努力だったんだろう。
このままではまずいと思って、俺も人一倍努力する必要があると考えた。
だからって同じことをしてても意味はない。あの二人とは違う個性を得る必要がある。
パワーは桃城だし、テクニックは海堂。あの二人に勝つためにはどうすればいいんだろう。
俺は、なんでもできるようになりたいと思った。
パワーで負けても、テクニックで負けても、他の部分で勝っていて、例えばそれは、全部じゃなくてどこか一つだけでもいい。宮瀬の方がすごいと一つでいいから言ってほしかった。
多分俺はそこまで才能がある方じゃない。だから努力するしかなかったのだ。
なんでもできるようになるためには、色んな人から教わればいいと思った。
幸い、青学の先輩は右も左も曲者だらけで、わかりやすくバケモンみたいな人ばっかり。
片っぱしから特技を学んで、一つ一つは誰かのコピーでしょうもなくても、そんなコピーを誰よりも多く持っていれば、きっと誰かの役に立つ。
それを俺のアイデンティティにしようと、俺自身が決めた。
俺はとにかく色んな人に頭を下げて、時にはギブアンドテイクでパシリめいたこともやって、色んな人からテニスを教えてもらった。
合ってるのか間違ってるのかわからない。自信を持つにはただ続けるしかなかった。
粉々に砕かれたのはきっと、越前と出会ってからだろう。
俺が他人に教えを乞うて、何週間も何ヶ月も努力して会得したことを、あいつは一人で、誰にも教わらずに、しかも実戦の中で試してみて使えるレベルに達してしまう。
すごい! と思う一方で、目の前が真っ白になるくらいショックを受けた。
「俺は多分、お前みたいになりたかったんだ」
あいつに伝えた時、珍しく返事はなかった。
*
「ゲームセット。ウォンバイ桃城・海堂」
「あー惜しい!」
「もうちょっとだったのに!」
「2-2まで追いついたのになぁ」
乾の宣言を受けて堀尾とカチローが思わず声を出した。
残念そうに呟いたカツオの一言がきっかけで、迫力を増した最終ゲームを思い返す。
文句の一つも言わず、声かけの一つもなく、各々が自らの持てる力を出し切った渾身のラリー。優位を取ったのはパワーで勝る桃城と得意技の“スネイク”を武器にする海堂で、緩急を効かせて広いコートを端から端まで使い、リョーマと悠介に防戦を強いた。
最後のラリーは五分以上続き、ただの練習試合とは思えない盛り上がりを見せていた。
流れが変わったのが悠介のロブだ。
明らかにミスではないだろう、しかし見るからに危険な一打を上げて、間髪入れずに真っ正面から挑むために桃城が跳び、決め球をダンクスマッシュに決めて振りかぶる。
その一瞬、悠介がリョーマにアイコンタクトで指示を出し、彼は素直に従った。
真っ向から対峙。図らずも一騎討ちとなった。
バスケットボールのダンクシュートのように、最上段から打ち降ろす渾身のスマッシュ。優れたパワーでラケットごと吹き飛ばそうという気迫を感じた。
そのスマッシュを、リョーマは全身を回転させて、遠心力を利用して打ち返した。ふわりとした軌道で空を舞い、高く跳んだ桃城の頭上も越えてコートの端へ落とす。
“天才”不二周助が編み出した“
シングルスであれば間違いなく決まっていた一打だ。しかしそこで終わらなかった。
悠介のロブに奇妙なものを感じた海堂は何が起こっても対応できるように備えていた。
そしてリョーマの動きを見た途端、振り返らずに走った。
羆落としはスマッシュを完全に無効化してパワーを殺し、スマッシュした本人の頭上を越えて止められない位置に落とす。幸か不幸か、その打球自体に威力はなく、見た目には遅い。
あらかじめ備えて、技の出だしで気付いたことにより、余裕で追いついた海堂はそのまま自らの攻撃に転じた。不二の技だが再現は完璧だ。ライン上に落とされようとしているボールのバウンドを待たずに打とうとしたのである。
海堂の動きに気付いた悠介も備えていた。決め球もわかっている。あの位置から繰り出す技は間違いなく一つしかない。
全身から余分な力を抜いて、大胆なスイングでボールにインパクトする。
海堂が放った渾身の一撃はコートの外へ飛び出し、ポールの外を回って急激に曲がり、相手側のコートへ再び戻ってきた。
異様な機動力を持つポール回し、通称“ブーメランスネイク”。
血の滲むような努力で会得したそれを、海堂薫が躊躇うはずがなかった。
悠介もまた、来ない場合は想定せずに返せる位置まで走る。
振り返ると同時にブーメランスネイクを迎えて、待ち構えるようにスイング。ガットで確実に受け止めて、しかし初めて受ける予想以上のパワーに押され、狙いがずれる。
返された打球はポールに激突し、地面を転がった。
歓喜と落胆が入り混じった声が爆発する。悠介は呆然と立ち尽くしていた。
試合が終わった後、コート内に居た四人は口を開かず、喜びもせずに黙り込んでいた。
激しく息を切らしていた悠介が頭を振り、前を向いたままリョーマへ言う。
「ごめん」
「いいっすよ。別に気にしてないんで」
リョーマもまた、振り返って悠介の顔を見ようとはしなかった。自身の感情より、彼がそうしてほしくないだろうと察しての判断である。
二人のやり取りを見てから、彼らのためではなく、自分のために桃城は乾へ言った。
「乾先輩、あと3ゲームやらせてもらえません? ちょうど体あったまってきたんで」
「うん、そう言うと思ってたけどだめだ。次が詰まってる」
「え~? そんなぁ」
「じゃあ次は不二と河村。頼む」
せっかくテンションが最高潮に達して、お互いに死力を尽くして、我を忘れるほど熱中する時間を体感していた。
もっともっと楽しみたい。戦いたい。そんな桃城の願いはさらりと流され、乾は見ていた三年生に振り返って指名する。
名前を呼ばれてすぐ、不二は上着を脱いでラケットを持ち、コートへ向かった。
河村も上着を脱いだ上で参加し、気合いを入れてぐるぐる肩を回している。
見送った菊丸と大石が上機嫌に頬を緩めた。
「おっ、師弟対決」
「なんとなく久々に感じるな。あの二人が戦うのは」
先輩がやってきてコートを空けないわけにはいかずに、名残惜しそうに桃城が出ていく。
海堂もそうしようとしたのだが、その寸前、ちらりと悠介に目を向けた。
「おい」
「ん?」
「簡単に返せると思うんじゃねぇよ。次も俺が勝つ」
言い切ってからコートを後にし、交代するように不二と河村が入ってきた。
不二は正面に見据えた悠介へ穏やかに笑いかける。
「気を使われちゃったね。次は返せるよ」
「オーケーイ! 切り替えろよ宮瀬! 落ち込んでる場合じゃナッシング! 次は俺たちとエキサイティングしようぜ!」
きょとんとした後、我に返ってくしゃりと表情を崩して苦笑した。
気にしている場合ではない。休ませてはもらえないのだ。
自分の頬を叩いた悠介は気合いを入れ直し、よしっと背筋を伸ばして、今度こそリョーマの顔を見て声をかけた。
「悪い越前。切り替えていこう。一回くらいは勝たないとな」
「俺はもう切り替えてますよ。切り替えられてないの先輩だけでしょ?」
「お前には俺と仲良くしようという気持ちがないのか?」
「ありますって。パワハラやめてください」
いつものように顎の辺りを掴まれて頬をむぎゅっとされる。リョーマは抵抗しないが普段と変わらない冷静な目で静かに抗議した。
気持ちを戻せたのだろう。安堵した様子で不二と河村が微笑む。
タオルで汗を拭ったり、水分補給もほどほどに、すぐ次の試合が始められる。
サーブは河村から。桃城にも負けない、むしろ単純なパワーのみなら彼をも凌駕する。
流石にリョーマに任せるのは酷だろうと思い、肩を回して、穏やかな気持ちで集中し始めた悠介は考えを巡らせながら、両手打ちでリターンした。
3ゲーム制とはいえ満足な休憩もなく次々に試合が始められる。
熱狂していた観衆は三試合目となって心配し始め、先程と比べて歓声が小さくなりつつある。しかし河村が初っ端から響かせた重いインパクト音と、不二が見せた華麗なラケット捌きが瞬く間に人々を魅了し、帰ろうとする生徒は居なかったようだ。
連戦を続けているのはハンデどころか有利にさえ感じられ、先輩が相手でも悠介とリョーマはますますのコンビネーションを見せながら強気に挑みかかっていた。
「あのー……大石先輩」
「ん? どうかしたか?」
強烈なインパクトの音を聞きながら、堀尾を先頭にしてカチローとカツオ、三人が恐る恐る観戦中だった大石へ声をかけた。
優しく応じた大石に安堵しつつ、三人の一年生は質問をする。
「さっきちらっと聞こえたんですけど、師弟関係って?」
「誰のこと言ってるんですか?」
「越前君じゃないですよね? あ、でも越前君と宮瀬先輩……」
「いや、違うんだ。さっきのは」
「ユースケと不二のことだよん」
答えようとした矢先に大石の隣に居た菊丸が告げた。
三人は聞いた途端に目を丸くし、初耳だったようで驚愕する。
「えっ!? 宮瀬先輩と不二先輩が師弟関係!?」
「じゃあ、不二先輩が宮瀬先輩の師匠ってことですよね」
「初めて聞いた……」
「わざわざ話すことでもないからね。俺たちの間では当たり前なんだけど」
「ユースケは不二に憧れてんだよ。部長でも大石でも乾でもなくってね」
言葉を失った三人は、示し合わせたわけでもないのにゆっくり同時に試合へ振り返る。
ダブルスではあるが確かに悠介と不二が打ち合っていて、聞く前と後では、事情も詳しく知らないのに不思議とどこか違って見える。
長く続くラリーを見ながら、大石と菊丸は思い出すように呟いていた。
「宮瀬は入部した当初から不二に憧れて、一番最初に教えを乞うたのも不二だった。細かいことは色んな先輩に聞いてたけど、基礎から実戦から普段の勉強まで、大抵は不二に教わってる」
「ほら、今のユースケとおチビの感じ。去年はあれが不二とユースケだったんだ」
「ええっ? じゃあ……」
「ほんといっつもくっついてたんだから」
「後輩ができて面倒看るようになったから最近はあまり見なくなったけど、今でも宮瀬にとっては不二が特別なんだよ」
はあ~と感嘆する息だけ吐き出して、堀尾とカチローとカツオは口を開けたまま黙る。
一年生にとって宮瀬悠介は優しく指導してくれる先輩で、面倒見が良くてよく声をかけてくれて後輩からも声をかけやすい。ジュースやお菓子を奢ってもらったことがある者も居るという。
後輩から非常に人気のある人物だった。
日頃から先輩の中では最も近くに居る人物でもあり、それだけに、不二に憧れているという話を初めて聞いて驚きが大きかった。
話していてふと大石が疑問を抱いた。
そういえば近頃、悠介と不二が二人で行動している姿をあまり見かけない。関係が悪化したわけではないだろう。部活の前後や最中、会話する姿を見ることはあって、その時の悠介の態度は以前と何も変わらない。
てっきり後輩の面倒を看ているからだと思ったが、少し不思議にも思う。
「プレースタイルこそ違うものを目指したようだけど、宮瀬はいつも不二に敬意を払ってる。だからあいつも器用になんでもできて――」
「気に入らねぇんだよ。最近のあいつは」
割って入った声によって一年生の肩がビクッと跳ねた。
一同が首の向きを変えると、壁に背を預けて立つ海堂がコートを睨みつけている。
「海堂……」
「すっかり牙も抜けちまって、勝ち気がなくなってやがる。俺と同じトレーニングは続けてるのに試合になるとあれだ。昔の方がずっと強かったぜ」
声色は静かだが我慢できない苛立ちが滲んでいる。腕を組んで微塵も動かず、怒りを体現するかのように、彼の視線は忌々しげに悠介のプレーを睨んでいた。
思うところがあるのか、笑みが消えた大石と菊丸は何も言わなくなって、同じことを考えていたのだろう桃城が二人に向けて口を挟む。
「あいつ、あれ使わなくなりましたよね。“
「え゛……!?」
思わず堀尾が声を出した直後、カチローとカツオは勢いよくコートを見た。
不二が編み出したという必殺のカウンター。あまりに美しく、且つ強力で、誰もが憧れこそするがほとんどの者が真似できないすでに伝説的な秘技。
不二以外に、こんなにも近くに使い手が居たのかと、固まる三人は信じることができなかった。