「悠介」
声だけで気付いた。
振り返るとやっぱり不二先輩が居る。
なんとなく嬉しくなる瞬間だ。まさか恋をしてるわけでもあるまいし、我ながらおかしな反応なんだけど、でもこの人に会うと自然に頬が緩むのを自覚している。
尊敬する人に会うだけでこれだ。ちょろい奴だと自分でも思った。
「今帰り?」
「はい。ちょっと竜崎先生の手伝いで」
「そうなんだ。越前は一緒じゃないの?」
「事務的な仕事だったんで、先に帰らせたんですよ。多分めんどくさがるだろうし、最悪手伝わせても足手纏いになりかねないんで」
「ふふ、確かに。せっかくだから一緒に帰らない?」
正直に言うと少しだけ緊張した。でも断るという考えはない。
「いいんですか?」
「もちろん。僕から誘ってるんだから」
「あはは、それもそうですね」
「行こうか」
「はい」
不二先輩が前を歩いて、俺がその後ろを歩く。
少し前まではこれが日常だった。
最初の頃は俺からねだってたんだけど、慣れた後は特に何を言うわけでもないのに、いつの間にかこうして一緒に帰るのが当たり前になった。
ずいぶん久しぶりに感じる。
そういえば、しばらく不二先輩と二人で帰ってない。
二人っきりで喋るのも、多分久しぶりだ。そう思ってたら先輩もそう思ってたみたいだ。
「久しぶりだよね。こうやって二人で帰るの」
「そうですよね。なんでなんでしょう」
「僕は一緒に帰りたかったんだよ。でも悠介が忙しそうだったからさ」
「あー、まあ、確かに。後輩と関わるのとか、今まであんまり経験なくて。なんかそっちに気ィ取られてたんですかね。最初は結構緊張してたけど、最近やっと慣れてきて」
「すっかり先輩だね。最近の悠介を見てると成長したんだなって思うよ」
「そんな、俺なんか別に」
不二先輩の傍に居るのは居心地がよかった。
それこそ最初の頃は、あんまり近付くのはおこがましいとか、嫌われたくないからあんまり近くに行けないとか、そういうのがあったんだけど。今はここが一番落ち着く。
それでも、最近はめっきり減っていた。
なんでだっけ……それを考えるのが、少し怖かった。
「みんな悠介が居て助かってるよ。一年生は指導してもらって、二年生と三年生はフォローしてもらって、練習も雑務もやってもらってさ」
「いや、俺はただ、テニス部の役に立てればいいなって思っただけで……」
「ねぇ悠介」
なぜか、肩がびくつく。
怒られてるわけじゃないはずなのに、俺は、きっと何かを恐れてる。
二人っきりにならなくなったのは、不二先輩に指摘されるのが怖かったから?
歩くのをやめて、不二先輩が俺に振り返った。
「僕に何か隠してない?」
それだけは、言われたくなかったのに。
*
「3-0」
試合が終わった。
歓声は上がらず辺りは静まり返っている。
審判台に座っていた乾が淡々と発言し、結果を伝えていた。
「ゲームセット。ウォンバイ不二・河村」
先程までの二試合における激闘が嘘のように、1ゲームも取れずに敗北した。
リョーマが珍しいほど呼吸を乱して俯いている。滝のように流れる汗がコートへ落ち、小さな斑点をいくつも作っていた。
反面、彼に比べて幾分か落ち着いている悠介は呆然としている様子だった。
一体何が起こったのか。
見ていた者たちですら上手く理解できない。
ただ、リョーマが髪を振り乱し、帽子を投げ捨ててまで、必死に足掻くように端から端まで走り回っていたのが印象的だった。慣れないダブルスでもシングルスでも、あそこまで必死なプレーはそう滅多に見られるものではない。
反対に今回の悠介は、素人が見ていても気付くほど動けていなかった。
「僕は今回、勝ちに拘ったよ」
不二が冷静な声で言う。
相手は当然、悠介だった。彼の体が小さく跳ね、緊張した表情に変わっている。
「前とは逆の立場だね」
「あ……」
瞬間的に記憶が蘇る。
以前に聞いた話だ。悩んでいるかのように、救いを求めるかのように、不二には悠介に吐露した過去がある。勝ちに拘ることができない自分が居る。団体戦なのに仲間のためを想えず、自分は本当にレギュラーとして参加していいのか。もっと適任が居るのではないか。そう語っていた。
場合によっては、仲間に迷惑をかけるくらいならレギュラーから外すよう、部長の手塚に頼んだこともあるのだという。
あの時、自分は何と言ったのか。思い出せない。
真剣な表情を見せていた不二はにこりと笑いかけた。いつもの彼だ。
それでも悠介は安心できず、胸に苦しさを覚えている。
「あの時、君が言ったんだ。みんなと一緒に勝ち上がりたい。そのためならなんでもする覚悟ができてるって」
少し、思い出す。
プロは諦めた後かもしれない。けれど新たな目標ができて、レギュラーになって、大好きな部員のために全校制覇を成し遂げようと決意した日がある。
ほんの少しでも役に立てるならどんな努力だって諦めずにやり切ろう。
目指すプレースタイルが決まって、覚悟が決まった日だ。
「僕はもう変わったよ。だから待ってる。君と一緒に目指したいからね」
憧れの人だ。忘れようとしていても強引にでも思い出させられる。
表情が歪んで、子供のように感情が溢れていた。
珍しいと思う人も多いだろうが、不二にとっては見慣れた顔だ。
「みんなを気遣うのはもういいんじゃない? 君は十分過ぎるほど支えてくれた。おかげでみんなが感謝してる。だからそろそろ――」
ちらりと乾を見て、彼が頷いた。
最後まで言わずに不二は踵を返して河村とコートを出て行こうとする。
「大石。変わってもらえるかな?」
「ああ」
審判台を下りた乾が上着を脱いでラケットを手にする。代わりに試合を終えて休んでいた大石が審判台に座って準備を整えた。
もう一人、試合をするためにコートへ入ってくる。
悠介だけでなくリョーマも、彼を見てきゅっと唇を結んだ。
「準備はいいか」
青学最強の男、手塚国光が乾と共に対面へ立った。
眼光鋭く、睨むわけではなく見据えられて、全てを見透かされるかのような気がする。決して隣に乾が居るからではないだろう。
「1セットマッチだ。宮瀬、越前、本気で来い」
対峙しても悠介は動けず、気圧されるように手塚と視線を合わせたままだ。
思考が形を為さない。何をすればいいのかがわからない。
唐突に背中をトンっと押された。
その時ばかりは体が動いて、咄嗟に振り返るとリョーマがすぐ傍に立っていた。
「まだまだだね」
いつも通りの生意気な態度で薄く笑っている。見慣れたはずだが、不思議と今は頼もしい。
「一回くらい勝ちましょうよ。俺、負けるの嫌いなんですよね」
色々思うことはあるだろう。だがこの期に及んで自分を誘って、あくまで勝ちが欲しいと駄々を捏ねるのだ。この生意気で負けず嫌いの後輩は。
はーっと思い切り息を吐き出して自分の髪を乱暴に掻く。
いつまで落ち込んでいるのか。自分のことながら異常にしつこい。
腹は括った。理由ならある。後輩がそれを望んでるのと、自分が勝ちたいからだ。
相手はプロですら注目する手塚国光。怪しげなジュースで脅してくる変な先輩。相手にとって不足ないではないか。
今まで溜まった鬱憤を全てぶつけるには最高の相手だ。
「勝てると思ってるか?」
「当然」
「正直言うと俺もだ」
ようやく顔つきが変わった。確認してからリョーマは拾った帽子をかぶる。
すでに敵は前に居て、ちょうど勝ちたいと思っていた相手。
体を蝕む疲労は大きいが気分だけは最高潮。さっきよりも動ける気がする。
乾が投げ渡したボールを受け取り、二人は静かに定位置についた。
「疲れてないっすよね?」
「いや流石に疲れてるって。コンディション今までで最悪だからな」
「ちょうどいいじゃないっすか。余計なことあれこれ考えなくて」
「なんか釈然としないんだけど、言っとくけど俺は普通だから。うちのレギュラー陣の方がおかしいってみんな言うからな。荒井とか」
「荒井……って誰でしたっけ」
「おい……まあいいや。なんかその辺の奴だ」
一騒動あったはずの先輩について、敢えて説明しようとしなかったのは疲労が理由ではなく、単純に面倒だったからだ。忘れていても特に問題ないと判断してしまった。
それよりも今は試合だ。もう気持ちは変わった。迷わずに向き合わなければ。
汗が引く暇もなく、リョーマのサーブで試合が始まる。
乾は危なげなくリターンしてサーバーのリョーマへ返そうとした。
それを阻止するかのように、飛び込むように悠介がポーチを行って、不思議と飛び込んでくるその姿は、ついさっき見たはずの桃城によく似ていた。
「おいおい、ジャックナイフかよ!」
「ひゅ~。いきなりやるじゃん」
「フン……最初からそうしろ」
返された打球はラインギリギリで弾み、後ろに居た乾が的確に拾う。
手塚が回避する形で逆サイドへ打ち込んで、待ち望んでいたようにリョーマがスライディングをしながら飛び込んでくる。
ジャンプすると同時に打ち返し、強烈なドライブBが、どちらにも触れさせずに相手のコートを素早く駆け抜けていった。
「15-0」
「おぉ、おおおぉ……!」
思わず堀尾が唸るものの、爆発するその時を待つかの如く、観衆はぐっと声を抑える。
何を狙ったわけではなかった。しかしそのせいなのか、リョーマが先に手を上げて、歩み寄った悠介が強くその手を叩いた瞬間、地響きのような声が上がった。
手塚は冷静な表情を崩さず、乾はやれやれと言いたげな顔で眼鏡の位置を直した。
「すいませんでした部長。ご迷惑おかけしました。勝ちに、拘ります」
深々と頭を下げた悠介は手塚に呼びかけ、頭を上げた時にはいつもの気の抜けた顔だった。
「部長が相手でも全く負けるつもりないんで、そのつもりでお願いします」
「ああ。遠慮せずに来い。俺も負けるつもりはない」
「あと俺は、実は部長より不二先輩の方が強いんじゃないかって思ってます」
「知っている」
言いたいことを言い終えて、リョーマのサーブで再びプレイが始まる。
利き手の左で思い切り打ち込み、地面にバウンドした後、強力なスピンがかかって打球が本来とは逆側に跳ね上がった。リョーマの代名詞ともされている“ツイストサーブ”だ。
普段ならば顔に向かって飛んでくる軌道を利用するため、右利きの選手には右手で打って顔面を狙うのが常だ。しかし今回は右利きの選手に左手で打った。意表を衝くために他ならない。
「この時点でのツイストサーブの確率、82%だ」
冷静に動く乾はまるで驚かず冷静に打ち返した。
事前に、入念に集めたデータを基にして、相手の行動を予測しながら戦う“データテニス”。それが乾の代名詞であり、最も得意とする戦法だ。
悠介とリョーマのダブルスによるデータは集まった。それ故に乾は動じていない。
ただし全てを把握しているわけではない。
ネットを越えてきたボールには強烈なスピンがかかっている。
自らが用意したわけではないそのスピンさえ利用して、悠介はガットに滑らせた。
手塚と乾、どちらも眉を動かした時、すでに地面へ触れたボールは全く弾まず転がるようにして足元を通り抜けていた。
見覚えがあって、忘れるはずもない。
観衆、特にテニス部はその技を見て驚き、一年生は言葉を失って、二年生と三年生はついに来たと言いたげに興奮している。
不二がにこりと微笑んでいた。
「“つばめ返し”だァ!!」
「不二先輩の“
「宮瀬ェ! 行ってやれ弟子ィ!」
外野が俄然うるさくなり、呆れながら見回す悠介だが、それ以上に呆れていたのが初めて彼のそれを見たリョーマだ。それなりに近くに居たというのに今初めて知った。
どこか納得がいかないという様子で、リョーマは悠介に尋ねる。
「なんでそんなの隠してたんすか。使えばいいのに」
「お前のせいだよ」
「は?」
「あと、俺に諦め癖がついてからかな。悪かったよ、黙ってて」
気を取り直して肩を回し、同じ方向に目を向けた。
今は倒さなければならない敵が居る。喧嘩は余計で、している場合ではない。
「今はいいっす。勝てばいいんで点取ってください」
「それ俺が言ったんだけど」
「そしたら少しは尊敬してあげますよ」
「あれ? 今は?」
「してましたけど、今は幻滅してますね」
「なんでっ!?」
様子が変わった悠介を見やり、喜びと呆れを混ぜ合わせて、しかし今の打球は見事だったと認める乾が笑っていた。
手塚はいつもの鉄仮面を崩さないが同じ気持ちだろう。素っ気なくて厳しいと思われがちだが誰よりも部のことを考えているのが彼だ。
「ようやく吹っ切れたみたいだな」
「ああ。試合は無駄ではなかったらしい」
「ずいぶん待たされたよ。流石に動きも格段に違うな。さっきのダブルスのデータに宮瀬個人のデータを合わせる必要がある」
頷いた手塚は、視線に気付いた悠介を見つめて思案する。
「シングルスでは他のメンバーに敵うほどの爆発力はないかもしれない。だがダブルスになると話は別だ。戦況によってプレースタイルを変えられるあいつが、コート内を支配できる」
「越前も攻めやすくなるだろう。結果的に大石とは違ったダブルスプレイヤーになるな」
「あいつこそ、今の青学に必要な力だった」
特に苦手としている先輩たちに凝視されていて、いつの間にか悠介は居心地が悪そうに挙動不審になり、助けを求めるようにリョーマへ視線を送った。
きょとんとする彼は状況を理解していない顔で見つめ返してくる。
「なんか、すげぇ見られてんだけど……怒られんの?」
「怒られた方がいいと思うっすけどね。一回くらい」
「お前に言われたくないんだぞ」
「前向いてくださいって」
「どうも軽んじられてるよな……」
「ほら、行きますよ」
リョーマのサーブで試合が再開され、悠介のプレースタイルが変わったことにより、ただそれだけとも言えるが、再び凄まじい熱狂が生まれる。
それだけでなく相手が青学No.1と言われる手塚とNo.3の乾のダブルスだ。黙って見ていられるはずもなくて、その態度はテニス部員であればこそより熱くなる。
長期戦が予想されたがちっとも構わない。
応援の声は大きくなり、大会にも負けない絶叫がテニスコートを包み込もうとしていた。